見もの・読みもの日記

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静養と密談の空間/戦後政治と温泉(原武史)

2024-04-07 23:50:46 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『戦後政治と温泉:箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』 中央公論新社 2024.1

 扱われている時代は終戦の1945年から1960年代半ばまで、主な登場人物は、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人などで、そんなに古い話ではないのだが、なんだかとても奇妙な物語を読んだ気がした。この時代、首相たちは、箱根や伊豆などの温泉で、重要な政治的決断を下していたというのだ。想像したこともなかった。

 戦後、吉田茂は、大磯にあった養父・吉田健三の別荘を本邸とするとともに、御殿場の樺山愛輔別邸「瑞雲荘」を第二の本邸とし、マスコミを嫌って東京に戻らず、野党からも批判された。その後、吉田は箱根を気に入り、新町三井家の小涌谷別邸に滞在するようになる。三井別邸での面会を許されたのは、限られた政治家や学者、官僚、親しい女性だけだった。政界引退後も吉田は小涌谷に通い続け、保守政治家たちには「奥の院」として意識された。

 吉田と政権を争った鳩山一郎は、戦後、公職追放処分を受け、GHQに東京の本邸を接収されたため、熱海の石橋正二郎別邸「海幸荘」に移住した。これにより、反吉田派の熱海詣でが活発になる。鳩山は、1951年に脳溢血で倒れて以降は、韮山(現・伊豆の国市)の温泉旅館「水宝閣」で療養につとめるようになる。ここは北条時政・義時ら、源頼朝の挙兵を助けた北条氏の館があったところだという。また鳩山は伊東市の「川奈ホテル」や箱根の「富士屋ホテル」も利用している。

 岸信介は箱根宮ノ下の「奈良屋」を愛用した。ただし奈良屋の女将の回想によれば、社会党の浅沼稲次郎や河上丈太郎も常連客だったという。岸は、日豪通商協定の調印を奈良屋でおこなったり、インドのネール首相を富士屋ホテルで歓待するなど、箱根で首脳外交を展開した。岸の後任を(岸の望む佐藤栄作ではなく)池田勇人にすることを決めた、岸・吉田(+堤康次郎)会談も箱根の「湯の花ホテル」で行われた。

 池田勇人は吉田内閣の蔵相時代から、週末は箱根仙石原で休養することを習慣にしていた。はじめは五高の先輩である井上重喜の別荘を借りていたが、のち、近藤商事の近藤荒樹の別荘に移った。池田は、訪米準備の閣僚会合も箱根で開催し、米国の経済閣僚を招いた国際会議も箱根で開催した。池田に代わって首相となった佐藤栄作は、首相になる前から、毎年夏は軽井沢に通っていた。軽井沢は温泉が出ない。佐藤はもっぱらゴルフによって体調を維持した。こうして「温泉政治」の時代は終わりを告げたのである。

 こうした戦後政治の経緯を知ると、最近の首相が、首相公邸に入居しなかったり、高級料亭で会食していたりで非難はされるものの、ほぼ常時東京にいるようになったのは時代の変化なのだなと思う。あと、G7会合に観光地・保養地が選ばれるのも、安倍晋三がロシアのプーチン大統領を長門市の温泉に招いて友好を演出しようとしたのも、こういう「温泉政治」の記憶が背景にあるのかもしれない(何か特別よい結果を生んだとは思えないが)。

 私は、本書に登場する首相たちの中では、池田勇人が、週末は箱根で「オフ」を過ごすことにこだわったというのを好ましく思った。政治家には俗世間をよく知っていてもらいたいが、俗世間との関わりを断つ時間も大事だと思う。静養中は秘書官以外と会わないことを原則とし、例外は松永耳庵と大徳寺の和尚・立花大亀くらいだったという。おお、ここで松永耳庵の名前が出てくるとは。

 1949年、鳩山一郎、石橋湛山が熱海に滞在中、世界救世教の岡本茂吉が検挙懿される事件が起きた。鳩山は何も記していないが、石橋は日記に「嘗て大本教の弾圧をした当時の日本を思ひ起す」と記した。岡本は戦前に大本から分かれて新たな宗派を立てたという本書の注釈に驚く。岡本は熱海のMOA美術館の創立者であり、最近ときどき行く東京黎明アートルームにも深く関わっているのだ。

 この感想では省略してしまったが、戦後政治家たちの「温泉」に対して、戦後の皇室が選んだのは「軽井沢」だった。しかし佐藤栄作以降、保守政治家たちは軽井沢に回帰した。佐藤の別荘の周りには、田中角栄、中曽根康弘らの別荘が並んでいたという。なんだか気持ち悪い空間であるなあ。

 逆に平成天皇・美智子妃は、皇太子夫妻であった当時、地方の温泉旅館やホテルを積極的に利用し、地域住民(特に若い世代の男女)との対話型集会を開催しているという。これも初めて知る話で、たいへん興味深かった。


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