見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

エリートとわたしの距離/大衆モダニズムの夢の跡(竹内洋)

2011-03-14 23:21:08 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『大衆モダニズムの夢の跡:彷徨する「教養」と大学』 新曜社 2001.5

 教育社会学、特に日本の高等教育学史に関する竹内洋先生の著作と、私が出会ったのは、2006年のこと。以来、精力的に読み尽くしてきたつもりだったが、本書の存在は見逃していた。

 本書は、著者が雑誌や新聞などのもとめに応じて書いてきた短文をまとめたもの。90年代前半の文章も少しあるが、90年代後半から0年代初めにかけて書かれたものが多い。もとがジャーナリズム向けに書かれた文章なので、これまで読んできた長編の代表作に比べると、ずいぶん味わいが違う。詳細な説明や検証はすっ飛ばして、ピリリと辛口なコメントを述べているところがあって、驚かされた。

 たとえば、社会人入試は大学の入口を多様化し、機会を開くという趣旨でできた、しかし、いったん大学入学を諦めた人に「学び直しができます」というのは、もう一度欲望を焚きつけるシステムである。あちらこちらの大学の門をたたき「何を学ぶかよりも学歴改造だけに終始してしまう」(あーここ辛辣)「あきらめきれない人間の再生産システムになっている面も否定できない」云々。

 また、大学院重点化によって大学院の定員が増えたたため、大学院の入学試験のハードルが下がり、○○大学の学部には入学できないような学生が、同じ大学の大学院には容易に入学できるという「木の葉が沈んで石が浮く」事態が起こっている(これが書かれたのは2001年である)。増えすぎて行き場のない博士の社会問題化(ポスドク問題)が「目睫の間に迫っている」ことも、1999年の時点で、既に現場では正確に予見されていたことが分かる。

 それから、「学校知」を否定し「生きる力(経験知)」の育成を目指した、いわゆる「ゆとり」カリキュラムは、昭和20年代、アメリカ教育使節団がもたらした進歩教育にきわめてよく似ているという。このアメリカ流進歩主義教育は、無残な失敗に終わった。けれども、そのことを誰も思い出さなかったのはどうしたことか。ほんとに日本人って、直近の歴史に学ばないなあ…。著者は、「学校知」の否定にみられる、教育ポピュリズム、あるいは大衆迎合主義への嫌悪を隠さない。

 「エリートはエリート、わたしはわたし」というのが成熟した大衆感情である、と著者はいうが、そんな成熟社会から、ますます遠ざかりゆくのが日本の現況ではないか、と思った。
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東北地方太平洋沖地震(東京)・個人的覚え書き

2011-03-13 00:56:27 | 日常生活
3月11日(金)14時46分ごろ、歴史に残るであろう大地震、東北地方太平洋沖地震(マグニチュード8.8)が発生。

私は、15時からの打合せに備えて、職場の机で普通に執務していた。揺れを感じても、しばらくはそのままPCの前に座っていた。周りが騒ぎ始めたので、建屋の外に出るか、机の下に潜るかをちょっと悩む。とりあえず、卓上の薄型モニタが倒れないよう押さえながら、揺れがおさまるのを待つ。

揺れがおさまったので、文書作成を続けたかったが、とりあえず職場(図書館)の様子を見まわろうと思って事務室の外に出ると、多くの職員、利用者が建物の外に避難している。あれ?そんなにおおごとだったか、と思い、そのまま促されるように、ぞろぞろと構内の避難集合場所に向かう。たまたま来ていた書店の営業さんも一緒。

やがて、ほかの建物からも人が集まってくる。すぐ済むだろうと思って、携帯電話も上着も持ってきていない(寒い)ので、早く避難解除してくれ、と願うが、安全が確認されるまで、建物に戻ることも駄目だという。体育館→講堂に居場所を移され、そのまま半監禁状態。水と乾パンを配給される。暗くなって、ようやく避難場所を抜け出し、自分の机に戻り、携帯とPCのメールチェック。派遣の業者さんを含め、職場で夜明かしを決めた職員が多い。私も残留し、コートにくるまって椅子で仮眠。男性職員は交代警備で、ほぼ徹夜。

