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没後50年「チェ・ゲバラ」と革命戦に散った日系人ゲリラの壮絶人生

2017-12-30 | 先住民族関連
news.livedoor.com 2017年12月29日 8時0分 デイリー新潮
(C)2017 “ERNESTO” FILM PARTNERS
没後50年「チェ・ゲバラ」と革命戦に散った日系人の壮絶人生――伊高浩昭(上)
 今年が没後50年だったチェ・ゲバラ。彼の部下に日系2世のゲリラがいた。ボリビア出身の医師補「フレディ前村」――。映画「エルネスト もう一人のゲバラ」でオダギリジョーが演じた主人公である。25歳の若さで散った、この知られざる「侍」の生涯を紹介する。
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 キューバ革命立役者の一人、アルゼンチン人エルネスト・チェ・ゲバラ(1928~67)。晩年、彼の部下に日系2世のゲリラがいたという事実をご存じだろうか。
 ゲバラがボリビアでのゲリラ戦のさなかに捕らえられ、処刑されてから今年10月で半世紀。この時期に合わせて公開された日本キューバ合作映画「エルネスト」(阪本順治監督、キノフィルムズ)では、オダギリジョーが主人公の日系ボリビア人医師補、フレディ前村(1941~67)を演じている。ゲバラの下で戦い死んだこのフレディこそ、かの日系ゲリラである。この映画で初めてフレディの存在が日本で脚光を浴びることになった。
 フレディはゲバラの死に39日先立つ1967年8月31日、ボリビア軍に処刑されている。25歳と10カ月の短い生涯だった。ゲバラ部隊におけるフレディの存在は処刑直後の報道で明るみに出ていたが、経歴が不明で謎めいた存在だった。
 当時、共同通信メキシコ通信局の駆け出し記者だった私(伊高)は、ゲバラとフレディの死の報に接し驚いたものだ。かの日系ゲリラが鹿児島県頴娃(えい)町出身の移住者・前村純吉(1893~1959)の息子と判明したのは、しばらく後のことだ(日系の血を誇りとする前村一族の希望もあって、本稿でも苗字は漢字で「前村」と書くことにした)。
「南米革命」の起爆剤
 時代は飛び、2007年のこと。私は当時の駐日ボリビア大使ハイメ・アシミネから、ある相談を受けていた。フレディ前村の実姉マリー前村と、マリーの息子エクトル・ソラーレス前村が06年、ボリビアの政治首都ラパスで出版した『革命の侍』を、日本語版として刊行できないかと持ち掛けられたのである。フレディが留学しゲバラに出会ったキューバでの聴き取り調査やわずかに残された資料を踏まえて、フレディの半生を丹念にたどり、証言に基づいて心情描写に創作を加えた物語形式の伝記だった。
 面白く読んだ私は、早速、東京の出版社に持ち掛けた。その結果、日本語版(松枝愛訳、長崎出版)は09年、フレディの42回目の祥月命日に出版された。そして、めぐりめぐってこの本を阪本監督が読み、映画制作を着想したのである。同書は絶版となったが17年9月、映画封切りに先立ち、『チェ・ゲバラと共に戦ったある日系二世の生涯――革命に生きた侍』(キノブックス)として甦ることになった。
 なぜフレディはゲリラとなって戦ったのか。ここでボリビアとはどんな国かを簡単に紹介しよう。フレディのバックボーンが見えてくるはずである。
 ボリビアは南米中央部にあり、地勢は大きく分けて中南部がアンデス山脈と高原地帯、北東部がアマゾニア(アマゾン川流域地帯)の熱帯雨林と大平原に二分される。面積は日本の3倍近い。人口1000万人の6割方はアイマラ人、ケチュア人など先住民族。石油、天然ガス、リチウム、錫、鉛、亜鉛、アンチモン、タングステンと資源が豊かだ。ウユニ塩湖や、ペルーと分かち合うティティカカ湖がある。
 1825年に独立したが、植民地時代さながらスペイン系など少数白人層と、その利益を守る軍部が国政を長らく支配していた。そして1899年以降、日本人移住者が隣国ペルーなどから流入、小規模ながらボリビアに日系社会が生まれた。第2次世界大戦後は米軍基地建設で土地を奪われた沖縄県民らが移住してきて、日系社会は膨らんだ。
 朝鮮戦争で東西冷戦が激化しつつあった1952年、鉱山労働者を主体とするボリビア革命が起きた。だが米国の反共政策と相俟って変革政策は深化を阻まれた。ゲバラは革命の翌年、ボリビアを旅行するが、後年、自身の祖国アルゼンチンの解放を最終目的とする「南米革命」の起爆剤としてボリビアでゲリラ戦を展開することを画策する。
