見もの・読みもの日記

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軍を率いた文官/曽国藩(岡本隆司)

2022-08-28 23:58:18 | 読んだもの(書籍)

〇岡本隆司『曽国藩:「英雄」と中国史』(岩波新書) 岩波書店 2022.7

 曽国藩(1811-1872)の名前は、たぶん高校の世界史で習ったと思う。また、大学の一般教養で選択した「歴史学」の講義が、たまたま太平天国をテーマにしていたので、曽国藩の事蹟はかなり詳しく聴いたはずだ(あのときの女性講師はどなただったんだろう?講義は面白かったのに先生の名前を覚えていない)。

 私は、その後、小説やドラマを通して中国近代史に接するようになったが、弟子の李鴻章に比べると、師匠の曽国藩の登場作品は少なく、あまり形象化されていないように思う。それもそのはず、著者によれば、曽国藩は「位はほぼ人臣を極め」「とびっきりの秀才・傑物ではある」が、「容姿風采、物腰性格もごく地味」で「気後れしつつコツコツ・マジメに努め、たえず反省を怠らない」「およそ田舎者に共通するタイプ」だという。ひどい人物評(笑)。まあ、これでは小説やドラマで印象深い役柄にはならないだろう。

 はじめに著者は、18世紀の中国が繁栄と人口爆発の時代であったこと、しかし清朝の統治機構は時代の変化に対応する拡大・改編をしなかったこと、その結果、19世紀初めの中国は、治安悪化と武装化が進み、「匪賊の国」となっていたことを述べる。曽国藩が生まれた湖南省は、後進的で貧しい地域だったため、湖南人といえば不屈の「命がけ」が人口に膾炙していた。

 曽国藩は、30歳(数え)で科挙に合格し、以後、中央官僚として順調に出世を重ねていく。一方、南方では洪秀全率いる上帝会(のちの太平天国)が1851年に武装蜂起し、清朝政府と交戦状態に入る。1852年、42歳の曽国藩は郷試の主任試験官として江西省へ向かう途中、母の訃報を受け、湖南省の実家に直行する。本来なら三年の喪に服すべきところ、咸豊帝から、湖南の「団練」を編成指揮し、匪賊を捜査するよう勅命が下る。

 そこで曽国藩は、湖南全域の紳士(郷紳)に丁寧な呼びかけを行う。いちいち自著した書翰を送ったというのがポイント。岳飛の言葉を原典にした「不要銭、不怕死」のスローガンも巧い。そして湘軍を組織し、「粤匪」すなわち太平天国と激突することになる。しかし曽国藩は文官である。アジテーションの文才はあっても、実戦の経験や用兵の才は全くない。緒戦で大敗し、逃げ出す兵卒に激怒し、絶望のあまり湘江に飛び込んで自殺未遂事件を起こしてしまう。のちに天子に宛てて、自分の不甲斐なさを切々とつづり、謝罪する上奏文も残っているという。専門外の仕事に借り出された不幸とはいえ、こんなに情けないおじさんだったとは…。

 その後も敗戦が相次いだが、なぜか湘軍は瓦解しなかった。困苦欠乏に耐えうる湖南人の気質に加え、曽国藩が徹底して私的な縁故関係で組み上げた組織なので、上下の信頼感が強かったからだろうと著者は推測する。湘軍は、既成の官軍やほかの団練・郷勇よりも、信仰でまとまった太平天国軍に似ていたという指摘が興味深い。

 清軍と太平天国軍の戦闘は14年に及んだ。精鋭をうたわれた湘軍も、次第に人的資源の枯渇と弛緩・劣化が目立つようになり、曽国藩は幕僚の李鴻章(1823-1901)に命じて新たな軍隊「淮軍」を結成させる。李鴻章・左宗棠の活躍により孤立化した天京(南京)は、1864年、曽国藩の弟・曽国荃の軍の猛攻(略奪・殺戮を含む)によって陥落し、ついに太平天国は滅亡した。

 清朝政府は、戦災からの国土復興に加え、新たな反乱「捻軍」の鎮圧、列強との外交、「洋務」の導入、教会襲撃事件(教案)の処理など、数々の課題に取り組まなければならなかった。この過程で、曽国藩と李鴻章の立場が逆転していく。この二人は12歳差だが、ちょうど時代が大きく動く転換点のためか、または持って生まれた性質のためか、年齢差以上に曽国藩は旧時代の人、李鴻章は新時代の人、という感じがある。

 曽国藩の死後、李鴻章は師の顕彰に尽力した。もちろん亡き師への尊崇・追慕の念に発する行為と思われるが、曽国藩の正しい後継者として自らを位置づける政治的アピールだったとも解しうる、という著者の見方は、なかなか穿っている。蒋介石や梁啓超が曽国藩に傾倒したというのは、著者の説明を読むと腑に落ちる(蒋介石は李鴻章には批判的だった)。人の評価は、棺を蓋いて定まるというけれど、全然そうではなくて、時代とともに二転三転するのが、政治的人物の面白さである。

 岡本先生、これで「李鴻章」「袁世凱」「曽国藩」の三部作をものされたわけだが、ええと、康有為とかどうですかね。梁啓超はちょっと違うかなあ…。西太后も読みたいなあ。

コメント (2)
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