明るくなると、派遣さんや非常勤の職員は帰宅を始めたが、職員は、今日(土)の仕事(入試の後期日程)に取りかかる。われわれ、本来のお手伝い要員ではない職員は入試の実施要領が分からず、執行部は、誰が補充要員なのかを把握していないので、いろいろと錯綜。でも大きな混乱はなく、午後4時近くに帰宅を許された。まだ残っている職員もいたが、眠くてたまらないので、帰ってきた。おそるおそるアパートのドアを開けたが、家の中はきれいだった。積んであった本が少し崩れていた程度。テレビのニュースをつけたまま、さっきまでコタツでうたた寝していた。

今のところ被災した知人はいないので、比較的、冷静にニュース映像を眺めている。気仙沼と聞いて、すぐに思い出したのが、建築家の石山修武氏デザインの「海の道」(→写真あり※個人ブログ)。むかし、このエビス様見たさに気仙沼まで行ってきたことがある。

西日本はほとんど影響が出ていないようだ。今日は東大寺修ニ会はお水取りの日。今年の聴聞を先週にしておいてよかった。今週だったら、あきらめざるを得なかっただろう。天下泰平、人々の安寧を願って、深夜まで続く錬行衆の祈りの声が聞こえるような気がする。

※白鶴美術館の庭で見た馬酔木の花

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京阪神美術館めぐり・2011年3月

2011-03-10 23:25:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
 以下、まとめて…書けるかな。

大和文華館 開館50周年記念名品展Ⅲ『大和文華館の中国・朝鮮美術』(2011年2月19日~3月27日)

 展示リストによれば、全79点。工芸品が主なので、いつになく数が多い。「中国の彫刻・工芸」では『白地黒花鯰文枕』に笑いながら見とれる。私の好きな磁州窯である。たなびく水草と並行に、細身のナマズ2匹が泳いでいる。とぼけた表情がかわいい。『赤絵仙姑文壺』も磁州窯。へえー赤絵の磁州窯なんてあるんだ。清・景徳鎮の『素三彩(そさんさい)果文皿』は、さっぱりした色合いが現代的でオシャレ。よく似た洋食器をつくっているメーカーがあったと思うのだが、思い出せない。「朝鮮」ものでは『螺鈿魚文盆』がほしい! 寿司桶みたいだが、裁縫箱ではなかったか、という。絵画では、張宏筆『越中真景図冊』が斬新な構図で面白かった。ネットで検索したら、1985年の新収品として紹介されていた。

白鶴美術館 春季展『国宝経巻と弘法大師絵巻』(2011年3月5日~6月5日)

 大阪泊の翌日。今回は、行ったことのない美術館に初訪問を計画している。まずは神戸市東灘区にある白鶴美術館。白鶴酒造7代嘉納治兵衛(鶴翁)が創設した美術館である。創設者は、Wikiによると「少年時代に奈良の博物館で正倉院宝物の展覧があると進んで臨時の守衛をするなど、若い時から古美術好きの一面があった」って、微笑ましい…。阪急御影駅から山の手方向に登っていくと、特徴ある寺院建築ふうの屋根が見えてくる。外観はホームページで見ていたので驚かなかったが、格式ある高級ホテルを思わせる内装の重厚さに感激する。

 展示品もすごい! 注目は『賢愚経』(奈良時代)。茶色い楮紙を見慣れていた奈良朝の人々が、真っ白な檀(まゆみ)紙を見たときの驚愕はどれほどであったか…という解説にうなずく。あまりに白いので、骨を漉き込んだという意味で荼毘紙とも呼ばれるそうだ。薩摩焼でも思ったけど、「白」って憧れの色だったんだなあ。『弘法大師絵巻』(高野大師行状図画)は全10巻、鎌倉時代。前期(~4/17)は巻1~4の展示で、後期(4/19~)に巻5以降を公開。巻により「手」が違うのが面白い。前半では、巻1と4の画風が似ていて、いちばん巧い。巻2、3はちょっと落ちる気がする。巻4の平伏する嵯峨天皇、かわいいなー。

