見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

モノありき/観じる民藝(尾久彰三)

2010-06-16 23:56:13 | 読んだもの(書籍)
○尾久彰三『観じる民藝』 世界文化社 2010.5

 横浜そごうで開催中の『尾久彰三コレクション-観じる民藝』展(2010年5月29日~7月4日)の出口で本書を買った。尾久彰三さんの控えめで生真面目な文字で「美神一如」というサイン入りである。展覧会にあわせて刊行された本であるけれど、カタログの形式は取っていない。豊富な写真と誠心誠意のエッセイで構成されていて、本だけ手にとっても、十分楽しめるように編集されている。

 はじめは、尾久彰三氏の文章を中心に感想を書こうと思っていた。柳宗悦の弟子で富山で民藝運動を推進していた伯父の影響で、子供の頃から「民藝」(著者に倣って旧字を使う)に触れ、中学生の頃から自分の好みでモノを買い揃えるようになり、高校生になると、伯父にくっついて、飛騨高山の骨董屋をめぐり歩くようになる。そして、モノ遍歴の末に著者が学びとったこと。「私はモノの価値は美にあると思っています。モノの美しさを通して、真理に触れることに価値があると思っています」。いいな、このサッパリした信仰告白。このあとに続く文章は、本書でお読みいただきたい。

 では、どうしたら美がわかるようになるのか。その答えのひとつは、柳宗悦が、柳の「書生」であった鈴木繁男氏に施した教育を以て語られている。読むよりも、考えるよりも先に「間髪を入れず反応すること」。ほとんどスポーツ選手の鍛え方みたいだ。私は「読んで学ぶ」展覧会も好きだし、直観と反射神経を試されるような展覧会も好きだ。尾久さんが長年、お勤めになっていた日本民芸館の展示は今も後者で、最低限のキャプションしか置かない態度がすがすがしいと思う。もうひとつは、著者いわく、身の回りに甘い物、不健康な物を置かないこと。ああ、これは言うは易く、行うは難いなあ…と思った。

 さて、何度か本書をひっくり返しているうちに、この写真は(文章以上に)すごいんじゃないだろか…という気持ちが湧いてきた。まさに甘い物、不健康な物、美しくない写真が1枚もないのである。陶磁器ひとつを撮るにも、真正面からだったり、斜め上からだったり、畳の上だったり、板の間だったり、背景が白だったり、黒だったり、自然な影があったりなかったり、1点クローズアップだったり、組み合わせたり、果ては食べ物を盛ったりと千変万化。しかし、この1枚がこの器のベストショットに違いない、と納得できる写真が掲載されているのだ。会場で現物を見ているせいもあるかもしれないが、素材の手触りや温度が伝わってくる。やわらかな自然光の風合いなのに、細部がきっちり写し取られている。

 撮影者は大屋孝雄さん。尾久さんの本以外にも、ずっと古民具や民藝の写真を撮り続けている方のようだ。お名前が小さく奥付にしか記されていないのも、「民藝」の精神を思わせて奥ゆかしい。
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曲げる、向かい合わせる/屏風の世界(出光美術館)

2010-06-15 22:54:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
出光美術館 日本の美・発見IV『屏風の世界-その変遷と展開-』(2010年6月~7月25日)

 出光コレクションより屏風の優品24件を展示。「今回の展示では、屏風を折って見たときの面白さをご紹介いたします」というのが、企画のキモとなっているのだが、そこは先入観にあまりとらわれず、会場に入っていく。

 冒頭にあったのは、伝・土佐光信筆『四季花木図屏風』六曲一双。右隻の右端と左隻の左端に緑の土坡が描かれ、中央を繊細な波紋を浮かべた水が流れている。けれども、よく見ると右隻の左端と左隻の右端、つまり「中央」寄りに署名と極め書きが記されている。解説に「右隻と左隻を入れ替えても図様が連続するのも注目される」と平然というけれど、これって立て方を間違っているんじゃないの?と釈然としない思いを抱く。

 少し進んで、狩野元信筆『西湖図屏風』の前に立つ。これも右隻・左隻の両端寄りに聳え立つ高峰を描き、中央には奥行きのある水面が広がる構図。しかし、この屏風も両隻の「中央」寄りに署名がある。これは右隻と左隻を入れ替えたら、全く風景が違ってしまうのに何故…。首をひねりながら、気がついたのは、このセクションの解説(リード)文。一双を向かい合わせて間に座ると、林和靖の好んだ鶴の声も聴こえてきそうです、云々。以前、れきはくで洛中洛外図屏風(の模本)の一双を向かい合わせに立てた展示を見たことがある。そうすると、屏風に描かれた名所の位置が、実際の風景とぴたりはまるのである。どちらが右で、どちらが左かにこだわること自体が、屏風と展示ケース越しに対峙する「平面的」鑑賞法しか思いつかない、現代人の心の狭さなのかもしれない。

