○井波律子『中国の五大小説(下)水滸伝・金瓶梅・紅楼夢』(岩波新書) 岩波書店 2009.3
(個人的に)待望の下巻。昨年4月刊行の上巻が『三国志演義』『西遊記』を紹介したのに続き、下巻では『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』を扱う。『水滸伝』は『三国志演義』と同様、14世紀中頃の元末明初の成立だが、二百年あまりも写本の形で流通し、現存する最古のテキストが刊行されたのは、明末の万暦年間(1573-1620)であるという。『金瓶梅』は、万暦年間中頃の成立。20年ほどは写本で流通し、最古の刊本は万暦末から天啓年間の刊行。さらに150年後、18世紀中頃の清代に曹雪芹によって著されたのが小説『紅楼夢』である。こうしてみると「五大小説」が包み込む四百年間って、けっこう長い。日本でいえば『太平記』や『曽我物語』から近松・秋成までをカバーしている。
私は、きちんと全訳で読んだのは『三国』『西遊記』『水滸伝』まで。『金瓶梅』と『紅楼夢』は梗概しか知らない。これは、日本人には多いパターンではないかと思う。『水滸伝』は、魔星の生まれ変わりである百八人のアウトサイダーたちが、天衣無縫の活躍で悪徳官吏を打倒しつつ、天然の要害・梁山泊に集結する物語。たぶん中国で最も愛されている古典小説は、この『水滸伝』だと思う。逆に、あまりにも「盛り場演芸」的な残虐さ、アクの強さ、物語の粗雑さなど、日本人には受け入れがたいところが多いのではないか。
特に後半、勢揃いした梁山泊軍団が「招安」を受け(官軍となり)、敗戦を重ねて散り散りに退場していく姿(著者の表現を借りれば「整理事業団」さながら)は、どうしてこんな結末をつけたのか、本当に不思議だった。とは言え、この小説のよさは最終的な「悲壮凄惨の光景」までを描き切ったことにある、とする幸田露伴の見解に私は共感する。そうだ、忘れていたけれど、宋江は李逵を道連れにするんだよなあ。この無理無体な悲壮凄惨さが「侠」と呼ばれる倫理の極北なんだろうなあ。
『金瓶梅』は、『水滸伝』の倫理的潔癖さを「くるりと逆転」させた作品という著者の説明はとても分かりやすい。片や女性排除のストイックな男の世界であり、片や個性的な悪女が引きも切らずに登場し、欲望とエロスを貪婪に追求する新興商人の世界である。一種あっけらかんとした、不毛な欲望の暴発ぶりは、明末社会のアナロジーであるともいう。けれども、物語の中心に位置する西門慶に主体性がなくて、もっぱら、周りの登場人物が物語の魅力を担うという構造は、『水滸伝』の宋江、いや『演義』の劉備玄徳、『西遊記』の三蔵法師以来の伝統をきちんと踏まえているとも言える。その一方、『金瓶梅』は、前三者の「語り物文学」から、単一の作者による「書かれた小説」への離陸を果たしている点もあり、たかがエロ文学とあなどれないことがよく分かった。
『金瓶梅』を、さらに別の軸を使って反転させたところに成り立つのが『紅楼夢』である。主人公の賈宝玉を取り巻くのは、教養豊かな良家の女性たち。描かれる生活のディティールは、いずれも洗練の極み。このように見ると、3作品が互いを映す関係が見えてくるように思う。『紅楼夢』のストーリーは、端的に言ってしまえば「御曹司と薄幸の美少女の悲恋もの」だが、それだけでは済まない「恐るべき深さ、厚さ、複雑さ」を持った物語だという。その一端は、本書が取りあげた、グレート・マザーの賈母、大家族を仕切る王煕鳳、田舎育ちの劉姥姥などの造型からも窺うことができる。これが読まれるようになると、中国文化に対する日本人の見方もずいぶん変わるんじゃないかと思う。正直、とっつきにくいんだけどね。
