毎日新聞2016年5月19日 東京夕刊
先住民アイヌの祖先はどんな人たちだったのだろうか。百々(どど)幸雄・東北大学名誉教授(解剖学・形質人類学)が近著『アイヌと縄文人の骨学的研究−骨と語り合った40年』(東北大学出版会)で、自身の研究史を振り返りながら人類学研究の現在の到達点を示している。
アイヌは顔の彫りが深いことなど、本土日本人(北海道、琉球諸島以外の日本列島人)と違った特徴があり、かつてはコーカサス人種説(白人説)も唱えられた。百々さんは東北大学を卒業後、1969年に札幌医科大学に助手として採用され、翌年、発掘されたアイヌの頭骨に出合った。眉間(みけん)が盛り上がり、鼻の付け根が落ち込んで、鼻骨が前へ突き出るという立体的な顔の特徴が、研究しようと思っていた縄文時代人骨と共通していた。
そのころの骨の研究は、頭骨の長さや幅などを測る計測的方法が主流だったが、百々さんは、眼窩上孔(がんかじょうこう)(目の上の骨の小さな穴)など、身体機能に影響しないとみられる小さな差異(形態小変異)を比べる方法を選んだ。
遺伝的影響を見るのに適した形態小変異22項目について、各地で出土した古人骨や現代人骨の一点一点を観察して、あるなしを調べた。
縄文人(関東、東北)、大陸渡来系とみられる山口県・土井ケ浜遺跡と福岡市・金隈(かねのくま)遺跡の弥生時代人、古墳時代人、鎌倉時代人、室町時代人、江戸時代人、現代人(九州、東日本)、北海道アイヌの頭骨を比較した結果、縄文人と北海道アイヌだけがはっきりと別のグループに分かれた。
稲作文化が伝わらなかった北海道では、縄文時代の後も、続縄文時代と呼ばれる狩猟・採集文化の時代が続いた。続縄文人を加えて分析した結果では、縄文人、続縄文人、北海道アイヌが1群をなし、本土の弥生時代から現代までの集団と大きく離れた。アイヌが縄文人の直系の子孫で、渡来系弥生人の遺伝的影響をほとんど受けなかったことが明らかになった。
古代蝦夷(えみし)とアイヌの関係を調べるため、東北地方の古墳時代人、古代人(8〜10世紀)、江戸時代人と、関東以南の人骨を比較すると、九州−関東−東北−北海道アイヌ・東日本縄文人の順に並んだ。東北地方の住民は古墳時代から、アイヌや縄文人に多い特徴を持った人もいれば、西日本に多い特徴の人もいたとみられ、古代蝦夷がアイヌの祖先か本土日本人の祖先かの線引きはできないという結論になった。
百々さんは、縄文人から続縄文人、次の5〜13世紀ごろの擦文(さつもん)文化人を経て北海道アイヌが成立したと考えて2008年に定年退職したが、その後この結論に修正を迫るミトコンドリアDNAの研究成果が発表された。
擦文文化の時代、北海道北東沿岸部ではオホーツク文化と呼ばれる全く異質の文化が展開した。それを担った人たちの遺伝子がアイヌに受け継がれていることが明らかになったのだ。
オホーツク人は北東アジアに多い平らな顔で、北樺太(からふと)やロシア沿海地方アムール川下流域周辺の少数民族ニブフなどと同系統とする説が有力だ。百々さんは、頭骨の形態小変異でも同じことが言えるのかどうか、オホーツク人骨などを含めて頭骨の分析をやり直した。
その結果、図のように、北海道アイヌは北海道縄文人とオホーツク人の中間に位置し、オホーツク人が北海道アイヌに遺伝的影響を与えていることが裏付けられた。
弥生・続縄文時代以降、他から受けた影響の違いによって、濃淡はあるが、アイヌにも本土日本人にも縄文人の血が流れている。アイヌのルーツを探る人骨研究がアイヌ民族自身の手によっても進められるようになることが百々さんの願いだ。=毎月1回掲載します
http://mainichi.jp/articles/20160519/dde/014/040/006000c
