武将ジャパン 2024/08/22
谷垣との年齢を超えた繋がりは読者の心に深く刺さるばかりでしたが、だからこそ気になることがあります。
チカパシのその後が最終回で語られなかっただけでなく、ファンブックでは
「歴史的な波に飲まれる」
と記されているのです。
しかも彼が慕った谷垣とは再会できないとされていて、チカパシとエノノカの未来に不穏な状況が待ち構えていることが容易に想像できる。
一体チカパシには何が起きるというのか?
昭和20年(1945年)8月22日は、樺太へ攻め込んできたソ連軍との停戦交渉が成立した日。
物語には描かれなかったチカパシとエノノカのその後を考察してみましょう。
チカパシの人生とは
天涯孤独の孤児として登場したチパカシ。
彼は、コタンで療養中であった谷垣と偶然出会い、その後についてくるようになりました。
家族を疱瘡で失っていて、一人残された少年だったのです。
この時点でチカパシは歴史の波に飲まれています。
谷垣の妹や、海賊房太郎の家族のように、和人にとっても疱瘡は驚異でしたが、明治初期は地方格差が大きくなっています。
疱瘡予防のための種痘は、江戸時代後期には先進的な藩で取り入れられています。
そうした藩に住んでいない。医療へのアクセスができない。貧しい。
悪条件が重なるほど、疱瘡による死亡率は高まります。
北海道のアイヌは、この点、最悪の環境にいました。
教育や医療は西高東低の傾向が強い明治時代、北海道は最も遅れているばかりでなく、アイヌは、和人の持ち込んだ伝染病に対する抵抗力が弱い。
生活環境や食生活の変化も重なり、病気に対して極めて脆弱でした。
そうした歴史の荒波により、チカパシの家族は犠牲となった可能性が高いのです。
偶然出会った谷垣を父、インカラマッを母に見立て、チカパシは旅を続けます。
谷垣が樺太に渡ると、鯉登の荷物に犬のリュウと共にこっそり忍び込む。
樺太の旅において、杉元たちはエノノカという少女に出逢いました。
鯉登の提案により、一行はエノノカとその祖父が引く犬ぞりで旅をすることとなります。
当時の樺太で犬ぞりは重要な移動手段でした。
その樺太での旅の終わりに、エノノカのもとに残ることを選びます。
谷垣が譲った銃を手にして、彼は樺太で新しい家族と暮らすことにするのでした。
チカパシが樺太にわたった理由として、杉元たちが誘拐されたアシㇼパを追いかけたことがありますが、それだけでもありません。
政治的な要素も絡んでいた。
日露戦争の結果、南樺太は日本領となり、もしもロシア領のままであれば、展開は異なっていたかもしれないのです。
最終回後、彼らは歴史の波に飲まれる
歴史の波とは何か?
これは近代史ものの宿命でしょう。
大正時代が舞台の『鬼滅の刃』では、鬼との戦いが終結したことでハッピーエンドとなりましたが、人間同士の戦いとなると、そうはいきません。
むしろここからが大変ではないか?
そう考えねばならない状況が待ち構えています。
『ゴールデンカムイ』の人物もそれは同様であり、個々のケースを見ておきましょう。
◆鯉登と月島
二人についてはあっさり処理されていますが、この鯉登と月島の展開だけでも数巻ぶんに相当するのではないでしょうか。
重厚な近代史ものとして、スピンオフ作品にできるだけのボリュームはあります。
軍人にとって最悪の罪とは、反乱です。
鯉登は「賊軍」と語っておりますが、それはちょっと不正確かもしれません。
戊辰戦争の賊軍ならば明白ですが、この場合は皇軍にいながら叛旗を翻している。いわば五・一五事件や二・二六事件が近いと思えます。
有罪となれば銃殺。しかも鯉登の場合、父親が勝手に皇軍の戦艦を動かして沈めていますので、全くもって許されざる罪でしょう。
抜け道といえば、鶴見が全面的に悪いことにするか、中央も泳がせていたと駆け引きをするか。想像するとかなり面白いようで、別ジャンルの物語に突入しそうな気もします。
ともあれ彼は、銃殺刑から免れ、最後の第七師団長となりました。
この作品最大のチートキャラは鯉登ではないでしょうか。
◆門倉とキラウシ
アメリカで映画を作ったとのこと。
コケてすぐ帰国していればよいのですが、真珠湾攻撃後もアメリカに留まったのであれば、日系人収容所に収監されます。
◆白石
