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15日廃止の尺別、初田牛駅 駅舎の記録永遠に

2019-03-09 | アイヌ民族関連
北海道新聞03/08 08:37 更新
■尺別 開業時の写真発見 約90年前に撮影
 約90年前に撮影したとみられる、釧路市音別町のJR尺別駅の開業当時の写真が市内阿寒町在住の三沢悟さん(70)の収蔵品の中から見つかった。釧路市立博物館によると、当時の駅舎を正面からとらえており、保存状態も良く貴重な資料だという。同駅はダイヤ改正で15日の営業を最後に廃止される。
 写真はA5判ほどのサイズでモノクロ。駅舎の前には、鉄道省(後の国鉄)や旧尺別炭鉱の関係者とみられる人物約50人が写っており、写真下部には「白糠郡 尺別駅 開業記念」と記されている。
 廃止を前に、同館は駅に関する資料や写真の提供を呼びかけた。それを知った三沢さんが、自身が収蔵する市内阿寒町の旧雄別炭鉱のアルバムを探したところ、見つかった。
 尺別では1920年(大正9年)、尺別信号所が開業。25年(大正14年)に貨物駅、30年(昭和5年)に一般駅の尺別駅に昇格したが、現在は乗降客数の減少から無人駅となっている。
 同館は、旅客乗降用のプラットホームがあることなどから、一般駅に昇格した30年に撮られた可能性が高いとみて、正確な撮影年の特定を進めている。同館の学芸員は「多くの人物が写っており、当時炭鉱で栄えた駅や周辺地域の様子が分かる貴重な資料」と話している。(高橋祐二)
■初田牛 記念誌に詳細記述 歴代駅長の名前も
 【根室】ダイヤ改正に合わせて15日にJR花咲線・初田牛駅が廃止される。入植100年を記念して作られた記念誌からは地元住民の駅の思い出や旧駅舎の写真など、在りし日の姿が伝わってくる。
 記念誌は地元住民が1998年に約100部作製した。同誌によると、初田牛という地名はブドウを採る場を意味するアイヌ語が由来とされる。1897年(明治30年)に牧場ができ、まちは酪農や漁業といった1次産業を基盤に発展。1920年(大正9年)に開業した初田牛駅を中心に集落が形成された。駅では貨物の取り扱いも行われ、周辺は牛乳を運ぶ人でにぎわったという。
 だが、自動車の普及や道路の整備などにより60年代から過疎化が進み、71年に駅が無人化。88年には初田牛小学校が閉校した。初田牛町会によると、今は約50人が暮らしている。
 初田牛駅には現在、1日4往復が停車。1日平均乗降者数が0・2人と極端に少ないことからJRの路線見直しで廃止が決まった。
 記念誌の「鉄道」という項目では、初田牛駅の沿革などを紹介。歴代駅長の名前や旧駅舎の写真のほか、1969年度の1日平均乗降者数が31人だったことが記されている。「貨車に載せた牛が途中で降り、沿線で昼寝をしていた」という市民の手記もある。
 初田牛町会会長で記念誌の編さん作業に携わった小笠原忠行さん(55)は「かつては大きなリュック姿で『カニ族』と呼ばれた道内旅行の若者たちが駅で寝泊まりし、標津線があったころは厚床駅で乗り換えて別海方面へ通学する子どもたちもいた」と振り返り、「記念誌を作り、地域の歴史を記録しておいて良かった」と話している。(今井裕紀)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/284017

