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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

外国人観光客増やすカギは?/国際的には少なすぎる「年間1000万人」

2013-09-26 | 先住民族関連
マイナビニュース  [2013/09/24]
 日本政府観光局(JNTO)によると、8月に日本を訪れた外国人客数は90万7000人となり、8月としては過去最高水準を記録しました。これにより、1月から8月の累計は686万4000人となりました。政府は観光立国を目指し、年間の訪日外国人数を1000万人にするという目標を掲げているのですが、この目標を達成できる可能性がより現実味を帯びてきたといえます。
 東京オリンピックの開催も決まり、外国人観光客の増加に大きな期待が寄せられているわけですが、実は年間1000万人という数字は、国際的に見ると非常に少ない水準なのです。本来であれば、もっと多くの外国人観光客を呼び込むことが可能です。
目標達成してもフランスの8分の1
 仮に年間1000万人を達成したとしても、英国の3分の1、米国の7分の1、中国の6分の1、フランスの8分の1程度です。長い歴史と伝統を持ち、1000万人以上の大都市を要する先進国は、ほとんどが観光大国となっているのですが、その唯一の例外が日本なのです。
 英国やフランスなど欧州の国は、陸路で複数の国を移動できるという利点がありますし、世界経済の中心地である米国にはそもそも人の行き来が多いなど、日本にとって不利な面もあります。しかし、地理的な条件が近い中国にも大量の外国人が訪問している状況を考えると、やはり日本を訪れる外国人は少ないと考えてよいでしょう。
 世界経済フォーラムでは世界各国の旅行・観光競争力ランキングを発表しています。日本は交通機関や通信インフラなどハード面の順位は7位とまずまずなのですが、国民における観光との親和性といったソフト面は140カ国中77位とかなり低い結果になっています。
 日本社会は一部の地域を除くと、外国人観光客に対してあまりオープンではありません。外国人というとすぐに英語が思い浮かぶのですが、これは言葉の問題というよりも、生活習慣や文化が違う人がやってくることを当初からあまり想定していないということが大きく影響していると考えられます。
「マオリの入れ墨入浴拒否」の教訓
 最近では、北海道を訪れていたニュージーランドの先住民族マオリの女性が、アゴにある小さな入れ墨を理由に温泉の入浴を断られるという出来事がありました。この女性は、北海道で開催されていたアイヌ語の復興を目指すイベントに講師として招かれていた人物で、相互文化交流の一環として、日本文化の象徴である温泉を体験しようと入浴施設を訪れていたところでした。
 こうしたトラブルが発生するのは、言葉の問題ではなく、異なる文化圏との接し方が不慣れという面が大きいのです。このようなソフト面の改善を地道に行っていけば、外国人観光客の数は何倍にも増やせるはずですし、逆に言えばいくらハード面を充実させてもこうしたソフト面が追いつかなければ、観光客を増やすのは難しいでしょう。もし日本が本当に観光立国を目指すのであれば、日本人の日常的な行動から取り組んでいくことが重要なのです。
(The Capital Tribune Japan)
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
http://news.mynavi.jp/news/2013/09/24/208/

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サラワクエナジー、「世界最悪の企業」候補に 汚職や先住民無視=スイスNGO

2013-09-26 | 先住民族関連
アジア エックス-2013年09月25日 13:17 マレーシア
〈クアラルンプール〉
スイスの非政府組織(NGO)、ブルーノ・マンサー基金(BMF)は、サラワク州政府系のサラワク・エナジー(SEB)を、「2014年パブリック・アイ・アワード」で世界最悪の企業にノミネートしたことを明らかにした。2014年1月の世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)の開催と並行して、世界で最も卑劣で恥ずべき事業を行っている企業を選ぶ不名誉な賞。専門家による審議と一般市民からのオンライン投票で決定される。
BMFは、SEBの事業は汚職まみれで、先住民族や環境を無視したものであると指摘。サラワク州の環境保護団体、SAVEリバーズ・ネットワークや非営利組織(NPO)のボルネオ資源研究所(Brimas)、人権団体「マレーシア人民の声」(Suaram)、豪タスマニアのヒューオン渓谷環境センターもSEBの「パブリック・アイ・アワード」への選出を支持している。
人民正義党(PKR)サラワク支部のシー・チーハウ議員は、SEBがムルム水力発電ダムの建設を、環境影響評価(EIA)が終わる前に始めたことや、先住民族のペナン族と協議を行わずに着工したことを指摘。ダム建設地に住んでいたおよそ1,350人のペナン族が移転を強制されたことや適切な賠償が行われていないことなどを理由に、SEBの事業は無責任な方法で行われていると批判した。ペナン族の移転先は別の先住民族が先祖代々受け継ぐ土地で、民族間の軋轢の原因となっているという。
SEBはムルムをはじめ、サラワク州の奥地12カ所で水力発電ダムを建設する計画を推進している。
http://www.asiax.biz/news/2013/09/25-131744.php