 別室で磁州窯の『白地黒掻落龍文梅瓶』を見たときは、きゃー!私のいちばん好きな!と飛び上がってしまった。周囲を一周できるのは初めてではないかしら。この龍、魁偉な上半身+前足に反して、下半身は魚類と同様、尻びれと二股の尾びれしかないことに初めて気づいた。

逸翁美術館 早春展『古筆と平安の和歌 料紙と書の美の世界』(2011年1月25日~3月6日)

 ここも初訪問。阪急宝塚線池田駅から歩く。阪急東宝グループの創業者、小林一三の蒐集品を展示する美術館。現在の建築は2008年竣工だそうで、ぼんやり予想していたより近代的な造りに驚く。古筆のほかに、歌仙絵が見られたことは得をした気分。佐竹本三十六歌仙の高光は、多武峰少将と呼ばれた色男ぶり(積極的な意味でなく)を彷彿とさせる。やや眉を寄せた品のいい顔立ちに朱の唇。黒の束帯に水色の平緒を垂らし、下襲の裾に摺り出した唐草文が美しい。太刀を佩いているのは武官だからか。

 なお、展示ケースには、佐竹本が切断・分売されたときの価格表が、さりげなく一緒に出ていて面白かった。1番・人丸1万5千円、2番・躬恒(探幽補筆)3千円…という具合で、30番・重之まで。安いのは住吉明神3千円(納得w)、高いのは小野小町3万円。番号の上に購入者の名前が記されているが、ところどころ朱筆で訂正されている(斎宮女御は、はじめ田近岩彦氏とあり、益田孝氏に訂正されている)。狩野山雪の俊成・定家・為家(三幅対)も面白かった。古筆は、やっぱり石山切。室内に飾るなら、仮名だけよりも和漢朗詠集がいいな。

藤田美術館 平成23年春季展『季節を愉しむⅡ 春~初秋の美術』(2011年3月5日~6月12日)

 今回のお目当ては、内山永久寺の障子絵だったという『両部大経感得図・善無畏』。昨年の秋季展で「龍猛」を見て、どうしてもこちらも見たくなった。春の風景だというが、色褪せたせいで、さびしい冬枯れの山中にしか見えない。五重塔の前の地面に座り込んで、天(の瑞雲)を見上げる僧侶と従者たちは、野点(のだて)に興じる茶人のようでもある。もう1つのお目当ては『玄奘三蔵絵』。公開は、第1巻第1段(~4/3)、第4巻第2段(4/5~5/8)、第6巻第2段(5/10~6/12)だそうだ。そのあと、奈良博で全巻公開なのは分かっているんだけど…。第1巻第1段は、みずら頭の童子・玄奘が、父親から孝経の講義を聞く場面を描く。冒頭、鵞鳥の浮かぶ大河は黄河なのかな、それとも洛河か。朱と緑に塗られた建築、庭には巨大な太湖石っぽいものが置かれていて、一生懸命「異国らしさ」を演出している感じが面白い。

※私の好きな磁州窯:垂涎のページ(中国古美術 太田)
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学術研究対象としての修二会/雑誌・南都佛教「二月堂特集」

2011-03-09 22:58:55 | 読んだもの(書籍)
南都佛教研究会編『南都佛教』52号「二月堂特集」 東大寺図書館 1984.6(2001.2再版)

 修二会の聴聞に奈良に行き、奈良博のミュージアムショップに入った。ブックコーナーには、お水取りや東大寺を扱った関連書籍が並ぶ。お松明やのりこぼし椿を表紙にした豪華な写真集にまじって、白黒の地味な表紙の本書が売られていた。「本書」と言ったが、雑誌である。表紙をめくってみると「南都佛教第52号『二月堂特集』再版に際して」というまえがきがあった。

 「いまから十七年前に出版された『南都佛教』第52号『二月堂特集』は、発行してまもなく初版本が在庫切れとなったため、各方面から再版の要望が多く、本年の修二会が千二百五十回目を迎えるにあたり、ようやく再版の運びとなりました。二月堂に関するこれら珠玉の各論文は、今以て謎の多い修二会行法はもちろんの事、その後の二月堂研究の基礎となっており、この再版が二月堂についての色々な角度からの研究が益々深まるきっかけとなり、近い将来二月堂特集の続編が発行されることを願ってやみません」云々。ちなみに、修二会が1250回目を迎えた「本年」とは、2001年。今年、2011年は、1260回目に当たる。前日のお松明の前の放送でも、そのように説明していた。

