小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

北原白秋姦通事件  4

2006-10-04 21:56:25 | 小説
 示談金目当てだったという見方がある。なにはともあれ、松下長平は300円という大金を手に入れて、告訴を取り下げたからである。
 示談の交渉には白秋の弟鉄雄があたった。浜町の「山月」という待合で、鉄雄は松下長平に金を渡し、かわりに告訴取り下げの書類に署名させた。さらに俊子の離婚書類にもサインさせている。公判は8月10日に開かれたが、告訴取り下げによって当然ながら白秋は免訴、姦通罪の適用をまぬがれた。
 松下長平が提示した300円という金額は当時としては大金であった。実家が明治42年末に破産していた北原家にとっては、追い討ちをかけるような金策になった。鉄雄がどんな思いで金をかき集めたか想像にかたくない。
 ところで、松下長平はほんとうにそんな大金が欲しかったのか。私には、金目当てというより白秋をどこまでも苦しめてやろうという魂胆がみえて仕方がない。示談の調停に中央新聞の俳壇の選者であった篠原温亭が動いている。松下の知己である。おそらく松下長平という写真家は文芸の方面にも関心浅からぬ人物であったはずだ。新進気鋭の詩人あるいは歌人として頭角をあらわし得意の絶頂にあった白秋に、はげしい妬心を抱いたのではないのか。妻に対する嫉妬というよりも、男としての敵愾心が上回ったような気がするのだ。
 いずれにせよ、白秋は放免になった。

 監獄いでてぢっと顫(ふる)へて噛む林檎林檎さくさく身に染みわたる

 この歌を詠んだとき、白秋は俊子と夜を明かした日のことを、あきらかに思い出している。キーワードは林檎である。

 君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 しみじみと良い歌だと思う。エデンの園の禁断の木の実のイメージ、林檎がおそらく無意識に詩人の胸に宿っている。


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