ITpro 2011/10/14
海上 知明=国士舘大学
学生の頃に教わった歴史のかなりが役に立たなくなっている。イースター島でも四大文明でもマヤ王国でも、かつて教わった知識は時代遅れとなっている。これは日本の古代史にも当てはまる。といっても、旧石器捏造事件に関わることではない。文化と社会に関わる内容である。
かつては、縄文人は弥生人に滅ぼされたらしいことが示唆されていた。ダーウィン以来の生存競争思想、なかんずくスペンサーの社会ダーウィン説が発達していけば、劣った文明を進んだ文明が滅ぼし、劣等種族を優秀な種族が淘汰するのが当然で、文明とはかく塗り変わり、新文明が歴史の表舞台に現れると考えられていたのだろう。帝国主義時代のヨーロッパ人たちは、そうして自らの行為を正当化していた。縄文人も縄文文明も、大陸から渡来した先進的な弥生文明に淘汰されたと言われていた。
それだけではない。縄文時代は狩猟採集時代で、弥生時代になって農業が開始されたとも教わっていた。狩猟採集とは農耕に比べて未開な経済である。現在との連続性は弥生時代からであり、縄文時代とは、そんな先史文明があったというニュアンスであったのだ。現世の日本人は弥生人直系の子孫であり、縄文人とは無関係であると。しかし、ふたを開けてみれば、我々は縄文人の子孫でもあったのだ。縄文人と弥生人、さらに様々な渡来人が混血して、現在の日本人が形成されていったのである。その縄文人が農耕をしていたことも、わかってきた。
今日明らかになってきたのは、縄文人が弥生人を受け入れ、さらに新規の渡来人を次々に受け入れてきた歴史である。それは先住民族が征服されず、逆に母胎となって外来民族と混じり合い、新しい民族を形成していくという複合的文明形成の歴史でもある。気候変動は、新たな技術をもたらし、それに最も適した地域に根付きながら拡大して、従来の文明の上に積み重なっていく。こうした文明形成と一体化した文化的特質は、日本列島の地理的位置とともに、複雑な日本の地形と、変化に富んだ四季が生み出したようにも思える。もちろん、自然風土が人間性を規定することに対しては、「環境決定論」として否定的な見解が出されることがある。しかし、ある思想が、その社会の特性により生み出され、その社会が自然風土から影響を受けている側面があることは否定できない事実である。文化や社会の背景に、各々の土地の力が働いている。
こうした知識は、比較的最近得たものである。以前、大阪の国立民族学博物館で環境に関わる共同研究に数年間参画していたことがあり、民俗学や考古学の専門家たちと接する機会を得た。そこで大いに刺激され、長らく「日本の文化的特質」という言葉だけで片付けてきた日本文化の吸収・同化力が、なぜできあがってきたかを勉強しなおしてみたのである。そして佐々木高明氏らの著書を読み、自然と文化形成との複合から今日に至る伝統の源が始まったのだと納得した。日本では、征服者が被征服者を滅ぼす歴史ではなく、先住者と外来者が絶えず混じり合った歴史であった。
そうすると、実はそうしたことを象徴する遺跡を、小さい頃から眺めていたことに気がついたのである。シャーロック・ホームズではないが「見ていたが、観察していなかった」というわけで、深く疑問に思うこともなく、ただただ眺め、小さい頃からその中で遊んでいた場所が、実はそれそのものを示していたのである。
日本の植生は二つに区分できる
地元に自慢の里山がある。里山の構造を説明するのに適したもので、見事な植生がある。学生が遊びに来てくれたとき、実地見学の意味も含めて案内する場所であるが、池・湿地・水田・休耕田・畑・草原・雑木林・松林・杉林・竹林などの多様な景観が入り乱れて分布している。単位面積当たりの多様性が非常に高い場所といえる。樹木の葉を見ているだけで、落葉樹、常緑樹、広葉樹、針葉樹、竹と実に様々。縄文時代以来の人間の居住空間であるが、縄文人たちも数千年間住み続けていた。何の疑問も持たずにそうした説明を聞いていたが、考えてみれば移動が前提の狩猟採集時代に定住していた場所なのである。
