Good News Report

Good News Station の活動模様をお伝えしています。

Awakening House Church (8/9/12)

2012年08月10日 | Good News
信仰による救いと行いの意味

A「働きがなくても、その信仰が義と認められる」(ローマ4:5)
B「行いが伴わないなら、その信仰はそれだけでは死んだもの」(ヤコブ2:17)

聖書は実に40名以上の様々な人の手によって書かれている。新約聖書だけでも、27の書(BOOK)から成り、上記Aの御言葉はパウロさん、Bの御言葉はヤコブさんの書簡に書かれている。しかし、旧約新約合わせて66ものBOOKがあっても、聖書はひとつ。初めから終わりまで一貫してイエス・キリストを語り、何人の手に拠ろうともその内容は完全な調和を成し、真実の愛を伝える神様から私たちへの最高の贈り物だ。

AとB、パッと見て「あれ?」と思ったとしても、「聖書は神の愛の御言葉だ」という真理に立つ時、そこに矛盾も相反もないのがわかる。パウロさんは「信仰義認」を語った。信仰は神様からの恵みであり、信じる他に何もする必要はないのだ。イエス様を信じるだけで、誰でも救われる。このことは、聖書に登場する『クリスチャン第一号』を見るとわかる。『クリスチャン第一号』とは、イエス様が十字架に架けられた時、右側にいた泥棒のこと。十字架上でイエス様を神と知り、自分のことを覚えていてほしい、と嘆願した彼に、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と仰った。イエス様が太鼓判押してくださったからには、彼はまごうことなきクリスチャン。しかし、十字架上で死に瀕する彼には、御言葉を学ぶことも、奉仕することも、賛美することも、何もできない。ただ力尽きて死んでいくだけだ。しかし、何をすることができなくても、彼はクリスチャンとして楽園にいる。それが恵みの福音だ。

一方のヤコブさんが説いたことは、信仰によって行いが変えられていく「生きた信仰」だ。「信じる」ということは、簡単に口にできるような軽いものではない。人間は、心から信じていることに一致した行いをするからだ。信じているものによって、生活、価値観、基準、人生、関係、すべてが変わる。口にするだけは容易いが、真実信じていることには行動が伴う。つまり、「行いが伴わないなら、それは死んだ信仰」ということだ。例えば、「花が好き」と公言しているハナコさん。そんなハナコさんの話をいつも聞いているタロウは、ある日、ハナコさん宅を訪問してびっくり。花瓶には枯れた花束が放置され、鉢植えの花も庭の花もどれもぐったり萎れている。タロウは、別に「花が好き」とか周囲に言うことはないが、家にはいつも花が絶えることはない。さて、ハナコとタロウ、どちらが「花が好き」なのだろうか。言っていることより、やっていることの方が真実を語るのだ。

つまり、イエス・キリストへの真の信仰を持てば、その人の行動は変えられ、人生は変えられる。自然に良い行いをするようになる。礼拝すること、神様を愛し他人を愛すること、御言葉を聞くこと、奉仕すること、これらすべてが無理することなく、喜んでできるようになるのだ。そしてそう在り続けたいと願うようになる。Aは恵みによって救いをいただき、クリスチャンとして新しく生まれる「新生」を指し、Bはその後、イエス様と似た者に変えられていく「聖化」を指す。しかし、世の宗教のように、これが自分の努力でやっていたらダメ。事は進まない。クリスチャンとイエス様の関係は夫婦関係に喩えられるように、努力や能力ではなく愛によって成長する。長年連れ添った夫婦が何とはなしに双方似てくるように、イエス様と絶えず一緒にいて、親しい関係を保つことによって、似た者に変えられていくのだ。そして、かの日には「栄化」という栄光の体に変えられる。これがクリスチャンのクリスチャンたる希望だ。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。(フィリピ2:12)   (Mu)


神の選びと人の意志の表明

A「あながたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)
B「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)

イエス様は弟子たちをお選びになった時、どの弟子にも「わたしについてきなさい」とご自分の方からお選びになりました。また、15章でイエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と話されました。枝が木を選ぶことは出来ません。私たちはイエス様(ぶどうの木)につながっているぶどうの枝であり、つながっていなければ実を結ぶことは出来ません。枝である私たちが実を結ぶのではなく、木であるイエス様が枝である私たちを通して実を結ばせるのです。これは私たちがイエスにつながっていることの大切さを教えてくれています。

