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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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事業仕分けの憂鬱/行政刷新会議ライブ中継&Twitter

2009-11-14 23:38:50 | 見たもの(Webサイト・TV)
行政刷新会議 事業仕分けワーキンググループ・ライブ中継

 このブログでは、あまり生臭い時事ネタは取り上げないことにしているのだが、その禁を破って言及したい。いま話題になっている国の「事業仕分け」のことだ。

 2010年度概算要求の無駄を洗い出すため、行政刷新会議の「事業仕分け」が11/11から行われている。対象となっているのは、各省庁が要求した事業から、行政刷新会議(※実際は財務省の意向が強いと言われている)が選定した447事業。これらに、国会議員や民間有識者から成る「仕分け人」の3つのワーキンググループが、予算縮減・地方移管・廃止等々の判定を下すのである。私は(いまの仕事に直接関係するため)初日から第3WG(文部科学省・農林水産省・防衛省)のネット中継に聴き入っている。

 まず最初に、この作業過程が、傍聴自由の上に、インターネットで完全中継されると聞いたときは驚いた。上杉隆氏のブログによれば、これを実現させたのは、古川元久内閣府副大臣であるらしい。日本の政治が、一気に30年くらい進歩したような英断であった。

 仕分けの始まる前日に、参議院議員・蓮舫氏の「つぶやき」をTwitterで発見した。「Twitter(ツイッター)」の説明は省く。私は、今年の夏頃、試みに登録してみたのだが、どうもこういう慌しいサービスは性格に合わない、と分かって、あまり使っていなかった。蓮舫氏も10/8が「初ツイッター」だから、まだこのメディアの怖さと可能性を、十分理解されてはいなかっただろう。このとき、私が知ったのは、 #shiwake1、#shiwake2、#shiwake3、というハッシュタグでワーキンググループ別の話題が追えることと、公式中継とは別のネット中継が計画されているらしい、ということだった。

 そして初日。私は、公式でない方のネット中継(ケツダンポトフ)に釘付けになった。これは、若い女性がひとりでウェブカメラを傍聴席に持ち込んで実現させたものだ。ニュース映像を見ると、会場には、マスコミ各社の取材陣も大勢集まっている。彼らは、それぞれ、価値のある場面を「選択」「編集」して、紙面の枠や番組の尺に合わせたニュースを仕立てるために来ているわけだが、それってどうなの、意味あるの?と思わざるを得なかった。

 さらにすごいことになった、と思ったのは3日目(11/13)で、この日は科学技術関係の予算が集中的に審議された。理化学研究所の次世代スパコン、大型放射光施設SPring-8に始まり、科研費(若手研究者支援)を始めとする競争的研究資金など。これらが、次々と厳しい査定にあって「来年度見送り」「縮減」等の結論が出ていく中で「#shiwake3」には、たぶん若手研究者を中心に、悲鳴、怒り、困惑など、さまざまなつぶやきが猛烈な勢いで流れ始めたのだ。

 「なんなのこれ?」「科研費も仕分け対象だったの?」みたいな戸惑いもあり、若者に投資をしない日本の姿を見て「心が折れた」という悲痛な声もあり、「科学者が説明責任を果たして来なかった」という自己反省の弁や「今からでも遅くない。行動を起こそう」というのもあった。「若手研究者支援と子育て支援が競合する状況はつくりたくない。どちらも大事」という冷静な声も。総じて、どのつぶやきも真面目で、無責任な暴言が入り込む余地がなく、匿名掲示板の「祭り」とは、また違ったコミュニティが出来ているように感じられた。

 3日目、最後のセクションでは「日本科学未来館」が取り上げられ、毛利衛館長が、明晰な弁論で仕分け人の追及を切り返した。実際には、それほど激しいバトルが演じられたわけではないのだが、一日中、官僚のぐだぐだ答弁を聞いていた身には、よほど爽快に感じられたらしい。しかし、仕分け人の標的は、はじめから日本科学未来館の運営を担っている科学技術広報財団にあったと思われ、毛利さんの活躍で未来館が廃止を免れた、というのは、買いかぶりだろう。

 それでも、赤字、赤字を連発する仕分け人と財務省に対して、冒頭から「高校、大学の経営で赤字と言いますか?この認識自体が官僚的発想だ」ときっぱり対決姿勢を示し、短い時間で仕分け人にデータを呑み込ませるため、棒グラフのフリップまで用意してきた周到さには、本当に頭が下がった(あれを即座に学習して、来週から真似する官僚はいるかな?)。宇宙飛行士の「条件」のひとつに、「自己の体験を活き活きと伝える豊かな表現力」があるそうだが(JAXA)、このときほど、それを実感したことはなかった。