その里山であるが、「大」の字に似た形の池を挟むように、古墳群と巨大な貝塚が存在し、その植生は縄文時代から継続しているといわれている。古代遺跡は同じ場所に存在することが多いとよく聞く。縄文の集落跡を発掘していたら、古墳が出てきたという実例に遭遇したこともある。古墳の数は44とも66とも言われていたようで、それがそのまま地名になったということである。ちなみに温暖化が進んでも縄文時代の遺跡跡は水没しないだろうから、「そんな土地を購入しておくと儲かるよ」と冗談で話すこともあるが、地元の里山は市の中心部からは若干離れて、やや不便な場所にある。大池の水源は周囲の森林や湿地で、樹木の根が貯水池の役割を負っている。ここを水源にした水は霞ヶ浦に注ぎ、下にある集落の田畑を潤している。この典型的な関東の里山は、古墳群・水田と貝塚・縄文の森が連動した姿をしている。縄文の森がためた水が水源となり、水田を潤しているのだ。それに多様な生物が加わり、まさに縄文時代の収穫体制と、水田稲作の複合形態を象徴している。ここは日本の植生の濃縮版のような側面もある。
日本の植生を概観すると、大きく二つに区分できるという。ブナ・ナラ・クリ・クルミなどを主としたナラ林帯が東日本を中心に分布している。土浦の里山もその例に漏れず、山クリやコナラがたくさん生い茂っている。ナラ林帯は、朝鮮半島中・北部から中国東北部・沿海州・アムール川流域および黄河流域へと連なっていると考えられる。一方、西日本を中心に分布するのが照葉樹林帯で、海を越えて中国大陸の長江流域から雲南を経てヒマラヤ中腹へと連なっている。この大きな区分は、縄文前期ごろに当たる6500年前から、現在まで変わっていないとされている。
日本におけるナラ林の拡大期は、今から1万3000~1万2000年前と見られている。関わっているのは気候変動である。氷河期の終焉が、海底環境の酸化をもたらし、対馬暖流の流入が大量の降雪を招くという形で、ブナ林を拡大させた。ここから日本列島が独自の発達を遂げ始める。ブナ林の拡大とともに、縄文土器が登場したのである。気候変動・自然の変化が、文明の発達と連動しているのだ。この辺までの動きは、世界各地と比較しても、そう大差ないだろう。
照葉樹林の拡大は気候の温暖化によるもの
それに対して、照葉樹林の拡大は、6500~6000年前の気候の温暖化によるものであるとされる。日本列島に南の方から照葉樹林が入ってきて、それとともに照葉樹林文化も入ってきた。しかし、7000年前に入ってきた照葉樹林は、縄文時代早期の人にはなじみが薄く、ナラ林帯を土着的とするなら、照葉樹林は外来的であったと言える。ナラ林帯では、亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡に代表されるようなクリなどの半栽培が盛んで、焼畑の発達する照葉樹林とは違った発達となっていた。地域による文化の差が、植生の差と連動して出てきているのだ。これも当然のこととして、どこでも受け入れられるだろう。しかし、新システムと従来のシステムとが、どのような関係を持ったかが、世界各地とは異なる日本の特色になっている。
日本文化は、弥生時代以降、水田稲作に基礎を置く文化を中心に再編成されていくのだが、ナラ林文化と照葉樹林文化に由来するさまざまの要素も残していた。従って、日本文化の基層文化の形成過程は縄文時代に求められるということになる。基層文化とは「古代国家とその文明を生み出す基礎になったような伝統的文化」と定義されている。佐々木高明氏は、基層文化形成の第一段を縄文時代の1万2000年前に置いている。第二期は縄文時代前期~中期に照葉樹林文化が大陸から到来した時、第三期が縄文時代末期~弥生時代に稲作文化が到来した時で、この大きな文化流入に加えて、大小様々な文化が渡来したと示唆されている。縄文時代の開幕をいつに置くのかは諸説があるようだが、1万6500年前に土器を作り、1万5000年前には定住化していた。そして6000年前には、四季の変化に合わせた生活スタイルをほぼ確立していたとされている。地元の里山にある貝塚からは、当時の人の食生活がうかがわれるが、季節ごとに異なった、実に多様性に富んだ食べ物を口にしていたようである。
ナラ林文化は、クリなどの栽培と狩猟採集に有利な場所が、最も栄える地域となる。縄文時代、人口が多くなったのは中期頃とされているが、その8割が関東に集中していた。典型的な縄文文化は、東日本のナラ林帯の自然の中に文化圏を形成していたのである。狩猟採集社会として見たとき、その最も発達した例とされる北米の北西海岸居住の先住民族の人口密度100平方キロ100人に対して、関東地方は100平方キロ200~300人であったことから、極めて成熟していたと言える。