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サラワクエナジー、「世界最悪の企業」候補に…汚職や先住民無視=スイスNGO

2013-09-26 | 先住民族関連
レスポンス 2013年9月25日(水) 08時00分
スイスの非政府組織(NGO)、ブルーノ・マンサー基金(BMF)は、サラワク州政府系のサラワク・エナジー(SEB)を、「2014年パブリック・アイ・アワード」で世界最悪の企業にノミネートしたことを明らかにした。
2014年1月の世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)の開催と並行して、世界で最も卑劣で恥ずべき事業を行っている企業を選ぶ不名誉な賞。専門家による審議と一般市民からのオンライン投票で決定される。
BMFは、SEBの事業は汚職まみれで、先住民族や環境を無視したものであると指摘。サラワク州の環境保護団体、SAVEリバーズ・ネットワークや非営利組織(NPO)のボルネオ資源研究所(Brimas)、人権団体「マレーシア人民の声」(Suaram)、豪タスマニアのヒューオン渓谷環境センターもSEBの「パブリック・アイ・アワード」への選出を支持している。
《千田真理子》
http://response.jp/article/2013/09/25/207063.html

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新ひだかでシャクシャイン法要祭(動画ニュース)

2013-09-26 | アイヌ民族関連
北海道新聞 (2013/09/25)
 アイヌ民族の英雄シャクシャインをしのぶ「第67回シャクシャイン法要祭」が23日、町内の真歌公園で開かれ、全道各地のアイヌ民族関係者ら約千人が、祈りをささげた。(9月24日朝刊 苫小牧日高版に掲載)
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/video/?c=News&v=608191683002

