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黄金の銃

 高校生と一緒に読んだ「宇治拾遺物語」の一節・・。

「亀を買ひて放つ事」
 昔、天竺の人、宝を買はんために、銭五十貫を子に持たせてやる。大きなる川のはたをゆくに、舟に乗りたる人あり。舟のかたを見やれば、舟より、亀、首をさしいだしたり。銭もちたる人、たちどまりて、その亀をば、「何の料ぞ」と問へば、「ころして物にせんずる」といふ。「その亀買はん」といへば、この舟の人いはく、いみじきたいせつのことありて、まうけたる亀なれば、いみじき価なりとも、うるまじきよしをいへば、なほあながちに手を摺りて、この五十貫の銭にて、亀を買ひとりて放ちつ。
心に思うやう、親の、宝買ひに隣の国へやりつる銭を、亀にかへてやみぬれば、親、いかに腹立ち給はんずらむ。さりとて、また、親のもとへ行かであるべきにあらねば、親のもとへ帰り行くに、道に人のゐて言ふやう、「ここに亀うりつる人は、この下の渡りにて、舟うち返して死にぬ」となむ語るを聞きて、親の家に帰りゆきて、銭は亀にかへつるよし語らんと思ふ程に、親のいふやう、「何とてこの銭をば、返しおこせたるぞ」と問へば、子のいふ、「さることなし。その銭にては、しかじか亀にかへてゆるしつれば、そのよしを申さんとて参りつるなり」といへば、親の言うふやう、「黒き衣きたる人、同じやうなるが五人、おのおの十貫づつ持ちて来たりつる。これ、そなり」とて見せければ、この銭いまだ濡れながらあり。
はや、買ひて放しつる亀の、その銭川に落ち入るをみて、とりもちて、親のもとに、子の帰らぬさきにやりけるなり。

 これを読んだのは2週間ほど前のことで、その時は、「かさじぞう」によく似た話だなあ、くらいにしか思わなかった。善行を積めば報いがある、と道徳の本にでも書いてあるような、有り難い話である。
 だが、一昨日カダフィが殺害されたのを速報で知ったとき、なぜかこの話が頭に浮かんだ。そうか、この話は「かさじぞう」とは違って、非道な行いをする者は必ずその責めを負わねばならないということを巷間に知らしめるための説教話なんだなあ、と合点がいった。「亀を殺して食べる」ことは動物たる人間にとっては当たり前の行為であろうが、命を粗末にするというのは人倫にもとる行為であると言えなくもない。そうした酷薄な行為を平気でしようとしながらも、一旦お金を積まれると即座に亀を売り渡してしまうのだから、命を物扱いし、軽視していると言わざるを得ない。そうした者が受ける代償は己の命と引き替えになってしまう・・、そんなことを暗示しているとするならば、カダフィの末路とシンクロしているような気がしたのだ。それを端的に示したのが、彼の最後の持ち物であり、己もその銃弾で殺害されたと報道されている「黄金の銃」。


 カダフィが民衆の蜂起によって殺害されるまでに至った原因は、この銃に象徴されているように思う。強権と強欲。銃による支配を続けながら、己の欲望を満たすためにせっせと蓄財する・・、独裁者の陥る自壊への道筋だ。

 カダフィも嘗ては理想に燃えた憂国の士だったのかもしれない。それなのにいつの間にか変節してしまったのだろう。何がターニングポイントだったのだろう、殺さずに明らかにして欲しかった。


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