ニューズウィーク日本版11/18(木) 18:57配信
<古代バビロニアのイシュタル門が、なぜかドイツにありイラクにはレプリカしかない。そんな現実をいつまで許すのか>
米政府はこの夏、イラクの文化・観光遺跡省と米国務省の画期的な合意に基づき、略奪されたイラクの文化財1万7000点超を返還すると発表した。
欧米各地の博物館は植民地主義と搾取と腐敗の時代に盗まれた文化財を今も多数所蔵している。この合意は博物館の「脱植民地主義」の重要な先例となるだろう。
ただし、今回返還されるのは主に首都ワシントンの聖書博物館とコーネル大学所蔵の遺物だけだ。イギリス、ドイツ、オスマン帝国など植民地時代の列強による国家ぐるみの略奪で持ち出されたほかの文化財は欧米各地に散らばっている。今回の返還は歓迎すべき一歩だが、脱植民地主義はまだ始まったばかりだ。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)を旗振り役に、国際社会は盗まれた遺物を返すよう世界中の博物館を強くプッシュする必要がある。今回の合意は返還運動を広く一般の人々に知らせるきっかけになる。文化財の入手過程を再調査し、過去の過ちを正すために、この合意をモデルケースとして活用すべきだ。
イラクの文化財の価値は改めて指摘するまでもない。イラクは歴史家が「文明の揺り籠」と呼ぶ地域に位置する。
紀元前3500年頃にさかのぼる楔形(せっけい)文字の発明から紀元前1750年頃に成立した「ハンムラビ法典」まで、この地域に栄えた文明は世界の科学、歴史、文化に大きく貢献してきた。こうした高度な文明が生んだ遺物の多くは今、世界各地から略奪された財宝と共に欧米の博物館に眠っている。
■略奪と競売が黙認された
決して全てではないが、多くのイラク文化財はサダム・フセイン元大統領の独裁体制が崩壊し、権力の空白が生じた2003年以降に盗み出された。長年に及ぶ経済制裁で貧窮に追い込まれた人々は便器から電線まであらゆるものを略奪した。現地の博物館はいわば「宝の山」で略奪者たちは次々に財宝を盗み出した。
首都バグダッドで警備に当たる米英軍の兵士の任務は石油省を守ることで、国立博物館の略奪は野放し状態だった。略奪された遺物はすぐさま国外に流出し、クリスティーズなど世界的に有名なオークションハウスに持ち込まれた。
収集家や博物館関係者もイラク戦争後に略奪が横行していることは知っているはず。それでも略奪品は競売に掛けられ高値で取引された(米政府がイラクに返還した世界最古の文学『ギルガメッシュの叙事詩』を記した古代メソポタミアの粘土板も、クリスティーズは密輸品と知りながら競売に掛け、美術工芸品チェーンのホビー・ロビーに売ったことを示す証拠がある)。
「発掘調査」という名目で盗む
さらに事態を悪化させたのは過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭だ。ISは2014年に新アッシリア帝国の首都ニネベ遺跡があるイラク第2の都市モスルを制圧。軍資金を得るために遺跡から遺物を持ち出し、闇ルートで売りさばいた。
これに飛び付いたのは、ホビー・ロビーの社長で聖書博物館の創設者・会長でもある億万長者のスティーブ・グリーンをはじめ、裕福なキリスト教原理主義のアメリカ人だ。
遺物の密輸は厳しく監視されているため、闇の業者はたいがいフェイスブックのマーケットプレイス機能を使って欧米の買い手を見つける。そして当局の目をくらますため偽の書類や鑑定書を付けて国外に送る。
米政府がイラクに返還するのはこうした遺物だ。脱植民地主義にとって、これはささやかな勝利と言っていいが、米司法省の取り組みは不十分だ。確かに司法省は民事訴訟を起こし、盗まれた文化財を押収して返還にこぎ着けた。
だが過去1世紀余りの間にアメリカの博物館に持ち込まれたイラクの重要な文化財はほかにも多数ある。例えばニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しているバビロニア出土のライオンのレリーフ。ほかにも、イラクや中東諸国から奪われた文化財は数多いが、司法省はそれらには目をつぶったままだ。
バビロニアのイシュタル門がたどった運命は、イラクの歴史の断片が欧米諸国の手に渡り、そのままとらわれている歴史を物語る。