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発見、170年前の捕鯨船員が岩に刻んだ航海の証

2019-03-09 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック3/7(木) 19:01配信

1849年、オーストラリア、ウェストルイス島の海岸で、米国の捕鯨船デルタ号の乗組員J・リークが上陸を記念し、岩に文字を刻んだ。(PHOTOGRAPH COURTESY CENTRE FOR ROCK ART RESEARCH + MANAGEMENT)
19世紀、米国の捕鯨船は遠く離れたオーストラリア北西部でクジラを捕っていた
 オーストラリア北西部の島で、19世紀に米国から来た捕鯨船の乗組員たちが、壮大な航海の記録を岩に刻んでいたことがわかった。考古学者たちが発見し、このほど学術誌「Antiquity」に論文が発表された。
 岩面彫刻が見つかったのは、西オーストラリア州ピルバラ地域の沿岸部。先住民アボリジニの岩絵に混じり、米国の捕鯨船「コネティカット」号の乗組員による記録(1842年)と「デルタ」号の乗組員による記録(1849年)が発見された。
 42の島から成るダンピア群島と近くにあるバーラップ半島は、オーストラリアで最も重要な岩絵が存在する地域の一つで、5万年にわたって岩に刻まれてきたペトログリフ(岩石線画)は、推定100万点にもおよぶ。
 コネティカット号の乗組員による岩面彫刻を発見したのは、西オーストラリア大学の考古学者とアボリジニの団体「ムルジュガ・アボリジナル・コーポレーション」のレンジャーが、ダンピア群島のローズマリー島で先住民の岩絵を調査していた時のことだった。
 この岩面彫刻は1842年8月18日に刻まれたもので、1841年に米国コネティカット州ニューロンドンを出港し、1年間にわたって航海したと記されている。ジェイコブ・アンダーソンという署名付きで、出港時の記録によれば、18歳のアフリカ系米国人だったようだ。1850年代までは、米国の捕鯨船の船員はおよそ6人に1人がアフリカ系だった。
 さらに、調査チームはウェストルイス島で、デルタ号の航海を詳述した同様の岩面彫刻を発見した。日付は1849年7月12日で「J・リーク」という署名が見つかった。
おびただしい数の岩絵
 調査を率いた考古学者のアリステア・パターソン氏は、コネティカット号の岩面彫刻が施されていた露頭(岩石の露出部分)は「すでに岩絵だらけでした」と振り返る。「大小のあらゆる岩に何らかの彫刻が施されていました。人物、動物、幾何学模様などです」
 おそらくコネティカット号の乗組員は見晴らしのいい場所を求め、尾根を登ってこの場所にたどり着いたのだろう。「捕鯨船の船員は高い場所に行きたがります」とパターソン氏は話す。「高い場所から周囲を見渡し、海を泳ぐクジラの群れを探すのです」
 捕鯨船員たちが陸で行っていたのはクジラを探すことだけではなく、捕ったクジラを船上で煮込んで鯨油を採取する際に必要な燃料や水を補給したり、食料としてカンガルーなどの動物を捕まえたりしていた。
 米国の東海岸から遠く離れたオーストラリアまで航海していたことに驚く人もいるかもしれない。しかし、マサチューセッツ州のニューベッドフォード捕鯨博物館の学芸員で、海洋史を専門とするマイケル・ダイアー氏によると、当時としてはごく普通のことだったという。ダイアー氏は、今回の論文には関わっていない。「当時、米国は捕鯨の最盛期で、34の港から700以上の捕鯨船が出航しました。乗組員は数万人単位です」
「欧米の文明都市に鯨油の街灯が導入され、驚くほど需要が増加しました」とパターソン氏は話す。「捕鯨はとても儲かる商売だったのです」
世界を股にかける捕鯨船
 記録によれば、デルタ号はニューヨーク州グリーンポートに本拠を置く捕鯨船で、1832~1856年に18度出港している。ニューベッドフォード捕鯨博物館に航海日誌が保管されており、1849年6月から9月までピルバラの海にいたことがわかっている。
 コネティカット号の航海日誌は残されていないが、港の記録によれば、26人の乗組員が乗船しており、1843年6月、1800バレルの鯨油を積んでニューロンドンに戻ってきたようだ。
 クジラの個体数が激減し、クジラを追って遠くまで行かざるを得なくなったため、世界を一周するような航海も決して珍しくなかった。「採取した鯨油で船がいっぱいになると、彼らは帰途につきます。うまくいけば1年以内に帰れますが、不運な場合は3年かかることもありました」とパターソン氏は話す。
 1840年代のダンピア群島には、多くの捕鯨船がいた可能性がある。ザトウクジラがこの場所を通って移動していたためだ。「捕鯨船員は6月後半から7月末まで滞在し、大量のザトウクジラを捕まえていました」とダイアー氏は述べている。
初めての文化的接触
 2隻の捕鯨船の記録には、ダンピア群島でアボリジニの人々と出会ったという記述はない。それでも、ノースカロライナ州グリーンビルにあるイーストカロライナ大学の海洋考古学者ジェイソン・ラウプ氏は、捕鯨船員たちの岩面彫刻は重要だと考えている。「オーストラリアのこの地域では、当時はまだ、ほとんど植民地開発が行われていませんでした。そのような時代に文化的な接触があった可能性を示唆しているためです」
 この地域の長老で、ムルジュガ・アボリジナル・コーポレーションのCEOでもあるピーター・ジェフリーズ氏は、ダンピア群島のヤブララ族が外部の人間と初めて接触した時期の岩面彫刻が見つかって「素晴らしい」と喜んでいる。ジェフリーズ氏によれば、ダンピア群島の全域に、初めての接触を描写していると思われるペトログリフがいくつも存在するという。帆船や船乗りに見えるペトログリフで、当時の船乗りたちがよくかぶっていた、先のとがった帽子も描かれている。
 残念ながら、植民地化はヤブララ族に悲劇をもたらした。デルタ号の乗組員が岩面彫刻を残した20年後「フライング・フォーム大虐殺」と呼ばれる出来事が起き、オーストラリア本土からの入植者がおよそ60人ものヤブララ族の人々を殺害した。生存者はダンピア群島を去り、二度と戻らなかった。
 論文には次のように書かれている。「米国の捕鯨船員たちは、ヨーロッパ人の恒久的な入植より前にこの地を訪れ、先住民との間に大きな衝突もなく領土を共有した短い時間を記録していた」
文=JOHN PICKRELL/訳=米井香織
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190307-00010002-nknatiogeo-cul

