見もの・読みもの日記

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リーダーの責任/広田弘毅(服部龍二)

2008-07-19 23:45:02 | 読んだもの(書籍)
○服部龍二『広田弘毅:「悲劇の宰相」の実像』(中公新書) 中央公論新社 2008.6

 「広田に対する日本人の印象は、城山三郎氏の小説『落日燃ゆ』によってつくられたといっても過言ではない」と、著者は「あとがき」で述べている。『落日燃ゆ』は1974年の作品だが、私は、今年の5月に読んだばかりだ。開戦の責任を背負い、家族への愛情を胸に、従容と死に赴く広田の姿には強く胸を打たれた。

 だが、城山の小説には事実誤認も多いという。本書は、小説によって固定化してしまった広田弘毅像の輪郭を(その小説の愛読者でもあった著者が)近年の研究成果と資料に基づき、実証的に描きなおそうという試みである。たとえば『落日燃ゆ』の「広田は玄洋社(国家主義的団体)の正式メンバーでない」という記述は、広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』に依拠しているが、誤りだという。著者は、このことを、玄洋社記念館の館報『玄洋』などを用いて検証していく。

 涙腺のゆるい私は、小説『落日燃ゆ』を読みながら、通勤の車中で、たびたびハンカチのお世話になった。しかし、それはそれ。本書のように、きちんと典拠文献が示された記述のほうが、私は安心して読める。小説より、エッセイのほうが好きなゆえんである。

 広田は、欧米局でキャリアを積んだエリート外交官であると同時に「国士としての一面」を備えており、右翼(安岡正篤の国維会とか)や軍部とも積極的に交わっていたという。その根底にあるのは、アジア主義への傾倒であり、とりわけ「日中提携」の夢だった。なるほどね。論語を座右の書にした広田にとっては、当然の帰結だろう。外相時代、日中双方の公使館を大使館に昇格させたことは、広田の功績のひとつである。

 やがて、関東軍の「暴走」によって、傀儡国家の満州国が成立するに至る。広田は、満州国は独立国であるという「建て前」のもと、諸外国と交渉しなければならなくなる。中国はもちろん徹底的に反発するし、ソ連も簡単には受け入れない。たぶん広田自身も、日本国の「建て前」が破綻していることは百も承知で、それでもそこを鉄面皮に押し通し続けるのが、外交という「仕事」なのである。「外交官は、与えられた環境のなかで自国の立場を擁護し、国益を主張しなければならない。それができないようでは、外交官失格である」という著者の言葉を読みながら、これはオトナにならないと分からない理屈だなあとため息をついた。

 外交では、粘り強い一面を見せた広田だが、内政については、宰相時代(1936-1937)、第1次近衛内閣の外相時代(1937-1938)を通じて、見るべきところがない。著者の厳しい評言によれば「軍部に抵抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできずにおり、そしてポピュリズムに流されがちであった」ということになろう。反対勢力に対する気配りと妥協が、結果的に傷口を広げていく。思い通りにいかない現実に、だんだん嫌気が差していったのかなあ。同じような傾向は、近衛文麿にも感じる。

 東京裁判において、広田は、「作為」によってではなく「不作為(構ずべき措置を講じなかったこと――とりわけ南京事件について)」すなわち「自己の義務に怠慢であった」ことを理由に死刑を宣告された。その判事団には、広田が善隣友好を願った中国、ソ連も含まれていた。指導的立場にある人間の責任とは重いものだな、と思う。

 以下、余談だが、雑誌『玄洋』(昭54.9~)は、国会図書館には入っているけれど、Webcatで探す限り、全国の大学図書館には入っていない。もったいない! 高い外国雑誌ばかり買わずに、こういう資料も収集しておいてほしい。

 5月に『落日燃ゆ』を読んで以来、次に福岡に行くことがあったら、玄洋社記念館に寄ってみようと思っていたのだが、なんと今年5月末日で休館になってしまったそうだ。資料の寄託を受けた福岡市博物館、散逸させないでね!!→西日本新聞の記事(2008年6月1日)

 また、『落日燃ゆ』によれば、上京した廣田弘毅が5人の学友と共に共同生活をしてた学寮「浩浩居」は、今も杉並区に残っているという。調べてみたら、私の実家から意外と近いところにあることが分かった。今度、探しに行ってみよう。
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