 その後、この件については「まとめサイト」が作られ、中継録音ファイルもネット上に置かれている(私もリアルタイムに眺めていたのはTwitterだけで、中継音声は録音で聞いた)。また、蓮舫氏からは「仕分け人という立場もあり全ての方々に返信を出来ませんが、#shiwake3への声を読んでいます。多くの方々のご意見を真摯に受け止めます。」というコメントが流れた。仕分け作業の始まる前、「事業仕分け時のTwitterの可能性を話す予定です!こんな可能性のあるメディアって素直にすごいと思う。」とつぶやいていた蓮舫氏だが、そのとんでもない可能性を引き出す役回りを負ってしまったように思う。ちょっと同情する。

 同様に民主党も、「事業仕分け」とその完全公開が何を引き起こすかは、十分に予測できていなかったんじゃないだろうか。いや、そもそも無駄廃止=市場原理主義の徹底が、何を引き起こすかも…。でも、研究者が政治という現実を意識するようになることは、悪い変化ではない。それから、官僚も、自分の担当する予算要求が通るか通らないかに、多くの人の生き死に(大げさ?)と、日本の未来がかかっているということに目を開いてほしい。「#shiwake3」に流れたコメントは、蓮舫議員だけでなく、文部科学省の官僚たちにも、ぜひ噛みしめて読んでほしいと思う。本当に志のある官僚なら、自分のふがいなさに泣けるよなあ。

※事業仕分けWS3 まとめウィキ FrontPage
http://mercury.dbcls.jp/w/

※子子子子子子(ねこのここねこ):11/13の中継録音ファイルあり
http://d.hatena.ne.jp/riocampos/20091113

※行政刷新会議の仕分け対象447事業一覧:Yomiuri Online
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091109-OYT1T01053.htm
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言葉足らずの倫理感/1968〈上〉(小熊英二)

2009-11-11 00:02:13 | 読んだもの(書籍)
○小熊英二 『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』 新曜社 2009.7

 本屋で見たときは、なんだよ、これ!と毒づきたくなった。上下巻それぞれ1,000ページを超える大作である。私は、はじめ、慎重に上巻だけを買って読み始めた。上下巻を買って、途中で投げ出したらお金のムダだと思ったからだ。しかし、それは全くの杞憂だった。面白い。ページをめくってもめくっても、むちゃくちゃ面白いのである。

 「あの時代」の若者たちの反乱とは何だったのか。上巻は、「あの時代」のクライマックス、1968年に向かって、時代的・世代的背景から、ゆっくりと立ち上がっていく。まるで長編小説の冒頭のようだ。彼らの少年時代、日本はまだ貧しい発展途上国だった。けれども教師たちは理想に燃え、平和への願いと民主主義教育の理念を教え子に注入した。それが、1960年に始まる高度経済成長によって激変する。「あの時代」の反乱は、「新しい変化に反発する倫理感と、新しい変化を歓迎したい欲望の双方をふくんだ、アンビヴァレントなものだった」というのは、第1章の冒頭に置かれた、本書のテーマの総括である。

 特に前段の「新しい変化に反発する倫理感」という読み解きを、私は新鮮に感じた。当時、経済界の要請に合わせて、大学を人材育成機関に再編しようとする文部省・大学側の「産学協同」路線(心に日の丸、手に技術)に対して、学生たちは「大学は真理探求の場」という「保守的」な大学観に基づいて反発したのである。常に年長世代が、より「保守的」とは限らないわけだ。

 本書は、具体的に「あの時代」の反乱の始まりを、65年1月の慶大闘争に求め、早大、横浜国大、中大闘争を経て、67年10月からの「激動の七ヶ月」(羽田、佐世保、三里塚、王子野戦病院闘争)、そして日大と東大闘争を記述する。わずか5年足らずの間に、若者たちの反乱の内実は大きく変容する。また、大学による差異も大きく、一括りに「あの反乱」と呼ぶことの危うさを教えてくれる。「激動の七ヶ月」の記述には、正直言って泣けた。

 営利優先の独裁経営、明らかな人権抑圧に抵抗した日大の民主化闘争も分かりやすい。この場合、「進歩的」な学生たちの反乱は、旧態依然の「家族主義」大学経営が、新しい時代に適合しなくなっていたことを示したと言える。しかし、日大で萌芽的にあらわれた、闘争に「主体性の回復」や「生のリアリティ」を追求する態度は、次の東大全共闘で、とんでもなく先鋭化していくことになる。いや、東大闘争も、そもそもは医学部卒業生の身分保障という具体的な問題が出発点だった。それが、次第に観念化し、混乱を極めていく。正直なところ、どこに闘争の目的があるのか、どう共感し、寄り添えばいいのか、残された資料の字面だけを追っていく限り、サッパリ見当がつかない。