(個人的に)待望の下巻。昨年4月刊行の上巻が『三国志演義』『西遊記』を紹介したのに続き、下巻では『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』を扱う。『水滸伝』は『三国志演義』と同様、14世紀中頃の元末明初の成立だが、二百年あまりも写本の形で流通し、現存する最古のテキストが刊行されたのは、明末の万暦年間(1573-1620)であるという。『金瓶梅』は、万暦年間中頃の成立。20年ほどは写本で流通し、最古の刊本は万暦末から天啓年間の刊行。さらに150年後、18世紀中頃の清代に曹雪芹によって著されたのが小説『紅楼夢』である。こうしてみると「五大小説」が包み込む四百年間って、けっこう長い。日本でいえば『太平記』や『曽我物語』から近松・秋成までをカバーしている。
私は、きちんと全訳で読んだのは『三国』『西遊記』『水滸伝』まで。『金瓶梅』と『紅楼夢』は梗概しか知らない。これは、日本人には多いパターンではないかと思う。『水滸伝』は、魔星の生まれ変わりである百八人のアウトサイダーたちが、天衣無縫の活躍で悪徳官吏を打倒しつつ、天然の要害・梁山泊に集結する物語。たぶん中国で最も愛されている古典小説は、この『水滸伝』だと思う。逆に、あまりにも「盛り場演芸」的な残虐さ、アクの強さ、物語の粗雑さなど、日本人には受け入れがたいところが多いのではないか。
特に後半、勢揃いした梁山泊軍団が「招安」を受け(官軍となり)、敗戦を重ねて散り散りに退場していく姿(著者の表現を借りれば「整理事業団」さながら)は、どうしてこんな結末をつけたのか、本当に不思議だった。とは言え、この小説のよさは最終的な「悲壮凄惨の光景」までを描き切ったことにある、とする幸田露伴の見解に私は共感する。そうだ、忘れていたけれど、宋江は李逵を道連れにするんだよなあ。この無理無体な悲壮凄惨さが「侠」と呼ばれる倫理の極北なんだろうなあ。
『金瓶梅』は、『水滸伝』の倫理的潔癖さを「くるりと逆転」させた作品という著者の説明はとても分かりやすい。片や女性排除のストイックな男の世界であり、片や個性的な悪女が引きも切らずに登場し、欲望とエロスを貪婪に追求する新興商人の世界である。一種あっけらかんとした、不毛な欲望の暴発ぶりは、明末社会のアナロジーであるともいう。けれども、物語の中心に位置する西門慶に主体性がなくて、もっぱら、周りの登場人物が物語の魅力を担うという構造は、『水滸伝』の宋江、いや『演義』の劉備玄徳、『西遊記』の三蔵法師以来の伝統をきちんと踏まえているとも言える。その一方、『金瓶梅』は、前三者の「語り物文学」から、単一の作者による「書かれた小説」への離陸を果たしている点もあり、たかがエロ文学とあなどれないことがよく分かった。
『金瓶梅』を、さらに別の軸を使って反転させたところに成り立つのが『紅楼夢』である。主人公の賈宝玉を取り巻くのは、教養豊かな良家の女性たち。描かれる生活のディティールは、いずれも洗練の極み。このように見ると、3作品が互いを映す関係が見えてくるように思う。『紅楼夢』のストーリーは、端的に言ってしまえば「御曹司と薄幸の美少女の悲恋もの」だが、それだけでは済まない「恐るべき深さ、厚さ、複雑さ」を持った物語だという。その一端は、本書が取りあげた、グレート・マザーの賈母、大家族を仕切る王煕鳳、田舎育ちの劉姥姥などの造型からも窺うことができる。これが読まれるようになると、中国文化に対する日本人の見方もずいぶん変わるんじゃないかと思う。正直、とっつきにくいんだけどね。