先住民族関連ニュース

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マンロー先生の遺徳を偲ぶ【平取】

2018-06-08 | アイヌ民族関連
日高報知新聞2018.06.07
【平取】「マンロー先生を偲ぶ会」が3日、町内二風谷の旧マンロー邸庭の顕彰碑前で開かれ、ゆかりの町民や研究者ら約50人が博士の遺徳を偲んだ。
 スコットランド人の考古学者で人類学者のニール・ゴードン・マンロー博士(1863―1942)は、日本人の起源やアイヌ文化に興味を抱き、考古学調査のかたわら、多数のアイヌ工芸品や民具を収集した。
 一方で当時、結核などの病気や栄養失調に苦しむアイヌの人々の窮状に胸を痛め、昭和7年に平取町二風谷に移り住み、無償の医療奉仕をしながら研究にいそしんだ。
 多くの村人から慕われた博士へは“イオマンテ”に代表されるアイヌ民族の精神世界をつぶさに観察するなど研究に没頭したが、昭和17年4月11日に二風谷で79歳の生涯を終えている。
 マンロー博士のただ一人の末裔で孫娘のアイリーン・マンローさんはドイツ・リューベックに在住している。
 貝沢耕一同会運営委員長が「博士と関わりのある人がほとんどいなくなったが、時代が変わろうとも若い世代に語り伝えていくことが大事」と主催者あいさつ。
 川上満平取町長は、個人の偉大な功績をたたえ来賓あいさつ。参列者は一人ずつ真っ赤なカーネーションを厳かに遺影の前に献花し、博士の遺徳を偲んでいた。
マンロー先生の遺影に献花する出席者
http://www.hokkaido-nl.jp/article/6356

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武四郎の魅力、ほのぼの物語に 北広島の河治さん小説出版 「北海道」提案、70歳記念の富士登山…

2018-06-08 | アイヌ民族関連
北海道新聞06/07 16:00
 北広島市と東京を拠点にしている歴史小説家の河治和香(かわじわか)さんが、北海道の名付け親とされる幕末の探検家、松浦武四郎の生涯を描いた小説「がいなもん 松浦武四郎一代」を出版する。北海道命名150年の節目に、武四郎が残した膨大な版本や日記の原本をあたって書き上げた労作だ。北海道命名に込めた思いや、70歳の記念に富士山に登るほどの健脚だったことなど、あまり知られていない武四郎の一面を史料からひもといた。
 「がいなもん」は、武四郎の出身地である三重県松阪市周辺の方言で「とてつもないやつ」などの意味。昨年3月から1年間、小学館の月刊誌「きらら」で連載した小説を再編集した。
 物語は、実際に親交があったとされる浮世絵師、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の娘のお豊に武四郎が思い出話をする形で進む。「近所のおじいさんの昔話を聞くような、ほのぼのした小説にしたかった」と河治さん。約9800に及ぶアイヌ語の地名を記録したり、1日に20里(約78キロ)も歩くと言われた武四郎の「がいなもん」ぶりをユーモラスな筆致で描いた。
 政府に「北加伊道(ほっかいどう)」の名を提案したことで知られる武四郎。紀行文「天塩日誌」の中で「『カイ』は古いアイヌ語で『この地に生まれた者』を指すと聞いた」などと記しており、「アイヌ民族が暮らす北の土地」という意味をひそかに込めたと言われる。小説では、武四郎があえて「北海道」の漢字を使わなかった理由について「『東海道』などとは全く異なる成り立ちの地であることを後世に残そうとした」と推理した。
 日記などにあるエピソードから、北海道では傑物として知られる武四郎のユーモラスな姿にも光を当てた。長旅でぼさぼさに伸びたちょんまげを自慢にし、知人にそれを切られてしょげたり、旅のお供だった鍋を供養しようと「なべ塚」を建てたことも。河治さんは「調べれば調べるほど人間的な魅力にあふれた人。意外な一面を知り、武四郎をより身近に感じてもらえれば」と話す。
 四六判、320ページで1836円。9日から順次、道内の大型書店などで販売される。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/197181

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世界先住民族観光サミットに参加した 広野洋(ひろの・ひろし)さん

2018-06-08 | アイヌ民族関連
北海道新聞06/07 09:26
 「観光振興を、民族の自立につなげたい」。釧路市の阿寒湖温泉を拠点とする阿寒アイヌ協会会長。世界先住民族観光連盟が本拠地・ニュージーランドで4月に開いた観光サミットに参加し、思いを強くした。サミットには20カ国・地域から約300人が集まった。ニュージーランドのマオリは、自ら観光施設を運営し、利益を民族の教育や福祉に活用する事例を報告した。「目指す姿だ」と感じた。
 釧路市生まれ。8歳で市街地から、母方の親族が住む阿寒湖温泉へ移った。祖父はアイヌ文化伝承に尽力した故山本多助エカシ(長老)。だが少年時代、民族の自覚はなかった。
 東京の建設会社で働いていた30代の頃、都内でアイヌ料理店の移転を手伝った。店に来た同胞の多くは差別のため故郷を離れていたが、誰もが自然を敬う民族への誇りを熱く語る。「語れる知識のない自分が、恥ずかしかった」。歴史や古式舞踊を学び始め、2008年に両親の待つ阿寒湖温泉に戻った。
 アイヌコタン(集落)で古式舞踊の踊り手になった後、阿寒アイヌ工芸協同組合の職員に。舞踊や民族料理の講師も務め、今やコタンのまとめ役の一人だ。アイヌ文化の案内人を養成し、丸木舟など民族文化を取り入れた体験型観光を目指す。
 ターゲットは外国人観光客。「アイヌ文化が世界に認知されれば、民族の自信になる」と信じる。父と妻、中学1年の長男と暮らす。53歳。(佐竹直子)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/197103