白石はちゃっかり無人島へ向かい、そこで自分の顔を刻んだ貨幣を作れるほど成功しました。
あのアイデアは一から作られたものではなく、第二次世界大戦前にあった日本人の夢の一種です。
当時の日本人は「海外雄飛」というフレーズに背中を押され、外へ出る夢を抱いたものでした。
一見、ロマンに溢れていますが、政府が後先考えずに人口増大を推し進めた帰結とも言える。
第二次世界大戦後、日本のそうした海外進出はなかったことになります。その過程で戦闘なり、命懸けの帰国、収監といった試練が待ち受けていました。
白石は築き上げたものを失い、その過程で命をも失う可能性が高いということです。
◆谷垣とインカラマッ
子沢山でしかも息子が多いとなると、戦場へ向かった子も多かったことでしょう。
谷垣のころ、三八式歩兵銃は最先端の武器でした。
しかし彼の息子の時代は、日本陸軍の遅れた装備の象徴です。父子で同じ銃を持つとは、どれほど悲劇的なことであったか。
日露戦争に従軍した父が、アジア太平洋戦争へ向かう我が子を見送る。
その姿が悲しくなかったはずがない……。
全員が戦争に巻き込まれる。ヴァシリはロシア革命を目撃する。そんな時代の荒波が彼らを待ち受けています。
作中では描かれないそんな歴史を学ぶことも大切かもしれません。
ざっと描かれたその後の姿の中、まったく出てこなかったチカパシとエノノカのことを考えてみましょう。
「8月ジャーナリズム」からこぼれてしまう樺太
テレビも新聞も、日本の報道では8月になると急に戦争関連の取扱が増えます。
原爆投下、終戦記念日、学生の夏休み、お盆といった要素が重なり合うタイミング。
他の時期には無く集中しているため、偏っているではないか、という批判もあります。
ここで注目したいのは「樺太」です。
樺太は沖縄と共に地上戦が行われた地域であるにもかかわらず、この「8月ジャーナリズム」から抜け落ちやすく、下手をすれば認識すらされていない。
例外的に広く知られている事件は、電話交換手9人が自決した【真岡郵便局事件】くらいでしょうか。若い女性の悲劇としてフィクションの題材ともされてきました。
しかし、実際にはこの事件以外にも、多数の集団自決が起きています。かつ、この事件は不可解な点があり、検証が必要な事件です。
こうした悲劇が取り上げられるにしても、主に和人の被害がクローズアップされてしまう問題点もあります。
樺太を襲った「1945年8月の波」は実に大きなものでした。
以下に箇条書きでまとめておきます。
・終戦時の南樺太の人口は、45〜46万人と推定される
・そのうち、2週間の戦闘で4,200から4,400の死者が出たとされる
・引き揚げできず、シベリアに抑留者された者も多い
・引き揚げできなかった日本人はいないものと、長く政府に認識されていた
・先住民でも樺太アイヌは、アイヌは日本人とされたため、引き揚げ後は樺太に戻れなくなる
こうした荒波が待ち受けている樺太で、チカパシとエノノカは果たして幸せになれたのか……。
ソ連軍の侵攻
ロシアが日本に南下してきたらどうなるのか?
そのことに危機感を覚え始めたのは、江戸時代後期からとされています。
警戒した幕府が、会津藩士を樺太に派遣したこともありました。
明治政府は、第七師団を北海道に置きます。
その別名である「北鎮部隊」とは、対ロ防衛の意味をこめてこう呼ばれています。
脅威が現実のものとなった日露戦争では、辛勝をおさめた日本。【日英同盟】を結んでいたイギリス側の仲介あっての、薄氷での和平交渉といえました。
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その後、イギリスと決裂し、【日独伊三国同盟】を結んだ日本。
ロシア革命を経たソビエト連邦は、ドイツとの激烈な戦争である【独ソ戦】に入り、とりあえず、日本に目を向けられることはありませんでした。
しかし、ドイツが降伏するとなると、状況は切迫します。
1941年に結んだ【日ソ中立条約】は果たして守られるかどうか。
とはいえ、戦線を拡大し、アメリカと敵対する日本には、ソ連のことなど考えられる余裕などないのが実情だったでしょう。
5月にドイツが降伏すると、樺太沖には巨大な船の影が見え出します。
アメリカか、ソ連か?
