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「一人で食べる」「誰かと食べる」どちらか一方を選ばなくてもいい…世界中の多様な食卓から考える、共食と孤食の間にあるもの

2024-08-31 | 先住民族関連

現代ビジネス 2024/08/30

岡根谷 実里(世界の台所探検家)

世界の食卓の例から孤食について書いてください、と依頼をいただいた。気が進まなくて、ふた月漬けてしまった。この話題は共食推進派と孤食肯定派の主に二つの立場があるが、いずれにしても「べき」論になりがちで、窮屈に感じるのだ。

両親がいて子どもがいて一家そろって夕飯を食べるのが「家族の形」であったのは過去の話。今や日本の世帯の4割弱は単身者(令和2年(2020年)国勢調査より)で、子どものいるいない、共働きかどうか、生活スタイルも様々。これだけ多様になっている社会で、食卓のあり方もひとくくりにしてあるべき姿を語るのは非常に困難だから、この議論からは距離を置くことにしていた。

しかし、考えてみたらそもそも食事のあり方が「共食」「孤食」の二つしか可視化されていないこと自体が、現代社会においてなんとかできることなのではないか。共に食べると一人で食べるの間にある多様な食卓を描くことで、もっと風通しよく、自由に豊かな食卓を作れるのではないか。そう思って書くことにした。

何人で食べるという議論を超えて、生活を満たす食卓を創造する手がかりになれたらうれしい。

南米ペルーのケチュア族の家庭へ

私は世界各地の家庭を訪れ、日々の料理を一緒に料理をさせてもらうことを続けてきた。南米ペルーを訪れた時は、富士山頂くらいの標高に住むケチュア族の農家に滞在した。ケチュア族はアンデス山脈に住む先住民の一つで、高地の標高差を利用した農業技術に長けている人々だ。鮮やかな色の服を着て、女性は年配の方でも長い三つ編みに膝丈スカート、山岳民族らしく身長は低くて、どこか親しみのわく姿だった。

「一人で食べる」「誰かと食べる」どちらか一方を選ばなくてもいい…世界中の多様な食卓から考える、共食と孤食の間にあるもの

© 現代ビジネス

お世話になった家は50代の夫婦二人暮らしで、隣に住む娘夫婦とともに、日々畑仕事や家畜の世話をしていた。私が訪れた6月頭はちょうどじゃがいもや穀類の収穫シーズンでとびきり忙しい時期。朝は日の出前の5時には起きて畑に向かい、日が沈むまで仕事を続ける生活だった。

連携プレーで進む農作業

私も一緒に農作業をしていたのだが、「それ持って」と言われたじゃがいもの袋は重すぎて持ち上がらず、「ロバを見ててね」と言われてもロバは逃げるし、役立たずを痛感しながらそんなことも言っていられないので働いていた。やらなければいけないことは膨大にあり、季節は待ってくれない。夫セレスティーノは妻に向かって「君が豚の餌やりをしている間にぼくがあっちの畑を見てくる」なんて言って二人で連携し、息つく暇もなく仕事を片付けていくのだった。

日が沈んだらようやく、家に入って夕飯の支度だ。妻サントゥサがかまどに火を起こし、米を火にかける。標高が高いので沸点が低く、炊けても芯まではやわらかくならない。そのパリパリのご飯を各人の皿に盛り付け、カリッと揚げ焼きにした目玉焼きと油でふにゃふにゃのフライドポテトを山盛りのせた。立ち上る湯気が、早く食べてくれと誘ってくる。

団らんよりも尊いひとり飯

ここからが不思議で。この台所兼居間には、立派なダイニングテーブルがある。8人くらいはゆうに腰掛けられるものだ。しかし二人ともこのテーブルにはつかず、幼稚園のイスのようなサイズの台所仕事用腰掛けを動かして、台所の床の好きなところに座って食べ始めるのだ。セレスティーノはお笑いみたいなYouTube動画を観ながら時々笑って、サントゥサはそんな夫に背を向ける角度で一人黙々食べる。まったく会話をしない。私は手持ち無沙汰で「おいしいね」などとサントゥサに話しかけるけれど、「うん」程度のつれない返事。特に話したい気分でもないようだ。