 次室は物語絵と歌仙絵。『天神縁起尊意参内屏風』って面白いなあ。どうしてこの場面を大画面にしたのか、意図がさっぱり分からないところが面白い。『宇治橋柴舟図屏風』の前で、しばし足が止まる。これはもしかして、私は2005年3月以来の再会か? 舟の上で何事かささやきあう生き物のような柴の束が愛らしくて大好きなのだ。でも、ちょっと記憶と印象が違うなあ…と思ったが、あとで確かめたら、今回は六曲一双の「右」しか展示していないのである。もったいない。伝・岩佐又兵衛の『三十六歌仙屏風』も好きだ。中天に長々と伸びた上げ畳(?)に36人の歌人が、妙に人間臭い表情で一列に並んでいる。設定が無茶苦茶で可笑しい。

 いよいよ、私の好きな『南蛮屏風』の登場。華やかな衣裳の南蛮人たちを乗せた船が、白い波を蹴立てて、まさに港に入ってくるところを描いている。ここで、解説パネルにいう。金色の雲を背景とし、屏風を折って立てることで、前景の南蛮船が立体感を持って浮き上がって見える、と。何? これは本当だった。屏風の正面を行きすぎて、解説パネルの前あたりから、斜めに振り返って見るのがよろしい。または、逆に屏風の右斜め前からも、驚くほどの立体感、躍動感を味わうことができる。

 確かに屏風は、ジグザグ折りにして「立てて見る」ことで、平面とは違った相貌をつくりだす効果がある。いいなあと思った作品が、展示図録では、どうも間延びした印象で、がっかりしたこともある(不思議なことに、その逆もある)。本展の図録は、屏風を意さまざまな角度で「曲げて見た」写真を何点か収録。実験的な試みとして評価したい。

 あと楽しかったのは、小品の『歌舞伎・花鳥図屏風』。遊女歌舞伎を描いたものと野郎歌舞伎を描いたものが対になっていて、野郎歌舞伎の踊り手二人組がチョー美形。どちらにも男女の観客が描かれているが、野郎歌舞伎を見つめる男性客の視線が最も熱い。
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二人の巨魁/大日本・満洲帝国の遺産(姜尚中・玄武岩)

2010-06-14 22:20:02 | 読んだもの(書籍)
○姜尚中・玄武岩『大日本・満洲帝国の遺産』(興亡の世界史18) 講談社 2010.5

 帝国日本を語る上で、何度も問い直されてきた「満洲国」に、朝鮮民族の視点から新たな光をあて、満州が生んだ日韓の権力者、岸信介と朴正熙の歩んだ軌跡を辿る。

 私がこの「興亡の世界史」シリーズを最初に手に取ったのは、2006年11月刊行の生井英考『空の帝国、アメリカの20世紀』で、続刊予定の中に、姜尚中氏の名前と本書のタイトルを見つけたときは、楽しみだけど、絶対、予定どおりに出るはずがない、と思った。案の定、刊行は遅れに遅れて、この巻以外は全て刊行済みになってしまい、本書はこのまま永久にフェードアウトするんじゃないかとも案じた。しかし、玄武岩さんの助力もあって(たぶん。はじめは名前なかったもん)奇跡のシリーズ完結に至ったことを喜びたい。(ハヤブサの帰還みたいだw)

 その内容であるが、「あとがき」で姜尚中氏が述べているごとく、厖大な「満洲国スタディーズ」の蓄積に、格別新しい発見を加えたわけではない。おおよその記述は、山室信一『キメラ:満洲国の肖像』をはじめとする先行文献の引用で成り立っている。ただ、ところどころで、ううむと考え込ませるのは、満洲国の建国が朝鮮半島の人々に与えた影響の大きさである。帝国日本に併合された植民地朝鮮の貧しい青年たちにとって、満洲国は、最後に残された「地位逆転」のチャンスだった。京城帝国大学では朝鮮人が正教授に採用されることはなかったが、満洲国の建国大学では教授になれた。朝鮮では普通文官試験しか受けられなかったが、満洲国では高等文官試験を受けて採用される道があった。それゆえ、田舎の訓導に過ぎなかった朴正熙は、「一死以って御奉公」と血書した半紙を同封して軍官学校を志願し、日本人よりも日本人らしい皇国軍人の道を選んだのである。

 そして終戦。満洲国のあっけない瓦解。強いられた雌伏のとき。再び風向きが変わり始める「冷戦」の到来。著者(たち)は、岸信介と朴正熙の共通項として、強い反ソ・反共意識とともに「内面深く米国への反発心を抱きながらも、同時に対米依存を通じて自らの権力を強化していったこと」を挙げている。これは、なかなか分かりづらいところだ。でも、岸信介は、スクラムを組んで安保反対を叫んでいた若者とは違ったかたちで、不屈の対米闘争をたたかい続けたともいえる。右とか左って、そう単純には割り切れない。反ソ・反共と言いながら、統制経済へのシンパシイも強いし。「保守政党は、労働者あるいは勤労者階層に対しても相当なことをやらなければならない」「すべてのものは自由競争に任すのではなく、全体としてひとつの計画性をもたねばならぬ」というのも、本書で見つけた岸の言葉である。