 手にとって、ぱらぱらめくってみると、写真や図版が多くて、資料として活用できそう。2,000円は「買い」と判断して、購入してしまった。これだから、博物館や美術館のブックコーナーは、町の本屋さんにない出会いがあって、面白い。

※収録論文は以下のとおり。

・永村眞「平安前期東大寺諸法会の勤修と二月堂修二会」
・山岸常人「悔過から修正会へ-平安時代前期悔過会の変容-」
・安達直哉「院政下における東大寺の位置-修二会等の法会と造東大寺長官を通して-」
・川村知行「東大寺二月堂小観音の儀礼と図像」
・佐藤道子「小観音のまつり」
・藤井恵介「東大寺二月堂建築の中世的展開」

 興味のあるところから読んでいこうと思ったら、後ろから読むことになってしまった。藤井論文は、現存建築(Ⅴ期:1669年再建)を起点に、Ⅳ期(1264年以降)→Ⅲ期(1226年以降)→Ⅱ期(1206年以降)→Ⅰ期(創建以降)と、二月堂建築史を遡及的に復原する試みである。そもそも、二月堂の創建は明らかでなく、『東大寺要録』にいう天平勝宝4年(752)実忠が十一面悔過を始行したというのも「二月堂修二会と同一の法会であるとの確証はなく、また二月堂の建物そのものが奈良時代に存在したかどうかの確認もできない」との記述に、軽いショックを受ける。千二百年に及ぶ「不退之行法」というキャッチフレーズを、わりと素朴に信じていたので。やっぱり一般常識と、学術界の常識は違うんだな、と思う。

 佐藤論文は、3月7日の深夜に行われる「小観音のまつり」の現状と変遷を、図をまじえて分かりやすく紹介。一昨年、3月7日に参籠する前にこれを読んでおけばよかった。佐藤氏は、昨年、一般向けに『東大寺お水取り:春を待つ祈りと懺悔の法会』(朝日選書)を出されたので、私の参籠は1年早かったのである。

 川村論文は、二月堂の二つの本尊について。本来の本尊は大観音で、小観音は印蔵(食堂裏の上司にあった四倉のひとつ)にあり、修二会の期間だけ二月堂に迎えられていたものが、大治~久安年間(12世紀)に二月堂に常置されるようになったと推定されている。これ以前は、霊仏とはされていたものの、他見を許されないほどの絶対秘仏ではなく、西南院本覚禅抄の裏書に見られるように、その姿が一度は写されている。ううむ、「何かひとつ願いが叶うなら、二月堂の本尊が見たい」と言っていた友人が聞いたら、何ていうかなー。

 冒頭の永村論文は、修二会の「謎」を包括的に論ずる。今日著名な二月堂修二会が中世以前には寺内の主要法会の位置を占めなかったのはなぜか。主要法会ではないにもかかわらず(他の大会の多くが「退転」する中で)「不退之行法」として勤修され続けたのはなぜか。寺内では異なる階層に属する学侶と堂衆が一列に参籠するという「さながら印度初期仏教集団にも似た稀有な僧侶集団が、法会の中に出現した」のはなぜか。言われてみれば、なるほど、と思う「謎」ばかりだ。

 永村論文は、「法会とは何か」という素朴な問いに対して、「法悦の共有」という回答を示しているが、二月堂修二会は、宗教的、芸術的な「法悦」のみならず、知的探究心にとっても、無類の刺激を与えてくれる存在であることをあらためて感じた。
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奈良国立博物館で遊ぶ:特別陳列・お水取り(2011)

2011-03-08 22:52:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別陳列『お水取り』(2011年2月5日~3月14日)

