毎日新聞7/30(土) 6:00配信

遺骨のゲノム研究成果を伝える論文や報道、世界の研究者による倫理ガイドライン=京都市上京区で2022年7月15日午後1時42分、千葉紀和撮影
過去を生きた人々の遺骨に、技術革新が新たな価値をもたらしている。骨のゲノムを調べる最先端の人類学研究は、従来の考古学や歴史学に基づく定説を続々と書き換える一方、国内外で民族や先住性を巡る新たな争いも引き起こし、研究倫理や成果の悪用が問題化している。遺骨を巡る「ゲノム革命」の光と影を追う。
◇イスラエル首相の投稿波紋
「イスラエルの地とパレスチナ人とのつながりは、ユダヤ人との4000年にわたるつながりに比べれば何でもない」
混迷するパレスチナ問題を巡り、イスラエルのネタニヤフ首相(当時)が2019年7月、ツイッターに発信した内容が、世界に波紋を広げた。遺骨を用いた最新のゲノム研究がこう証明したとして、占領を正当化したのだ。
研究成果は同じ月、ドイツのマックス・プランク研究所などが科学誌に発表した。イスラエル南岸の古代都市の遺跡から出土した青銅器時代と鉄器時代の骨のゲノム解析で、論争が続いてきたペリシテ人の来歴の一端を解明したという。
ペリシテ人とは、ユダヤ教の聖典・旧約聖書に最大の強敵として登場し、パレスチナの地名の由来でもある。論文の要点は複数あるが、保存状態の良い10体の骨から抽出したDNAを調べ、別の地域や時代のゲノムデータと比較。変異や類似性をたどった結果、「ペリシテ人の祖先は南欧から来た」という従来の仮説を科学的に裏付けたと解釈できた。右派政党を率いるネタニヤフ氏は、彼らが「新しい移民」に過ぎず、土地の先住権は自分たちにあると単純化したと言える。
この主張には各界から異論が相次いだ。理解が短絡的な上、パレスチナの人々は長きにわたり土地に住み続け、国連決議などで定められた権利を要求している。科学の知見だけで占領が容認されるはずはない。
だが、古代人のゲノム研究から自国や民族の歴史を都合良く解釈して政治利用する動きは、ハンガリーのオルバン首相ら、強権的とされる指導者に拡大。研究者の間に危機感が高まった。
◇「国際的に通じる指針」作成
21年10月、英科学誌ネイチャーに「遺骨を用いたDNA研究の倫理」と題するガイドラインが発表された。手がけたのは、世界31カ国64人の人類学者や遺伝学者ら。国際的に通じる指針を目指し、前年からオンラインで議論してきた。
最新のゲノム研究から、人類の過去には異なる集団同士の交雑、つまり子孫を残すことが、大規模に何度も起きたことが明らかになってきている。指針はこうした科学の蓄積が「あらゆる集団の『純粋』という神話を否定し、人種差別や民族主義的な物語の偽りを立証してきた」と強調。「遺伝データをアイデンティティー(自己同一性)の決定要因として用いるのは不適切だ」とくぎを刺した。
その上で「人骨の損傷を最小限に抑える」「研究当初から遺骨の関係者と関わって敬意と配慮を持つ」など、研究者が守るべき5項目を挙げた。
日本から議論に加わった札幌医科大の松村博文教授(形態人類学)は「例えば北海道で出土した人骨は、先史時代であろうとアイヌの祖先の骨であることは間違いない。だが、今の民族とその祖先をどう結びつけるかといった点はデリケートな場合もあり、研究が思わぬ影響を及ぼすこともある。だから研究者は、情報をオープンにして関係する方々に説明を繰り返し、もし理解が得られなければ退くことも大切だ」と話す。
◇「人種」概念の正当化も
この指針を作る中心を担ったのは、米ハーバード大のデイビッド・ライク教授(遺伝学)のグループだ。ライク氏は古代DNA研究のパイオニアで、人類史を一新する注目度の高い論文を量産。15年には、ネイチャーから「今年の重要な科学者10人」に選ばれた。
第一人者が、倫理面でも議論を主導するのは望ましい。ところが学界では、ライク氏自身の研究のあり方が問われてきた。潤沢な研究予算を背景に、アフリカや太平洋の島国などから人骨や遺伝データをかき集め、時には先住民族の骨を一方的に利用したとされる。その姿勢は「バイオ植民地主義」として、先進国で使われる医薬品開発のために発展途上国の生物資源を収奪するのと同様に非難を受けている。
さらに問題なのは、科学的根拠がないとされてきた「人種」概念を正当化するような主張を続けている点だ。悪名高いナチス・ドイツの人種差別を想起させ、多数の研究者から連名で批判される事態に発展した。
そのため「指針作りはパフォーマンスだ」という冷めた見方も根強い。デンマークのコペンハーゲン大で研究する自然人類学者の澤藤りかいさんは「世界の研究者が集まって指針を作成したことには意味があるが、一部の研究者だけで勝手に作っているとの異論も少なくない。さらなる話し合いが世界的にも局所的にも必要で、細かな指針を作るため実際に動いているメンバーもいる」と語る。
遺骨のゲノム研究は成果の政治利用だけでなく、研究者の姿勢自体も世界では問われている。【千葉紀和】
https://news.yahoo.co.jp/articles/4377ce6d635b173c2b29b40b463a471e6c50cefa


