○橋本治『双調 平家物語』8~10(中公文庫) 中央公論新社 2009.11-2010.1
『双調 平家物語』5~7の続き。この3冊は「保元の巻(承前)」(8)「平治の巻」(9,10)で、二つの合戦をたっぷり描き、「平家の巻」(10)の冒頭が少し入る。いや~堪能した! 心は800年前の平安京、戦乱の巷に飛んでいったまま、戻ってこない。21世紀に暮らす自分がかりそめの姿に思えて、うつけた状態が続いている。
7巻まで読んで「ここまで源氏も平家も、武士はほとんど登場しない」と書いたのは嘘ではない。8巻「保元の巻」に至って、ようやく武士たちが、どやどやと現れる。が、その前に信西入道(藤原/高階通憲)である。
著者は、この複雑な時代を描くために、ところどころ複線的な歴史叙述を取り入れている。たとえば、摂関家の家系に従ってストーリーを進めながら、藤原氏傍流の重要人物が現れると、六条家とは、葉室家とは、というのを、数代さかのぼって説明する。同様に、信西についても、実父・藤原実兼が大江匡房に嘱望されて『江談抄』を筆記した人物であったことがまず語られ(おお、知らなかった!)養子先の高階家を語って、平安中期の中関白家・隆家までさかのぼる。
武士についてもまた、六十を越えた源為義の登場に際し、祖父・義家以来の清和源氏の不遇と不穏が語られる。その合わせ鏡のような伊勢平氏の栄達も平正盛以来、積み重ねられてきたものだ。こうして、それぞれの家系と歴史を背負った人々が集まって、「今、このとき」の物語が生み出される。これは、小説としては、厚く重ねたミルフィユみたいに濃厚な味わいが期待できるが、よほど上手くやらない限り、映像ドラマには向かない時代だと、しみじみ思った。すべての関係者を基本的に同一時系列で描き出そうとしたら、たちまち大混乱になってしまうだろう。
保元の乱の描写は、原資料(軍記物語)の文体をかなり忠実に利用しているように思われる。可笑しいのは、「女帝の巻」までに描かれた古代の戦いでは、じゅうぶん近代小説的な心理描写・戦闘描写を用いていたのに、保元の乱になったら、急に登場人物たちが「名乗り給え、承らん!」「死んで後生の功名とせい!」などとアナクロニックな科白を話し始めたこと。ええ?と呆然とした。
平治の乱では、そのあたりを少し軌道修正して、当時の物言いを残しながら、近代小説的な、自由で緊張感のある描写を増やしているように思う。大内裏を捨てて討って出た義朝・義平勢が、引くと見せかけた平氏の大軍を混乱に陥れ、市中乱戦となる次第は、すばらしく読み応えがある。特に、逃げる重盛と追う悪源太義平の、手に汗握る熾烈な戦い。御所の庭で「左近の桜、右近の橘の周りを七八度まで追い回した」というのは『平治物語』にあっただろうか(私は学習マンガで読み覚えた記憶あり)。本作は、この伝承を採らず、市中の五条堀川あたり(「材木の商人(あきんど)達が軒を並べている」という描写あり)で、両者がぶつかり合う様子を描いている。
やっぱり合戦は馬だなー。十数人の歩兵が千人に敵するというのはフィクションにしか思えないけれど、騎馬武者なら、十騎に足らぬ一隊が千騎を蹴散らすというのもあり得ないことではあるまい、と思う。一瞬のスピードに勝って距離を詰めれば、迎え撃つ側は矢を放てなくなってしまうのだ。轟く蹄の音が聞こえてきそうな悪源太と郎党たちの奔放自在な奮戦ぶりに、私は北方謙三さんの『楊家将』を思い出した。あちらの舞台は朔北の荒原、こちらは市中の大路小路だけど。
そして、やっぱり鎮西八郎為朝はいい! 惚れ直した。わずかな事蹟しか伝わらないのに、後世の人々がこの武者を愛おしんで、とびきり楽しい伝説に育てた気持ちはよく分かる。敗れても、ヤマトタケルや源義経のような悲劇の主人公に昇華せず、流刑地でしぶとく生き延び、暴れまわるところが、日本の英雄には珍しいと思う。私は、かつて子ども向けにリライトされた『椿説弓張月』が大好きだったのだ。また読み直したい。
登場人物の勇姿は、昨年の大河ドラマ『平清盛』をあてはめると、だいたい合っている。幽閉されて高笑いしている後白河上皇とか、落ち着き払った上西門院統子さまとか。ただ、清盛だけは、まだ全貌が見えない。大河ドラマとも『新・平家物語』の高平太とも、かなり違った角度から描いていくつもりではないかと思われる。さあ、次の巻に進もう。
※参考:曲亭馬琴作品コーナー(主に椿説弓張月)