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野田サトルがアイヌから受けた唯一のリクエスト明かす、手塚治虫文化賞贈呈式

2018-06-08 | アイヌ民族関連
コミックナタリー2018年6月7日 22:05

第22回手塚治虫文化賞の贈呈式が、本日6月7日に東京・浜離宮朝日ホールにて行われた。今年はマンガ大賞を野田サトル「ゴールデンカムイ」、新生賞を「BEASTARS」の板垣巴留、短編賞を矢部太郎「大家さんと僕」、特別賞をちばてつやが受賞している。
贈呈式ではまず選考の過程を説明するため、選考委員を代表し里中満智子が登壇。数日前から喉の調子が悪く、声が出にくくなってしまったという里中は、「ちば先生が18年ぶりに単行本(『ひねもすのたり日記』)をお描きになりましたが、私は長いこと描かないでいたらバチが当たっちゃいました(笑)」とささやくようにしゃべりだす。「こんな声で選考過程の説明もないと思いますので、『いろいろあった末にこれらに決定した』と思ってください(笑)。最終選考に残ったのは力作ばかりで、選考委員も熱心に議論を戦わせたんですけど、例年になくすんなり決まったのではないでしょうか」と語り、その後各賞の受賞者に称賛を送った。
そして壇上に上がった野田は、「タイミング悪く歯の矯正の最中でして、お聞き苦しい点があるかもしれませんが……」とスピーチを始める。現在「ゴールデンカムイ」のテレビアニメが放送されていることに触れ、「とてもいいタイミングで賞をいただけたと思っています」と喜んだ。
続いて板垣が「BEASTARS」に登場するレゴムの被り物をして登壇すると、会場からは笑い声が上がる。板垣は「顔出しNGでして……」と被り物をしている理由を述べながら、「マンガ関係のそうそうたる方々が集っていて、改めて大きな賞なんだなと実感しました。自分で言うのもなんですが、まだ若いのでこれからも全力でマンガを描き続けていけたらなと思います」と決意表明した。
お笑い芸人として活躍している矢部は、壇上に立つと「僕は今40歳なんですが、マンガを描き始めたのは38歳のときでして。38歳で『マンガ家になる』って言ったら周りの方が全力で止めると思うんです。ただあまり人には言わないですが、僕は38歳のときに自分を18歳だと思うようにしていたので、今20歳なんです(笑)。当時は自分が10代だと思ったら、失敗しても大丈夫だと思ってやってきました」と持論を展開。短編賞の受賞については、「マンガの神様のお名前が付いた賞をいただけて大変光栄です。手塚(治虫)先生はどんなに売れっ子になっても、若い先生の作品に嫉妬していたと伺っていました。神様を恐れぬようなことを言ってしまうと、天国の手塚先生に僕の本を読んでいただいて、少しでも嫉妬していただけたら良いなと思っています」とコメントした。
最後に18年ぶりの単行本「ひねもすのたり日記」の刊行と、長年の業績、マンガ文化への貢献に対して特別賞を贈られたちばは、「『ひねもすのたり日記』はそれまでビッグコミック(小学館)の巻末でマンガを描いていた水木(しげる)さんが、元気がなくなってきてしまったということでピンチヒッターとして始めたんです。連載を始めて水木さんがお亡くなりになり、託されたような気持ちで描いています」と連載開始の経緯と水木への思いを口にする。また手塚とのエピソードについて、「これは聞いた話なんですが、手塚先生が『あしたのジョー』が載っている週刊少年マガジン(講談社)を持ってきて、アシスタントに対して『これのどこが面白いんだ!』って聞いたらしくて。そのときにアシスタントが『ジョー』を褒めたら、少年マガジンを床に叩きつけてギュッと踏んだらしいんです。手塚先生に自分の本を踏んづけてもらって、嫉妬してもらえたということで、マンガ家として自信を持てるようになりました。(今回の受賞で)年をとってまた手塚先生に褒めてもらえた、作品を踏んづけてもらったような気がしています」と振り返った。
第22回手塚治虫文化賞贈呈式の会場に設けられた「ゴールデンカムイ」の展示コーナー。
贈呈式後には野田と、「ゴールデンカムイ」でアイヌ語の監修を務めている千葉大学教授の中川裕氏の対談を実施。野田と中川の対談では「ゴールデンカムイ」に登場するアシリパの名前の由来や、劇中衣装や方言についてトークを展開する。中川氏は本作について、「『ゴールデンカムイ』がアイヌ文化に与えた社会的なインパクトは非常に大きい」と評し、「この作品の連載が終わってしまったときに、アイヌ文化に対する人々の関心がなくなってしまわないようにするのが、我々(研究者)の使命だと考えています」と宣言。一方で野田はアイヌ文化との関わりについて「『ゴールデンカムイ』を描くうえでアイヌの方々に取材をする中で、『こうしてほしい』と言われたのは1回だけなんです。それは『かわいそうなアイヌは描かなくていい。強いアイヌを描いてほしい』ということでした」と回想した。
イベントのラストには手塚の生誕90周年を記念した矢部と手塚るみ子の対談も実施。絵本作家のやべみつのりを父に持つ矢部は、手塚るみ子とともにそれぞれの父親との思い出などを語り合った。
※アシリパのリは小文字が正式表記。
https://natalie.mu/comic/news/285634

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