 『お水取り』は、この季節、奈良博恒例の特別陳列である。2009年に見ているので、さほど内容に変化はないだろうと思ったが、常設展料金(パスポートでOK)なので、寄っていくことにした。二月堂本尊光背(断片)や縁起絵の数々、鐃(にょう=鈴)、法螺貝、袈裟、袴、差懸(沓)など、何を見ても懐かしく感じる。中央には、実物大?で二月堂の礼堂が再現されており、白い戸張(カーテン)をくるくるねじって端に寄せ、整然と荘厳された内陣を見せている。こんなふうに戸張を開けてもらえるのは、冷え込みの厳しくなる深夜からなんだよなあ…。会場に低く流れる声明は、折しも「南無観」に差し掛かったところで、嬉しかった。

 思わず目が留ったのは、『二月堂練行衆日記』と題された冊子。展示箇所には、寛文7年(1667)の二月堂焼亡の様子が、緊迫した筆で記録されている。小観音は、実賢という僧侶が厨子を破り、袈裟に包んで持ち出した。しかし、大観音は運び出すことができなかった。「猛火忽昇于棟梁、無力消之、但怳然耳。然而、本願和尚安置之尊像、安然于火中、宛如有勢、衆人共拝更恐」…十分には理解できないけれど、文字を追っているだけでも、当時の人々の心の震えが伝わってくるようである(この箇所、「于」が「千」に見えて読みにくい)。

 隣りの『両堂記』によれば(この2点は1セットの資料らしい)、火が鎮まると、焼け落ちた棟木や瓦が尊体に当たることなく、大観音は焼け跡に立ちつくしており、人々は感涙した。しかし、秘仏であるので、急ぎスダレで覆い隠し、焼け残った八幡宮の新造屋に運び入れた。錬行衆は宿所でひそかに六時の行法を行い(修二会の最中だったのである)、小観音は法華堂内陣に南向きに遷した、云々。

 また『東大寺年中行事記録』には、同年=寛文7年(1667)9月、「鈴木与次郎」なる人物が、二月堂再建の設計担当者として、江戸幕府から派遣されたことが記されている。遠い過去の物語だと思っていた「二月堂焼亡」事件が、突然、生々しい人間ドラマとなって迫ってきて、面白かった。しかし、これらの記録文書類は、初見である。一昨年の展示には出ていなかったものだ。これらの写真が載っているなら、カタログが欲しいと思ったが、展示室に置かれているサンプルは、一昨年買って帰ったものと同じだ(奥付=平成21年改訂版)。せめて今年の展示リストがあるなら貰って帰りたいと思い、案内員の方に聞いてみた。すると、1階の受付にあるというので、貰いに行く。

 リストをいただくついでに「あのう…展示図録の内容は変わってないんですよね」と未練がましく聞いてみた。すると「以前にお買い求めですか? では、これを」と言って、全4ページの色刷りリーフレットを出してくれた。今年の展示品の写真と説明が掲載された追補ページである。わーい、ありがとうございます! 言ってみるものだな、と思った。

 引き続き、名品展『珠玉の仏教美術』(2011年2月15日~3月14日)を見ていく。大好きな『華厳五十五所絵巻』がたっぷり広げてあったり、ふだんあまり見ることのない考古遺品の犬型埴輪(白クマみたい)に驚いたり、楽しかった。気がついたら、この日も奈良博で4時間近く遊んでしまった。

 ミュージアムショップでのお買い物については、別掲。
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奈良国立博物館で遊ぶ:なら仏像館

2011-03-08 00:11:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 なら仏像館(2011年1月2日~4月10日)

 修二会聴聞の翌日は、いつもの土曜日くらいに起きて、宿を出た。興福寺の国宝館が9:00から開いていたので、入ってみる。昨年の夏以来だが、特に変わった様子がない。改装前のように、ときどき展示替えはしないのかな。いつでも名品が見られるのは嬉しいが、変化がないのは、ちょっとさびしい感じもする。

 それから奈良博へ。「なら仏像館」は、以前の本館常設展のこと。昨年7月にリニューアルしてから一度来ているのだが、あまり詳しいレポートを書けなかったことが気になっていた。奈良博は、東博と違って、常設展の展示品リストをネットに上げてくれないので、自分でつくろうと思っていたのだ。…この日、頑張ってメモを取っていたら、初めて(!)館内に「なら仏像館 展示品一覧」が置かれているのを見つけた。あ、こんなもの作るようになったんだ、と思って、帰ってからホームページを見直したら、「平成23年1月2日(日)~4月10日(日)」と「平成23年4月12日(火)~」の展示品リストが並んでいた。今後は、サーバ上にこれを残してくれると嬉しい。2010年12月以前のリストは存在しないのかな…。

