○内田樹『日本辺境論』(新潮選書) 新潮社 2009.11
久しぶりの内田センセイの本。今度は日本論だ。日本人固有の思想や行動は、その辺境性によって説明できるというのが本書の趣旨である。このテーゼ自体は、内田樹の読者にはおなじみのものだ。たとえば『街場の中国論』(2007)は、「辺境」の対概念である「中華」の代表格・中国を論じたものである。同書の「中華とはこういうものだ」という論じ方には、どこか本質を掴み切れずに、まわりを撫ぜ回しているような焦燥感があったが、本書には、実に生き生きと「辺境とは何か」が語られている。その比較だけでも、ああ、やっぱり私たちは辺境人なんだな、と思ってしまう。
辺境人は、絶えずきょろきょろと新しいものを外界に求めている(丸山真男の言葉)。利害の異なる他者と遭遇したときは、とりあえず「渾然一体」の融和的な関係をつくろうとする。当為に基づいて国家像を形成することができず、他国との比較でしか自国を語れない(そうそう、ランキング大好き)。「虎の威を借る狐」には「虎として何がしたいのか」を言うことができない。…という調子で、全く右翼も左翼もそのとおりだ、と頭を抱えてうなずくしかないような指摘が並んでいる。しかし著者は、臆することなく、「こうなったらとことん辺境で行こうではないか」と提案する。
辺境人にもいい点はある。「起源からの遅れ」を自覚している辺境人は、「なんだかわからないけれど、この人についていこう」という態度で学び始めることができる。努力と報酬の相関性を前提にしない、ほとんど無防備に開放的な「学び」の構えは、非常にパフォーマンスが高い。ひとたび「学び」の構えができた者は、愚者からも悪人からも、豊かな知見を得ることができる。そうだな。そして、このことは国と国の比較だけでなく、もう少しミクロな場面にも応用できそうな気がする。個人的感慨であるが、私は社会人になって以降、「辺境人」の経験が長い。それでも、なんとかやってこられたのは、まさに「学ぶ力」だけが資本だったような気がする。
「学び」とは、その意味や有用性を知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことが重要であると確信することから始まる。つまり「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」である。これも内田センセイの教育論では、たびたび語られてきたテーゼだ。よく似たことをカントやヘーゲルやハイデガーも言っているのだが、彼らの言い回しは、どこか「腰の引け方」が足りない、と著者は言う。西欧の哲学者は、「学び=先駆的に知る力」を説明するのに、「不可視の設計図」「胎児の成長」「もともとあったすがたへ還っていく」などの比喩を使う。これらは、自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観になじんだ精神にとっては違和感のないものだが、「自分は世界の端にいる」という自己規定をもつ人間は、このような人間観を持たない。もっと切迫した欠落の感情から「学び」のシステムを起動させるものである。
ここも面白い。私は、10~20代の頃、それなりに西欧哲学やキリスト教も読んでみたものの、どこか決定的な違和感があって、のめりこめなかった。やっぱり日本倫理思想のほうが好きだ。それは、西洋人の中華思想=自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観に同調できなかったからだ、と気づいた。では、中国にはその厭味がないかというと、あの国は政治的には徹底した中華思想だが、形而上学はそうでもない。たぶん、仏教がインドから入ってきたという記憶があるせいだろう。

辺境人は、絶えずきょろきょろと新しいものを外界に求めている(丸山真男の言葉)。利害の異なる他者と遭遇したときは、とりあえず「渾然一体」の融和的な関係をつくろうとする。当為に基づいて国家像を形成することができず、他国との比較でしか自国を語れない(そうそう、ランキング大好き)。「虎の威を借る狐」には「虎として何がしたいのか」を言うことができない。…という調子で、全く右翼も左翼もそのとおりだ、と頭を抱えてうなずくしかないような指摘が並んでいる。しかし著者は、臆することなく、「こうなったらとことん辺境で行こうではないか」と提案する。
辺境人にもいい点はある。「起源からの遅れ」を自覚している辺境人は、「なんだかわからないけれど、この人についていこう」という態度で学び始めることができる。努力と報酬の相関性を前提にしない、ほとんど無防備に開放的な「学び」の構えは、非常にパフォーマンスが高い。ひとたび「学び」の構えができた者は、愚者からも悪人からも、豊かな知見を得ることができる。そうだな。そして、このことは国と国の比較だけでなく、もう少しミクロな場面にも応用できそうな気がする。個人的感慨であるが、私は社会人になって以降、「辺境人」の経験が長い。それでも、なんとかやってこられたのは、まさに「学ぶ力」だけが資本だったような気がする。
「学び」とは、その意味や有用性を知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことが重要であると確信することから始まる。つまり「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」である。これも内田センセイの教育論では、たびたび語られてきたテーゼだ。よく似たことをカントやヘーゲルやハイデガーも言っているのだが、彼らの言い回しは、どこか「腰の引け方」が足りない、と著者は言う。西欧の哲学者は、「学び=先駆的に知る力」を説明するのに、「不可視の設計図」「胎児の成長」「もともとあったすがたへ還っていく」などの比喩を使う。これらは、自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観になじんだ精神にとっては違和感のないものだが、「自分は世界の端にいる」という自己規定をもつ人間は、このような人間観を持たない。もっと切迫した欠落の感情から「学び」のシステムを起動させるものである。
ここも面白い。私は、10~20代の頃、それなりに西欧哲学やキリスト教も読んでみたものの、どこか決定的な違和感があって、のめりこめなかった。やっぱり日本倫理思想のほうが好きだ。それは、西洋人の中華思想=自分たちが「世界の中心」であるという宇宙観に同調できなかったからだ、と気づいた。では、中国にはその厭味がないかというと、あの国は政治的には徹底した中華思想だが、形而上学はそうでもない。たぶん、仏教がインドから入ってきたという記憶があるせいだろう。