リアルサウンド 2024.07.03 18:00 文=杉本穂高
原爆を点でなく線で捉える
本作の重要なポイントは、原爆という事象を歴史の「点」ではなく、長く続く「線」として捉えている点にある。アイリーン・ルスティック監督の言葉を借りると「原爆をコンディション(状態)」として描き出そうという姿勢を持っているのだ。
原爆は、ただの威力の大きい爆弾ではない。その被害は何十年、何百年、何千年、あるいは何万年にも渡る深刻な被曝や土壌汚染をもたらす。『オッペンハイマー』が描くことのなかった核の汚染被害に目を向けている点でも、本作はノーランの映画を補完する効果を持っている。
その姿勢を明確にするためか、本作のファーストシーンは土壌汚染の浄化作業の現場から始まる。「ここは何億年後でも使えないかもしれない」という言葉に、核がもたらす不可逆の被害は、まさに一過性のものではなく「状態」となってしまうことの恐ろしさが宿っている。
そしてこの映画は、ハンフォード・サイトとリッチランドの土地は元々、先住民族のものであったことを伝えることも忘れていない。土壌汚染によって返すことのできない土地となってしまった事実とともに、本来の所有者から、祖先から受け継がれてきた大地をアメリカ政府が奪い取ったという事実もまた「状態」と化してしまっていることをも描き出している。アメリカ国内にも、原爆で甚大な被害を被った民族がいたということ。20世紀のアメリカの繁栄の中、不可視化され続けてきた不都合な事実に本作はカメラを向けている。
日本人はこの映画をどう観るべきなのか
この映画に映っている人々は、日本人にとって「もう一方の当事国の人々」という他者である。本作が貴重なのは、そんな人々のリアルな姿を冷静に見る機会を与えてくれることにある。
中には、日本人にとって不快な言葉もある。しかし、何か物事を前進させようと思うのならば、他者を知ることから始めるしかない。
実際に映画の中で、そんなリッチランドの人々という他者との対話を試みる日本人が登場する。広島出身で原爆サバイバーの祖父を持つアーティスト、川野ゆきよ氏がこの町を訪れ、「正直に言って居心地が良くない」と語りながらも彼女は、他者との対話を止めない。
彼女の言葉を静かに聞く町の人々は、少なくとも他者の言葉を聞く姿勢を持っている。
この映画を日本で観るということは、そのように他者の言葉を受け取る姿勢を持つということだと筆者は思う。他者の言葉を聞くことで、私たちはこれまでとは異なる視点を持つことができるようになる。被爆国である日本から決して出てこない言葉がこの映画にはたくさんある。他者を学ぶことができる貴重な機会を本作はもたらしてくれる。
映画は最後に川野氏のインスタレーションアートを映しだす。祖母の残した布を川野氏の髪の毛で編んで原爆をかたどったこのアート作品を、真下から見上げるショットで映画は幕を閉じる。
思えば、落下する原爆を下から見上げた映像というものは見たことがない。原爆の映像は、遠くから撮られたキノコ雲か、それを落とす戦闘機から見下ろす映像か、運ばれていく爆弾を横から見つめたものくらいだ。原爆を見上げられる位置にいた人々はみな吹き飛んでいるのだから、そんな映像が残るはずもないからだ。
疑似的に原爆を再現したアート作品とはいえ、この映画は生きている人類が体験したことのない視点を最後に提供している。他者を知ることは、異なる視点を獲得するということでもある。この映画の姿勢を象徴する、見事な締めくくりだ。
■公開情報
『リッチランド』
7月6日(土)より、シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次公開
監督:アイリーン・ルスティック
撮影:ヘルキ・フランツェン
編集:アイリーン・ルスティック
音響デザイン:メイル・コスタ・コルバート
エグゼクティブ・プロデューサー:ドーン・ボンダー、ダニエル・J・チャルフェン、マーシー・ワイズマン
プロデューサー:アイリーン・ルスティック、サラ・アーシャンボー
製作:コムソモール・フィルムズ
配給:ノンデライコ
2023/アメリカ/93分/カラー/5.1ch/DCP
©2023 KOMSOMOL FILMS LLC
杉本穂高