あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。(2:4)
アポロが、パウロが、そしてヨハネが、当時、様々な人種が集まっていたこの東洋と西洋の中継都市から福音を語り、そこから福音が世界に広がって行った。こうした背景が物語っている様に、エペソ教会は、小アジアの伝道の拠点となった成熟した大人の教会だった。
しかし、教会も人の集まりである以上、組織運営や人間関係に対する気遣いも必要となって来る。だが、そういった事ばかりに注意が行き過ぎ、話し合いの中で意見の対立等が起こって来ると、懐疑的、批判的な思いにかられ、気が付かない内にイエス・キリストから視点が外れてしまう..。
エペソ教会の人達は、教会の存在目的に従って忠実に働いていた。しかし、設立から40年が経過し「あれはこうすべきだ、これはこうしなければならない..」等々、活動中心の教会になっていた。7つの教会の母教会としてちゃんと機能しており、教理的にも健全。だが、神に対する愛・人々に対する愛が、いつの間にか置き忘れられてしまっていた。それがエペソ教会最大の問題点であった。(メッセージより抜粋)
アポロが、パウロが、そしてヨハネが、当時、様々な人種が集まっていたこの東洋と西洋の中継都市から福音を語り、そこから福音が世界に広がって行った。こうした背景が物語っている様に、エペソ教会は、小アジアの伝道の拠点となった成熟した大人の教会だった。
しかし、教会も人の集まりである以上、組織運営や人間関係に対する気遣いも必要となって来る。だが、そういった事ばかりに注意が行き過ぎ、話し合いの中で意見の対立等が起こって来ると、懐疑的、批判的な思いにかられ、気が付かない内にイエス・キリストから視点が外れてしまう..。
エペソ教会の人達は、教会の存在目的に従って忠実に働いていた。しかし、設立から40年が経過し「あれはこうすべきだ、これはこうしなければならない..」等々、活動中心の教会になっていた。7つの教会の母教会としてちゃんと機能しており、教理的にも健全。だが、神に対する愛・人々に対する愛が、いつの間にか置き忘れられてしまっていた。それがエペソ教会最大の問題点であった。(メッセージより抜粋)
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今日のメッセージで分ったのは、エペソ教会が設立してから、既に40年近い歳月が経過していました。時が重なって行く中で、二代目、三代目と、多くの変化が起きて来る中で、同時に起きて来る問題も沢山あると思います。神様は、この教会の熱心な所を見ておられるからこそ、神様への愛に立ち帰る事を願われています。今迄自分の人生を振り返って見ても、クリスチャンとしての行いも大切ですが、それよりも神様は動機をご覧になられます。自分の行いの動機が、主の前で正しいかどうかを見ながら、信仰生活を歩んで行きたいと思わされました。
「エフェソ信徒への手紙」と間髪入れずに答える。
神様の愛と招きがはっきりとわかって、洗礼を受けたい!と決意したきっかけが、エフェソの手紙だったし、神様の愛がどれだけ素晴らしいかを具体的に理解でき、実感するのもエフェソの手紙。
「あれから、30年…!!」
どこかの漫談師の常套句ではないが、神様への愛も初心から随分薄れてないか?
「救われているから、何をしても平気」と祈らなかったり、神様の御言葉を聴かずに、実行しなかったり、神様の喜ばれない行為を日々の生活でしている現代のニコライ派になってしまっていないだろうか…。そして、そんな自分にさえ気づいていない。
まさにエフェソ書の愛読者(?)である私に対して、イエス様は語っていらっしゃる!