 ゲバラは、ボリビア革命が中途で挫折したにせよ、人民蜂起の可能性はあり、反革命戦略を展開する米軍の存在がボリビアでは希薄と見て、戦場に選んだのであった。
ゲバラとの運命的な出会い
 フレディ前村は、アマゾニアのベニ州州都トゥリニダーで1941年10月18日に生まれている。父親の前村純吉は20歳だった13年に、ペルーへ移住したが、20年代にアンデス山脈を徒歩で越え、天然ゴム景気に沸いていたボリビアのアマゾニアに入った。
 行商で資金を蓄えトゥリニダーに雑貨店などを開いて成功した純吉は、スペイン系ボリビア人女性ローサ・ウルタードと結婚。長女マリー、二男フレディら3男2女が生まれた。地元では目立って裕福な家庭だった。
「フレディは、貧しい人々が医者にかかれない冷酷な現実を幼年時代に悟り、医者ごっこで必ず医師を演じ、恵まれない人々に無料で医術を施すと言っていました。父親から律儀、一徹、勤勉、責任感など日本人の特性を一番受け継いだのがフレディで、社会の不公正を憎む正義派になり、中等学校時代に共産党青年部員として活動していました」
 こう語るのは、フレディの姉で『革命の侍』の著者マリー前村。共著者で息子のエクトルと共に2009年来日した際、じっくり話を聴く機会があった。
「フレディは成績優秀で、ラパスの大学医学部を志していました。ところが共産党青年部に入っていたことが災いし入学の道を絶たれてしまい、打開の道を探っていたんです。そんなとき光明が差した。革命から3年余り経っていたキューバが医学留学生を募集し、フレディは志願し合格して1962年4月、ハバナに行くことになりました」
 当時、キューバの首相だったフィデル・カストロ(1926~2016)が国立ハバナ大学付属校として創設した「ヒロン浜勝利医学校」の第1期生として、フレディは入学することになる。その年(62年)10月には、米ソ両大国が核戦争の瀬戸際まで進んだキューバ危機が勃発。フレディは留学生仲間と共に志願民兵として対空砲部隊に配属された。この場面も映画「エルネスト」に生々しく描かれている。
 危機は収束したが、東西冷戦の最前線に身を置く決死の体験を積んだフレディは、「無私と愛他主義で革命に積極的に参加する〈新しい人間〉」の考えに次第に傾倒してゆく。「新しい人間」――これぞ、ゲバラが希求した革命家の理想像だった。医学留学生の中で成績トップのフレディは授業で教授の助手を務めていたが、63年の正月休暇を、憧れのゲバラと過ごした後、革命家の道を志すことになる。
 この頃、30代半ばに達していたゲバラは、体力的にゲリラ戦に耐えられるのは数年しかないと踏んでいた。そうなると、ボリビア遠征計画は急ぐしかない。そんな時、同志として理想とする「新しい人間」の典型のような医学生、フレディ前村が眼前に現れたのである。かつて自らも青年医師だったゲバラは、自分の分身を見たような思いに駆られていたことだろう。ゲバラがフレディを特に日系人と意識していた様子はなく、フレディも自分はゲバラと同じラテンアメリカ人だと自覚していた。だからこそ、2人は革命の同志になり得たのだ。
 また、ゲリラ部隊に医師は欠かせない。志操堅固なフレディこそ、祖国ボリビアで革命戦争を戦うべき適任者だった。ゲバラは躊躇せずフレディを遠征部隊に組み入れ、自分の名「エルネスト」と「エル・メディコ(医師)」の2つをゲリラ名としてフレディに贈った。「医師」の呼び名は、医師免許をもらうことなく医師補としてボリビアに赴かねばならないフレディへのオマージュでもあった。(敬称略)
(下)へつづく
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伊高浩昭(いだか・ひろあき)
1943年生まれ。ジャーナリスト。元共同通信記者。著書に『チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア』(中公新書)など、『キューバと米国』(LATINA)が来春刊。
「週刊新潮」2017年12月28日号 掲載
http://news.livedoor.com/article/detail/14093994/
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