 朴正熙のことは、ほとんど何もしらなかったので、ひとりの人間として、すさまじい生涯だなあと思った。戦後日本が経済復興を遂げたのは、朝鮮戦争特需のおかげという話はよく聞くが、韓国の飛躍的な経済成長(1965~72年)もまた、ベトナム戦争特需に助けられた点が大きいのだという。初めて知った。あまり嬉しくないあわせ鏡だと思った。

※講談社:「興亡の世界史」シリーズ
6月18日(金)19:00~丸善丸の内本店3Fにて著者サイン会開催!
え、せっかく東京都民になったのに、その日は出張で行けないのが悲しい…。
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美に導かれて/「観じる民藝」トークショー(尾久彰三+青柳恵介)

2010-06-13 23:48:28 | 行ったもの2(講演・公演)
そごう美術館 『尾久彰三コレクション-観じる民藝』トークショー「尾久さんと友人たちとの語らい」(ゲスト:青柳恵介氏)(2010年6月13日)

 2009年まで日本民藝館に勤務し、骨董や民芸に関する著作も多い尾久(おぎゅう)彰三氏の個人コレクションを紹介する展覧会。私は、先週末まで仕事が忙しくて、数日前にこの展覧会のサイトを見つけた。先週6月6日のゲストは山下裕二先生だったのか! 行きたかった~。

 今週は、古美術評論家の青柳恵介氏がゲスト。尾久さんも青柳先生も、雑誌「芸術新潮」などで、お名前とお顔は存じ上げているが、どんなお話をされる方か、よく知らない。どうしようかな、と迷いながら、とりあえず展覧会を見に出かけた。

 会場に入ると、いかにも「民芸」らしい陶芸、漆芸に始まり、大津絵、泥絵、西洋のうつわ、ガラス瓶、面、石仏・石像、果ては昭和の鍋敷、ハンガーも。とにかく多彩。ところどころに、四畳半ほどのスペースをつかって、日本の茶室や李朝の舎廊房(さらんばん、男性の部屋)を模したしつらえがあって楽しい。会場の中ほどに、60名ほどが座れるイベント会場が設けられ、舞台は六畳の畳敷きに骨董を並べた(←展示ケースなく剥き出し)「尾久さんの部屋」という設定になっている。えっ、ここでトークショーやるの…これは面白そう。ということで、急遽、参加を申し込む。

 時間になって、現れたお二人。根来の四角い高坏(たかつき)を挟んで、はす向かいでお座りになる。「これは平安…と言いたいけど鎌倉末というところでしょう」と尾久さん。酒杯も古びていい感じ。僕のはお椀の蓋かもしれない、とも。さらに、畳の上に置いた桃山時代の螺鈿の銚子(薬缶みたいに大きい。蓋はなし)を取り上げ、「前回の山下さんのときは発泡ワインでしたけど、今日は日本酒です」とにこにこ。ええ~それを使っちゃうの!? 酒は富山の立山。アテは沖縄の豆腐ようで、陶芸家・金城次郎の焼いた小皿に盛る。

 かくて、飄々と始まったトークショーであるが、けっこう深い話に入っていった。「民芸」と「骨董」はどう違うか。尾久さんは、僕はあまりこだわらないけど、こだわる人もいる、という。柳宗悦は、いったん西洋を経由することで、日本の民芸を発見したのではないか。柳は「直感」を非常に大切にした。(青柳さんから、尾久さんの蒐集は、猫好きが猫に出会って、こいつはオレが拾ってやらなければ、と思って拾ってきちゃうようなところがない?と言われて)確かに、これはオレが買わないで誰が買う、って思うことがある、とも。身銭を切ることでしか学べないことがある、というのも納得できるひとことだった。

 トークの中盤で尾久さんが、琵琶を抱えた娘の泥人形を手元に引き寄せて、「お酒を飲むなら、女性にいてもらいたい」と笑ったあと、「この無絃の音を聴かないとね。有絃の音だけを聴いていては駄目なんだ。そして霊性の頂点に至るというのが柳の思想です」とおっしゃった。「こんな宗教的なことを言ってると投書がくるかなあ」と心配する尾久さんに、「いや、宗教は大事ですよ」と青柳さんがフォローする。この展覧会、壺や漆器などの日用品から始まるが、後半は仏画、仏像、神像など宗教性の高いものが増え、最後に阿弥陀三尊来迎図が飾られている。その厳粛な美しさが、数々の美しいものを見て、浄化された心にぴたりとくるのだ。会場をひとまわりして、自分の気持ちの変化に気づいていただけに、青柳さんの発言は、とても腑に落ちる感じがした。