先住民アイヌの祖先はどんな人たちだったのだろうか。百々(どど)幸雄・東北大学名誉教授(解剖学・形質人類学)が近著『アイヌと縄文人の骨学的研究−骨と語り合った40年』(東北大学出版会)で、自身の研究史を振り返りながら人類学研究の現在の到達点を示している。
アイヌは顔の彫りが深いことなど、本土日本人(北海道、琉球諸島以外の日本列島人)と違った特徴があり、かつてはコーカサス人種説(白人説)も唱えられた。百々さんは東北大学を卒業後、1969年に札幌医科大学に助手として採用され、翌年、発掘されたアイヌの頭骨に出合った。眉間(みけん)が盛り上がり、鼻の付け根が落ち込んで、鼻骨が前へ突き出るという立体的な顔の特徴が、研究しようと思っていた縄文時代人骨と共通していた。
そのころの骨の研究は、頭骨の長さや幅などを測る計測的方法が主流だったが、百々さんは、眼窩上孔(がんかじょうこう)(目の上の骨の小さな穴)など、身体機能に影響しないとみられる小さな差異(形態小変異)を比べる方法を選んだ。
遺伝的影響を見るのに適した形態小変異22項目について、各地で出土した古人骨や現代人骨の一点一点を観察して、あるなしを調べた。
縄文人(関東、東北)、大陸渡来系とみられる山口県・土井ケ浜遺跡と福岡市・金隈(かねのくま)遺跡の弥生時代人、古墳時代人、鎌倉時代人、室町時代人、江戸時代人、現代人(九州、東日本)、北海道アイヌの頭骨を比較した結果、縄文人と北海道アイヌだけがはっきりと別のグループに分かれた。
稲作文化が伝わらなかった北海道では、縄文時代の後も、続縄文時代と呼ばれる狩猟・採集文化の時代が続いた。続縄文人を加えて分析した結果では、縄文人、続縄文人、北海道アイヌが1群をなし、本土の弥生時代から現代までの集団と大きく離れた。アイヌが縄文人の直系の子孫で、渡来系弥生人の遺伝的影響をほとんど受けなかったことが明らかになった。
古代蝦夷(えみし)とアイヌの関係を調べるため、東北地方の古墳時代人、古代人(8〜10世紀)、江戸時代人と、関東以南の人骨を比較すると、九州−関東−東北−北海道アイヌ・東日本縄文人の順に並んだ。東北地方の住民は古墳時代から、アイヌや縄文人に多い特徴を持った人もいれば、西日本に多い特徴の人もいたとみられ、古代蝦夷がアイヌの祖先か本土日本人の祖先かの線引きはできないという結論になった。
百々さんは、縄文人から続縄文人、次の5〜13世紀ごろの擦文(さつもん)文化人を経て北海道アイヌが成立したと考えて2008年に定年退職したが、その後この結論に修正を迫るミトコンドリアDNAの研究成果が発表された。
擦文文化の時代、北海道北東沿岸部ではオホーツク文化と呼ばれる全く異質の文化が展開した。それを担った人たちの遺伝子がアイヌに受け継がれていることが明らかになったのだ。
オホーツク人は北東アジアに多い平らな顔で、北樺太(からふと)やロシア沿海地方アムール川下流域周辺の少数民族ニブフなどと同系統とする説が有力だ。百々さんは、頭骨の形態小変異でも同じことが言えるのかどうか、オホーツク人骨などを含めて頭骨の分析をやり直した。
その結果、図のように、北海道アイヌは北海道縄文人とオホーツク人の中間に位置し、オホーツク人が北海道アイヌに遺伝的影響を与えていることが裏付けられた。
弥生・続縄文時代以降、他から受けた影響の違いによって、濃淡はあるが、アイヌにも本土日本人にも縄文人の血が流れている。アイヌのルーツを探る人骨研究がアイヌ民族自身の手によっても進められるようになることが百々さんの願いだ。=毎月1回掲載します
http://mainichi.jp/articles/20160519/dde/014/040/006000c