 著者は本書の冒頭で、「あの時代」を英雄物語として描くつもりはない、ということを断っている。しかしながら、私の見るところ、東大全共闘のメンバーが感じていたであろうアイデンティティ・クライシス=「現代的不幸」(※具体的な欠乏に基づく「近代的不幸」とは質的に異なる)、求めるものを正確に言い表せない苛立ちに対して、ずいぶん同情的である。私は、著者の同情的記述がなかったら、こんな馬鹿馬鹿しい闘争に、読者として、とても最後まで付き合えなかったんじゃないかと思う。こう言うと、当事者世代には不満だろうけど。でも、少なくとも、当事者のひとり、島泰三氏が書いた『安田講堂1968-1969』(中公新書、2005)なんかより、レイトカマーの著者が書いた本書のほうが、広汎な読者に訴える魅力を持っていることは確かだと思う。

 いま、東大闘争以降を記述する下巻を読み始めているが、ずいぶん趣きが異なる。実際の時代の雰囲気も、こんなふうに鮮やかに転換したのだったかな。
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余技の魅力/筆墨の美:第2部前期(静嘉堂文庫)

2009-11-10 20:34:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 『筆墨の美―水墨画展〔第1部〕山水・人物・花鳥』(前期:2009年10月24日~11月23日)

 今年の春に行われた「第1部:中国と日本の名品」に続く水墨画展。第1部が、元から明清、室町から大正までを総ざらいに扱っていたので、第2部はどういう切り口で来るんだろう?と少し不安に思っていた。実は、両期で重なっている作品もずいぶんある。雪庵の『羅漢図冊』(元代)は、第1部で見て、いいなあ、もっと見たいなあ、と思った作品だったが、今回は、19図のうち後半の11面(+表紙)を見せてくれるサービスぶり。私は第15図の、つぶれた大福みたいな羅漢さんが好きだ。題箋の文字は「鹵竺古金倦」? 読めない。

 見どころとしては、室町時代の画家・周文筆と伝える『四季山水図屏風』と、同作が参照したと思われる孫君沢筆『楼閣山水図』二幅(元代)を、相互に見比べることができる。なるほど、松の枝ぶり、建物とテラスの向きなどがよく似ている。『楼閣山水図』は、従来とは左右を逆に展示されているが、従来の左右は、逆に周文の構図に影響されていたのではないかと思う。

 好きな作品は、作者不詳の元代の『寒山図』。第1部でも印象に残ったものだ。明代の『竹林山水図』も、調べてみたら2005年に見ているが、心が洗われるようで、いい。どちらも「禅僧の余技」と解説されているが、プロフェッショナルだからいいとは限らないところが、美術の面白さだと思う。

 後半には、「紙本」「絹本(生糸・平織り)」「絖本(練糸・繻子織り)」「金箋(砂子状の金箔を散らしたもの)」という、異なる画材の作品を並べて、筆墨の表現効果の違いを実感するコーナーも設けられている。なお、ポスターになっている鈴木芙蓉『那智大瀑天景図』は後期(11/26~)の展示。また年末に通うかな。
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几帳面な迷宮/大乱歩展(神奈川近代文学館)

2009-11-09 22:54:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川近代文学館 特別展・開館25周年記念『大乱歩展』(2009年10月3日~11月15日)

 日本の探偵・推理小説界を確立した巨人・江戸川乱歩(1894-1965)の生涯と作品を紹介する展覧会。私にとっての乱歩は、まず、ポプラ社の『少年探偵シリーズ』の作者として現れた。中学生くらいになると、『孤島の鬼』や『陰獣』『芋虫』など、耽美とエロティシズムとグロテスク趣味の世界にこわごわと踏む込み、その一方、海外ミステリーの紹介にも意欲的な人物だったことを知る。さらに、膨大な蔵書や収集資料が、乱歩自ら「幻影城」と名づけた土蔵の中に残されていることを知ったのは、ずいぶん大人になってからのことである。

 その土蔵は、計4万点近くの蔵書・資料とともに、隣接する立教大学へ受け継がれた。本展には、これらの乱歩旧蔵資料をはじめとする貴重資料が、多数公開されている。

 その最たるものが『貼雑年譜』だろう。戦時中、創作発表の場を奪われた乱歩が、半生の記録をまとめた全9冊のスクラップブックである。記録魔・整理魔・蒐集保存魔の面目躍如。書簡・図画・新聞切り抜き等に詳細な自注を施し、出生から47歳までの年譜まで付いている。これでは、伝記作者の出る幕はなかろう。