縄文文化は、東北アジアのナラ林帯と同様、狩猟に加えてサケやマスの魚労に、クリやクルミなどの堅果類の収穫を加えた採集経済が定着し、竪穴住居を主体とした定住型住居を持ち、北方系の深鉢型である縄文土器が見られた。東日本の縄文文化の典型的なものに東北の亀ヶ岡文化がある。佐々木高明氏は、発見される藍胎漆器などから見ても、その地に専門職人がいたと推測しているが、それは高度な社会が持つ分業制が存在していたということである。
気候変動が、人口とともに文化の中心点をも移動させる。ヒマラヤ山脈によって日本に大量の降雨をもたらすようになったモンスーンは、5000年前の完新世の気候最温暖期(ヒプシサーマル)の終了に伴って変化し、梅雨が不活発になって西日本太平洋岸は乾燥化し、東日本は寒冷化して積雪量の増加による湿潤化に見舞われた。ナラやクリの不作が始まり、縄文人たちは中部山岳の太平洋岸や関西に移動し、そこへの人口集中が縄文時代中期文化の発達を促した。気候の変化が、さらに縄文時代を変化させる。中部山岳地帯の縄文中期の文化は、堅果類の集約的利用を背景にしていたとされるが、ここでも自然生態系における人口許容量を最大限に高めていたため、短期間の寒冷化・湿潤化によってクリやドングリ類の不作が続き、人口を維持できなくなった可能性が高い。東日本の土地生産力は低下していった。後世においても、東国と西国の力関係は、気候の変動、特に温暖か寒冷かによって変化する。寒冷化によって総体的に豊かになるのが西国である。新しい生産スタイルが西国、すなわち西日本で開始されたのである。
西日本では別種の文化が発達
土地生産力の低下に見舞われた東日本に対して、西日本の照葉樹林帯では別種の文化が発達していた。同じ縄文時代とは言っても、西日本は縄文文化の核心をなしていた東日本と比べるとやや異なる特色が表れていたのである。自然の恵みがナラ林帯ほどではないため、雑穀を主とした焼畑農耕文化が、採集・狩猟・魚労に補われながら発達したのである。ここでは、稲・アワの雑穀類、サトイモなどのイモ類など作物群だけでなく、モチを儀礼食とする慣行、ウルシ・絹・茶・ミソ・納豆・麹酒など、東南アジアとの共通の要素を持った照葉樹林文化が広がっていった。この広がりは東日本も覆っていく。かつて地元で縄文時代の痕跡を調べたことがあるが、現在でも筑波~土浦の広範な地方で、月見儀式には元来は焼畑作物であったサトイモが餅とともに供えられるという古代からの風習が残っている。これは照葉樹林帯文化との共通点である。
佐々木高明氏が調査した結果、四国や九州には、稲作文化とは異なった焼き畑文化の痕跡が残っているという。それは焼き畑で栽培される多様な作物と、山野で採集される多様な植物、さらに狩猟で入手する多様な野生動物をも加えて利用する生活様式である。日本における焼畑は、湖南産地や台湾産地などの江南照葉樹林地帯と類似性が強いが、麦栽培も混じっていてナラ林地帯の名残もみられ、しかも北方系のカブや大根も日本海側では焼畑の対象作物となっている。照葉樹林農耕文化の発達は三段階に分かれ、野生採取段階、焼畑農耕を基礎とする雑穀栽培段階、水稲栽培段階の順番になる。日本においても、野生採取段階、焼畑農耕を基礎とする雑穀栽培段階を経て稲作が始まったというのが佐々木高明氏の推測である。つまり、照葉樹林帯では、狩猟、漁労に野生植物の半栽培を伴った先農耕段階の照葉樹林文化が広く分布し、ここから焼き畑、さらに水田稲作が発達したと推測している。気候変動は弥生の水田システムも招き入れるが、優劣の差こそあっても征服・被征服関係にまでは至らない。それを受け入れる土壌を日本は持っていたのである。
日本における稲作の起源は、縄文時代晩期の3000年前に遡るのは確実で、4000年前の縄文時代後期にまで遡る可能性すらあるという。縄文時代晩期も気候変動期に当たり、ちょうど3500年前の寒冷化に相当している。この寒冷化が海面低下による低湿地帯の拡大が水田開発の条件を整え、長江文明の滅亡による大陸からの移民により、水田稲作が開始されたというのが有力な説である。縄文時代後期には熱帯ジャポニカ、縄文時代晩期には水田での温帯ジャポニカが栽培され、その伝播経路は黄海や東シナ海から渡ったもので、従来の朝鮮半島が通過点であったというルートはほぼ否定されている。