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日本の女性議員の割合は世界最低レベル 下から数えると…

2019-03-09 | 先住民族関連
BuzzFeed Japan3/8(金) 7:05配信
国会議員(下院)に占める女性の割合を比べた世界ランキングで、日本は2018年、193ヵ国中165位となり、前年より順位を7つ下げたことが分かった。
3月8日の国際女性デーを控え、各国の議員でつくる「列国議会同盟」(本部ジュネーブ)が発表した。日本の女性議員の割合は衆議院(下院)で10.2%、参議院でも20.7%にとどまった。
世界トップは、東アフリカのルワンダ。下院での女性の割合は61.3%で、世界で唯一、6割を超えた。2位のキューバと3位のボリビアは、いずれも50%台だった。
カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国のG7で比べても日本が最下位。G7に中国、韓国、南アフリカ、インドなどを加えたG20で比べても、日本が最下位だった。
「議会の半分に女性を」
女性議員が少ない日本でも、女性議員を増やそうという動きが出ている。
昨年には、各党に女性候補の擁立を促す「政治分野の男女共同参画推進法」が成立している。しかし法的拘束力はない。
国際女性デーを翌日に控えた7日、東京・衆院第二議員会館で、女性が議席の50%を獲得することを目指す集会が開かれた。各党の議員や、女性団体の代表者らが集まった。
各党は、春の統一地方選挙や夏の参議院選での女性候補者の擁立状況などについて報告した。
自民党の稲田朋美・筆頭副幹事長は、特に地方での女性議員の割合が低く、立候補する女性が少ないことに触れ、「党派を超えてがんばっていきたい」と語った。
立憲民主党は統一地方選と参議院選いずれも、候補者の4割を女性とすることを目標に掲げた。
国民民主党は女性候補をとすることを3割を目標に、新顔の候補者に最大260万円の支援も行うという。
社民党の福島瑞穂・副党首は、米国で昨年11月に行われた中間選挙で過去最多の女性議員が当選したことに触れ「ヒスパニック、先住民や黒人の方々など複合差別に苦しんできた人が政治を変えるという思いで出馬した」と指摘。
日本でも「女性たちが抱える声を議会に届けるため、1人でも多くがんばる女性が当選するようにがんばっていきたい」と話した。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190308-00010002-bfj-soci

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