 この整理・蒐集癖は、海外ミステリーの研究にも十分に活かされている。縦型のカードを使った「欧米探偵小説著者名索引」とか。「探偵小説ツリック(トリック)分類表」とか。もし乱歩がパソコンの使える現代に生きていたら、すごいデータベースを作っていたんじゃないかと思う。探偵小説愛好家・井上良夫との往復書簡には、海外ミステリーを「アリバイトリック」「殺人手段トリック」「構築の巧みさ」など多面的に評価した点数評が残っている。総合点の1位は「赤毛」、2位は「黄色」、3位「Y」、4位「僧正」、5位「赤い家」。誰の、何という作品のことかは、ミステリーファンならお分かりですね!

 面白かったのは、戦時中、町内会役員をつとめたときの記録(配給控え帳とか)まで、きちんと保存されていること。晩年の乱歩は、いかにも子供好きの好々爺という顔をしている。還暦祝いの真っ赤なナイロンジャンパーを嬉しそうに着こなしていたり、自作小説(かぶと虫の伝奇w)の映画撮影現場で、興味津々16ミリカメラをまわしていたり。あと、奥さん、美人だなー。

 そして、展覧会の最後に、乱歩の幻影城――土蔵の内部が、幾枚かの大きな写真パネルで展示されている。その迫力は、息を呑む、としか言いようがない。いやーでも幸運だよなあ。有名人の「蔵書」が、まるごとどこかの図書館に収まるというのは、いくつも例のある話である。しかし、展示図録で藤井淑禎氏も述べているように「書庫ごと保存されるのはきわめて稀である」だろう。私としては、ぜひこの状態を(凸版印刷協力のもと)VRシアターにしていただいて、コントローラーひとつで、隅から隅まで探索できたら、こんなに楽しいことはないだろう、と夢見ている。

ほぼ日刊イトイ新聞:おじさん少年探偵団、江戸川乱歩の家をゆく
土蔵内部(本棚)の写真多数。
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稀代のコレクター/原三溪と美術(三渓園)

2009-11-08 23:40:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
横浜三渓園 横浜開港150周年記念特別展『原三溪と美術-蒐集家三溪の旧蔵品』(2009年10月31日~11月30日)

 明治の実業家・原三溪が蒐集した美術品の里帰り展覧会が、横浜の三溪園で開かれている。これがかなりスゴイらしい、という『芸術新潮』11月号の記事を読んで、実際に行ってきた。三溪園へは初訪問。横浜駅からバスで30分と、あまり交通の便のよくないところなので、これまで一度も訪ねたことがなかったのだ。正門を入ると、なだらかな丘陵地を背に、大きな池が広がる。展覧会の会場と思われる三渓記念館を目指して、池の端をぶらぶらと歩いていく。

 会場の冒頭に飾られていたのは、伝蘇漢臣筆『老子出関図』(畠山美術館)。老子!? 実は、老子はインドに渡って釈迦になったという伝説があるため、頭頂を剃り、耳輪を垂らしたインド人の姿で表されている。画面右奥から左前方に向かってくるような、斜めの構図が面白い。隣りは、眼光炯々とした『羅漢図』(東京国立博物館)。白目の胡粉が効いている。そのあとに数点並んだ即興的な白描図は、どれも私の好みだ。紙の継目に「高山寺」の印が押された『白描楊柳観音図稿本』とか、三代将軍実朝が仏道修行のために描いた『日課観音』とか。

 そして「すごいわねー」「なかなか見られるものじゃないわよねー」と観客の注目を集めていたのが、国宝『孔雀明王像』(東京国立博物館)。これは、私は何度も見ているので、やや感激が薄い。もちろん大好きな作品ではある。東博の展示ケースよりも、作品に肉薄できるのが嬉しい。この孔雀明王は、思い切り近寄ったほうが迫力が感じられて魅力的だと思う。三渓コレクションの仏画では、これと、現MIHOミュージアム所蔵の『焔摩天像』(~11/6展示)が双璧で、どちらが「第1位」か、三渓園に出入りしていた若い美術家の間で議論が繰り返されたという。うう、『焔摩天像』の方を見たかったなあ。

 三渓コレクションは絵画だけではない。奈良時代の伎楽面『迦楼羅』『酔胡従』は、正倉院宝物に混じっていても違和感なさそう。和辻哲郎の『古寺巡礼』には、原家で伎楽面を見せてもらったとき、三渓が頭にかぶって踊り出したことが書かれているそうだ。これと、三渓が死の前々日、最も愛したコレクション『四季山水図』(伝雪舟筆、山水小巻)を枕元で家人に広げてもらい、最期の美術鑑賞を楽しんだというエピソードは、真率に美術品を愛したコレクター三渓の面影を伝えるようで感銘深かった。