ベルリンのペルガモン博物館には、紀元前575年頃に新バビロニアの王ネブカドネザル2世が建立した巨大な青い門と、それに続く「行列通り」が復元展示されている。これらの至宝は、現在のイラク南部バビル県から持ち出された。アメリカがイラクに侵攻する1世紀前に始まった略奪の戦利品は、「発掘」という名目で世間に受け入れられてきた。
第1次大戦でイギリスがイラクに侵攻した後、イギリスの委任統治下でイラク王国が樹立され、外国人考古学者に有利な法律が制定された。1924年にはイギリスの考古学者で紀行作家のガートルード・ベルが主導した古代文化財の保護法が成立。遺物をイラク国外に持ち出すことが認められ、シカゴ大学やオックスフォード大学、エール大学、そして大英博物館などがその恩恵にあずかった。
祖先の歴史と外国で対面する
ドイツの考古学者はドイツ・オリエント学会の資金援助を受けて、1899年からバビロンの遺跡を発掘した。当時、オスマン帝国は崩壊しかけた帝政を維持することしか頭になかった。
陶器の装飾品などの発掘品は、石炭の木箱に入れてベルリンに密輸された。イシュタル門は1902年から始まった発掘調査で発見された後、第1次大戦中は発掘が中断され、17年の終戦間際にイラクではなくイギリスが、ドイツに発掘品の国外への持ち出しを許可した。
歴代のイラク政府はイシュタル門を取り戻そうとしてきた。しかし、ナイジェリアの青銅彫刻「ベニン・ブロンズ」や、ギリシャのパルテノン神殿の彫刻「エルギン・マーブル」、エジプトの「ネフェルティティの胸像」など、欧米に略奪された貴重な文化財の返還を要求する国々と同じ状況に直面している。
学者や博物館、さらにはイラク人の一部からも、歴史の至宝は近年の戦争で荒廃したイラクより、ドイツにあるほうが安全だと言われてきた。もっとも、ペルガモン博物館は第2次大戦中にベルリンの空襲で甚大な被害を受けた。バビロンの遺跡が物理的な危険に脅かされるようになったのは、イラク戦争で米軍とポーランド軍が地元を軍事基地として使用して以降のことだ。
「彼らは私たちの歴史なんてどうでもよかった」と、古代遺跡バビロンのツアーガイド、アブ・ザイナブは言う。「戦闘機が離着陸するたびに、歴史的な壁が崩れていった」
米軍の侵攻がイラクの文化遺産に取り返しのつかない損害を与えたことは、さまざまな非政府組織が批判している。米軍が史跡を直接攻撃したとまでは言わないが、侵攻後のデュー・デリジェンス(適正評価)の欠如が略奪を助長したことは明らかだ。世界遺産の周辺に部隊を配置することも重大な過失と言える。
イラク人である私は、2018年にペルガモン博物館でイシュタル門と対面した。ベルリンで祖国の歴史の美しさを前にして、その威厳に畏敬の念を抱きながら、やるせなさに押しつぶされそうだった。
イラク南部で門が解体された跡地を訪れたとき、その失望感はさらに大きくなった。壮大な門の代わりに、中学校の美術の課題作品のようなレプリカが立っていた。こうした考古学の「ディズニーランド化」は、1980年代のイラン・イラク戦争の際にフセインがナショナリズムを高めるために行った。
真の「返還」への道のりは遠く
イラクの文化財は世界中で称賛されているが、ほとんどのイラク人は祖先の遺産に触れることができない。ビザの規制は今も厳しく、裕福なイラク人でさえ、自分たちの歴史をその目で見るために欧米諸国に行くことは難しい。
過去数年間、美術館や博物館の脱植民地化の機運は高まっている。大ヒットしたマーベル映画『ブラックパンサー』(18年)でも、アフリカの王国から奪われた武器が、展示されていたロンドンの博物館から強奪される。こうした略奪文化財をめぐって世間の怒りが募るなかで、欧米の美術館や博物館は何とか面目を保とうと躍起になっている。
例えば大英博物館は、「略奪品ばかり」という世間の認識を払拭する取り組みの一環として、さまざまな講演や展示を企画してきた。
18年にはイメージアップを図るべく、略奪品8点をイラクに返還した。とはいうものの、これらの品はエルギン・マーブルなどと違って、本来は大英博物館の所蔵品ではなく、警察がロンドンの美術商から押収したものだったが。
大英博物館はほかにも返還の試みでしくじっている。05年には北米太平洋沿岸の先住民族クワキウトルがポトラッチという儀式に使っていた仮面を(もともとはクワキウトルの人々からカナダ当局が押収したものだったが)カナダに返還したものの、長期貸与という形を取った。
大英博物館と同様に、ロンドンのビクトリア&アルバート美術館も脱植民地主義のやり方を誤った。イギリス軍の遠征時に略奪されたエチオピアの財宝を、貸与という形でなら返還すると申し出たのだ。
