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見もの・読みもの日記

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言葉足らずの倫理感/1968〈上〉(小熊英二)

2009-11-11 00:02:13 | 読んだもの(書籍)
○小熊英二 『1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景』 新曜社 2009.7

 本屋で見たときは、なんだよ、これ!と毒づきたくなった。上下巻それぞれ1,000ページを超える大作である。私は、はじめ、慎重に上巻だけを買って読み始めた。上下巻を買って、途中で投げ出したらお金のムダだと思ったからだ。しかし、それは全くの杞憂だった。面白い。ページをめくってもめくっても、むちゃくちゃ面白いのである。

 「あの時代」の若者たちの反乱とは何だったのか。上巻は、「あの時代」のクライマックス、1968年に向かって、時代的・世代的背景から、ゆっくりと立ち上がっていく。まるで長編小説の冒頭のようだ。彼らの少年時代、日本はまだ貧しい発展途上国だった。けれども教師たちは理想に燃え、平和への願いと民主主義教育の理念を教え子に注入した。それが、1960年に始まる高度経済成長によって激変する。「あの時代」の反乱は、「新しい変化に反発する倫理感と、新しい変化を歓迎したい欲望の双方をふくんだ、アンビヴァレントなものだった」というのは、第1章の冒頭に置かれた、本書のテーマの総括である。

 特に前段の「新しい変化に反発する倫理感」という読み解きを、私は新鮮に感じた。当時、経済界の要請に合わせて、大学を人材育成機関に再編しようとする文部省・大学側の「産学協同」路線(心に日の丸、手に技術)に対して、学生たちは「大学は真理探求の場」という「保守的」な大学観に基づいて反発したのである。常に年長世代が、より「保守的」とは限らないわけだ。

 本書は、具体的に「あの時代」の反乱の始まりを、65年1月の慶大闘争に求め、早大、横浜国大、中大闘争を経て、67年10月からの「激動の七ヶ月」(羽田、佐世保、三里塚、王子野戦病院闘争)、そして日大と東大闘争を記述する。わずか5年足らずの間に、若者たちの反乱の内実は大きく変容する。また、大学による差異も大きく、一括りに「あの反乱」と呼ぶことの危うさを教えてくれる。「激動の七ヶ月」の記述には、正直言って泣けた。

 営利優先の独裁経営、明らかな人権抑圧に抵抗した日大の民主化闘争も分かりやすい。この場合、「進歩的」な学生たちの反乱は、旧態依然の「家族主義」大学経営が、新しい時代に適合しなくなっていたことを示したと言える。しかし、日大で萌芽的にあらわれた、闘争に「主体性の回復」や「生のリアリティ」を追求する態度は、次の東大全共闘で、とんでもなく先鋭化していくことになる。いや、東大闘争も、そもそもは医学部卒業生の身分保障という具体的な問題が出発点だった。それが、次第に観念化し、混乱を極めていく。正直なところ、どこに闘争の目的があるのか、どう共感し、寄り添えばいいのか、残された資料の字面だけを追っていく限り、サッパリ見当がつかない。

 著者は本書の冒頭で、「あの時代」を英雄物語として描くつもりはない、ということを断っている。しかしながら、私の見るところ、東大全共闘のメンバーが感じていたであろうアイデンティティ・クライシス=「現代的不幸」(※具体的な欠乏に基づく「近代的不幸」とは質的に異なる)、求めるものを正確に言い表せない苛立ちに対して、ずいぶん同情的である。私は、著者の同情的記述がなかったら、こんな馬鹿馬鹿しい闘争に、読者として、とても最後まで付き合えなかったんじゃないかと思う。こう言うと、当事者世代には不満だろうけど。でも、少なくとも、当事者のひとり、島泰三氏が書いた『安田講堂1968-1969』(中公新書、2005)なんかより、レイトカマーの著者が書いた本書のほうが、広汎な読者に訴える魅力を持っていることは確かだと思う。

 いま、東大闘争以降を記述する下巻を読み始めているが、ずいぶん趣きが異なる。実際の時代の雰囲気も、こんなふうに鮮やかに転換したのだったかな。
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