見もの・読みもの日記

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京都工芸の近代/津田青楓:図案と、時代と、(松濤美術館)

2022-08-02 23:10:58 | 行ったもの(美術館・見仏)

渋谷区立松濤美術館 『津田青楓:図案と、時代と、』(2022年6月18日~8月14日)

 明治30年代に京都で多くの図案集を出版し、大正時代には夏目漱石(1867-1916)の本の装幀も手がけた津田青楓(1880-1978)を軸に、図案集と図案に関する作品を紹介する。津田青楓については、2020年の練馬区立美術館『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』も記憶に残る展覧会だったが、本展はまた異なる切り口で構成されていた。

 第1会場(3階)では、青楓初期の図案集から装幀の仕事を紹介する。その中に、いかにも江戸琳派ふうというか、神坂雪佳ふうの作品があるなと思って見ていたら、そもそも青楓は「当時神坂雪佳なる人の図案世にもてはやされければ、われこれしきのこと、かけぬことなし」と思い立って二条寺町の本屋に持ち込んだ図案集を、本屋の主人が気に入って買い取り、出版に至ったのだという。

 それから青楓はパリに留学し、ヨーロッパの美術やデザインを学び、個性と創意にあふれたデザイン=図案作品を次々に創り出していく。フランス刺繍もあり、朝鮮民画のような描き更紗もあり。小宮豊隆の言葉「津田にとつては、かきたい時にかきたい事をかきたい様にかいてゐさへすれば、それが日本画になつてゐやうが西洋画になつてゐやうが、画になつてゐやうが図案になつてゐやうが、そんな事はどうでも可い事なのである」は、とても腑に落ちた。そして、やはりこの時期(明治・大正)の青楓の仕事といえば装幀、特に漱石本の装幀である。年長の漱石との気の置けない交流の跡を示して、第1会場は終わる。

 第2会場(地下1階)は、青楓が生まれ育った京都における「工芸の革新」に焦点をあてる。たとえば京友禅の呉服店でも、職人の仕事とされてきた図案制作が、明治中期には画家が積極的に携わる仕事に変化していった。展示ケースに並んだ、江戸時代の小袖見本帳『ひいながた』や明治の図案集は、呉服店(株)千總の所蔵品で、ものによっては「貴」(貴重資料)のラベルが貼ってあった。『若冲図譜』は千總の所蔵品ではなかったが、明治の京都工芸界では図案集として参照されていたという指摘が面白かった。

 京都工芸繊維大学からも多数の資料が出品されていた。そうか、前身は京都工業専門学校と京都繊維専門学校なのだな。明治末年にフランス留学から帰国した浅井忠は、京都高等工芸学校で後進の育成に当たった。京都工芸繊維大学美術工芸資料館は、当時の生徒作品(図案や絵画など)を多数所蔵しているようだ。

 浅井忠の図案を数々の蒔絵作品に仕立てた蒔絵師・杉林古香は、津田青楓の古い友人・浅野古香の別名である。このへん、練馬区立美術館の展示でも、当然、取り上げられていたはずだが、すっかり忘れていた。また、青楓の日本画の師匠は、京都美術学校(現・京都市立芸術大学)の教諭になった谷口香嶠(たにぐち こうきょう)である。京都市立芸術大学芸術資料館から、香嶠の購入した「書籍費及参考品費精算書」が出ていて、アーカイブ好きには興味深かった。

 青楓の図案集出版を手伝った寺町二条の本屋は「山田芸艸堂」である。のち「本田雲錦堂」と合併して、現在の芸艸堂(うんそうどう)に至る。本展には、芸艸堂所蔵の貴重資料も多数展示されている。このほか、笛吹市青楓美術館(青楓と親交のあった歴史研究家が設立)、佐倉市立美術館(浅井忠は佐倉出身)、漱石山房記念館、京都国立近代美術館など、官民のさまざまななアーカイブ、ミュージアムの資料が集められているのを感慨深く眺めた。

 しかし、漱石没後も青楓は長い長い激動と苦難の時代を生き続けるのだ。そのことをあたらめて思い出した。彼は、晩年は図案の仕事をしていたんだっけ? どうだったかな。

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