1950年代、大英博物館が所蔵するベニン・ブロンズの一部を買い戻すよう、ナイジェリアに迫ったことはよく知られている。これら数百点の青銅彫刻は1897年にイギリス軍が当時ナイジェリアにあったベニン王国を「報復攻撃」した際に遠征部隊が略奪したもので、それを買い戻せと要求するのはおかしな話だ。ベニン・ブロンズはメトロポリタン美術館を含めて、欧米の美術館・博物館や研究機関に散逸している。その返還を求める声は、依然として根強い。
今年9月には、ベニン市の芸術家組合が大英博物館に対し、返還ではなく「交換」を申し出た。自分たちの現代アートの作品を博物館に寄贈する代わりにベニン・ブロンズの一部を返還してほしい、というものだ(10月時点の報道では、博物館側は返還には応じない意向だという)。
文化財は国家の再建にも役立つ
一方、英ケンブリッジ大学は10月27日、ベニン・ブロンズの1つであるおんどりの彫刻をナイジェリアに返還した。「かつては私たち民族についての物語があり、これらの彫刻は私たちの力とアイデンティティーの象徴だった」と、ベニン・ブロンズの返還を強く求めてきたベニン市の会計士はニューヨーク・タイムズ紙に語っている。
イシュタル門などイラクの遺物や文化財についても同じことが言える。イラクは依然として宗派抗争によって荒廃したままだ。共有する過去をとおして共通の「物語」を確認することは、分裂した国を再び一つにするのに役立つだろう。
現在、イラク情勢は比較的安定する方向に向かっている。そうしたなかで、とりわけ文化観光の推進は国を前進させることにつながるはずだ。アメリカがイラクに略奪文化財1万7000点余りを返還したことは、その実現に一歩近づくことを象徴している。
ただし、アメリカだけの動きで終わらせてはならない。これを機に世界中の美術館や博物館は今後さらに略奪文化財の返還を進めていく必要がある――たとえ、それがどんな「秘蔵」の逸品であろうと、だ。
From Foreign Policy Magazine
アフメド・トゥエイジ(中東問題アナリスト)
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730266794945c0df400b0aafa4dadca40c67dee
<古代バビロニアのイシュタル門が、なぜかドイツにありイラクにはレプリカしかない。そんな現実をいつまで許すのか>
米政府はこの夏、イラクの文化・観光遺跡省と米国務省の画期的な合意に基づき、略奪されたイラクの文化財1万7000点超を返還すると発表した。
欧米各地の博物館は植民地主義と搾取と腐敗の時代に盗まれた文化財を今も多数所蔵している。この合意は博物館の「脱植民地主義」の重要な先例となるだろう。
ただし、今回返還されるのは主に首都ワシントンの聖書博物館とコーネル大学所蔵の遺物だけだ。イギリス、ドイツ、オスマン帝国など植民地時代の列強による国家ぐるみの略奪で持ち出されたほかの文化財は欧米各地に散らばっている。今回の返還は歓迎すべき一歩だが、脱植民地主義はまだ始まったばかりだ。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)を旗振り役に、国際社会は盗まれた遺物を返すよう世界中の博物館を強くプッシュする必要がある。今回の合意は返還運動を広く一般の人々に知らせるきっかけになる。文化財の入手過程を再調査し、過去の過ちを正すために、この合意をモデルケースとして活用すべきだ。
イラクの文化財の価値は改めて指摘するまでもない。イラクは歴史家が「文明の揺り籠」と呼ぶ地域に位置する。
紀元前3500年頃にさかのぼる楔形(せっけい)文字の発明から紀元前1750年頃に成立した「ハンムラビ法典」まで、この地域に栄えた文明は世界の科学、歴史、文化に大きく貢献してきた。こうした高度な文明が生んだ遺物の多くは今、世界各地から略奪された財宝と共に欧米の博物館に眠っている。
■略奪と競売が黙認された
決して全てではないが、多くのイラク文化財はサダム・フセイン元大統領の独裁体制が崩壊し、権力の空白が生じた2003年以降に盗み出された。長年に及ぶ経済制裁で貧窮に追い込まれた人々は便器から電線まであらゆるものを略奪した。現地の博物館はいわば「宝の山」で略奪者たちは次々に財宝を盗み出した。
首都バグダッドで警備に当たる米英軍の兵士の任務は石油省を守ることで、国立博物館の略奪は野放し状態だった。略奪された遺物はすぐさま国外に流出し、クリスティーズなど世界的に有名なオークションハウスに持ち込まれた。