 会場のパネルを読んでいくと、三渓は、29歳で『老子出関図』、35歳で『四季山水図』『孔雀明王像』を手に入れるような大コレクターだったが、「美」は「公共財」(今の言葉でいえば)であるという信念を持ち、蒐集した美術品を新人美術家たちに公開し、時には泊まりこみの研究会を催したという。安田靫彦は、当時の三渓園の雰囲気を「楽園的世界」と語っている。もう戻ってこないんだろうなあ、こういうパトロネージュという美風は。

 展示図録を読むと、今回の里帰り品以外にも、大和文華館の『寝覚物語絵巻』とか、畠山美術館の雪村筆『竹林七賢図屏風』とか、え、これも!?と驚くほど、ぞろぞろと、三渓旧蔵の名品が挙げられている。なお、この図録の解説は、各作品の出所や所蔵者の変遷など、他の展覧会図録にはない情報を豊富に含んでいて興味深い。

 展覧会のあとは、せっかくなので庭園散策。紀州の徳川頼宣侯の別荘を移築した「臨春閣」には、狩野永徳、探幽、安信らの襖絵が残っていて、びっくり。京都から移築した旧燈明寺本堂には、水瓶を手にした観音像がまつられていたり、見どころ多し。できれば紅葉の盛りに来てみたいが、混むのかなあ。
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トークセッション・あったかもしれない日本

2009-11-07 23:56:26 | 行ったもの2(講演・公演)
○第60回紀伊國屋サザンセミナー『「戦後日本スタディーズ」(全3巻)完結記念トークセッション・あったかもしれない日本―歴史の〈後知恵〉はどこまで有効か』(出演者:小森陽一、岩崎稔、上野千鶴子、北田暁大、成田龍一)

 昨年12月から今年9月にかけて刊行された『戦後日本スタディーズ』全3巻の完結を記念して、編集者5人が顔を揃えたトークイベント。いずれ劣らぬ論客だけに、どう話を持っていくのかと思ったら、第3巻ではっきり打ち出された主題、敢えてリアリティに抗して「あったかもしれない日本」を考える、という線に沿って、各自が「歴史のイフ」を掲げて問題提起するという構成を取った。順番に挙げていくと、

小森陽一:もし朝鮮戦争が起こっていなかったら。
岩崎稔:もし自由で解放的な左翼文化があったなら。
上野千鶴子:もし連合赤軍がリンチ殺人をしていなかったら。
北田暁大:もしニューアカブームがなかったら。
成田龍一:もし戦後歴史学に「階級」概念がなかったら。

 私がいちばん興味深く思ったのは、北田暁大さんの発言である。5人の編者の中で、ひとりだけ格段に若い、1971年生まれの北田氏は、学園紛争も連合赤軍も記憶にないことをまず明かし、戦後日本において、そうした世代の「断絶」が起きた一因を、80年代のニューアカブームに求めた。ニューアカ=日本のポストモダニズムは、思想や哲学から、政治や社会に対する関心を奪ってしまったのである。

 しかし、いまの10代、20代の若者は、新鮮な思いで、60~70年代に起きたことに関心を深めつつある、という報告もあった。小熊英二さんの『1968』については、複数の登壇者から何度も言及がなされた(※私はいま上巻を読了したところ)。レイトカマーは何でも言える、と上野氏は言うけれど、当事者でなく、レイトカマーの視点で書かれているから、広汎な読者の支持を得ているのだと思う。

 同様に成田氏は「階級」という言葉の復権を認めるのに、やや躊躇されたけど、あとで会場から、今の若者(ロスジェネ以降)は、「階級」が手垢のついた言葉であることさえ知らないので、むしろ「階級」「資本家」「搾取」という言葉に素直に飛びつこうとしている、という趣旨の発言があった。80年代の断絶を乗り越えて、連続した戦後の歴史を、あらためて、全ての世代が共有する時期が来ているのかもしれない。その準備が整いつつあるのかもしれない、と思った。そのためには、ノスタルジーでない歴史が書かれなければいけない。レイトカマーの参与は、とっても重要なんじゃないかと思う。会場には若者の姿が多くて、頼もしかった。

 最後に成田龍一氏の発言。上野氏に煽られた面もあるけど、きっぱり言明された。歴史学は科学ではない。科学たろうとしたところに、戦後の歴史学の蹉跌がある。よく噛みしめながら、今夜は寝ます。

※『戦後日本スタディーズ』感想
第1巻:40・50年代第2巻:60・70年代第3巻:80・90年代
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秋の文化財探訪(5):三室戸寺