 「若い頃は、無絃の音なんて気づかないで、ジャズとか聴いていたね。でも、若者にそれを禁止しては駄目なんだ。むしろ背中を押して、行くところまで行かせてやらないと」という尾久さんの発言も含蓄に富んで印象的だった。私の記憶が、正しくニュアンスを伝えていることを願いたい。

 尾久さんが高校生の頃に高山で手に入れたという天神像とお社の話、先週購入したばかりの「歌う人」埴輪の頭部の話、青柳さんから買い取った「御幣猿」の馬の腹掛けの話など、個々の品物にまつわるエピソードはどれも楽しかった。

 トークショーおひらきのあとは、「皆さん、せっかくだから畳に上がってよく見ていってください」という尾久さんに、学芸員さんが「先生、それは…」と慌てて制する場面もあって面白かった。「え、だめなの? しょうがないなあ」とおっしゃって、ハラハラする学芸員さんを尻目に、奥に飾ってあった品々を舞台際にしつらえ直す親切ぶり。さらには「僕らが口をつけた杯でもよければ、どうぞ」とお酒のサービスまで(笑)。お二人とも、すっかり大好きになってしまった。

 トークショーの舞台「尾久さんの部屋」の飾りつけは、ゲストに合わせて毎回変わるのだそうだ。まさに一期一会。さらには、会期中に買ったものまで持ち込んでいらっしゃるというから、来週のお客さんが、どんな品物とどんな話題に出会うのかは全く予想不能。どうぞお楽しみに。
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波濤を超えて/阿蘭陀とNIPPON(たばこと塩の博物館)

2010-06-12 23:08:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
たばこと塩の博物館 日蘭通商400周年記念展『阿蘭陀とNIPPON~レンブラントからシーボルトまで』(2010年4月24日~7月2日)

 「今年、2010年は、徳川幕府がオランダに貿易許可書としての『朱印状』をはじめて発行してから401年目にあたります」という趣意書にくすっと笑ってしまった。401年目って…ちょっと数あまりだが、まあ目をつぶろう。日本とオランダが相互に与えた影響を、美術・工芸資料、歴史・考古資料を通して再認識する企画。

 私は、このテーマ(近世以前の日本の対外交流史)に関心が高いので、けっこう見たことのある資料が多かった。しかし、びっくりしたのは、東京駅八重洲北口遺跡の写真。八重洲の地名がオランダ人ヤン=ヨーステンにちなむ、という話は聞いたことがあったが、この遺跡(中央区八重洲1-8)から、キリシタン遺物(メダイとロザリオの玉)と人骨が出土しており、キリスト教徒の土坑墓と考えられているのだそうだ。写真には、ほぼ完全な2体の人骨が写っていた。調べてみたら、2003年に報告書が刊行され、『発掘された日本列島2008』でも紹介されたようである。

 漢文で書かれた『安南国渡航免許状』(長崎歴史文化博物館蔵)は初見だろうか。1624年(寛永元年)日本の商人に下された免許状らしいが、主語がよく分からない…。メモを取って帰ったものを調べてみたら、「永祚六年」というのはベトナム後黎朝の年号で、「清都王」というのが、後黎朝の権臣の鄭松の子、鄭梉のこと。ベトナム北部(トンキン=ハノイ)に鄭氏政権を樹立する(さすが、中国語Wikiの記述が日本語版より詳しい)。この時代(17世紀)、日本は海上交通を通じて、さまざまな国や地域と交流があったのに、今のわれわれは、残念ながら周辺諸国の歴史を知らなすぎるように思う。

 アムステルダムのオランダ国立博物館から出品の資料も、行ったもんね~と余裕。しかし、オランダ東インド会社(VOC)本部の建物は、アムステルダム自由大学の政治社会学部の校舎として使われているそうで、これは未見。行ってみたい…と食い入るように写真を眺める。また、会場には、オランダ国立博物館制作の短いビデオが流れていて、東インド会社がどのように船員をリクルートしていたかが語られていた。要するに、職を求めて港に集まった貧民を片っぱしから船に乗せ、無事に帰国できたのは3分の1だったな? 実態は、かなり悪辣で悲惨なものだったようだ。このビデオ、会場でいちばん記憶に残った。

 そのほか、見ものは、ライオンの刻印が入ったVOC慶長小判。世界に5枚しかないという。折りたたみできる「阿蘭陀提灯」なるものがあったが、あれって関東人的には「小田原提灯」なんだが…両者に関係は? 森仁左衛門作の天体望遠鏡(→文化財オンライン:これと同形)は、レンズ径91mm、倍率10陪。「宝暦改暦時に幕府天文方が用いた大望遠鏡と推定される」と解説にあった。宝暦暦は、宝暦5年(1755)に渋川春海の貞享暦から改暦。でもあまり精度はよくなかったみたい(Wiki)。ちなみに現在の所蔵者は「レストラン銀嶺」とあったが、長崎歴史文化博物館内で営業している老舗のレストランのことか!