収集家や博物館関係者もイラク戦争後に略奪が横行していることは知っているはず。それでも略奪品は競売に掛けられ高値で取引された(米政府がイラクに返還した世界最古の文学『ギルガメッシュの叙事詩』を記した古代メソポタミアの粘土板も、クリスティーズは密輸品と知りながら競売に掛け、美術工芸品チェーンのホビー・ロビーに売ったことを示す証拠がある)。
「発掘調査」という名目で盗む
さらに事態を悪化させたのは過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭だ。ISは2014年に新アッシリア帝国の首都ニネベ遺跡があるイラク第2の都市モスルを制圧。軍資金を得るために遺跡から遺物を持ち出し、闇ルートで売りさばいた。
これに飛び付いたのは、ホビー・ロビーの社長で聖書博物館の創設者・会長でもある億万長者のスティーブ・グリーンをはじめ、裕福なキリスト教原理主義のアメリカ人だ。
遺物の密輸は厳しく監視されているため、闇の業者はたいがいフェイスブックのマーケットプレイス機能を使って欧米の買い手を見つける。そして当局の目をくらますため偽の書類や鑑定書を付けて国外に送る。
米政府がイラクに返還するのはこうした遺物だ。脱植民地主義にとって、これはささやかな勝利と言っていいが、米司法省の取り組みは不十分だ。確かに司法省は民事訴訟を起こし、盗まれた文化財を押収して返還にこぎ着けた。
だが過去1世紀余りの間にアメリカの博物館に持ち込まれたイラクの重要な文化財はほかにも多数ある。例えばニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しているバビロニア出土のライオンのレリーフ。ほかにも、イラクや中東諸国から奪われた文化財は数多いが、司法省はそれらには目をつぶったままだ。
バビロニアのイシュタル門がたどった運命は、イラクの歴史の断片が欧米諸国の手に渡り、そのままとらわれている歴史を物語る。
ベルリンのペルガモン博物館には、紀元前575年頃に新バビロニアの王ネブカドネザル2世が建立した巨大な青い門と、それに続く「行列通り」が復元展示されている。これらの至宝は、現在のイラク南部バビル県から持ち出された。アメリカがイラクに侵攻する1世紀前に始まった略奪の戦利品は、「発掘」という名目で世間に受け入れられてきた。
第1次大戦でイギリスがイラクに侵攻した後、イギリスの委任統治下でイラク王国が樹立され、外国人考古学者に有利な法律が制定された。1924年にはイギリスの考古学者で紀行作家のガートルード・ベルが主導した古代文化財の保護法が成立。遺物をイラク国外に持ち出すことが認められ、シカゴ大学やオックスフォード大学、エール大学、そして大英博物館などがその恩恵にあずかった。
祖先の歴史と外国で対面する
ドイツの考古学者はドイツ・オリエント学会の資金援助を受けて、1899年からバビロンの遺跡を発掘した。当時、オスマン帝国は崩壊しかけた帝政を維持することしか頭になかった。
陶器の装飾品などの発掘品は、石炭の木箱に入れてベルリンに密輸された。イシュタル門は1902年から始まった発掘調査で発見された後、第1次大戦中は発掘が中断され、17年の終戦間際にイラクではなくイギリスが、ドイツに発掘品の国外への持ち出しを許可した。
歴代のイラク政府はイシュタル門を取り戻そうとしてきた。しかし、ナイジェリアの青銅彫刻「ベニン・ブロンズ」や、ギリシャのパルテノン神殿の彫刻「エルギン・マーブル」、エジプトの「ネフェルティティの胸像」など、欧米に略奪された貴重な文化財の返還を要求する国々と同じ状況に直面している。
学者や博物館、さらにはイラク人の一部からも、歴史の至宝は近年の戦争で荒廃したイラクより、ドイツにあるほうが安全だと言われてきた。もっとも、ペルガモン博物館は第2次大戦中にベルリンの空襲で甚大な被害を受けた。バビロンの遺跡が物理的な危険に脅かされるようになったのは、イラク戦争で米軍とポーランド軍が地元を軍事基地として使用して以降のことだ。
「彼らは私たちの歴史なんてどうでもよかった」と、古代遺跡バビロンのツアーガイド、アブ・ザイナブは言う。「戦闘機が離着陸するたびに、歴史的な壁が崩れていった」
米軍の侵攻がイラクの文化遺産に取り返しのつかない損害を与えたことは、さまざまな非政府組織が批判している。米軍が史跡を直接攻撃したとまでは言わないが、侵攻後のデュー・デリジェンス(適正評価)の欠如が略奪を助長したことは明らかだ。世界遺産の周辺に部隊を配置することも重大な過失と言える。