食卓があるのに食卓につかず、同じ部屋にいるのに会話をせず、スマホ見ながらの"ながら食べ"。およそ規範と言えるものをすべて吹き飛ばし、同じ空間にはいるけれども「孤食」や「個食」という言葉の方が相応しい光景だ。

しかし、この空間に一緒にいると、そんな陳腐な言葉で表しては失礼だと思うくらい豊かな時間に感じられたのだった。二人は、一日中ずっと一緒に仕事していてもはや話すことなんかない。仕事中はスマホを取り出す暇もなく、食事の時だけがゆっくり座っていられる「自分の時間」なのだから、好きな動画の一つも観たいだろう。

日本社会で共食が大事とされる理由の一つに、家族のコミュニケーション(団らん)の場であることがしばしば挙げられるが、この夫婦のどこにこれ以上コミュニケーションの必要があろうか。

現代日本の家庭においては、仕事や学校に行ったり個人個人が忙しく、家にいてもそれぞれやることがあって、家族が集えるのが食卓くらいしかないという状況もある。そういう環境で食卓に期待がかかるのは自然なことではあるが、一方で食卓に期待をかけすぎなのではという気もする。共食が家族の問題のすべてを解決する唯一の鍵ではない。家族でありながら家にいなくてコミュニケーションが足りないのだとしたら、それは共食の推進ではなく働き方の変革が必要だ。

台湾の首都・台北の"自助餐"

台湾の首都台北は、世界で最も外食文化の発展している都市の一つだ。単身者用のアパートにはキッチンがないのが普通で、ついていたとしても一人分作るよりは外食した方が安いという話もある。台湾の世帯構成において単独世帯の割合は約15%(中華民國統計資訊網、2023年)で日本の半分程度だが、年々増えている。

そういうわけで、街には「孤食」する人たちの姿があふれている。いろんな食事の場がある中で、私が気に入ったのは自助餐という形態の店だ。一言で言うとビュッフェ形式。おかずを選んでお店の人に詰めてもらう形式の店もあるが、多いのは、ずらっと並んだ数十種類のおかずから自分で好きなものを好きなだけとって重量に応じてお金を払うという完全セルフサービス形式だ。

野菜料理が50種類も...

個人店も多いが、全国規模のチェーン店もある。「全國素食」はベジタリアンの料理に特化した全国チェーンで、仏教に基づく菜食者が多い台湾では老若男女に利用されている。

「あそこはいいよ」とお世話になっていた夫婦に連れて行ってもらったのだが、店に入ると冷菜から温菜から揚げ物まで50種類ものおかずが並んでいて、寿司のようなものも目に入り、テンションが上がった。店舗によるがだいたい昼から夜にかけて営業していて、次々人がやってくるのでそれにあわせて常に作りたての料理が補充されるのだそう。

散々迷いながらとった料理は、シンプルな青菜炒めから、揚げ豆腐、寿司のような野菜ロール、大豆由来の鶏ハム風など。食感や味わいが多様で、食べるのが楽しく、ちょうどよいくらいにおいしい。レトルトやファストフードのような濃い味はなく、油も塩も控えめで家のごはんのようなのだ。ご飯もつけて120元(約500円)。ランチに弁当を買うのと同じくらいだ。テイクアウトもできるが、店内で食べるとスープとご飯がおかわり無料なのでちょっとお得。本当に家みたいだ。

連れていってくれた30代の夫婦は、それぞれ好きなものをとって食べながら「職場の近くにあるからランチに時々行くんだよ」と言っていた。確かに昼時はそういう人たちが多そうだ。しかしこの日私たちが行った夕方の時間帯はまた様子が違っていて、年配の一人客が多かった。ふらっと一人で入って一人で食べていくのだ。男性も女性もいて、その人たちが一人暮らしなのか家族がいるのかは、わからない。けれどいずれにしても、その日最後のしっかりした食事をここで食べて家に帰るのだ。