もしもソ連が南下してきたら、なす術なし――そんな1945年、夏の樺太、8月3日に命令電報が届きます。
ソ連軍侵攻に対し、樺太兵団は戦う。
そして6日後の8月9日、長崎に原子爆弾が投下された日、ソ連軍は樺太侵攻を開始しました。
樺太の対ソ連戦闘には特徴があります。
満洲では関東軍が現地住民に先んじて逃げた状況があり、沖縄戦では、軍人が民間人を下に見ることに端を発した悲劇がいくつもありました。
樺太の場合、陸軍と民間人の避難はほぼ同時であり、かつ対立もさほどありません。
とはいえソ連軍を相手に「国を守るべきだ!」という交戦命令のため、夥しい悲劇は起きました。
また、この混乱の中、日本人同士は一致していても、朝鮮などの他国から来た人々に対してはそうではありません。
混乱と疑心暗鬼による加害行為があり、サハリン州にはその慰霊碑も残されています。
チカパシとエノノカを巻き込む波とは、このソ連との地上戦も該当します。
また、最後の第七師団長である鯉登は、北海道から樺太に攻め寄せるソ連軍との対決を指揮する立場でした。
アジア太平洋戦争を扱った作品には、竹槍訓練をする場面がよく出てきます。
あんな訓練をしても、結局無駄だったとされますが、それは本土での話。樺太の人々は、装備もろくにないまま、迫り来るソ連軍と向き合うこととなりました。
前述の通り、樺太では軍隊と民間人が一丸となって逃げてゆきます。
結果、民間人も戦闘に巻き込まれたのです。
南北に長い道を逃げてゆく人々。
老いた親や幼い子は足手まといなるからと、道に捨てていく。そうまでして、逃げ落ちねばならない人たちもいました。
8月15日を過ぎても戦争は終わらない
日本の常識として、8月15日に戦争が終わったということがあげられます。
それはあくまで本土でのこと。
樺太では22日、地取において日ソ間で停戦交渉がまとまりましたが、その後、樺太最南端にあり、最も栄えていた豊原に空襲があり、犠牲者が出ています
樺太から脱出した船も魚雷に襲われ、北海道を前にして水中に散った命もありました。
荒波は、まだ続きます。
そんな中、チカパシとエノノカはどうなったのか?
樺太先住民でもアイヌは日本人と見なされ、日本領に住まねばならないと彼らが考えたならば、“決死の逃亡”に巻き込まれたことになります。
第二次世界大戦において、最大規模の戦死者を出したのはソビエト連邦です。
第二次世界大戦は【大西洋憲章(1941年8月)】と【カイロ宣言(1943年11月)】により、領土不拡大の原則が定められており、ソ連もここに加わっています。
とはいえ樺太の場合は拡大ではなく、ソ連からすれば【ポーツマス条約】により割譲された領土の「奪還」という認識です。
後に日本が1951年に締結した【サンフランシスコ平和条約】には、【ポーツマス条約】で獲得した領土の放棄が含まれていました。
樺太の一部と千島列島はこの範囲に入る。
問題はそれ以外の領土も獲得したことです。
ソ連はこのとき、南樺太を日本から取り戻すだけでなく、北方四島をも領有しました。
現在も残る【北方領土問題】の根源ですね。
◆北方領土:外務省(→link)
戦死者が膨大であったソ連は人手不足です。
労働力がなんとしても欲しい――そう考えたソ連は、満洲や樺太にいる日本人を冤罪で逮捕することが相次ぎました。
なぜ、逮捕されたのか?