水田稲作の導入はこのような過程を経たものなので、即時に水田稲作に一本化されたわけではない。日本において、もともと米は、照葉樹林文化の特徴である雑穀の複合体に組み込まれた一要素にすぎなかったようである。『常陸風土記』には神祖の尊が筑波山を訪れたのは「新粟祭」を行うときであったという記述がある。「新嘗祭」でなく「新粟祭」という「粟」を使った儀式らしいことが伺われ、水田稲作以前の焼畑が行われていた名残が感じられる。これもお月見の風習とともに、照葉樹林文化が、地元に根付いたことを示す話であった。しかし、地元里山での歴史はそこにとどまらず、さらに弥生の集落、古墳時代と積み重なり、様々な風習や民話を残していく。遺跡だけ見ても、平将門時代の開拓も痕跡をとどめているのである。里山に隣接した寺院は、将門の次男・将氏の娘・安寿姫が建立したものであるからだ。
日本の水田は森林を守った
新しい時代は、古い時代を淘汰せず、経済システムは複合していった。関東地方は奈良~平安時代が大開墾時代であるが、開墾が森林を破壊した欧州とは異なり、日本の水田は逆に森林を守った。森林を守ったのは、アニミズム的崇拝心からだけではなく、水田が存在するには森林が不可欠であったからである。水田は大量の水を必要とする。近くに川や湖があればよいが、それがなければ別なところから水を引いてくる必要がある。森林は貯水池となった。樹木が根に蓄える水が水田を潤したのだ。縄文時代に恵みをもたらした森林は、新しいシステムにおいても不可欠の要素となった。
日本の国土は60~70%が森林である。フィンランド、インドネシア、スウェーデン、ブラジルなどと並んで国土の3分の2が森林という世界有数の緑の国である。同時に人口が過大であるために、国民1人当たりの森林面積は0.22ヘクタール程度で、世界平均の1ヘクタールの5分の1にすぎない。この状況が、森林と人間とを密接な関係に置いた。生産性の高い水田を支え、必要な資材を身近な場所から得るため森林は社会的財産となったのである。稲作は、森林との共生が必要であったから森林が保護された。
長江文明も森林との共生が指摘されているが、日本の場合、水源地の森林伐採などが水の供給を断ったり、洪水や土砂崩れの原因となったりすることは経験的に知られており、水源地の山などは神の山・鎮守の森といった形で保護された。各地を回った僧侶などの知識人が信仰や迷信といった形で森林保護を図ったりもしている。また地方民話の中にも禁忌として森林が維持されている話や森の神様の話が残っている。地元の里山でも禁忌を暗示する民話が残っている。山林はアニミズムの神々が住む場所として敬われるとともに肥料の採集場所となり、さらに水田システムにおける保水地としての役割も負った。灌漑が自然を破壊したのに対して、森林に貯水池の役を負わせたことで水田システムは自然保護と一体化した。天武天皇の肉食禁止令以降、水田システムは、肉食禁止令の仏教と自然への畏敬を求めるアニミズム(=神道)が結びついたシステムとなっていた。宗教的にも経済的にも、いくつもの要素が結びついているのである。
地元の里山では、縄文時代の各種の林が水源の役割を負い、弥生の水田と結び付いている。縄文時代以来の伝統とも言える木の実の採集は今も行われている。多くの恵みをもたらしたからこそ、土地の人たちは縄文時代から続く森林を守ったのである。倫理観に基づく「保護のための保護」は長続きしにくい。しかし経済システムに組み込まれた自然保護は、数千年間続いてきた。新しいエコロジーの時代を考える際に、日本の里山は世界にアピールできるシステムのように思える。
海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在、国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社)、「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20111011/370493/?ST=management