イエス様への信仰を最後まで持ち続け、イエス様に留まり続ける「勝利を得る者」でいつもあり続けることができるように聖霊様、助けてください。
礼拝に出ているから、教会で奉仕しているから、祈り会をしているから、施しも忘れていないから。そんな行動中心だけの信仰生活に愛はない。当然喜びも失う。注意して読みなさい、と言われた先週からたった1週間で、すでに目を離してしまった自分を見る。
初心忘るべからず。初めの愛から離れるべからず。
決して頭でっかちに、行い中心になってはならない。
イエス様に留まり続ける。ただイエス様の御顔を求め続ける。その時、礼拝も信仰生活も愛が注がれ、私が周囲を気にすることなくイエス様の愛が流れでる。
ほんとうに今の私に必要な、イエス様が教えてくださったメッセージでした。ありがとうございました。
冷たい教会、世間的には突っ込まれる事のない教会・・・。。これは今の多くの教会の姿と思ってしまいました。愛のない教会。アポロ、パウロ、がいた時から40年経過した二世代目。最初の愛ある教会が変質してしまっている教会。イエス様はいられない重要な事が欠けてしまっている教会。一番大事なのは「愛」なのですね。実際にはどの様にすることなのでしょう。考え、思い感じなければならないところです。使徒行伝をその目線で味わいたいと思います。
燭台(メノーラ)を取り除くとは、深刻ですね。メノーラは神のみ言葉を見張るものとの意味がある様です。アーモンドの花とつぼみが付いているとのこと。(実物はバチカンにある様ですが。)ヘブル語ではアーモンドの語源は見張るという意味がある様です。
と言う事は、神様の目、神様自身と言う事になると思います。大変です。取り去らないで下さいと懇願してしまいます。
しかし、崩れて形に信仰を置いたところの者たちに「愛」イエス様に立ち返り、直接に関わりを持たせるように導くことは至難の事ですね。 (階級信仰、神学信仰、教団信仰、牧師信仰、教会員信仰、・・・、偶像礼拝だと思います。この世界で信じる者の集まりを維持することは大変難しいですね。)
貧しい事は守られているのですね。 恵みです。これからの艱難の時、正しいイエス様と自分の関係が強くできなければ越えていけないと思わされています。「み言葉は私達を清め分かつ」とありますように聖書の正しい理解と適用なのですね。神の武具をしっかりと身に着ける時ですね。相手は精神世界の悪の諸霊です。心を武装する。心をみ言葉で満たす。
御国が早く来ます様に。イエス様がたかくあがめられますように。
エペソ教会は伝道の拠点となった教会(西洋と東洋の貿易の中心)模範的なHeadquarter の様な教会
エペソの場所、どんな町か?小アジアの州都がエペソ、3大都市の1つ(他はアンテオケ(初代教会)、アレキサンドリア(エジプト)貿易の都市として繁栄。
黙示録2:2「私は、あなたの行いと労苦を知っている」
ヘブル4:13で説明している。
黙示録2:4「初めの愛から離れてしまった(初めに愛があった)」
黙示録2:5「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」勿論、教会内でもそうですが、教会外の様々な人間関係においても悔い改めて初めの行いをして行かなければならないと感じます。
エペソ3:17「こうしてキリストが、あなた方の信仰によってあなた方の心の内に住んで下さいます様に」
教会生活の源である愛が無くなっている。エペソ教会の問題:人間の弱さ、プライド。行動中心になっていた事が最大の問題。
黙示録2:7 勝利を得る者とは?