 今回、第1室は「観音菩薩」の特集だった。テーマを記したパネルを見つける前に、室内をぐるり見渡して、そのことに気づいたときは、すごく嬉しかった。修ニ会の季節だものね! 博物館も、ひそかに観音悔過の修法を支援しているみたいな気がする。なお、個人的な希望では、第1室だけでも「展示位置」の分かるリストがほしい。ほしいと言っているだけでは仕方がないので、つくってみた。

(1) 十一面・奈良博・木造・平安(新薬師寺伝来)
(2) 十一面・元興寺・木造・鎌倉
(3) 十一面・勝林寺・木造・平安(強く腰をひねる)
(4) 十一面・西光院・木造・平安(初見だろうか? けっこう好き)
(5) 十一面・薬師寺・木造・奈良~平安(鼻が欠けている)
(6) 准胝・個人・木造・平安(白い胡粉のあとが残る)
(7) 十一面・新薬師寺・木造・平安(スラリと背が高い、板光背)
(8) 観音・奈良博・木造・平安(密教的)
(9) 観音・観心寺・木造・平安
(10) 観音・文化庁・木造・平安(奈良町の瑞景寺伝来)
(11) 千手・園城寺・木造・平安(ずんぐり、力強い)
(12) 十一面・地福寺・木造・平安
(13) 聖観音・勝林寺・木造・平安
(14) 如意輪坐像・奈良博・木造・平安(丹後の海中より発見されたとの伝承あり)
(15) 不空羂索坐像・東鳴川観音講・木造・平安

 素人には、一見よく分からないのだが、メモを取りながら、全て木造であることに気づいた。よく揃えたなと思ったけど、馬頭観音がいないのね。第2室は「如来」(ここに元興寺の薬師如来像がいる)、第3室は、特別公開の東大寺法華堂(三月堂)金剛力士像2体が、引き続き、おいでになる。部屋の隅に、ボランティア解説員の方が座っていたが、ほかは誰もいなくて、しばらく2体を独り占め状態だった。怪獣みたいにデカいのだが、全く怖くなくて、むしろ安心した気持ちになるのはなぜだろう。隅のソファで、しばらく眠りたくなった。

 第1室※印は、東大寺の西大門勅額。あと、詳細は奈良博の展示リストに譲るが、第10室「肖像」の大津皇子像(薬師寺)、第11室「神仏習合」、第12室「動物彫刻」の獅子&わんこ、などが今期の見どころだと思う。

 次期(4/12~)の展示品をあらかじめチェックできるのは嬉しい限りだが、また誘惑の種が増えてしまった感あり。困ったものだ。
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東大寺修ニ会(3月4日)

2011-03-07 01:10:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
東大寺二月堂 修二会(2011年3月4日)

 思い立って修ニ会を見てきた。一昨年は声明の聴聞を主目的にしていたので、18:00前から東の局に入ってしまった。なので、お松明は見ていない。今回は、久しぶりにお松明が見たいと思った。金曜日、半日休を取って、14:00過ぎに東京駅を出る新幹線に乗る。17:00過ぎに奈良に到着、ホテルにチェックインしてすぐ、東大寺に向かった。まだ薄明かりの残る二月堂下には、けっこうな人垣ができている。それでも、右側の石段を少し登ったあたりまで近づくことができた(前回は、交通規制でこんなところまで近づけなかった)。

 どうせ始まると撮影ラッシュになるだろうと覚悟していたが、それほど酷い状況にはならなかった。放送でも、ストロボ使用の自重(小さなストロボでは効果がないばかりか、雰囲気をこわすことになります)を繰り返し呼び掛けていたし。「終わった後の拍手はおやめください」もありがたかった。

