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「林住期」

 五木寛之ははるか昔に『蒼ざめた馬を見よ』を読んだことがあるだけで馴染みのない作家ではあるが、『林住期』という題名に惹かれて読んでみた。「林住期」という言葉の意味は以前から知っていた。古代インドでは、人生を四つの時期に区切ってそれぞれ「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」と呼んだと言われている。「学生期」は心身を鍛え、学習し、体験を積む青年時代であり、「家住期」は就職し、結婚し、家庭を作り子供を育てる社会人の時期である。これまではこの二つの時期が人生の黄金期であると考えられがちであったが、五木はこの後の「林住期」こそを「真の人生のクライマックス」として捉え、自分の人生の黄金期にしようと読者に提言している。具体的に言えば、50歳という年齢を一つの区切りとして、50歳から75歳までを「林住期」と考え、この25年を人生のもっとも豊かな時期にしようというのである。そのためには、「家住期」で必死に働き「林住期」のための準備をすることが必要であり、体力・気力・経験・キャリア・能力・センスなどの豊かな財産を「家住期」で蓄えなければならない。それらを基にして、いざ「林住期」を迎えたら、一度それまでの生活を解体して自分の本当にしたいことをしろというのである。
 ここまで読んで、ちょっと付いていけれないなと思った。五木の考えに従えば、私は後1年ちょっとで林住期を迎えることになる。その時になって家族を捨て、ひたすら己の人生の黄金期を求めよと言われても不可能だ。そんな無責任なことはできないし、家族の笑顔が自分の喜びの源であると考えている私にとっては、とても受け入れられない考えである。五木のように「林住期」を終えようとする年齢で、すでに功成り名を遂げた者から、「50歳になったら・・」などと言われても、とても肯んずることはできない。たとえそれは心の持ちようだと言葉を変えられても私には納得できない。五木が近年仏教に興味を抱いてることは知っていたが、己の悟りのために妻子を捨てたブッダのように出家しろ、などと言われてしまうと、市井の迷える民である私などは思わず鼻白んでしまう。さらに、
 
『「林住期」の真の意味は、「必要」からでなく、「興味」によって何事かをする、ということにある』(p.67)
『「林住期」に金を稼ぐためでなく生きるということは、自分が自由になると同時に、世のため、人のために生きるということでもある。それがただ働きであったとしても、道楽と覚悟すればなんでもないだろう』(p.75)

「林住期」の先輩であるはずの五木がこの考えを実践しているのかなあ、とついつい思ってしまった。今でも、精力的に執筆・講演活動を行っている五木は果たして「道楽」で「ただ働き」をしているのだろうか?この本など 1400(+税)円するのだが、それだけの気持ちがあるのなら、例えば新書版にしてもっと安く提供することも可能だろう。自分が実践できてないことを人に勧めるなんて良くないよなあ、などと思ってしまうのは私だけだろうか。

 ここ半年くらいで、私は戦後の日本の文学界を代表する作家たちの近著を幾つか読んでみた。加賀乙彦の『悪魔のささやき』、大江健三郎の『「伝える言葉」プラス』、渡辺淳一の『鈍感力』、そして本書。作者はいずれも70歳を超え、「遊行期」にさしかかった長老ばかりである。これらの著書の中で、加賀と大江は日本の行く末に強い危機感を抱いて読者に警鐘を鳴らし続けている。それに対して、渡辺と五木は個人の生き方について綿々と自説を語っている。それは彼らの今までの生き方を反映しているようですこぶる興味深い。いずれも一人の人間が生きていくうえでは大いに参考になる本ではあるが、老いてなお将来の日本のために「必要」に駆られて言葉を発し続ける加賀や大江の方が私には尊い存在である。「興味」だけで生きることも大切だが、死ぬまで自分で「必要」だと思うことを実行し続けることはもっと大切だと思う。
 好きなことだけやってるじいさんなんて、周りからお荷物扱いされて煙たがられるだけだ。私は小うるさいと思われても構わないから、言わなければならないことは言い続けるような頑固ジジイになりたい。
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