PHPオンライン衆知 2021/08/07 12:00

かつて教科書から消えた縄文時代。
しかし歴史作家の関裕二氏によれば、日本史の常識は覆った。渡来文化よりも縄文文化の影響が圧倒的だったのだという。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
一度、教科書から消えた縄文時代
ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。
なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。
しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。
その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。
たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。
神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。
さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。
似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。
かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。
しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。
奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。
「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。
つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。
ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。
次のような指摘もある。
縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。
この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。
戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害
農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。
すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。
この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。
ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。
戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。
生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。
もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。
入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。
たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。
そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。
縄文時代に対する見方が変わってきた
つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。
「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。
縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。
しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。
たとえば谷口康浩は、次のように述べている。
狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)
縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。
物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。
しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。
1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。
たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。
縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。
クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。
ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。
縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。
近代日本人が縄文人を野蛮視した
あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。
そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。
ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。
そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。
そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。
縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。
さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。
そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。
また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。
この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。
縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。
平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。
特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20210729204408120.html

かつて教科書から消えた縄文時代。
しかし歴史作家の関裕二氏によれば、日本史の常識は覆った。渡来文化よりも縄文文化の影響が圧倒的だったのだという。
※本稿は、関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
一度、教科書から消えた縄文時代
ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。
なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。
しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。
その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。
たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。
神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。
さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。
似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。
かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。
しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。
奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。
「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。
つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。
ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。
次のような指摘もある。
縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。
この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。
戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害
農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。
すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。
この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。
ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。
戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。
生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。
もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。
入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。
たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。
そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。
縄文時代に対する見方が変わってきた
つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。
「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。
縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。
しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。
たとえば谷口康浩は、次のように述べている。
狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)
縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。
物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。
しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。
1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。
たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。
縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。
クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。
ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。
縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。
近代日本人が縄文人を野蛮視した
あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。
そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。
ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。
そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。
そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。
縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。
さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。
そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。
また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。
この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。
縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。
平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。
特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20210729204408120.html