海上 知明=国士舘大学
学生の頃に教わった歴史のかなりが役に立たなくなっている。イースター島でも四大文明でもマヤ王国でも、かつて教わった知識は時代遅れとなっている。これは日本の古代史にも当てはまる。といっても、旧石器捏造事件に関わることではない。文化と社会に関わる内容である。
かつては、縄文人は弥生人に滅ぼされたらしいことが示唆されていた。ダーウィン以来の生存競争思想、なかんずくスペンサーの社会ダーウィン説が発達していけば、劣った文明を進んだ文明が滅ぼし、劣等種族を優秀な種族が淘汰するのが当然で、文明とはかく塗り変わり、新文明が歴史の表舞台に現れると考えられていたのだろう。帝国主義時代のヨーロッパ人たちは、そうして自らの行為を正当化していた。縄文人も縄文文明も、大陸から渡来した先進的な弥生文明に淘汰されたと言われていた。
それだけではない。縄文時代は狩猟採集時代で、弥生時代になって農業が開始されたとも教わっていた。狩猟採集とは農耕に比べて未開な経済である。現在との連続性は弥生時代からであり、縄文時代とは、そんな先史文明があったというニュアンスであったのだ。現世の日本人は弥生人直系の子孫であり、縄文人とは無関係であると。しかし、ふたを開けてみれば、我々は縄文人の子孫でもあったのだ。縄文人と弥生人、さらに様々な渡来人が混血して、現在の日本人が形成されていったのである。その縄文人が農耕をしていたことも、わかってきた。
今日明らかになってきたのは、縄文人が弥生人を受け入れ、さらに新規の渡来人を次々に受け入れてきた歴史である。それは先住民族が征服されず、逆に母胎となって外来民族と混じり合い、新しい民族を形成していくという複合的文明形成の歴史でもある。気候変動は、新たな技術をもたらし、それに最も適した地域に根付きながら拡大して、従来の文明の上に積み重なっていく。こうした文明形成と一体化した文化的特質は、日本列島の地理的位置とともに、複雑な日本の地形と、変化に富んだ四季が生み出したようにも思える。もちろん、自然風土が人間性を規定することに対しては、「環境決定論」として否定的な見解が出されることがある。しかし、ある思想が、その社会の特性により生み出され、その社会が自然風土から影響を受けている側面があることは否定できない事実である。文化や社会の背景に、各々の土地の力が働いている。
こうした知識は、比較的最近得たものである。以前、大阪の国立民族学博物館で環境に関わる共同研究に数年間参画していたことがあり、民俗学や考古学の専門家たちと接する機会を得た。そこで大いに刺激され、長らく「日本の文化的特質」という言葉だけで片付けてきた日本文化の吸収・同化力が、なぜできあがってきたかを勉強しなおしてみたのである。そして佐々木高明氏らの著書を読み、自然と文化形成との複合から今日に至る伝統の源が始まったのだと納得した。日本では、征服者が被征服者を滅ぼす歴史ではなく、先住者と外来者が絶えず混じり合った歴史であった。
そうすると、実はそうしたことを象徴する遺跡を、小さい頃から眺めていたことに気がついたのである。シャーロック・ホームズではないが「見ていたが、観察していなかった」というわけで、深く疑問に思うこともなく、ただただ眺め、小さい頃からその中で遊んでいた場所が、実はそれそのものを示していたのである。
日本の植生は二つに区分できる
地元に自慢の里山がある。里山の構造を説明するのに適したもので、見事な植生がある。学生が遊びに来てくれたとき、実地見学の意味も含めて案内する場所であるが、池・湿地・水田・休耕田・畑・草原・雑木林・松林・杉林・竹林などの多様な景観が入り乱れて分布している。単位面積当たりの多様性が非常に高い場所といえる。樹木の葉を見ているだけで、落葉樹、常緑樹、広葉樹、針葉樹、竹と実に様々。縄文時代以来の人間の居住空間であるが、縄文人たちも数千年間住み続けていた。何の疑問も持たずにそうした説明を聞いていたが、考えてみれば移動が前提の狩猟採集時代に定住していた場所なのである。