 お松明をゆっくり見たのは久しぶりだ。私は最終日(3月14日)狙いで来ることが多いのだが、この日は「尻つけ松明」と言って、全ての松明が一気に上堂する。勇壮だが、あっという間に終わってしまう。一本ずつ上がってくるほうが、長く楽しめていいと思った。あと、外(お堂の下)にいても、けっこう堂内の鐘の音や沓音が聞こえるものだと知った。



 お松明が終わってから、納経所に寄ってご朱印をもらい(この日は「観自在」だった)、少しだけ東の局に入った。暗闇の中、お勤めの声がとてもよく聞こえる。今年の錬行衆は声がいいなあ、と思う(ほんとか?)。せっかくなので「南無観」が聞けるまで待ったが、今年は防寒の用意もしてこなかったので、ここで引き上げ。局の格子戸には、写真撮影や携帯電話の使用禁止はもちろん、私語、テキスト等を見るためのライトも禁止する旨の貼り紙がしてあった。結構なことだ。相変わらず、外陣の特別拝観を許された男性衆はマナーが悪いが、一時期は写真も撮り放題だったんじゃなかったかなあ。だいぶ運営が改善されたように思う。よかった。

 20時過ぎ、引き上げる境内には、ほとんど人影なし。参籠所附近の壁に、お松明の燃え残りが立てかけてあった。



※参考:東大寺公式サイトの「3Dバーチャル参拝」がなかなかすごい。楽しい!

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立ち返る場所/大学論(阿部謹也)

2011-03-03 23:47:08 | 読んだもの(書籍)
○阿部謹也『大学論』 日本エディタースクール出版部 1999.5

 1992年12月から1998年11月まで一橋大学の学長をつとめた阿部謹也氏(1935-2006)による大学論。昨年秋、吉見俊哉氏の大学論を聞く機会があって、中世の大学(ユニバーシティ)とは、教員や学生の「組合」を意味していたことを聞いた。「よく大学(ユニバーシティ)は普遍(ユニバーサル)と関係があるように思っている人がいるけど違うんです」と言われたことが印象的で、この点を確かめたいと思っていた。

 ドイツ中世史を専門とする著者なら、間違いはないだろうと思って読んでみたら、案の定、12~13世紀頃の大学の誕生が端的に描かれていた。大学は、学生集団あるいは教師の集団として手工業組合と同じかたちで生まれた。パン屋、靴屋、肉屋等々の組合(ウニベルシタス)とほとんど同じ組織で、年に一度、職人の組合が、それぞれの衣装を着て町中を練り歩く祭りには、大学の教授たちもガウンを着てその列に加わったという。なあんだ、大学って、特別なものではなかったんだ、と思う。

 しかし、大学は、俗社会の職人集団とは明らかに異なる一面も持っていた。たとえば、教会の一部としての大学は、アジール権を担っており、社会に対して義というものを体現する要素を持っていた。しかし、中世から近世にかけて、大学は、個人の自立の押さえ込みをはかる国家に力を貸し、国家(俗社会)が民主主義という義を獲得するのに伴い、それに抵抗する役割を喪失してしまう。後発国・日本の大学は、そもそも俗社会の論理の只中に誕生する。

 あー正直なところ、大学のアジール性なんて、国立大学法人化以後、忘れて久しかった…。後ろばかり振り返っても未来は見えてこないと揶揄されそうだが、ときどき、歴史に立ち返ってみるのも、悪いことではないと思う。

 「教養」という言葉もそうだ。日本の大学では、一時期、教養教育の解体が流行していたかと思ったら、昨今また、教養(リベラル・アーツ)の復権がいちじるしい。しかし、本書が指摘するとおり、日本人の多くは「教養とは何か」という合意のないまま、空疎に教養の復権を叫んでいるような気がする。そこで、著者は敢えて教養を定義して、「社会の中での自分の位置を知ろうとする努力」であると言う。この前提には「個人」の自覚がなければならない。難しい本が読めても、天下国家を論ずることができても、その根本に「私とは何か」「なぜここにいるのか」という問いがなければいけない、というのである。これは、80年代(前半)に学生だった私の経験に照らすと、納得がいって、懐かしい感じがした。

 でも、今の大学生は「正義とは何か」みたいな問題提起には熱心でも、「自分」語りは避けているように見える。いや、就職活動に勝ち抜くために「(他者から)自分はどう見えるか」「自分をどう売り込むか」という戦略は必須だが、そのことが却って「自分とは何か」という問いを立てにくくしているのではないかと思う。

