小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

西南戦争 この日本史上最後の内戦  9

2007-04-23 16:59:36 | 小説
 薩軍は最高時には4万200人に達したという。熊本はじめ各地の民権派士族が呼応して参軍、さらに徴募兵を加えると、そのような数になる。ある意味では少なすぎた。
 戦争を九州以外に拡大させないように、政府が迅速かつ的確な手をうったからである。そのことに最も尽力したのは西郷隆盛の弟だった。そう、西郷従道は兄を征討する政府軍の中枢にいたのである。
 たとえばその動向が警戒されていた高知の立志社への牽制。従道は高知県内の小銃1500挺、焔焇および雷管など取りまとめて陸軍に買い上げさせていた。もしも板垣退助率いる立志社1万人のメンバーが呼応し、馬関あたりで政府軍の背後をつきでもしたら戦況はがらりと変っていたはずだった。ともあれ板垣は立たなかった。
「さらに海軍による海岸線の警備、四国への巡査の派遣、四国との連絡の最短の地である豊後の警備なども、従道の直接采配するところであった。従道が警戒したのは、西郷軍に加担するものが出て、戦乱が九州以外に波及することであった」(猪狩隆明『西郷隆盛』岩波新書)
 西郷らを九州に閉じ込めて、東京で花見などさせないようにしようとしたのは、ほかならぬ西郷従道だったのだ。戦国時代の真田家ではないが、西郷家では家の存続のためには、戦さにおいてはあえて血族が敵味方にわかれたのであろうか。いや、従道は私情によって動いていないと言っておこう。
 それにしても思い出されるのは、西郷を敬愛する薩摩人たちの川路利良に対する憎悪である。実の弟だって敵側にいるのに、なぜ川路に辛く当たるのだろう。戦乱のさなか、川路の出身地の比志島では、非戦闘員の川路の親族7人が暴殺され、川原でさらし首にされた。「ある者の鼻には麦の穂が差し込んであり、道行く者の中には、唾を吐きかけて行く者もあった」(肥後精一『川路利良随想』)


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