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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

対決、出雲寺vs須原屋/江戸の武家名鑑(藤實久美子)

2008-07-20 23:44:35 | 読んだもの(書籍)
○藤實久美子『江戸の武家名鑑:武鑑と出版闘争』(歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館 2008.6

 「武鑑」とは何か。大名家や旗本家について、系図・紋所・江戸上屋敷の場所・当主の名前・妻・家族・家臣・参勤交代の期日などなど、さまざまな情報を集めたダイレクトリー(総覧)である。著者の冒頭の言「武鑑は『プロ野球選手名鑑』に似ている」というのが、いちばん分かりやすいかも知れない。著者は、昭和59年(1984)、大学三年の夏、卒業論文の準備を進める中で、東大総合図書館の「鴎外文庫」(森鴎外の旧蔵書)に含まれる、多数の武艦コレクションに出会う。以来、全国各地の文庫や図書館が所蔵する武艦を渉猟して今日に至るという。

 実は、私も「鴎外文庫」の武艦コレクションには目を通したことがある。しかし、正直なところ、近世史の素人には、これがどういう意味を持つ資料なのか、サッパリ分からなかった。「武艦とは何か」を簡単明瞭に教えてくれる人物も周囲にいなかったし、今、ネットで「武艦」を検索してみても、その答えは見つからないようである。本書に出会って、ようやく長年の疑問が氷解したうように思う。

 最も古い武艦は、寛永20年(1643)刊行の『御大名衆御知行十万石迄』にさかのぼる。徳川体制初期、社会状況はまだ定まらず、日々の人事異動が繰り返される中で、大名たちは、幕府諸役人やほかの大名家と円滑な交渉を行うため、正確な人事情報を必要としたのである。同種の出版は『御紋づくし』『江戸鑑』などと書名を変え、収載情報やレイアウトも、試行錯誤を重ねて整えられていく。貞享2年(1685)松会板『本朝武艦』が、初めて「武艦」を用いた(松会(まつえ/しょうかい)は、江戸初期の出版人・松会三四郎のことか→参考論文/pdf)。以後、この「武艦」という書名は、幕末まで生き続ける。

 先を急いでしまうと、最後に出版された「武艦」は、慶応3年(1867)11月刊『袖玉武艦』で、国文学研究資料館蔵の同書には、同年10月14日の大政奉還を受けて「此後東都にて武艦出来申さず候事、是にて留め」という印象的な言葉が墨書してあるという。もっとも、その翌年、慶応4年=明治元年には『太政官御職明艦』や『官員録』が(武艦と同じ出版元から)ちゃんと出ているのだから、江戸の出版人もたくましいものだ。

 武艦の二大出版元といえば、須原屋と出雲寺である、ということくらいは知っていた。しかし、両者の明瞭な違いは、本書を読んで初めて知った。かたや京都の老舗・出雲寺は、元禄期に幕府の御用達町人(書物師)となり、幕府の書物方に属して紅葉山文庫の運営にもかかわるなど、半ば「官業」の扱いだったのに対し、江戸で創業した須原屋は、公儀に特別なパイプを持たない純粋な「民業」だった。本書は、宝暦年間から天保年間まで、ほぼ1世紀に渡る両者(もちろん当主は代替わりしていく)の争いが、スリリングな読みどころである。

 武艦については、版元の権利(持ち株)が、事項ごとに保護されていた。たとえば「長崎奉行・日光奉行・佐渡奉行の江戸出府の時期を干支で示すこと」はA者の持ち株であるとか、「江戸城の見付番衆の名前を記すこと」はB者の持ち株であるとかである。今日風にいえば、知的財産権の保護ということだろうが、びっくりするほど細かい。株を持たない版元が勝手にこれを模倣すると、訴訟沙汰になった。しかし、「官」の後ろ楯を持つ出雲寺のゴリ押しに、たびたび苦汁をなめる「民」の須原屋に、つい読みながら肩入れをしたくなる。

 ところで、武艦は「○○年」という年次を冠することが多いので、私は勝手に年次出版物だと思い込んでいた。そうしたら、書物師・出雲寺の場合、毎月、改訂版を幕府に上納することを求められている。実際には、多い年で年2回に留まるそうだが、急な人事異動があると、該当箇所だけ彫り直して(版木に埋め木をする)改訂版が刊行された。とすると、武艦って、一種の加除式資料みたいだなあ。それにしても、幕府の『書物方日記』(大日本近世史料所収)がきちんと残っているというのもすごい。公文書軽視のあらたまらぬ日本政府より、ずっと上等である。

■参考:一橋大学附属図書館 平成14年度企画展示『武家社会と江戸・大坂の経済-幸田成友とその史料- 』
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k14/tenjihin_list.html
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