北海道新聞03/08 08:37 更新
■尺別 開業時の写真発見 約90年前に撮影
約90年前に撮影したとみられる、釧路市音別町のJR尺別駅の開業当時の写真が市内阿寒町在住の三沢悟さん(70)の収蔵品の中から見つかった。釧路市立博物館によると、当時の駅舎を正面からとらえており、保存状態も良く貴重な資料だという。同駅はダイヤ改正で15日の営業を最後に廃止される。
写真はA5判ほどのサイズでモノクロ。駅舎の前には、鉄道省(後の国鉄)や旧尺別炭鉱の関係者とみられる人物約50人が写っており、写真下部には「白糠郡 尺別駅 開業記念」と記されている。
廃止を前に、同館は駅に関する資料や写真の提供を呼びかけた。それを知った三沢さんが、自身が収蔵する市内阿寒町の旧雄別炭鉱のアルバムを探したところ、見つかった。
尺別では1920年(大正9年)、尺別信号所が開業。25年(大正14年)に貨物駅、30年(昭和5年)に一般駅の尺別駅に昇格したが、現在は乗降客数の減少から無人駅となっている。
同館は、旅客乗降用のプラットホームがあることなどから、一般駅に昇格した30年に撮られた可能性が高いとみて、正確な撮影年の特定を進めている。同館の学芸員は「多くの人物が写っており、当時炭鉱で栄えた駅や周辺地域の様子が分かる貴重な資料」と話している。(高橋祐二)
■初田牛 記念誌に詳細記述 歴代駅長の名前も
【根室】ダイヤ改正に合わせて15日にJR花咲線・初田牛駅が廃止される。入植100年を記念して作られた記念誌からは地元住民の駅の思い出や旧駅舎の写真など、在りし日の姿が伝わってくる。
記念誌は地元住民が1998年に約100部作製した。同誌によると、初田牛という地名はブドウを採る場を意味するアイヌ語が由来とされる。1897年(明治30年)に牧場ができ、まちは酪農や漁業といった1次産業を基盤に発展。1920年(大正9年)に開業した初田牛駅を中心に集落が形成された。駅では貨物の取り扱いも行われ、周辺は牛乳を運ぶ人でにぎわったという。
だが、自動車の普及や道路の整備などにより60年代から過疎化が進み、71年に駅が無人化。88年には初田牛小学校が閉校した。初田牛町会によると、今は約50人が暮らしている。
初田牛駅には現在、1日4往復が停車。1日平均乗降者数が0・2人と極端に少ないことからJRの路線見直しで廃止が決まった。
記念誌の「鉄道」という項目では、初田牛駅の沿革などを紹介。歴代駅長の名前や旧駅舎の写真のほか、1969年度の1日平均乗降者数が31人だったことが記されている。「貨車に載せた牛が途中で降り、沿線で昼寝をしていた」という市民の手記もある。
初田牛町会会長で記念誌の編さん作業に携わった小笠原忠行さん(55)は「かつては大きなリュック姿で『カニ族』と呼ばれた道内旅行の若者たちが駅で寝泊まりし、標津線があったころは厚床駅で乗り換えて別海方面へ通学する子どもたちもいた」と振り返り、「記念誌を作り、地域の歴史を記録しておいて良かった」と話している。(今井裕紀)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/284017
■尺別 開業時の写真発見 約90年前に撮影
約90年前に撮影したとみられる、釧路市音別町のJR尺別駅の開業当時の写真が市内阿寒町在住の三沢悟さん(70)の収蔵品の中から見つかった。釧路市立博物館によると、当時の駅舎を正面からとらえており、保存状態も良く貴重な資料だという。同駅はダイヤ改正で15日の営業を最後に廃止される。
写真はA5判ほどのサイズでモノクロ。駅舎の前には、鉄道省(後の国鉄)や旧尺別炭鉱の関係者とみられる人物約50人が写っており、写真下部には「白糠郡 尺別駅 開業記念」と記されている。
廃止を前に、同館は駅に関する資料や写真の提供を呼びかけた。それを知った三沢さんが、自身が収蔵する市内阿寒町の旧雄別炭鉱のアルバムを探したところ、見つかった。
尺別では1920年(大正9年)、尺別信号所が開業。25年(大正14年)に貨物駅、30年(昭和5年)に一般駅の尺別駅に昇格したが、現在は乗降客数の減少から無人駅となっている。
同館は、旅客乗降用のプラットホームがあることなどから、一般駅に昇格した30年に撮られた可能性が高いとみて、正確な撮影年の特定を進めている。同館の学芸員は「多くの人物が写っており、当時炭鉱で栄えた駅や周辺地域の様子が分かる貴重な資料」と話している。(高橋祐二)
■初田牛 記念誌に詳細記述 歴代駅長の名前も
【根室】ダイヤ改正に合わせて15日にJR花咲線・初田牛駅が廃止される。入植100年を記念して作られた記念誌からは地元住民の駅の思い出や旧駅舎の写真など、在りし日の姿が伝わってくる。
記念誌は地元住民が1998年に約100部作製した。同誌によると、初田牛という地名はブドウを採る場を意味するアイヌ語が由来とされる。1897年(明治30年)に牧場ができ、まちは酪農や漁業といった1次産業を基盤に発展。1920年(大正9年)に開業した初田牛駅を中心に集落が形成された。駅では貨物の取り扱いも行われ、周辺は牛乳を運ぶ人でにぎわったという。
だが、自動車の普及や道路の整備などにより60年代から過疎化が進み、71年に駅が無人化。88年には初田牛小学校が閉校した。初田牛町会によると、今は約50人が暮らしている。
初田牛駅には現在、1日4往復が停車。1日平均乗降者数が0・2人と極端に少ないことからJRの路線見直しで廃止が決まった。
記念誌の「鉄道」という項目では、初田牛駅の沿革などを紹介。歴代駅長の名前や旧駅舎の写真のほか、1969年度の1日平均乗降者数が31人だったことが記されている。「貨車に載せた牛が途中で降り、沿線で昼寝をしていた」という市民の手記もある。
初田牛町会会長で記念誌の編さん作業に携わった小笠原忠行さん(55)は「かつては大きなリュック姿で『カニ族』と呼ばれた道内旅行の若者たちが駅で寝泊まりし、標津線があったころは厚床駅で乗り換えて別海方面へ通学する子どもたちもいた」と振り返り、「記念誌を作り、地域の歴史を記録しておいて良かった」と話している。(今井裕紀)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/284017