 また、オランダ国内に残るレンブラントの銅版画が数点展示されていたが、これには洋紙に刷ったものと、和紙に刷ったものがある。レンブラントは1645年(寛永21年)頃から和紙を使用しており、その頃には、日本から輸出された和紙が、オランダ国内で入手できたという。こんなことが「分かる」ということも含めて、地味にすごい話だと思う。
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主語はわたし/夢の痂(井上ひさし)

2010-06-11 23:31:15 | 読んだもの(書籍)
○井上ひさし『夢の痂(かさぶた)』 集英社 2007.1

 ときは昭和22年7月、場所は東北の小さな村。陸軍参謀大佐として敗戦の責任を感じていた徳次は、一度は自殺を企てたが死に切れず、骨董屋として、とある旧家で屏風の修理に励んでいた。旧家の長女は、女学校で国文法を教えている才女。家を飛び出して、東京でヌードモデルをしている次女が帰ってきた。そこに次女の恋敵や新聞記者があらわれ、徳次の娘も訪ねてくる。役者がそろったところに、東北御巡幸の天子さまがお泊りになるという話が降ってくる。そこで、天子さまの戦争責任が「取り替え自由の屏風」や「主語のない国文法」という、井上ひさしらしい比喩で語られ(歌われ)る。

 90年代の初めくらいまで、井上ひさしの戯曲は好きでよく読んでいた。それから比べると、すいぶん枯れた印象が残った。本のオビに「トコトコ旅行く天子さま」とあって、これは絶対、劇中に昭和天皇が登場するんだろう、と思って、わくわくして読み始めたら、全然登場しなくて拍子抜けした。やっぱり、そこはタブーなのかしら。
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脱力の異次元/伊藤若冲 アナザーワールド(千葉市美術館)

2010-06-09 23:06:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
千葉市美術館 『伊藤若冲 アナザーワールド』(2010年5月22日~6月27日):前期

 大入り札止めの辻惟雄先生の講演会が終わったあとは、混雑が収まるまで、レストラン(11階)で小休止。窓際席では広い角度の眺望が楽しめて、晴れやかな気持ちになった。人の波が一段落した頃を見計らって、展示室に向かう。金曜・土曜は20:00まで開館している。金曜に延長開館している美術館は多いけれど、土曜もゆっくり観覧できるのはすごくありがたい。

 本展は、水墨画を主体に、前後期あわせて165点の若冲作品を紹介。正直なところ、昨年のMIHOミュージアム『若冲ワンダーランド』の二番煎じ?と思っていた。しかし、会場に入ると初めに「若冲前史」の章立てがあって、若冲に影響を与えたと思われる画家たちの作品が並んでいる。これは『若冲ワンダーランド』にはなかった新しい試み。特に、神戸市立美術館で見て以来、「若冲に似ている~!!」と気になっていた鶴亭という画家(黄檗僧)の作品が、まとめて見られて嬉しかった。鶴亭の全ての作品が”若冲テイスト”ではないということも分かった。

 若冲作品は、彩色画から。京都・両足院所蔵の『雪梅雄鶏図』は薄墨色の背景に、こってり輝く白雪を載せた梅の木、そして宝石のような紅色サザンカ。ニワトリの脚の立体感と、料紙の地を塗り残した(たぶん)地面の対比が醸し出す奇妙な非現実感は、いま、図録を見ても全然迫ってこない。両足院は、長谷川等伯の『竹林七賢図屏風』についても、本物を見たとき、写真とは全く異なる印象にびっくりした経験がある。つくづく日本画は複製に騙されてはいけない、と思った。

 この絵の印章は、ちょっと珍しいかたちで「丹青不知老将至」とある。出典は杜甫の「丹青引(絵画のうた)」という長詩だそうだ。『若冲ワンダーランド』図録の印章解説(これは便利)で確認すると、使われているのは彩色画だけだ。「丹青」が水墨画には合わないからかな。本展の図録も、印章・署名の解説が丁寧でありがたい。

 水墨画は楽しい作品が続くので、思わず口元がゆるむ。時には、声に出して笑いそうになる。私のお気に入りはいろいろあるが、花火みたいな『墨竹図』。まるまるわんこの『狗子図』(顔が見えないっ)。『親犬仔犬図』も。あー若冲はイヌはよく描くけどネコはあまり描きませんね。唐子も布袋さんも寒山拾得も好きだ。会場の作品キャプションは、題名などのほか、美術館がつけた短い見出し+解説で構成でされていたが、この見出しが取ってつけたようで、真面目に読むとかなり笑えた。「ちまきは柔らかい」「海老は筋目描き向き」って…図録に採録されているかな?と期待して買ったんだけど、載っていなかった。後期はもっとメモ取ってこよう。