イラク人である私は、2018年にペルガモン博物館でイシュタル門と対面した。ベルリンで祖国の歴史の美しさを前にして、その威厳に畏敬の念を抱きながら、やるせなさに押しつぶされそうだった。
イラク南部で門が解体された跡地を訪れたとき、その失望感はさらに大きくなった。壮大な門の代わりに、中学校の美術の課題作品のようなレプリカが立っていた。こうした考古学の「ディズニーランド化」は、1980年代のイラン・イラク戦争の際にフセインがナショナリズムを高めるために行った。
真の「返還」への道のりは遠く
イラクの文化財は世界中で称賛されているが、ほとんどのイラク人は祖先の遺産に触れることができない。ビザの規制は今も厳しく、裕福なイラク人でさえ、自分たちの歴史をその目で見るために欧米諸国に行くことは難しい。
過去数年間、美術館や博物館の脱植民地化の機運は高まっている。大ヒットしたマーベル映画『ブラックパンサー』(18年)でも、アフリカの王国から奪われた武器が、展示されていたロンドンの博物館から強奪される。こうした略奪文化財をめぐって世間の怒りが募るなかで、欧米の美術館や博物館は何とか面目を保とうと躍起になっている。
例えば大英博物館は、「略奪品ばかり」という世間の認識を払拭する取り組みの一環として、さまざまな講演や展示を企画してきた。
18年にはイメージアップを図るべく、略奪品8点をイラクに返還した。とはいうものの、これらの品はエルギン・マーブルなどと違って、本来は大英博物館の所蔵品ではなく、警察がロンドンの美術商から押収したものだったが。
大英博物館はほかにも返還の試みでしくじっている。05年には北米太平洋沿岸の先住民族クワキウトルがポトラッチという儀式に使っていた仮面を(もともとはクワキウトルの人々からカナダ当局が押収したものだったが)カナダに返還したものの、長期貸与という形を取った。
大英博物館と同様に、ロンドンのビクトリア&アルバート美術館も脱植民地主義のやり方を誤った。イギリス軍の遠征時に略奪されたエチオピアの財宝を、貸与という形でなら返還すると申し出たのだ。
1950年代、大英博物館が所蔵するベニン・ブロンズの一部を買い戻すよう、ナイジェリアに迫ったことはよく知られている。これら数百点の青銅彫刻は1897年にイギリス軍が当時ナイジェリアにあったベニン王国を「報復攻撃」した際に遠征部隊が略奪したもので、それを買い戻せと要求するのはおかしな話だ。ベニン・ブロンズはメトロポリタン美術館を含めて、欧米の美術館・博物館や研究機関に散逸している。その返還を求める声は、依然として根強い。
今年9月には、ベニン市の芸術家組合が大英博物館に対し、返還ではなく「交換」を申し出た。自分たちの現代アートの作品を博物館に寄贈する代わりにベニン・ブロンズの一部を返還してほしい、というものだ(10月時点の報道では、博物館側は返還には応じない意向だという)。
文化財は国家の再建にも役立つ
一方、英ケンブリッジ大学は10月27日、ベニン・ブロンズの1つであるおんどりの彫刻をナイジェリアに返還した。「かつては私たち民族についての物語があり、これらの彫刻は私たちの力とアイデンティティーの象徴だった」と、ベニン・ブロンズの返還を強く求めてきたベニン市の会計士はニューヨーク・タイムズ紙に語っている。
イシュタル門などイラクの遺物や文化財についても同じことが言える。イラクは依然として宗派抗争によって荒廃したままだ。共有する過去をとおして共通の「物語」を確認することは、分裂した国を再び一つにするのに役立つだろう。
現在、イラク情勢は比較的安定する方向に向かっている。そうしたなかで、とりわけ文化観光の推進は国を前進させることにつながるはずだ。アメリカがイラクに略奪文化財1万7000点余りを返還したことは、その実現に一歩近づくことを象徴している。
ただし、アメリカだけの動きで終わらせてはならない。これを機に世界中の美術館や博物館は今後さらに略奪文化財の返還を進めていく必要がある――たとえ、それがどんな「秘蔵」の逸品であろうと、だ。
From Foreign Policy Magazine
アフメド・トゥエイジ(中東問題アナリスト)
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730266794945c0df400b0aafa4dadca40c67dee