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再発見・松浦武四郎(後編) 奇跡的に

2013-09-26 | アイヌ民族関連
NHK 9月25日 10時7分
幕末から明治にかけて、激動の時代を生きた松浦武四郎。
6回にわたり詳細に蝦夷地を調査して、アイヌの人たちと交流を深めました。
しかし、明治維新を挟み、それまでとは全く異なった人生を送ることになります。
そこには何があったのか。
新たに確認され、10月に初めて公開されることになった資料などを基に探ります。
「武四郎涅槃図」
この一風、変わった絵は「武四郎涅槃図」と呼ばれています。
中央に寝そべっているのは、松浦武四郎その人。
「画鬼」とも呼ばれる絵師・河鍋暁斎に描かせたものです。
身に着けているのは、大きな首飾り。
武四郎の背後に設けられた台の上には、30点余りの置物があります。
このうち20点は、今回行われた静嘉堂文庫の所蔵品の調査で、現存することが確認されました。
武四郎は、自分が集めた、いわば「お気に入りの品々」を絵の中に描かせていたのです。
蝦夷地の専門家として知られ、幕末の志士たちとも交流した武四郎にしては、やけに優雅なその姿。
一体、武四郎に何があったのでしょう。
“北海道内の地名の名付け親”
明治維新を経て、蝦夷地の専門家として大久保利通をはじめとする政府の要人に認められた武四郎は、「開拓判官」という官僚に取り立てられます。
蝦夷地の新しい名前を考えるよう命じられた武四郎は、6つの案を提示します。
その1つが、「北加伊道(ほくかいどう)」。
「北にあるアイヌの人々が暮らす大地」という意味です。
基本的には、この案が採用され、新しい名前は「北海道」に決まります。
また、武四郎は、「石狩」や「釧路」など、アイヌの人たちに伝わっていた地名を基に11か国・86郡の呼び名を決めました。
私たちが慣れ親しんでいる北海道内の地名には、武四郎が抱いていたアイヌの人たちを尊重する気持ちが込められていたのかもしれません。
政府との決別
しかし、武四郎の残した記録によれば、江戸時代から続いてきた「和人」によるアイヌの人たちへの迫害は、やむことがなかったといいます。
アイヌにとって不利な交易を押しつけ、強制労働に従事させる。
反乱があれば、指導者をだまして毒殺さえする。
疱瘡(天然痘)などの病気を持ち込む。
武四郎は、何とかアイヌ民族の待遇改善に取り組もうとしましたが、和人の一部はそれを疎んじ、武四郎の上司に賄賂を贈って妨害しました。
アイヌの人たちのために、自分は何もできない。
そう考えたからでしょうか、武四郎は、僅か半年で開拓判官を辞任。
二度と北海道を訪れることはありませんでした。
それでも武四郎が残した数多くの記録は、今、改めて注目されています。
武四郎が書き残した資料には、アイヌの人たちの文化や生活の様子が極めて詳細に描かれています。
それを、ほかの同時代資料とも照らし合わせることで、当時のアイヌ民族の具体的な姿を浮かび上がらせることができるのではないか。
そうした研究が進められているのです。
北海道開拓記念館の三浦泰之学芸員は、「武四郎は虐げられた人たちの様子だけでなく、人望のあるリーダーや、ときにはしたたかに、たくましく生き抜いたアイヌの人たちの姿も記録として残している。武四郎の記録も含めて、さらに多角的な研究を行うことにより、当時の北海道(蝦夷地)の“本当の姿”を、より豊かに描き出せる可能性がある」と話しています。
武四郎の古物と静嘉堂文庫
政府を離れ、「馬角斎(ばかくさい)」という雅号を使うようになった武四郎は、古物の収集に熱中します。
気に入った物があれば、何度も相手の家に押しかけ、時間を忘れて眺め続ける。
そして、借りたら返さず、自分のものにしてしまう。
「他人のものは自分のもの。自分のものは自分のもの」といった一面を、武四郎は持っていたのかもしれません。
武四郎自身の著作や手紙それに書画などは、武四郎の遺族から彼の生誕地にある三重県松阪市の松浦武四郎記念館に寄贈され、現在では、およそ1500点が国の重要文化財に指定されています。
それ以外にも、武四郎は膨大なコレクションを持っていたはずですが、そうしたなかで“再発見”されたのが、今回の静嘉堂文庫の資料でした。
静嘉堂文庫には、三菱グループの基礎を築いたとされる岩崎彌之助とその長男の小彌太が収集した絵画や書籍、陶磁器などが保管され、7点の国宝を含むことでも知られています。
しかし、なぜ、武四郎のコレクションが静嘉堂文庫にあるのでしょうか。
武四郎と岩崎家との直接のつながりを示す資料は見つかっておらず、詳細な調査を行った内川准教授も首をひねります。
ただ、幕末から明治にかけての個人コレクションがまとまって確認された例はほとんどないということで、内川准教授は、「民間で行われた当時の古物などのコレクションは、ほとんどが散逸してしまっている。『日本のコレクション形成の歴史』を考えるうえでも、極めて貴重な資料だ。松浦武四郎記念館の資料が国の重要文化財に指定されていることを考え併せても、今回の“再発見”は極めて貴重ではないか」と話しています。
「一畳敷」
最後にもう1つ、武四郎のエピソードを。
東京の神田五軒町(今の外神田)に住まいを構えた武四郎は、8年余りをかけて「一畳敷」という書斎を作ります。
その広さは、僅か1畳。
部材は全国を旅して集めた由緒のある木片を利用し、その総数は100点近くに上ります。
武四郎は、「自分が死んだら、その木材でなきがらを焼いてほしい」という遺言を残しましたが、取り壊されずに東京・三鷹市に移築され、実業家らのもとに引き継がれました。
その後、一畳敷が建つ場所は、戦闘機「隼」などを生産したことで知られる中島飛行機の敷地となり、太平洋戦争を迎えます。
中島飛行機の多くの工場が空襲の標的になって炎上するなかで、一畳敷は焼けずに残りました。
現在では国際基督教大学の構内に静かにたたずんでいます。
松浦武四郎にまつわる数多くの資料が現代に伝わっていた。
私たちは、それを基に当時に思いをはせることができる。
1つの「奇跡」ではないか。
そう思うのは、考えすぎでしょうか。
展示会「幕末の北方探検家 松浦武四郎」
初公開の松浦武四郎コレクションなどを紹介。
▽場所:静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区岡本2-23-1)
▽10月5日~12月8日(10月14日と11月4日を除く月曜日は休館。10月15日、11月5日は休館)
「一畳敷」について
国際基督教大学(東京都三鷹市大沢3-10-2)の敷地内に保存。
ふだんは一般公開されていません。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130925/k10014778861000.html