ロシア語で説明された挙句、罪状はさっぱり理解できない、そんな事例が続発したのです。
もしもチカパシとエノノカが、樺太で事業を行い成功していたら。高い技術を身につけていたら。
労働力として目をつけられ、逮捕投獄され、財産を没収された可能性は出てきます。
彼ら自身が逃れたとしても、家族は捕まってしまった可能性も考えられるでしょう。
樺太は「鉄のカーテン」の向こう側へ
戦争という波だけでなく、ソ連と接している樺太は政治的な波にもさらされました。
1956年まで、日本とソ連は国交が回復されます(【日ソ共同宣言】)。それまではソ連により抑留された日本人のことが伝えられなかったのです。
さらにこの政府間の取り決めにより、取りこぼされる人々も出てきます。
冷戦という時代は、西側と東側陣営の諸国間に「鉄のカーテン」と呼ばれるほどの分厚い隔たりが生まれた時代でもありました。
日本とソ連の間でもこのカーテンがかかり、引き離されてしまった人々がいます。
ソ連領サハリン州となった樺太には、「日本人はいない」とされました。
やむを得ない事情で残った日本人が実際にはいたにもかかわらず、政治的には存在しないこととされたのです。
仮にチカパシとエノノカが、サハリン州にいたとしましょう。
彼らは収容所から解放されて、民間人として暮らすことになり、そうなると、彼らが存在したかどうかすら、日本にいる谷垣には知る手段がありません。
問い合わせるにしても、ロシア語を用いてソ連政府に聞いてみるしかない。
谷垣がロシア語のできる月島と連絡し、なんとか手紙を送ったとしても、答えはこうなったと推察できます。
「樺太アイヌは日本人である。日本人はもうサハリン州には存在しない。彼らは引き揚げた」
「もしもいるとしたら、彼らは自由意志でソ連に残ったのだ。帰国する意思はない」
こうして政治的な波によって消されてしまった人々。
サハリン州に残った日本人は、細々と流れてくるNHKラジオの音を拾い、祖国を思い出す。そんな歳月が長く続きました。
サハリン在住日本人の帰国運動が始まったのち、国会で審議されたのは、実に1990年のことです。
チカパシとエノノカは1895年頃の生まれと推察できるので、その頃まで生きていた可能性は低い。
彼らがサハリン州に住み続けていたら、2世や3世の時代となっています。
時代の波に消されたような人々の声が広く日本で認識されるようになったのは、1991年のソ連崩壊前夜のことでした。
歴史的な波をいくつ超えたら、再会できたのか?
大粒の涙をこぼし、谷垣と別れたチカパシ――彼らは再会の機会に恵まれなかった、というのが公式見解です。
もしも再会を果たすとすれば、どれだけの障壁を越えねばならなかったのか。
最後に確認してみましょう。
◆日本人として、北海道に戻った場合
・1945年8月、ソ連兵の侵攻をくぐりぬけ、北海道へたどりつく。ただしその場合、故郷である樺太には戻れなくなる
◆ソ連人として、サハリン州に残った場合
・谷垣はロシア語を駆使し、ソ連政府とかけあう
・それでもソ連政府相手にはどうにもならないことを、誰かに訴えねばならない。墓参を名目とした一団に参加する
・1990年頃まで生存し、国境を超えて出会う
両者の年齢を踏まえると、やはり再会は不可能なのでしょう……。
言うまでもなくこれは『ゴールデンカムイ』のキャラクター同士の話だけではありません。
苦難を味わった人々は実在したのです。
やんちゃな笑顔のチカパシ。
そろばんを弾いていたしっかりもののエノノカ。
あの無邪気な子どもたちは、歴史的な波に飲まれてゆきます。
チカパシが谷垣からゆずられた銃で、彼はソ連兵と戦うことになるかもしれない。
エノノカは犬たちを置き去りにできず、樺太にとどまることを願うかもしれない。
『ゴールデンカムイ』は厳しい世界です。
鶴見にせよ、尾形にせよ、辛い人生を送っています。
日露戦争を生き延びた時点で、誰も彼もが過酷な思いを味わっています。
しかし、彼らの苦難は過去にあるともいえる。いや、杉元たちだってもちろん戦争に巻き込まれます。
それでも北海道や本土に暮らしていることでしょう。和人や和人の配偶者として生きる道を選んでいます。
しかし、チカパシとエノノカは、あの戦争の中で樺太に生きるアイヌとなります。
彼らのその後について語るとなれば、数コマや数ページだけでは到底間に合わない。ゆえに「歴史的な波」という表現でまとめるしかなかったのかもしれません。
樺太の運命と、そこにいた人々の苦難は、戦争の記憶からも抜け落ちやすいもの。
そんな苦悩を知り、さらに調べてみようという読者が増えれば『ゴールデンカムイ』の意義はさらに高まることでしょう。
最終回でも描かれなかったからこそ……チカパシとエノノカが巻き込まれる波のことを思い巡らすと、今も胸が苦しくなってしまいます。
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
金子俊男『樺太一九四五年夏』(→amazon)
小川エイ一『樺太・シベリアに生きる』(→amazon)
川嶋康男『永訣の朝 (河出文庫)』(→amazon)
野田サトル『ゴールデンカムイ公式ファンブック 探究者たちの記録』(→amazon)
他
https://bushoojapan.com/historybook/historycomic/2024/08/22/176523