第1ヨハネ5:4-5 特別な行動をしたものでなく、いつもイエスの内に留まっている人。
初心を忘れてはならない。世の中は結果で判断するが
イエス様は動機でみておられる。エペソ教会を通して非難がありましたが、愛を持っての御言葉と受け取ることが出来ました。絶えず、初心に立ち返りながら日々の信仰生活に生かして行きたいと思います。
感謝して
しかし黙示録には、携挙されない教会と書かれている。“…もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。”
なぜか? “わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。(2:2-5)
黙示録が書かれたのは、教会設立から40年ほど経っていた頃、すなわち、第2世代、第3世代に世代交代が起きていたと思われる。2:2~3では、エペソ人の事を認めている。よく耐え忍び、忠実でよく働き、教理的に正しい教会であった、と。 “初めの頃の愛から離れて”とあるので、初めは愛があったが、世代交代により主への愛、人々への愛が置き去られ、組織形態や人への配慮、この世と変わらない上下関係が生まれるような、活動そのものが中心となってしまった。
特にエペソ教会の持ち物や責任の多さが教会の管理に走らせ、プライドも相まって保守的で行い中心とならせてしまったのではないのか。今、通っている教会も主任牧師が変わり、疑問に思う点がいくつも出てきている。メガチャーチでもあり、新任牧師も大きな責任がありいろいろ難しいところもあるとは思う。牧師のために祈っているが、果たしてそこに主の言われる“愛”があるのだろうか?教会の大小は問わず、世代交代の過程が非常に難しい事を実感している。
教会のせいばかりにするのも問題で、私達一人一人も教会と呼ばれるのだから、しっかりと御言葉を読み聖霊様に助けて頂き“はじめの愛”を持って信仰生活を送る必要がある。常に原点に立ち返り、1日1日を大切に感謝しながら、主の愛を自分の信仰の歩みの中で隣人に示していきたい。そこにいるだけでイエス様の香りを放てる者へと変えられたい。世に言う大きな事でなくてもいい、本当に身近にいる人へ常に愛を示して行くこと、それを求められていると最近強く感じる。 「いつか伝えよう」では遅いのである。
”耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう“(2:7)
勝利を得る者とは?「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(1ヨハネ5:4-5)
イエス・キリストを信じ、イエス・キリストにとどまるものが勝利者となる。”わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。“(ヨハネ15:5)
“世は結果で見るが、イエスは動機を見る”とメッセージの中で言われた言葉が非常に心に残った。なぜ学ぶのか、なぜ礼拝するのか、なぜ賛美するのか?中世に完全に消滅してしまったエペソ教会から我々は学ぶ事ができる。
動機に“愛”はあるのか? もともと私達には持ち得ない“愛”。一人子をお与えになるほど私達を愛してくださった主の愛。十字架にかかられ、復活されたイエス様の愛。私達の内に住んでくださるお方を信頼し、私達の中からその愛が溢れるようになればどれほど素晴らしいか。イエス様の愛を内に留めるのではなく溢れさせるものになるために、今生きておられる神の言葉そのものである聖書をもっともっと、正しく理解し知るものとなりたい。そしてそれを証しできるものとなりたい。クリスチャン一人一人がそのように生きていれば、一人一人の周りに小さな御国が現れるのではないだろうか。
この学びに感謝して。
愛があり、教理も学びも正しい教会が落ちていってしまう。人間が人間の完全を求めるのは愚かなことだと思った。人間の支配は虚しい。活動、教理、伝統、批判、愛を持って許し合う、助け合う、戒め合うという形。活動や教理だけではダメで愛が本当に大事。イエス様は周りの人を愛するように言われるのに、それがだんだんと冷えてしまっている。今の教会の問題でもある、気をつけなくてはいけないと思う。
田中師が言われるように、最初の愛から落ちたならば、どこから落ちたかを考えながら、自分を戒めながら、いつも聖書のみことばに従ってい区ことを大事にしたいです。最後に勝利を得るものは誰か?イエスが神の子と信じるものが勝利。イエスキリストのうちにとどもまる。QTの時に、神様の思いを自分の思いとし、イエス様 聖霊様にそれを支配していただくということを考えていたばかりです。祈り、みことば、自分を吟味する、人を裁くことははしたくない。人が人を使っていく世と同じになりたくない。悔い改めが来ました。
地中海沿岸の貿易都市で繁栄したエペソの模範的な教会ー伝道の拠点であった成熟した教会が世代を経るごとに行動中心となり破滅に至る。気がつかないうちに初めの愛から離れてしまった。携挙されない教会と言われる。世は結果を見るが主は動機を見られる。
いつもイエスに留まっている者が勝利を得るー神の国のいのちの木の実が食べられる。シミもシワも傷もない花嫁として聖い教会を目指しましょう!マラナタ!!