その里山であるが、「大」の字に似た形の池を挟むように、古墳群と巨大な貝塚が存在し、その植生は縄文時代から継続しているといわれている。古代遺跡は同じ場所に存在することが多いとよく聞く。縄文の集落跡を発掘していたら、古墳が出てきたという実例に遭遇したこともある。古墳の数は44とも66とも言われていたようで、それがそのまま地名になったということである。ちなみに温暖化が進んでも縄文時代の遺跡跡は水没しないだろうから、「そんな土地を購入しておくと儲かるよ」と冗談で話すこともあるが、地元の里山は市の中心部からは若干離れて、やや不便な場所にある。大池の水源は周囲の森林や湿地で、樹木の根が貯水池の役割を負っている。ここを水源にした水は霞ヶ浦に注ぎ、下にある集落の田畑を潤している。この典型的な関東の里山は、古墳群・水田と貝塚・縄文の森が連動した姿をしている。縄文の森がためた水が水源となり、水田を潤しているのだ。それに多様な生物が加わり、まさに縄文時代の収穫体制と、水田稲作の複合形態を象徴している。ここは日本の植生の濃縮版のような側面もある。
日本の植生を概観すると、大きく二つに区分できるという。ブナ・ナラ・クリ・クルミなどを主としたナラ林帯が東日本を中心に分布している。土浦の里山もその例に漏れず、山クリやコナラがたくさん生い茂っている。ナラ林帯は、朝鮮半島中・北部から中国東北部・沿海州・アムール川流域および黄河流域へと連なっていると考えられる。一方、西日本を中心に分布するのが照葉樹林帯で、海を越えて中国大陸の長江流域から雲南を経てヒマラヤ中腹へと連なっている。この大きな区分は、縄文前期ごろに当たる6500年前から、現在まで変わっていないとされている。
日本におけるナラ林の拡大期は、今から1万3000~1万2000年前と見られている。関わっているのは気候変動である。氷河期の終焉が、海底環境の酸化をもたらし、対馬暖流の流入が大量の降雪を招くという形で、ブナ林を拡大させた。ここから日本列島が独自の発達を遂げ始める。ブナ林の拡大とともに、縄文土器が登場したのである。気候変動・自然の変化が、文明の発達と連動しているのだ。この辺までの動きは、世界各地と比較しても、そう大差ないだろう。
照葉樹林の拡大は気候の温暖化によるもの
それに対して、照葉樹林の拡大は、6500~6000年前の気候の温暖化によるものであるとされる。日本列島に南の方から照葉樹林が入ってきて、それとともに照葉樹林文化も入ってきた。しかし、7000年前に入ってきた照葉樹林は、縄文時代早期の人にはなじみが薄く、ナラ林帯を土着的とするなら、照葉樹林は外来的であったと言える。ナラ林帯では、亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡に代表されるようなクリなどの半栽培が盛んで、焼畑の発達する照葉樹林とは違った発達となっていた。地域による文化の差が、植生の差と連動して出てきているのだ。これも当然のこととして、どこでも受け入れられるだろう。しかし、新システムと従来のシステムとが、どのような関係を持ったかが、世界各地とは異なる日本の特色になっている。
日本文化は、弥生時代以降、水田稲作に基礎を置く文化を中心に再編成されていくのだが、ナラ林文化と照葉樹林文化に由来するさまざまの要素も残していた。従って、日本文化の基層文化の形成過程は縄文時代に求められるということになる。基層文化とは「古代国家とその文明を生み出す基礎になったような伝統的文化」と定義されている。佐々木高明氏は、基層文化形成の第一段を縄文時代の1万2000年前に置いている。第二期は縄文時代前期~中期に照葉樹林文化が大陸から到来した時、第三期が縄文時代末期~弥生時代に稲作文化が到来した時で、この大きな文化流入に加えて、大小様々な文化が渡来したと示唆されている。縄文時代の開幕をいつに置くのかは諸説があるようだが、1万6500年前に土器を作り、1万5000年前には定住化していた。そして6000年前には、四季の変化に合わせた生活スタイルをほぼ確立していたとされている。地元の里山にある貝塚からは、当時の人の食生活がうかがわれるが、季節ごとに異なった、実に多様性に富んだ食べ物を口にしていたようである。
ナラ林文化は、クリなどの栽培と狩猟採集に有利な場所が、最も栄える地域となる。縄文時代、人口が多くなったのは中期頃とされているが、その8割が関東に集中していた。典型的な縄文文化は、東日本のナラ林帯の自然の中に文化圏を形成していたのである。狩猟採集社会として見たとき、その最も発達した例とされる北米の北西海岸居住の先住民族の人口密度100平方キロ100人に対して、関東地方は100平方キロ200~300人であったことから、極めて成熟していたと言える。