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再発見・松浦武四郎(前編) 初公開も

2013-09-26 | アイヌ民族関連
NHK 9月24日 14時29分
幕末から明治にかけて、激動の時代を生きた松浦武四郎。
その人について、どのように紹介すればよいのでしょうか。
▽“北海道”の名付け親。
▽アイヌの人たちとの深い交流。
▽吉田松陰など、幕末の志士たちとの情報交換。
▽「モノ」を集めることに執着し、そのためなら仲のよい人たちとのトラブルもいとわないアクの強さ…。
1人の人間の中に、さまざまな“顔”が見え隠れしています。
東京・世田谷区にある静嘉堂文庫に、武四郎が収集したおよそ900点のコレクションが残されていることが新たに分かりました。
その一部が、10月、初めて公開されます。
静嘉堂文庫での“再発見”
4年前、國學院大学の内川隆志准教授は、静嘉堂文庫から連絡を受けました。
書庫に保存されていたのは、杉で出来た立派な箱や、そのほかの古物。
箱を開けていくうちに湧き上がってきたのは、「これは大変だ」という思いです。
中には、まが玉や仏像、土器、そしてエジプトから伝わったとみられる像など、多種多様な「モノ」が納められていました。
布で丁寧にくるまれ、防虫剤も施された良好な保存状態からは、モノに対する深い愛着が伝わってきます。
その総数、およそ900点。
元の持ち主は、「松浦武四郎」という人物でした。
詳細な調査が行われることになりました。
松浦武四郎という人物
これは武四郎が65歳のとき(明治15年)の写真です。
身長は1メートル50センチほどと小柄。
大きな首飾りは、今回の調査で、実物が静嘉堂文庫に保管されていることが明らかになりました。
自分で集めた240個余りの玉や水晶などをつないで作ったもののようです。
カメラに向かう武四郎の表情。
少し得意げにも見えます。
1818年、武四郎は三重県松阪市の下級武士の4番目の子どもとして生まれます。
子どものころから「名所図会」という各地の名所を紹介する本を愛読し、伊勢神宮を訪れる旅の人たちが家の前を行き交っていました。
見知らぬ土地への憧れを募らせたからか、16歳のときには家出。
ある人に宛てた手紙には、「江戸、京都、大阪、長崎、唐(中国)または天竺(てんじく=インド)に行くかもしれません」と記しました。
一度は、連れ戻されるものの、また放浪の旅に出ます。
対馬では、鎖国の時代にもかかわらず、朝鮮半島に渡ることを企てます(もちろん、認められません)。
そして、26歳のとき、長崎県の平戸滞在中に聞かされたのが、「大国のロシアが南下し、日本付近へと勢力を伸ばそうとしている」という話でした。
アジアへと進出する欧米諸国から「日本を守らなければならない」という使命感が湧き上がってきたのでしょう。
武四郎は、「蝦夷地」に渡る決意をしました。
蝦夷地での武四郎~アイヌとの交流
武四郎が蝦夷地へと旅立ったのは1845年、28歳のときです。
誰に頼まれたわけでもなく、自分の使命感に突き動かされた道のり。
武四郎は、アイヌの人たちに案内を頼みます。
彼らと寝食を共にし、ときにはアワビの刺身をつまみに酒を飲んだこともあったようです。
豊かな文化を伝え、自然への感謝を忘れないアイヌの人たちの姿に、武四郎は強くひかれていきました。
武四郎の蝦夷地調査は、6回にわたって行われます。
後半の3回は、蝦夷地の重要性を認識するようになった幕府からの依頼も受けていました。
調査の成果をまとめ、1859年(安政6年)に出版したのが「東西蝦夷山川地理取調図」です。
北海道ばかりでなく、択捉島、国後島などの様子も詳しく調べました。
土地の輪郭こそ、すでに行われていた伊能忠敬や間宮林蔵の実測を活用しましたが、内陸の山、川、そして湖の様子は武四郎の調査なくしては明らかにされなかったものです。
さらに特筆すべきは、細かく書き込まれた「カタカナ」。
一つ一つがアイヌの人たちから聞き取った地名で、その数は合わせて1万近くに上ります。
「東西蝦夷山川地理取調図」の中に、武四郎は調査に協力した279人のアイヌの人たちの名前を書き記しました。
彼らへの感謝の気持ちが、そこには込められています。
「情報発信源」としての武四郎
調査を進めるうちに「蝦夷地の専門家」として知られるようになった武四郎は、幕末の志士たちとも交流を深めます。
親友と呼べるほどだったのが、儒学者・頼山陽の息子で尊皇運動でも知られる頼三樹三郎。
また、吉田松陰も武四郎のもとにやって来ました。
松陰は、夜になると武四郎が住んでいた長屋を訪れたといいます。
2人は夜通し海防問題を語り合い、「布団を引っ張り合うようにして寝た」というエピソードも残されています。
ただ、武四郎が朝、目覚めてみると、すでに松陰の姿はなかったといいます。
三重県松阪市にある松浦武四郎記念館の山本命学芸員は、「今、松浦武四郎のことを詳しく知っている人は多くないかもしれません。しかし、幕末の知識人ネットワークの中で重要な役割を果たし、優れた情報収集と情報発信の能力を持っていたことは、見逃すことができません」と話しています。
激しく動く幕末の日々。
頼三樹三郎や吉田松陰は、安政の大獄で処刑されました。
時代は、明治維新に向かっていきます。
その後の武四郎については、改めてお伝えします。
展示会「幕末の北方探検家松浦武四郎」
初公開の松浦武四郎コレクションなどを紹介。
▽場所:静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区岡本2-23-1)
▽10月5日~12月8日(10月14日と11月4日を除く月曜日は休館。10月15日、11月5日は休館)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130924/k10014757121000.html