2009-11-06 21:41:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
■西国第十番 明星山三室戸寺(京都府宇治市)

 秋の文化財探訪最終日(11/3)は、京都在住の友人からお誘いを受け、三室戸駅で待ち合わせ。冷え込みは厳しいが、なんとか持ち直した天気に、朝からウォーキングと参拝客の姿が多い。

 先にご朱印をいただき、9時のご開帳を待って、本堂に入る。84年ぶりのご開帳となるご本尊は、小さな金銅仏だった。お厨子の前で参拝した後、内陣に座って、お坊さんのお話を聞く。

 今から千二百年前、宮中に金色の光が射し込むのを見た光仁天皇は、人に命じてその源を求めさせた。すると、山中に滝があり、滝の中に身の丈二丈(約4メートル)の千手観音が出現した。滝に飛び込み、千手観音に近づこうとすると、そのお姿は消え失せ、1枚の蓮弁が流れてきた。その蓮弁を拾い上げると、一尺二寸(40センチ弱)の二臂の尊像と化した…というのが、秘仏ご本尊の由来だそうだ。なかなか話の巧いお坊さんで、滝壺の中に4メートルの千手観音が現れるくだりには、うっとりと聞き入ってしまった(ご開帳法要の写真に、緑の衣で写っているお坊さんである)。

 その後、桓武天皇は千手観世音菩薩像を建立し、滝壺に示現した尊像を胎内に納めた。しかし、寛正3年(1462)の出火により、千手観音像は灰燼に帰してしまった。よって、現在でも三室戸寺のご本尊は、公式には「千手観音」とされているにもかかわらず、実際の秘仏ご本尊は二臂(聖観音?)なのである。納得。

 でも愛らしいご本尊だなあ。ウエストが細く、左右に流れる長い天衣のせいで、フレアスカートをまとった貴婦人のようなシルエットに見える。看護婦さんの帽子のような冠も特徴的。お坊さんもおっしゃっていたが、法隆寺・夢殿の救世観音に少し似ている。胸の前で組み合わせた両手のかたちも救世観音に似ていなくもないが、救世観音が宝珠(のようなもの)を持っているのに対して、こちらは空手である。

 さて、本堂の隣りの宝物館に入ると、阿弥陀三尊像の右側、観音菩薩像が背中を向けて据えられている。実はこれ、衣の裾から覗くかわいらしい足の裏を鑑賞するための特別拝観。題して「観音様の足の裏を拝する会」。確かに愛らしいのだが、これってどうなの? もとの向きに戻したら、観音様の顔が怒ってたりして…と友人と囁き合う。

 JR宇治駅まで歩いて友人と別れ、最後に東寺の宝物館『東寺曼荼羅の美-マンダラワールド-』を見て、早めの帰途についた。

※東寺(教王護国寺):いつの間にか、カッコいいホームページが立ち上がっていた。
http://www.toji.or.jp/

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秋の文化財探訪(4):神話(奈良県美)、西方寺、大蓮寺、今熊野

2009-11-05 23:17:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
 2日目(11/2)の続き。正倉院展を見終わって、奈良県庁方面に向かう。木立を透かして興福寺の様子を窺うが、広い境内を覆う人の列。「お堂でみる阿修羅」は、アッサリあきらめる。

奈良県立美術館 平城遷都1300年祭プレ展示 特別展『神話~日本美術の想像力~』(2009年10月24日~12月24日)

 近代日本の洋画・日本画による神話画・歴史画を展示する企画。こちらも正倉院展期間中は無休であることを事前に確かめておいた。題材は国粋的だが、色濃く西洋美術の規範に影響されていて、そのアンバランスがものすごく面白い。ちょっと昨今の武将ブームに通じるものがあると思う。ヤマトタケルなんて、どの画家も勝手な空想でカッコよく描きすぎ。気に入ったのは、鈴木松年の『日本武尊・素戔嗚尊』(六曲二双屏風)、前田青邨の『小碓命』(女装したヤマトタケル)、菊池契月『浦島』三幅対など。寺崎広業の『大仏開眼』は、よく見ると、実在する正倉院御物をさりげなく描き込んであって面白い。奈良滞在はこれにて切り上げ。

■西方寺(京都市左京区東山二条)

 再び京都に戻り、非公開文化財特別公開(2009年10月31日~11月8日)の気になる寺院を2つ回る。まずは、重文・阿弥陀如来座像が初めて一般公開されている西方寺(東山二条)。白河天皇により建立された法勝寺の遺仏と伝えられているそうだ。円形の光背は小さな化仏が隙間なくびっしり並ぶ珍しいもの。その上に大きめの化仏十三体が配されている(光背は時代不詳)。(→京都新聞 2009/10/31記事