遺骨のゲノム研究成果を伝える論文や報道、世界の研究者による倫理ガイドライン=京都市上京区で2022年7月15日午後1時42分、千葉紀和撮影
過去を生きた人々の遺骨に、技術革新が新たな価値をもたらしている。骨のゲノムを調べる最先端の人類学研究は、従来の考古学や歴史学に基づく定説を続々と書き換える一方、国内外で民族や先住性を巡る新たな争いも引き起こし、研究倫理や成果の悪用が問題化している。遺骨を巡る「ゲノム革命」の光と影を追う。
◇イスラエル首相の投稿波紋
「イスラエルの地とパレスチナ人とのつながりは、ユダヤ人との4000年にわたるつながりに比べれば何でもない」
混迷するパレスチナ問題を巡り、イスラエルのネタニヤフ首相(当時)が2019年7月、ツイッターに発信した内容が、世界に波紋を広げた。遺骨を用いた最新のゲノム研究がこう証明したとして、占領を正当化したのだ。
研究成果は同じ月、ドイツのマックス・プランク研究所などが科学誌に発表した。イスラエル南岸の古代都市の遺跡から出土した青銅器時代と鉄器時代の骨のゲノム解析で、論争が続いてきたペリシテ人の来歴の一端を解明したという。
ペリシテ人とは、ユダヤ教の聖典・旧約聖書に最大の強敵として登場し、パレスチナの地名の由来でもある。論文の要点は複数あるが、保存状態の良い10体の骨から抽出したDNAを調べ、別の地域や時代のゲノムデータと比較。変異や類似性をたどった結果、「ペリシテ人の祖先は南欧から来た」という従来の仮説を科学的に裏付けたと解釈できた。右派政党を率いるネタニヤフ氏は、彼らが「新しい移民」に過ぎず、土地の先住権は自分たちにあると単純化したと言える。
この主張には各界から異論が相次いだ。理解が短絡的な上、パレスチナの人々は長きにわたり土地に住み続け、国連決議などで定められた権利を要求している。科学の知見だけで占領が容認されるはずはない。
だが、古代人のゲノム研究から自国や民族の歴史を都合良く解釈して政治利用する動きは、ハンガリーのオルバン首相ら、強権的とされる指導者に拡大。研究者の間に危機感が高まった。
◇「国際的に通じる指針」作成
21年10月、英科学誌ネイチャーに「遺骨を用いたDNA研究の倫理」と題するガイドラインが発表された。手がけたのは、世界31カ国64人の人類学者や遺伝学者ら。国際的に通じる指針を目指し、前年からオンラインで議論してきた。
最新のゲノム研究から、人類の過去には異なる集団同士の交雑、つまり子孫を残すことが、大規模に何度も起きたことが明らかになってきている。指針はこうした科学の蓄積が「あらゆる集団の『純粋』という神話を否定し、人種差別や民族主義的な物語の偽りを立証してきた」と強調。「遺伝データをアイデンティティー(自己同一性)の決定要因として用いるのは不適切だ」とくぎを刺した。
その上で「人骨の損傷を最小限に抑える」「研究当初から遺骨の関係者と関わって敬意と配慮を持つ」など、研究者が守るべき5項目を挙げた。
日本から議論に加わった札幌医科大の松村博文教授(形態人類学)は「例えば北海道で出土した人骨は、先史時代であろうとアイヌの祖先の骨であることは間違いない。だが、今の民族とその祖先をどう結びつけるかといった点はデリケートな場合もあり、研究が思わぬ影響を及ぼすこともある。だから研究者は、情報をオープンにして関係する方々に説明を繰り返し、もし理解が得られなければ退くことも大切だ」と話す。
◇「人種」概念の正当化も
この指針を作る中心を担ったのは、米ハーバード大のデイビッド・ライク教授(遺伝学)のグループだ。ライク氏は古代DNA研究のパイオニアで、人類史を一新する注目度の高い論文を量産。15年には、ネイチャーから「今年の重要な科学者10人」に選ばれた。
第一人者が、倫理面でも議論を主導するのは望ましい。ところが学界では、ライク氏自身の研究のあり方が問われてきた。潤沢な研究予算を背景に、アフリカや太平洋の島国などから人骨や遺伝データをかき集め、時には先住民族の骨を一方的に利用したとされる。その姿勢は「バイオ植民地主義」として、先進国で使われる医薬品開発のために発展途上国の生物資源を収奪するのと同様に非難を受けている。
さらに問題なのは、科学的根拠がないとされてきた「人種」概念を正当化するような主張を続けている点だ。悪名高いナチス・ドイツの人種差別を想起させ、多数の研究者から連名で批判される事態に発展した。
そのため「指針作りはパフォーマンスだ」という冷めた見方も根強い。デンマークのコペンハーゲン大で研究する自然人類学者の澤藤りかいさんは「世界の研究者が集まって指針を作成したことには意味があるが、一部の研究者だけで勝手に作っているとの異論も少なくない。さらなる話し合いが世界的にも局所的にも必要で、細かな指針を作るため実際に動いているメンバーもいる」と語る。
遺骨のゲノム研究は成果の政治利用だけでなく、研究者の姿勢自体も世界では問われている。【千葉紀和】
https://news.yahoo.co.jp/articles/4377ce6d635b173c2b29b40b463a471e6c50cefa