健康的な一人の食事

この形式はなかなかいい気がする。健康的な食事が、個人にとっても社会にとっても効率よく食べられるからだ。だって、これだけの品数の料理を家で作ろうとしたら大変なことだ。野菜の料理はこと手間がかかるし、世帯人数が少なければなおさら、2品作るのだってめんどくさい。台湾は共働き家庭が多いし、台所がない家庭もあるという状況を考えても、街の台所機能を集約して大勢分を一ヶ所で作るというのは、なかなか都合が良いのではないか。

孤食の問題点として指摘されることの一つが、栄養が偏ったり不足しがちだという主張だ。たしかに、誰も見ていない一人の食事はいい加減になりがちだ。作るにしてもたくさんの品数は作れないし、面倒なのでスナック菓子で済ますという話も耳にする。しかしこれは、一人で食べること自体が問題なのではなく、一人で食べる場合に栄養バランスの良い食事を食べるのが難しいという点がポイントなのではないかと思う。自助餐のような形は「ひとりでも健康的な食事」を実現する一つのあり方だ。

これを孤食と呼ぶのか共食と呼ぶのかはよくわからない。一人で来て一人で食べ、特に相席した人と会話するわけでもないので、孤食といえばそうなのかもしれない。けれど、人の目があることで私は「それなりにバランスよく取らないとかっこ悪いな」という気持ちが起こって一応意識したし、人の声がする空間で食べるのは、誰も見ていない家で食べるのとはやっぱりちがう。孤独でもなく煩わしくもなく、適度に人の気配がありちょうど良いバランスなのかもと思う。

台湾のコンビニでも

ちなみにこの絶妙なバランスは、台湾のコンビニでも感じた。多くの店舗で広いイートインコーナーが設けられていて、そのテーブルが大きいのだ。それを囲んで食事をとる客同士はもちろん知り合いでもなければ会話することもない。けれど円卓の一角に自分の場を得る感覚は、壁に向かって食事を済ませる日本のコンビニのイートインコーナーとは違っていて、新鮮だった。些細なことだが、人の目があると多少しゃんとするものだ。

孤食と共食の間

ほかにも、いろんな食卓に遭遇してきた。

男女平等が世界一進んでいるアイスランドでは「食べ物は冷蔵庫に入っているから夕飯以外は好きに食べておいてね!」と言われ、お茶も食べ物も強要しないのが自立した個人を尊重することだと教わった。

南米コロンビアの山の上に生活する一家は、共に食べることをとても大事にしているけれど、昼食がメインなので夕飯は軽く、各自好きなものを手に取って部屋の中の好きなところで食べるスタイル。好き勝手過ごしながらなんとなく会話していて、そんなゆるさも心地よかった。そういえばこの家でも食卓はあるけれど、夕飯には使わなかった。

そもそもの文化背景が異なるから参考にならないかもしれないが、現代日本もそれくらい多様だ。

ただ、今まで訪れた中で「一人で食べる方が素晴らしい!」と捉えられている文化圏はひとつもなかったという点は強調しておきたい。程度の差こそあれ「一人で食べるのは何かが足りない・かわいそう」という観念はあって、それと「いやいや独立した大人だし」の間で揺れているというのが、多くの社会の現在地なのではないかと思う。人類がこれだけ普遍的に重要性を感じているのだから、共に食べることは、やはり何か大事な意味を持っているのだろう。

人と食べることの良さも抱き締めた上で、不要な共食プレッシャーは解き放ち、今日を生きる一人一人にとって健やかで心地よい食卓を作っていけたらいいと思う。

参考:

農林水産省「みんなの食育 みんなとたのしく食べること」

農林水産省「食育の推進に役立つエビデンス(根拠)(1)共食をするとどんないいことがあるの?」

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/一人で食べる-誰かと食べる-どちらか一方を選ばなくてもいい-世界中の多様な食卓から考える-共食と孤食の間にあるもの/ar-AA1pFL9k?ocid=BingNewsVerp

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