大蓮寺(京都市左京区東山二条)

 西方寺から、寺町の路地を5分ほど歩くと、大蓮寺がある。洛陽観音第八番の十一面観音菩薩、本尊安産阿弥陀如来、夜叉神明王など、多数の仏像を公開。祇園社(八坂神社)の本地仏だったとされる重文・薬師如来は初公開。奈良・元興寺や京都・神護寺と同系統の、肉厚で逞しい薬師如来立像である。平安初期。

■西国第十五番 真那智山観音寺(今熊野)(京都市東山区)

 今月からご開帳の始まった今熊野観音寺へ。泉涌寺、月輪御陵に接し、森閑とした境内は、そろそろ紅葉が始まりかけていた。ご本尊は左手に水瓶を持ち、長い右手を垂らした十一面観音菩薩。本堂内は、わりとほったらかしなので、ゆっくり拝観することができる。

 先だって友人から「今熊野に行くなら即成院も忘れずに」というメールを貰っていたので、最後に泉涌寺門前の即成院に立ち寄る。ご本尊は、ちょっと眠たげな藤原仏の阿弥陀如来。周囲を、楽器を携えた二十五菩薩が取り囲む。参拝客がまばらで静かな境内に比べて、本堂の中が賑々しいのが可笑しい。

 この日も不安定な天気だったが、夕方になって、急激に気温が低下。11月下旬から12月上旬の寒さとなり、震えながらホテルに逃げ込む。
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秋の文化財探訪(3):正倉院展(奈良博)+『吉備大臣入唐絵巻』帰還!

2009-11-04 22:59:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 御即位二十年記念『第61回 正倉院展』(2009年10月24日~11月12日)

 文化財探訪ツアー2日目。土曜出勤分を11/2(月)にまわしてのオフである。いつもは、月曜に振替休を割り当てられると涙目なのだが、今回に限っては大歓迎(正倉院展は会期中無休)。正倉院展へは8年間皆勤だが、平日に来たのは初めてかもしれない。8時前に行って、いちばん内側の列に並ぶ。

 奈良博のホームページで「正倉院展」の詳細を見ると「開館:9時」となっているが、通常メニューの「利用案内」に「開館:午前9時30分(その他に臨時に開館時間を変更することがあります)」とあるのは、ちょっと不親切だと思う。さて、この日は、やや観客の出足が遅いように感じたが、8時40分頃には、列も三列に折れ曲がり、例年の土日とあまり変わらない状況になってきた。

 8時50分頃、開場。すばやく状況を判断して、ガラスに張り付かないと鑑賞できない光明皇后御書『楽毅論』に飛びつく。王羲之の臨書としては最高級と言われるそうだが、むしろ私は、女性である光明子が、本書のような名将・名政治家論を、どんな関心で写していたのかが気にかかる。

 続いて、今年の呼びもの『紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)』へ。裏面の木画も美しいが、表面=捍撥(かんぱち)の狩猟宴楽図がいいなあ。はじめは馬が1、2頭しか見えないが、目が慣れてくると、遠景・中景・近景に大勢の人々が描き分けられているのが分かってくる(でも、遠景の山陰に立ち上がっている虎の姿は、図録写真で、やっと発見した!)。隣りの『琵琶袋残欠』も美しかった。軽やかなターコイズブルーの地色、ぽってりした花文は、唐美人をいろどるのにぴったり。会場には、昭和27年に芝祐泰(しば すけひろ)氏がこの琵琶を演奏したときの録音が流れていた。「第4弦開放」「第4弦第4の柱(じゅう)」…という感じで、1音1音、確かめるように鳴らしていらした。

 と、ここで、ぼんやり足止めを食っているうちに、周囲は人で埋まってしまった。前方に戻ることはあきらめて、とりあえず前へ。西新館の冒頭で待っていた逸品が、見返り鹿の姿を打ち出した『金銀花盤』。直径60センチを超え、想像以上に大きい。それにしてもヘンな鹿だなあ。頭上に載っているのは蓮の花だろうか。図録解説には、唐代の工芸にしばしば登場するとあるが、思い当たらない。金平糖のような金の鋲であらわされた紅葉にも注目。外縁の瓔珞が、とびきり美しいが、これは明治時代の新補だそうだ。

 ほか、面白かったのは『十二支彩絵布幕』、四神を浮き彫りにした『白石鎮子』など。5件出ていた伎楽面は、裏側からも覗くことができて、なるほど、鼻にも穴を開けるんだな、とヘンなところに感心した。今年は「御即位二十年記念」のサービスなのか、見た目の華やかな工芸品の出品が多くて、その分、古文書が少ないような気がした。あと、平日は、小学生の団体なんかも来るんだなあ。何も見られなくて可哀相だと思う。