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白老・ポロト湖畔でチェプ祭、アイヌ文化楽しく理解

2013-09-26 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2013年9月23日(月)朝刊】
 第25回しらおいチェプ祭(同実行委員会主催)が22日、白老町若草町のポロト湖畔で開かれ、来場者が伝統料理やイベントを通してアイヌ民族文化と歴史への理解を深めた。
 自然の恵みに感謝する伝統のイベントとして、1989年(平成元年)から毎年開かれている。プログラムはチセ(家屋)でのカムイノミ(神への感謝の祈り)でスタート。午前中は苫小牧アイヌ文化保存会、鵡川アイヌ文化伝承保存会による古式舞踊披露やアイヌ語○×クイズ大会などが繰り広げられた。
 会場内ではサケの格安販売が好評だったほか、サケを使った伝統料理のチェプオハウ(三平汁)やチマチェプ(串焼き)、いなきびご飯などが振る舞われ、町内外から訪れた来場者を喜ばせた。
 また、アイヌ民族の伝統漁法であるマレク漁の体験やサケのくじ引きなどのイベントも人気を集めた。家族や友人など9人で訪れた札幌市の橋本晃子さん(35)はマレク漁に挑戦し「初めての体験で意外と難しかったが、サケも釣れて良かったです」と笑顔を見せていた。(伊藤洋志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2013/09/23/20130923m_08.html

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アイヌ文化を紹介「こたんまつり」(動画)

2013-09-26 | アイヌ民族関連
NHKニュース 9月23日 15時3分
アイヌ民族に古くから伝わる儀式や踊りを紹介する「こたんまつり」が、北海道旭川市で開かれました。
「こたんまつり」は、アイヌ語で「神の住む里」を意味する、旭川市郊外の神居古潭(かむいこたん)で、毎年、秋分の日に開かれています。
23日はアイヌ民族文化保存会のメンバーなどおよそ20人が、丸木船で川を渡る際の安全や平穏な暮らしを願う「カムイノミ」という伝統の儀式を行い、「イナウ」と呼ばれる木の枝を石狩川に流しました。
また、今回初めて、この地域のアイヌ民族に伝わる魔神伝説が紙芝居で披露され、迫力のある演出に子どもたちや観光客など150人近くが見入っていました。
旭川市の女性は「本州から引っ越してきたので、アイヌ文化を知りたくて来ました。再会を喜ぶ踊りを見て、温かい気持ちが伝わりました」と話していました。
アイヌ民族文化保存会の川村兼一会長は、「きょうは天気もよく、大勢の人が来てくれてよかったです。これからもずっと続けていきます」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130923/k10014738511000.html

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