私の愛読書は小学館の『少年少女世界の名作文学』だったので、たぶんこれ。
『双調 平家物語』5~7の続き。この3冊は「保元の巻(承前)」(8)「平治の巻」(9,10)で、二つの合戦をたっぷり描き、「平家の巻」(10)の冒頭が少し入る。いや~堪能した! 心は800年前の平安京、戦乱の巷に飛んでいったまま、戻ってこない。21世紀に暮らす自分がかりそめの姿に思えて、うつけた状態が続いている。
7巻まで読んで「ここまで源氏も平家も、武士はほとんど登場しない」と書いたのは嘘ではない。8巻「保元の巻」に至って、ようやく武士たちが、どやどやと現れる。が、その前に信西入道(藤原/高階通憲)である。
著者は、この複雑な時代を描くために、ところどころ複線的な歴史叙述を取り入れている。たとえば、摂関家の家系に従ってストーリーを進めながら、藤原氏傍流の重要人物が現れると、六条家とは、葉室家とは、というのを、数代さかのぼって説明する。同様に、信西についても、実父・藤原実兼が大江匡房に嘱望されて『江談抄』を筆記した人物であったことがまず語られ(おお、知らなかった!)養子先の高階家を語って、平安中期の中関白家・隆家までさかのぼる。
武士についてもまた、六十を越えた源為義の登場に際し、祖父・義家以来の清和源氏の不遇と不穏が語られる。その合わせ鏡のような伊勢平氏の栄達も平正盛以来、積み重ねられてきたものだ。こうして、それぞれの家系と歴史を背負った人々が集まって、「今、このとき」の物語が生み出される。これは、小説としては、厚く重ねたミルフィユみたいに濃厚な味わいが期待できるが、よほど上手くやらない限り、映像ドラマには向かない時代だと、しみじみ思った。すべての関係者を基本的に同一時系列で描き出そうとしたら、たちまち大混乱になってしまうだろう。
保元の乱の描写は、原資料(軍記物語)の文体をかなり忠実に利用しているように思われる。可笑しいのは、「女帝の巻」までに描かれた古代の戦いでは、じゅうぶん近代小説的な心理描写・戦闘描写を用いていたのに、保元の乱になったら、急に登場人物たちが「名乗り給え、承らん!」「死んで後生の功名とせい!」などとアナクロニックな科白を話し始めたこと。ええ?と呆然とした。
平治の乱では、そのあたりを少し軌道修正して、当時の物言いを残しながら、近代小説的な、自由で緊張感のある描写を増やしているように思う。大内裏を捨てて討って出た義朝・義平勢が、引くと見せかけた平氏の大軍を混乱に陥れ、市中乱戦となる次第は、すばらしく読み応えがある。特に、逃げる重盛と追う悪源太義平の、手に汗握る熾烈な戦い。御所の庭で「左近の桜、右近の橘の周りを七八度まで追い回した」というのは『平治物語』にあっただろうか(私は学習マンガで読み覚えた記憶あり)。本作は、この伝承を採らず、市中の五条堀川あたり(「材木の商人(あきんど)達が軒を並べている」という描写あり)で、両者がぶつかり合う様子を描いている。
やっぱり合戦は馬だなー。十数人の歩兵が千人に敵するというのはフィクションにしか思えないけれど、騎馬武者なら、十騎に足らぬ一隊が千騎を蹴散らすというのもあり得ないことではあるまい、と思う。一瞬のスピードに勝って距離を詰めれば、迎え撃つ側は矢を放てなくなってしまうのだ。轟く蹄の音が聞こえてきそうな悪源太と郎党たちの奔放自在な奮戦ぶりに、私は北方謙三さんの『楊家将』を思い出した。あちらの舞台は朔北の荒原、こちらは市中の大路小路だけど。
そして、やっぱり鎮西八郎為朝はいい! 惚れ直した。わずかな事蹟しか伝わらないのに、後世の人々がこの武者を愛おしんで、とびきり楽しい伝説に育てた気持ちはよく分かる。敗れても、ヤマトタケルや源義経のような悲劇の主人公に昇華せず、流刑地でしぶとく生き延び、暴れまわるところが、日本の英雄には珍しいと思う。私は、かつて子ども向けにリライトされた『椿説弓張月』が大好きだったのだ。また読み直したい。
登場人物の勇姿は、昨年の大河ドラマ『平清盛』をあてはめると、だいたい合っている。幽閉されて高笑いしている後白河上皇とか、落ち着き払った上西門院統子さまとか。ただ、清盛だけは、まだ全貌が見えない。大河ドラマとも『新・平家物語』の高平太とも、かなり違った角度から描いていくつもりではないかと思われる。さあ、次の巻に進もう。
※参考:曲亭馬琴作品コーナー(主に椿説弓張月)
私の愛読書は小学館の『少年少女世界の名作文学』だったので、たぶんこれ。