縄文文化は、東北アジアのナラ林帯と同様、狩猟に加えてサケやマスの魚労に、クリやクルミなどの堅果類の収穫を加えた採集経済が定着し、竪穴住居を主体とした定住型住居を持ち、北方系の深鉢型である縄文土器が見られた。東日本の縄文文化の典型的なものに東北の亀ヶ岡文化がある。佐々木高明氏は、発見される藍胎漆器などから見ても、その地に専門職人がいたと推測しているが、それは高度な社会が持つ分業制が存在していたということである。
気候変動が、人口とともに文化の中心点をも移動させる。ヒマラヤ山脈によって日本に大量の降雨をもたらすようになったモンスーンは、5000年前の完新世の気候最温暖期(ヒプシサーマル)の終了に伴って変化し、梅雨が不活発になって西日本太平洋岸は乾燥化し、東日本は寒冷化して積雪量の増加による湿潤化に見舞われた。ナラやクリの不作が始まり、縄文人たちは中部山岳の太平洋岸や関西に移動し、そこへの人口集中が縄文時代中期文化の発達を促した。気候の変化が、さらに縄文時代を変化させる。中部山岳地帯の縄文中期の文化は、堅果類の集約的利用を背景にしていたとされるが、ここでも自然生態系における人口許容量を最大限に高めていたため、短期間の寒冷化・湿潤化によってクリやドングリ類の不作が続き、人口を維持できなくなった可能性が高い。東日本の土地生産力は低下していった。後世においても、東国と西国の力関係は、気候の変動、特に温暖か寒冷かによって変化する。寒冷化によって総体的に豊かになるのが西国である。新しい生産スタイルが西国、すなわち西日本で開始されたのである。
西日本では別種の文化が発達
土地生産力の低下に見舞われた東日本に対して、西日本の照葉樹林帯では別種の文化が発達していた。同じ縄文時代とは言っても、西日本は縄文文化の核心をなしていた東日本と比べるとやや異なる特色が表れていたのである。自然の恵みがナラ林帯ほどではないため、雑穀を主とした焼畑農耕文化が、採集・狩猟・魚労に補われながら発達したのである。ここでは、稲・アワの雑穀類、サトイモなどのイモ類など作物群だけでなく、モチを儀礼食とする慣行、ウルシ・絹・茶・ミソ・納豆・麹酒など、東南アジアとの共通の要素を持った照葉樹林文化が広がっていった。この広がりは東日本も覆っていく。かつて地元で縄文時代の痕跡を調べたことがあるが、現在でも筑波~土浦の広範な地方で、月見儀式には元来は焼畑作物であったサトイモが餅とともに供えられるという古代からの風習が残っている。これは照葉樹林帯文化との共通点である。
佐々木高明氏が調査した結果、四国や九州には、稲作文化とは異なった焼き畑文化の痕跡が残っているという。それは焼き畑で栽培される多様な作物と、山野で採集される多様な植物、さらに狩猟で入手する多様な野生動物をも加えて利用する生活様式である。日本における焼畑は、湖南産地や台湾産地などの江南照葉樹林地帯と類似性が強いが、麦栽培も混じっていてナラ林地帯の名残もみられ、しかも北方系のカブや大根も日本海側では焼畑の対象作物となっている。照葉樹林農耕文化の発達は三段階に分かれ、野生採取段階、焼畑農耕を基礎とする雑穀栽培段階、水稲栽培段階の順番になる。日本においても、野生採取段階、焼畑農耕を基礎とする雑穀栽培段階を経て稲作が始まったというのが佐々木高明氏の推測である。つまり、照葉樹林帯では、狩猟、漁労に野生植物の半栽培を伴った先農耕段階の照葉樹林文化が広く分布し、ここから焼き畑、さらに水田稲作が発達したと推測している。気候変動は弥生の水田システムも招き入れるが、優劣の差こそあっても征服・被征服関係にまでは至らない。それを受け入れる土壌を日本は持っていたのである。
日本における稲作の起源は、縄文時代晩期の3000年前に遡るのは確実で、4000年前の縄文時代後期にまで遡る可能性すらあるという。縄文時代晩期も気候変動期に当たり、ちょうど3500年前の寒冷化に相当している。この寒冷化が海面低下による低湿地帯の拡大が水田開発の条件を整え、長江文明の滅亡による大陸からの移民により、水田稲作が開始されたというのが有力な説である。縄文時代後期には熱帯ジャポニカ、縄文時代晩期には水田での温帯ジャポニカが栽培され、その伝播経路は黄海や東シナ海から渡ったもので、従来の朝鮮半島が通過点であったというルートはほぼ否定されている。