 気になる作品として、若冲の『海老図』に上田秋成が賛をつけたもの(無腸の号に合わせて蟹の花押)があったが、二人は実際に顔を会わせていたのだろうか。秋成も近代になって真価が発見されたところのある小説家なので、両者には少し共通点を感じる。それから、京都国立博物館所蔵の名品『果蔬涅槃図』や『石灯籠図屏風』が久しぶりに見られてよかった。西福寺の『蓮池図』では厳粛な気持ちになった。会場には、10代、20代の若者が多くて、文字どおり目を輝かせて作品に見入っている。ほんとに若冲は幸せな画家だなあ、と思う。

 若冲展をひとまわりすると、最後に『江戸みやげ』と題した所蔵浮世絵名品選の展示室に到達する。そうか、春信とか歌麿って若冲と同時代人なんだ、とあらためて気付く。当時の広汎な人々に受け入れられたのは、こっち(浮世絵)だったんだよなあ、と思って見比べると感慨深い。

※補記:若冲の来訪記事をめぐって(2010/7/14記事)
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講演会「伊藤若冲の魅力」(講師:辻惟雄)

2010-06-07 23:58:42 | 行ったもの2(講演・公演)
千葉市美術館 『伊藤若冲 アナザーワールド』記念講演会「伊藤若冲の魅力」(講師:辻惟雄)(2010年6月5日)

 『伊藤若冲 アナザーワールド』は、若冲の水墨画を中心に165点を展示する展覧会。「首都圏での若冲の大規模な展覧会は昭和46年(1971)に開催された東京国立博物館での特別展観以来、約40年ぶり」という紹介に、そうだったか、と唸った。若冲と聞けば、京都でも信楽でも飛んでいっていたので。

 関連イベントとして、MIHOミュージアム館長の辻惟雄先生の講演会があるという。これは聞き逃せないと思ったが、「聴講無料、先着150名様」って、こんなアバウトな計画で大丈夫なのか…と初めから案じていた。14:00開演だが、1時間前ではいい席は取れないと思ったので、12:30を目指して出かけることに。ちょうど講堂の扉が開いて、50人ほどのお客さんを中に入れているところだった。続いて中に入って席を確保。13:00を数分過ぎた頃には、150席全て埋まってしまった。できれば、展覧会を見てくるか、同じ階のカフェでお茶でも飲んで待とうと思っていたのだが、開演までトイレ退場以外は「一切許しません」という幽閉状態。展覧会の図録を買いに行くのも「駄目です」と言われた。ええ~やることがお役人だなあ。客を客と思ってないだろ…。

 初めは受付のお姉さんが「暗くなるので立ち見は入れません」と言っていたが、結局、開演の少し前に扉が開いて、かなりの人数が、後ろと左右の通路で立ち見。お年寄りの分だけでも、椅子を追加してあげられなかったのかなあ。座っている身も心苦しかった。やがて、辻惟雄先生を伴って現れた小林忠館長が、われわれ、このような多数のご来場には全く慣れておりませんので、と弁明し、会場の空気が少しなごむ。言うまでもないことだが、辻先生は千葉市美術館の初代館長である。年来、この美術館を贔屓にしている私にとっては、2000年の蘆雪展、2001年の雪村展、2004年の岩佐又兵衛展など、今も記憶に新しい。

 辻先生のお話は、現在の若冲人気の「画期」となった、2000年、京都国立博物館の若冲展から始まった。スポンサーもなく、初めはガラガラだった企画が、後半ウナギのぼりに観客を増やしたのは、ブログなどによる若者の口コミの力が大きかったということが「だんだん分かってきました」とおっしゃる。うーん、先生、それはどうかしら。上げ足を取るようだが、2000年にはまだ、ブログ文化は一般的でなかったと思う。どうも若冲に関しては、ネットの力が過大に語られすぎのように感じる。誰か、「展覧会史(日本美術享受史)」の課題として、きちんと分析検証してくれないだろうか。また、若冲の、人を異次元の世界に誘い込む魅力は、村上春樹に似ている、ともおっしゃった。これは、なかなか卓見に思える。あっもしかして、昨秋の『若冲ワンダーランド』も村上春樹の引用なのかな。

 それから、若冲の生涯をざっくり紹介。近年、新出の資料『京都錦小路青物市場記録』(京大文学部所蔵)によって、「オタク」若冲像が修正を迫られていることは、昨秋、MIHOミュージアム『若冲ワンダーランド』展でも紹介されていたとおり。続いて、辻先生手作りのパワーポイントを見ながら、作品解説。系統だった解説でなく、いろいろ余談に流れるのが面白かった。ジョー・プライス氏が購入した『雪蘆鴛鴦図』を研究室に借りて、「アメリカに行ってしまう前によく見ておくように」と指導した学生の中に、小林忠さんもいたとか…。

 2009年に公開された『動植綵絵』30幅については、「もう当分出ないでしょうねえ」と言いつつ、でも2016年が若冲生誕300年なので、大きな企画があるようですが、宮内庁は出しますかねえ、ともぽつり。2007年に相国寺で、釈迦三尊図を囲んで公開されたときは、管長の有馬頼底氏が宮内庁をくどいて動かしたのだそうだ。