 もうひとつ、本書から新鮮な感動を受けたのは、日本の近代化が、さまざまな歪みや挫折を伴って進んできた中で、学校制度だけは「個人の大切さ、平等主義」を(比較的)実現してきたという指摘である。だからこそ人々は学校生活を懐かしく思い出すのではないか、と著者は論じている。

 2000年以降、急激に市場化の波に曝されることになった国立大学の現在の姿を知る者からすれば、1990年代のエッセイを集めた本書は、どこか遠い落日の花園を見るような趣きもある。しかし、時代が変わっても忘れてはならない、いつか立ち返るべき場所として、読み継がれてほしい文集である。
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実は太閤記/太平記英勇伝(平木浮世絵美術館)

2011-03-02 22:40:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
平木浮世絵美術館 『国芳描く戦国の武将 太平記英勇伝』(2011年2月5日~2月27日)

 浮世絵はどうも苦手。ただし、浮世絵の中でも「奇想の系譜」につらなる国芳だけは別。というわけで、2006年の開館以来、一度も訪ねたことのなかった平木浮世絵美術館に行ってみることにした。所在地を確かめて、え!ベイエリアにあるのか、と驚く。

 家族連れでにぎわう巨大なショッピングセンター(うわーアメリカみたいだ)の一角にある美術館は、かなり不思議な空間だった。外観は大きな缶詰みたいな円筒形。展示室は楕円形の1室のみ。そこに、江戸の粋を体現した国芳の武者絵が並んでいる。でも、意外と違和感はない。

 冒頭の1枚。青とオレンジの強烈な対照色、同系色の濃淡を重ねて、複雑な文様を摺り出した狩衣装束、茶筅髷の髪の毛一筋一筋まで神経のゆきとどいた凛々しい武者ぶり。おお、確かに国芳だ、と思って、解説を読むと「大多春永(織田信長)」とある。隣りの、古風な大鎧を着込んだ武者には「稲川義基(今川義元)」の文字。しばらくキツネにつままれた心境で、それらを眺めたのち、やっと理解した。

 展覧会のタイトルを見たとき、うーん『太平記』って、あまりよく分からないんだよな…と思っていたのだ。これは、江戸の出版文化の術中に嵌ったも同然。実は、国芳の『太平記英勇伝』は『太閤記』の読み替えなのだ。解説によれば、寛政9年(1797)から享和2年(1802)にかけて出版された『絵本太閤記』は、大ブームを起こし、関連出版物や錦絵が大変な売れ行きを示した。幕府は「天正之頃以来之武者等名前を顕し画候儀」に対し、厳しい出版統制で臨んだ。そのため、文化年間以降は、時代や名前を変えて、規制の網をかいくぐりながら、『太閤記』の絵を描く試みが続けられたのである。

 このアナクロニズムの影響は、けっこう大きいような気がする。私は、かなり大人になってから、実際に戦国時代に使用された南蛮具足や変わり兜を知って、びっくりした。江戸の武者絵に描かれた戦国武将は、みんな源平時代みたいな古風な大鎧を着ている。端午の節句に飾られる武者人形もそうだし。そのわりに大筒や鉄砲は有りなんだなあ。どこまでが虚でどこからが実か、よく分からないところが面白い。

 でも髭面の猛将あり、白面郎あり、ふりそそぐ刃に立ち向かう激しい動きの図もあれば、裃姿でじっと思い入れの図もあり。全50図、見事なほど「キャラ立ち」している。小道具の使い方も巧い。同じ時代を描いて、いろいろと批判の多い今年の大河ドラマの制作者に見せてやりたいと思った。

 全50図の写真と解説、本文翻刻(!!)を収めたミニ冊子「平木浮世絵文庫」(1冊1200円→※詳細)をミュージアムショップで売っている。これ、嬉しいなあ。必要な情報が全てコンパクトに収まっていて文句なし。ハードカバーの豪華図録より、こういう方が絶対嬉しい! 今後の展示企画にあせて、文庫も増えていくことに激しく期待。
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