水田稲作の導入はこのような過程を経たものなので、即時に水田稲作に一本化されたわけではない。日本において、もともと米は、照葉樹林文化の特徴である雑穀の複合体に組み込まれた一要素にすぎなかったようである。『常陸風土記』には神祖の尊が筑波山を訪れたのは「新粟祭」を行うときであったという記述がある。「新嘗祭」でなく「新粟祭」という「粟」を使った儀式らしいことが伺われ、水田稲作以前の焼畑が行われていた名残が感じられる。これもお月見の風習とともに、照葉樹林文化が、地元に根付いたことを示す話であった。しかし、地元里山での歴史はそこにとどまらず、さらに弥生の集落、古墳時代と積み重なり、様々な風習や民話を残していく。遺跡だけ見ても、平将門時代の開拓も痕跡をとどめているのである。里山に隣接した寺院は、将門の次男・将氏の娘・安寿姫が建立したものであるからだ。
日本の水田は森林を守った
新しい時代は、古い時代を淘汰せず、経済システムは複合していった。関東地方は奈良~平安時代が大開墾時代であるが、開墾が森林を破壊した欧州とは異なり、日本の水田は逆に森林を守った。森林を守ったのは、アニミズム的崇拝心からだけではなく、水田が存在するには森林が不可欠であったからである。水田は大量の水を必要とする。近くに川や湖があればよいが、それがなければ別なところから水を引いてくる必要がある。森林は貯水池となった。樹木が根に蓄える水が水田を潤したのだ。縄文時代に恵みをもたらした森林は、新しいシステムにおいても不可欠の要素となった。
日本の国土は60~70%が森林である。フィンランド、インドネシア、スウェーデン、ブラジルなどと並んで国土の3分の2が森林という世界有数の緑の国である。同時に人口が過大であるために、国民1人当たりの森林面積は0.22ヘクタール程度で、世界平均の1ヘクタールの5分の1にすぎない。この状況が、森林と人間とを密接な関係に置いた。生産性の高い水田を支え、必要な資材を身近な場所から得るため森林は社会的財産となったのである。稲作は、森林との共生が必要であったから森林が保護された。
長江文明も森林との共生が指摘されているが、日本の場合、水源地の森林伐採などが水の供給を断ったり、洪水や土砂崩れの原因となったりすることは経験的に知られており、水源地の山などは神の山・鎮守の森といった形で保護された。各地を回った僧侶などの知識人が信仰や迷信といった形で森林保護を図ったりもしている。また地方民話の中にも禁忌として森林が維持されている話や森の神様の話が残っている。地元の里山でも禁忌を暗示する民話が残っている。山林はアニミズムの神々が住む場所として敬われるとともに肥料の採集場所となり、さらに水田システムにおける保水地としての役割も負った。灌漑が自然を破壊したのに対して、森林に貯水池の役を負わせたことで水田システムは自然保護と一体化した。天武天皇の肉食禁止令以降、水田システムは、肉食禁止令の仏教と自然への畏敬を求めるアニミズム(=神道)が結びついたシステムとなっていた。宗教的にも経済的にも、いくつもの要素が結びついているのである。
地元の里山では、縄文時代の各種の林が水源の役割を負い、弥生の水田と結び付いている。縄文時代以来の伝統とも言える木の実の採集は今も行われている。多くの恵みをもたらしたからこそ、土地の人たちは縄文時代から続く森林を守ったのである。倫理観に基づく「保護のための保護」は長続きしにくい。しかし経済システムに組み込まれた自然保護は、数千年間続いてきた。新しいエコロジーの時代を考える際に、日本の里山は世界にアピールできるシステムのように思える。
海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在、国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社)、「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20111011/370493/?ST=management