 若冲の目も面白いが、辻先生の目もさすがだと思ったのは、ときどき、思わぬところをクローズアップした画像を見せてくれたこと。『蘆雁図』で落下する雁の隣りに描かれた、枯れ枝に飛び散る雪を超拡大にして「僕はこういうところが好きなんです」と感に堪えたようにおっしゃっていた。これに比べると、近代の日本画家の作品は「粉っぽいし、平べったい」とも。確かに、若冲の雪は、ねっとりと油絵具のように輝いて見える。『池辺群虫図』でも、目ざとくへんな小動物を探し出していた。

 水墨画の話は少なかったが、若冲が、初めは黄檗宗のお坊さんから素人水墨(濃い墨)を学び、やがて薄い墨の使い方を習得し、筋目描きの技法を用いるようになった、というのは、作画年代を推定するときのために要メモ。

 さて、MIHOミュージアム所蔵の『象鯨図屏風』は、2008年に北陸の旧家で見つかったものだが、ちょうど辻先生のもとに小林忠氏がいらっしゃったとき、その写真が届けられたのだという。まるで小説みたい! すぐに、昭和3年(1928)に神戸の川崎男爵家(→Wiki:これか?)のオークションに出品されたものかと思ったが、調べてみると、少し違う。2種類の屏風の画像をかわるがわる見せてくれたので、なるほど、微妙な差異がよく分かった。ここで、意外なことに福岡伸一の名前が出て、彼の著書に、陸の象と海の鯨が、人間には聞こえない低周波で対話する場面が描かれており、その挿絵に『象鯨図屏風』が使われている(辻先生が頼んで使ってもらった)ことが紹介された。これは読んでみたい(→個人ブログから:写真)。

 最後は、少し時間が余ったので『菜虫図』の写真を見ながら、ここ面白いでしょー、ここもいいですねーと、みんなで幸せな気分になっておしまい。展覧会については、また後日。

※6/21追記。6/20の講演会「伊藤若冲の多彩な絵画ワールド」(講師:小林忠)は、格段に運営が改善されていました。
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幕末列伝ふうに/「龍馬伝」展(江戸東京博物館)

2010-06-06 23:53:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
江戸東京博物館 2010年NHK大河ドラマ特別展『「龍馬伝」展』(2010年4月27日~2010年6月6日)

 水曜に半日休が取れたので、気になっていた『龍馬伝』展に行ってきた。そうしたら、平日の午後というのに、バスで乗り付ける団体客やら、学校帰りの中高生やらで大混雑。なんだよ、この人気は!

 ドラマのほうも、昨年の『天地人』の視聴率に及ばないようだが、高い人気をキープしているようだ。私も(昨年と違って)まだ視聴を続けている。話があちこち飛んで分かりにくい、という評もあるようだが、多数の登場人物がよく「キャラ立ち」していて面白い。その日の出番が数分しかなくても、きちんと印象が積っていく感じがする。

 というドラマの特性を活かしてか、この展示も、人物ごとに資料を紹介している。冒頭には、山内容堂着用の黄羅紗地陣羽織。表は明るい黄色のフェルトみたいな地で、裏は雲文の唐錦。袖口は金糸の縁取で縫い綴じる。どうしても頭の中には、『龍馬伝』の容堂役、近藤正臣さんがこれを着たところが浮かんでしまう。なお、あとで買った図録を見たら、容堂公の詩書(闊達で好きな字だなー)とか、ドラマの小道具にも出てきた赤いギヤマンの酒杯などが載っているのだが、会場で見た記憶がない。展示リストを確認したら、東京会場では出品されていないものが、ずいぶんあるようだ。

 武市半平太の肖像画は、ずいぶんドラマと印象が違った。まあ後世(20世紀)の肖像だからあてにはならないが。武市が自分の獄中生活を絵に描いたもの(泣笑録)が残っているのにはびっくりした。獄中とはいえ、蒲団と枕、本もあって、絵を描く筆と墨(朱墨を混ぜて色も付けている)、料紙も支給されていたのだから、そんなに酷い待遇ではなかったように思う。平井収二郎が「切腹前に爪でひっかきながら書いた遺書」というのは、説明不足で分かりにくかった。やたら行間を開けて小さな字で「遺書」が記されていると思ったが、実は、その空白の行間に爪で引っ掻いた文字が記されていたのだ。図録の写真で判明。小さな字の墨書は、これを伝えた人が加えたものなのだろう。あと、収二郎の爪書きを朱墨でなぞったものもあった。

 『吉田東洋斬奸状』(高知県立歴史民俗資料館蔵)は、殺害された東洋の首級(ドラマではそこまでやらなかったな)の「傍らに立てられていたもの」という注記にびっくりした。その「写し」と思えばいいのかしら。岡田以蔵の斬首を伝える『岡田家郷士年譜』(土佐山内家宝物館蔵)とか、高知県って、よくこれだけの文書を伝え、また整理してきたなあと感心した。