↓ついに出た、正倉院展オリジナルスイーツ「碁石貯古齢糖(ちょこれいと)」。ただし、モデルになった『木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)(碁盤)』と『撥鏤棊子(ばちるのきし)(碁石)』は、今年は出ていない。2005年に出陳されているので、構想4年をかけて開発されたのかな?(※11/7補記:今年出ている碁盤は『桑木木画棊局(くわのきもくがのききょく)』)


 最後に、個人的には、正倉院の感動も吹っ飛ぶ大ニュースを仄聞。来年4月から始まる平城遷都1300年記念『大遣唐使展』に、なんと、ボストン美術館所蔵『吉備大臣入唐絵巻』が帰ってくるというのである!

 奈良博のサイトには、全く情報がないので、何が目玉になるんだか、見当もついていなかった。そうしたら、正倉院展の会場で、隅のほうに、ひっそり置かれたチラシに曰く、「伝説の絵巻、ついに帰還。」…え、え、え~!! 私は、自分の目を疑った。またチラシに採用されている絵が、地味な場面なのだ。船上の吉備真備の姿も、よく見えないし…。奈良博、50年に1度のGJ!と申し上げてよろしかろう。10年くらい前、同じくボストン美術館所蔵の平治物語絵詞『三条殿夜討巻』が名古屋に里帰りしたときは、期間は短かったが、全部開いて見せてくれたと記憶する。今回はどんな公開方法になるんだろう? 続報が待ち遠しい。
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秋の文化財探訪(2):冷泉家住宅特別公開を見る

2009-11-03 22:37:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
 11/1(日)冷泉家住宅の特別公開を見に行った。毎年、この時期に公開されているのは知っていたが、期間が短いので、なかなか機会がなかった。しかし、今年は『冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展』に感激して、どうしても行きたくなったのである。

 表門の四隅に乗る玄武。それぞれ表情が違う。塀の外側(正面は御所)を向いているものは端然と構えているが、内側を向いているものは、後ろ足を跳ね上げたりして、やんちゃ。



 台所土間→玄関→三間続きのお座敷を拝見。台所の奥に白壁の蔵が見えたので、あれが御文庫!?と興奮したが、あとで聞いたら「台所蔵です」とのこと。表門正面の玄関には、目隠しのため、「立蔀(たてじとみ)」が据えられている。へえ~中国の伝統住宅でいう照壁みたいだ。※「立蔀」で画像検索すると、冷泉家住宅しか出てこないようだが、他にあるのだろうか?



 いちばん格の高い「上の間」の座敷。部屋の中心に床の間がしつらえてあるのは、左右対称に客人が並んで、歌合せ等の行事に使用することを想定したから、という。なるほど。襖に無季の唐紙を使用しているのも、歌詠みの邪魔にならない配慮。庭には右近の梅(桜ではない)と左近の橘が植わっている。

 最後に見せていただけるのが、御文庫(おぶんこ)。これぞ、天明の大火(1788)で冷泉家住宅が炎上したときも、累代のお宝を守った奇跡の土蔵である。火事になったときは、屋根は内部に叩き落として、上から土をかけてしまうらしい。だから『芸術新潮』11月号の山口晃さんの絵「御文庫は残った」で、屋根が残っているのは、ちょっと間違いである。奥は江戸期以降の文書類を収める御新文庫(おしんぶんこ)。



 この御文庫、元和以来、ずっとこの地に建っているのだそうだ。東京都美術館で展示中の国宝・重文の典籍類も、普段はこの蔵で保管されている。何度か外壁の補修はしているが、空調設備は、いまも全く取り付けられていないとのこと。むかし、韓国の海印寺でも高麗大蔵経の版木を保存するのに、最新式の収蔵庫に移したらカビが発生してしまったので、もとの蔵に戻したという話を聞いたことがあるけど…。

↓小さな小さな通気口。


↓雨よけ?日よけ?


 学生ガイドさんが分からないような、詳しいことをいろいろ教えてくれたのは、仮設の売店にいた女性の方(冷泉家の関係者の方でしょうか)。「東京の展覧会、見に行きました」とお話したら「どうでした? 本ばっかりだったでしょ」と、ちょっと心もとなげな表情をされた。「とっても良かったです。展示替えがあるので、また後期も行く予定です」と申し上げたら、大変喜ばれて「じゃあ、割引券が1枚あるから」と私に下さったのには恐縮してしまった。無駄にしないで、必ず使わせていただきます。
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