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武田信広(下)「アイヌの蜂起」がもたらした覇権

2016-04-28 | アイヌ民族関連
2016.4.26 16:00更新
 若狭国(福井県西部)の名門・武田氏の出身か、あるいは下北半島の小土豪か? 出自は謎に包まれているものの今回の主人公、武田信広(1431~94年)は長禄元(1457)年、本州からはるばる蝦夷地(北海道)へと逃れてきた。新天地で再起を期す決心だったのだ。そして、時代は「北海道の戦国時代」へと突き進んでゆく。信広はどう戦い、覇権への道を歩んだのだろう。
 ●コシャマインとの戦い
 北海道で最も古い歴史書とされるのは江戸時代初期の正保3(1646)年、松前景広(まつまえかげひろ、松前藩初代・慶広の六男)が記した「新羅之記録(しんらのきろく)」である。「北海道の日本書紀」ともいわれるこの書物に従い、信広の奮闘ぶりを見ていくこととしたい。
 このころ、渡島半島南部には和人の設けた館が12あった(道南十二館=どうなんじゅうにたて)と書かれている。東端の志濃里館(しのりのたて、函館市)から、時計回りに半島西部、日本海側に面した上之国(かみのくに、檜山郡上ノ国町)花沢館まで並んでいる。12という数が正確かどうかは別として、それぞれの地域に土豪が割拠していたということだろう。
 信広がまだ、本州にいた康正2(1456)年春、彼の運命を変えるできごとが志濃里で発生していた。和人の経営する鍛冶屋にアイヌの青年が訪れ、注文していた小刀を受け取ろうとして、価格をめぐって鍛冶職人と口論となった。そして職人は激高のあまり、青年を小刀で殺害してしまったのだった。
 アイヌと和人はそれまで、基本的には平和裏に付き合っていた。和人はアイヌから毛皮などの特産品を購入するかわりに、工具や武器、コメなどを与えていたのである。
 ところが、この殺人事件をきっかけに、双方の関係が怪しくなった。翌年、アイヌの首長コシャマイン(胡奢魔犬)に率いられた男たちが道南で蜂起する。コシャマインは、道南東部のアイヌを統率していた勇者だったようである。
 当初、アイヌの勢いはすさまじく、志濃里館をはじめ10の城館が次々と落ちてしまったという。信広が蝦夷地に入ったのは、ちょうどこのころだったのだ。新羅之記録によると、信広は上之国花沢館の館主、蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の客将だったとある。
 ●軍功により蠣崎家を継ぐ
 函館市志海苔(しのり)町に、国の史跡に指定された「志苔館跡」という中世城館遺跡がある。コシャマイン蜂起のきっかけとなった志濃里館があったところで、約4100平方メートルが発掘調査され、土塁や井戸、掘立柱建物跡などが復元されている。この時代の本州にみられる山城とはタイプが違うが、激しい戦闘の行われたことを想像させる遺跡である。
 アイヌは東側から攻め立てたのだろう、現在の松前町に至るまでの海沿いの城館は、すべて落城してしまった。残るは信広らの籠る上之国の花沢館と、同じ上之国町の比石館(ひいしだて)だけになった。
 新羅之記録によれば、信広は残った軍勢の総力を挙げてアイヌと戦ったとある。そしてついに勝利し、コシャマイン父子を討ち取った。信広はこの軍功によって、蠣崎季繁の養女をめとり、蠣崎家を継ぐことになったとある。
 松前氏の歴史を研究している新藤透・山形県立米沢女子短大准教授(日本近世史)に、このあたりの真偽をただしてみよう。新藤准教授は、誇張も少なくないが信広がコシャマイン父子を討ち取ったことは間違いなく、蠣崎家を継いだのも史実だろうと見る。
 「しかし、これで道南の和人社会を統一できたわけではないでしょう。10の館の城主らも、討ち死にしてしまったのではなく、彼らとの争いは続いたと思います」
 ●子孫が成し遂げた大名化
 信広は上之国に、新たな居城として勝山館(かつやまだて)を築いた。標高約160メートルの夷王山(いおうざん)の中腹の尾根を利用した、防御性に優れた山城である。この城跡も発掘調査され、「上之国館跡」として国の史跡に指定されている。
 信広はこの地で生き、嫡男の光広をもうけた。そして明応3(1494)年、64歳で亡くなった。彼の代では「蝦夷地統一」という悲願は果たせなかったが、子孫は北海道唯一の松前藩主となって、明治まで続いた。信広の非凡さは、北海道の歴史の中で燦然(さんぜん)と輝くといっていいだろう。
 若狭の名門の出身ではなく、下北半島の土豪の出にすぎなかったとしても、彼はやはり奇人中の奇人であった。厳しい自然や荒くれた和人たち、ときとして反乱をいとわぬアイヌたちに交じって、この地を「夢の大地」にしようと粉骨砕身したのだから。
 ちょうど15年前の平成13年夏、勝山館跡を訪ねた。町教委の担当者から、館跡に続く墓地にはアイヌの墓もあると聞かされた。信広は、アイヌとも共存していたのだ。
 夷王山の山麓を流れる天の川の河口には、港湾が設けられていたという。発掘調査によって古銭なども出土し、ここが中世蝦夷地海運の拠点だったことが裏付けられている。
 山頂にある夷王山神社に登ると、はるかに天の川の河口まで見渡せた。北海道の夏の風は、本州のそれとは違ってさわやかだった。約550年前、信広が眺めたのと変わらない光景なのだろう。そう思い至り、深い感動を覚えた。
  =「奇人礼讃」は今回で終了します
渡部裕明(わたなべ・ひろあき)
産経新聞客員論説委員。愛媛県今治市生まれ。昭和49年入社。京都総局や奈良支局、大阪社会部、大阪文化部などで宗教・文化財の取材を長く担当した。東京本社論説副委員長、大阪本社論説委員兼編集委員など歴任。現場主義をモットーにしながら、読者にわかりやすく興味深い日本史像の提供を目指している。産経新聞毎月第一火曜日朝刊に「國史へのまなざし」を連載中。邪馬台国論争では、邪馬台国は大和盆地にあり、初期ヤマト政権につながっていったと考えている。共著に「運慶の挑戦」「親と子の日本史」など。
http://www.sankei.com/west/news/160426/wst1604260008-n1.html
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