 肝腎の龍馬に関する資料だが、最も有名な写真の現物は、4月末の3日間の限定公開だったので拝めず。しかし、焼き付け複製写真のほうが、かえって細部まで確認できて面白い。腰に笛のようなものをぶら下げているとか。手紙は多数出品されているので、若い頃のほうが字がきれいだなあ、とか、相手によって少し文体を変えているな、とか(でも基本は候文)、いろいろなことが確認できる。ドラマでは、ときどき映る書簡が口語体のままなのが、私は許せないのだが。

 海舟日記は文字が細かいねえ。西郷隆盛書簡、木戸孝允(桂小五郎)書簡など、展示の大半は文書資料で、よほど幕末史好きでないと飽きると思うのだが、ドラマの「キャラ」に助けられてか、みんな熱心に眺めていた。

 会場のお楽しみは、香川照之の語りによる音声ガイド。『龍馬伝』の音楽つきで、全25点。しかも、岩崎弥太郎に関する資料(2点)の解説はスペシャルトラックで、弥太郎になり切って語っているのが見事。東京展は本日までだが、京都・高知・長崎に巡回予定。
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「知」の強さと弱さ/伊藤博文(瀧井一博)

2010-06-05 23:54:39 | 読んだもの(書籍)
○瀧井一博『伊藤博文:知の政治家』(中公新書) 中央公論新社 2010.4

 私は伊藤博文(1841-1909)が好きと公言しているのだが、同調してくる人に会ったことがない。どうしてこんなに不人気なんだろう? 2009年は伊藤の没後100周年だったが、著者の言うとおり、一向に盛り上がらなかった。

 本書は、生い立ちから幕末維新を駆け足で紹介したのち、明治の政治家・伊藤のいくつかの画期に焦点を当てて論じている。第一は、1882~83年の滞欧憲法調査。ドイツ・ウィーンでシュタインの国家学に啓発され、立憲国家構想に自信を深めて帰国する。第二は、1899年の憲法行脚。1889年の大日本国憲法発布から10年、国会開設を翌年に控え、伊藤は各地をまわって国民に、文明の民(立憲国家の国民)としての自覚を説き、啓蒙に努めた。言っていることが、非常に理念的でびっくりする。政治家は有権者の不平不満を聞くのが仕事と思っている、いまどきの有権者だったら、口あんぐりだろう。

 第四は、1900年に創設された立憲政友会に求めたもの。伊藤が起草した規約に「公益を目的として行動し、みだりに地方の利害に関わるべきでないこと」とある。志が高いなあ。そして簡潔で明快。第五、1907年の憲法改革では、まず皇室を国家の機関と位置づけると同時に、政治の実権から遠ざけることが図られた。次に「公式令」の制定によって、軍部の帷幄上奏権の制限を図った。しかし、後者は陸軍の反発を招き、これまでの帷幄上奏権を制度化した「軍令」の誕生を招く。この憲法改革に携わった有賀長雄は、のちに清国からの憲法調査団が来日したとき(へ~そんなことがあったんだ)軍令制度は「私が正しくないと思ふこと」だから、日本の制度を調べる上で注意してほしい、とわざわざ助言しているそうだ。清国の調査団がどう思ったか、興味深い。

 最後は、伊藤と東アジア政治史のかかわりを、中国、韓国それぞれに章を設けて論じる。ここは抜群に面白い。同時代にこういう汎アジア的な活躍をしている日本人政治家って、伊藤くらいじゃないのかな。伊藤は中国(清国)で戊戌の政変に遭遇するが、康有為に対しては冷淡だった。変法運動のいかがわしさ(宗教結社がかったところがあった)と危うさを見抜いていたためだと思う。しかし、梁啓超のことは「梁といふ若者は支那には惜しい魂だね」と語っている。近代主義者どうし、惹きあうものを感じたのだろう。それから伊藤は武漢まで行き、洋務派官僚の張之洞に会って意気投合している。え~初めて知ったな。こういう国境を超えた近代史の検証って、もっと一般的になってほしいと思う。

 さて、韓国である。1906年、韓国統監の伊藤は、日本人移民の促進を訴え出た新渡戸稲造に「君、朝鮮人は偉いよ。…この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない」と答えたという。むろん、この小さなエピソードをもって、伊藤を免罪することはできないのだけれど。本書は、伊藤の韓国統治の失敗原因として、資金・人材難、儒林知識人懐柔の失敗、宮廷(高宗)抱き込みの失敗、などを挙げている。私は、「知」の政治家として、自ら生涯学び続け、教育と啓蒙を原理として、近代国家をつくり上げてきた伊藤には、宗教と伝統とか、甚だしきはナショナリズムとかいう、ファナティックな情念で動く人間がいるということが、理解できなかったんじゃないかと思う。この、政治家としての決定的な弱点も含めて、私は、やっぱりこのひとは面白いと思う。
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