黙示録 7つの教会への手紙 メッセージの中で「エペソ、スミルナ、ラオデキヤと教会があるが、エペソについてはよく読みなさい」と先生が言われた。何故なら、スミルナは殉教の教会で言うことなし。ラオデキヤは民主主義の教会でそこにはジーザス不在。考える必要なし。今までの私は、ラオデキヤの教会のところを読むたびに、自分を吟味することを意識していた。
また。よく読めと言われたエペソに関しては、立派な教会、素晴らしい教会でも間違えることがある、サドルバックやベテル教会のようなエリート教会も目を覚ましていないといけない、というような解釈であった。しかし、今日のメッセージでエペソ教会へ宛てた手紙はもっと深刻であること、立派でも携挙されない事実..。世の成功や評価ではなく、神の評価から外れるということを見た。
教会もそれぞれにビジョンがあり、プライドがあり、一生懸命な働きがある。私たち個人にも、ビジョンがあり、ここまでの経験もあり、神学がある。またそれに対する、世間の評価、大きな教会、素晴らしい賛美チーム、知名度、大きな収穫を見ると、その教会が、その人が素晴らしいと私たちは思ってしまうけれど、本当にそうなのか。。。聖書を足しても削ってもいけない。神の言葉に権威があり、主は私たちのどこを見ておられるのか。終わりの時代に生かされている私たちは、自分の信仰を試されている。私の心はどこにあるのか。
エペソ教会に主が言われた。初めの愛から離れてしまった。どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻れ!・・・耳のある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
ニコライ派の教えを憎んだエペソ教会。「私たちの主はイエス・キリストである。」と宣言し続けた信仰者。神様は愛のお方で、私たちの弱さを知らないお方ではなく、私たちの全ての罪をあがなってくださったお方。このお方の救いは完全で、私の弱い信仰に説教などされないだろう。このエペソの信仰が私になかったとしても私は天国だろう。でも、でも私はどんな時にも「イエス・キリストは私の主である」と宣言する者でありたい。
そして、忘れないでいたいこと。エリート教会エペソは正しい教理を持ち、一生懸命に働き、伝道熱心、学び伝統を作ってきた。非常に素晴らしかったのに、いつの間にか、教会の源である愛が置き去られてしまった。そして町は廃墟となってしまったこと。
勝利を得る者には命の木の実を食べさせよう、という約束で結ばれる手紙。勝利を得る者とは、『誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:5)』
私はイエス・キリストを信じる者です。それは神の愛を携え、イエス様に留まり続ける者には命の木の実が与えられ、決して崩壊することはない。たとえ、誰も評価してくれなかったとしても、また逆にものすごく評価されてしまっても、私の心はイエス様の心がどこにあるのかだけに関心を持ちたい。
確かにエペソ教会には当初、アポロやパウロ、アクラ&プリスキラやヨハネのようなクリスチャンなら誰もが知っている偉大な霊的指導者達がいて、彼らの元で教えられた非常に模範的で成熟した教会だったので、確かに比較は難しいかも知れませんが、現代に適応出来ないのなら、私たちは聖書から何を学べばいいのでしょうか?
しかし、この様な立派な教会であっても、責められるところがないのであれば、きっと聖書には書かれていないはずだと思います。世代が変わるにつれ、愛に欠如した活動中心の教会になってしまったエペソ教会。教会の頭はイエス・キリスト。私たちも常に、頭であるイエス様を喜ばせているか?初めの愛から離れていないか?お互いに責め合ってはいないか?批判的で冷たいと言われるような教会になっていないか?確かめなければいけないと痛感しました。
世の中は結果を見るけど、神様は動機を見られる。いくら人から見て良いと思われる行いをしていても、そこに愛がないなら意味がない。神様の喜ばれる愛ある教会の姿を、今後も追求していきたいと思います!