 ここを理解すると、「あなたがたがわたしを選んだのでない」という意味が理解出来ます。木があってはじめて枝が伸び、実を結ぶのです。そして良い木は必ず良い実を結ぶように、農夫である天の父が手入れをしてくださいます。でも、つながっていても実を結ばない枝は、農夫が取り除かれます。だから、枝である私たちは、実を結ぶのに必要な栄養を持っているイエス様を求め、そしてつながる必要があるです。

 ヨハネ14章1節「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とは、イエス様が弟子たちから去る(十字架)前に、弟子たちにもう一度信仰の確認をされているのです。それまでに聞いた御言葉、見た業によって、父なる神を、そしてその父が送ったイエスを信じなさいと励ましておられるのです。

 なぜ神様を信じるのでしょう?なぜイエスを信じるのでしょう?14章6節で、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。私たちは人生において、歩むべき道、真理を求めています。命を求めています。そしてイエス様は私たちが求めているもの。それは実にわたしであるとおっしゃっておられます。イエス様を求めれば、天国の父のもとにつながることが出来るからです。

 上に記述したことを元に、AとBを考えてみましょう。イエス様であるぶどうの木に、私たち枝はつながり、栄養をいただいて実を結びます。そのために農夫である天の父が、私たちが良い実を結ぶように、手入れをし、枝の剪定をなさいます。わたしたち枝が、道であり、真理であり、命であるイエス様を信じ、イエス様を求めてつながろうとすると、枝はよりしっかりと木につながれ、豊かな実を結ぶことが出来るのです。

 私たちの人との出会いは、神様が選び、導いてくださっています。たとえば、私と私の親友のAさんは、私が努力してAさんと出会ったのではなく、神様に導かれてAさんと出会いました。私がAさんのことを思う気持ちが、友情という関係に発展させて行きます。このように、Aさんとの関係をこれからどう築いて行くかは、私たちの意志次第です。そして大好きなAさんに何とかして命であり、真理であるイエス様を知って欲しいと願い、イエス様の愛を伝えて行きたいと願います。 誰でも真理につながっていなかったなら、寂しい人生になってしまうからです。だから、たとえ私の苦手な人であっても、やはりイエス様のことを知って欲しい、イエス様とつながって欲しいと願うのです。(Megu)


カナの婚礼の奇跡
観察
1).カナの婚礼は、バプテスマのヨハネの洗礼の記事から7日目に起こった出来事。

2).ヨハネ福音書では、イエス様が最初に行った奇跡。 

3).「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」「婦人よ」とは女性への尊敬を込めた言葉。イエスはマリアを突き離したのではなく、主の立場としてお答えになられた。

4).2-3メトレテス入りの6つの水瓶。1ギャロンのボトル(約3ℓ)180個分。理由も目的も告げらないまま、これだけの分量の水を汲んで運ぶという、人間的に考えると理不尽な重労働にも係わらず、彼らは従った。 

5).悪いワインが良いワインに変わったのではなく、水がワインに変わったという、完全な質的変化の奇跡。


解釈
イエス様が行われた最初の奇跡は、誰から要求されたわけではなく、誰からも感謝されず、誰も気付きもしていないのに、人々の喜びの為に行なわれました。これこそがイエス様が私たちに良いこと、喜びを与えるために地上に来られた、イエス様の御心そのものと言えます。また、この奇跡が7日目に行われたということから、カナの婚礼が、安息日(千年王国)、子羊の婚礼と言う、人間の至上の喜びにもつながっているのではないかと考えられます。

マリヤは結婚式にワインを切らすという失態を誰に話せばよいのかを知っていました。そして、何がなんだかさっぱりわからない言いつけに、召使たちは文句を言わずに従順に従いました。このことにより、奇跡が起こりました。もし、マリアがイエス様を自分の息子として扱っていたら、この奇跡は起こらなかったでしょう。奇跡は、イエスを主と信じている者の上に起こるのです。

水がワインに新しくされた。この「新しい」は、「κ α ι ν σ ζ/カイノス」という言葉が使われています。カイノスとは質的に全く変えられるという「新生」を意味しています。新しい人、新しい言葉、新しい命、新しい契約、新しいエルサレム、これ等は全てカイノスです。


応用
この世に存在している様々な奇跡や霊的現象は、全てイエス様によるものではありません。主イエスの御名によらないで、奇跡と思われる現象が起きたとすれば、それは一時的な悪霊の仕業です。私たちはしっかりと主イエス・キリストに祈り、主が言われることが、たとえその時は訳が分からない、納得できないものであったとしても、その御言葉に従順に従う時に、主の素晴らしい奇跡が起こるのだと言うことを、私たちははっきりと知りましょう。(Ako)
コメント (1)
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