申命記 9:1-3
「イスラエルよ、聞きなさい。あなたは、きょう、ヨルダンを渡って行って、あなたよりも大きく、かつ強い国々を取ろうとしている。その町々は大きく、石がきは天に達している。 その民は、あなたの知っているアナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い。あなたはまた『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と人の言うのを聞いた。 それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。」
神様は今まさに約束の地に入ろうとするイスラエルに、これから戦うことになる敵の強大さと、目の前の現実の厳しさを直視させた上で、主が自ら先頭に立って戦い、敵を滅ぼし、イスラエルの前に屈服させると約束されました。
神様は、現実逃避する者の味方ではありません。たとえ私たちの前に立ち塞がる障壁がいかに高くとも、私たちに先立って進まれる主に全く信頼し、勇敢に歩みを進めて、約束された祝福を勝ち取る私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.9.1-3.ja1955
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申命記 9:4-5
「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。 あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。」
主がイスラエルに味方されるのは、決してイスラエルが正しいからではなく、カナンの先住民たちが悪い民であるからであり、あくまでもアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を果たすためであると告げられました。
私たちの側には、主にここまで良くしていただく理由など一つもないことを覚えなければなりません。むしろ私たちは主に背き、主の恵みを忘れやすい、愚かな民に過ぎません。ですから私たちは自ら驕り高ぶり、自分たちに祝福を受ける権利があるなどと主張しては決してなりません。あくまでも謙虚に、神様の一方的な憐れみと恵みに感謝して、祝福に与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.9.4-5.ja1955
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申命記 9:6-7
「それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。 あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。」
神様は重ねて、イスラエルが約束の地を得ることができるのは、決してイスラエルが正しいからではなく、むしろ心の頑なな民であり、主に背いて神様の怒りを買うことばかりであったと告げられました。
私たちはこの事実を謙虚に受け止めて、本来は赦されるはずもない罪人であることを深く認識し、罪を悔い改め、神様の憐れみにすがって救いを乞い求める者でありたいと願います。
http://bible.com/81/deu.9.6-7.ja1955
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申命記 9:8, 19-20
「またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。
…
主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。 主はまた、はなはだしくアロンを怒って、彼を滅ぼそうとされたが、わたしはその時もまたアロンのために祈った。」
神様はイスラエル人の心の頑なさ、罪の深さを示す出来事の一例として、ホレブ山でモーセが十戒を授かっている最中に金の子牛の偶像を造って拝んだことを挙げられました。口では簡単に神様に従いますと言いながら、喉元過ぎれば熱さ忘れるとの諺のごとく、神様の目が届かないと思うとすぐに心を翻して偶像礼拝の罪を犯し、自ら滅びを招くようなことが何度も繰り返されました。
神様は、私たちの背きの罪を、決して忘れることはありません。にもかかわらず私たちの罪を赦してくださるのは、その背後に必死のとりなしの祈りがあったからです。イスラエルの民に対してはモーセがその役を担ったように、私たちに対しては神の一人子イエス様が、文字通り自らのいのちを懸けて、「父よ、彼らの罪をゆるしてください」と十字架の上で祈られた、そのとりなしの祈りのおかげで、今、私たちが祝福のうちに生かされていることを、決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.9.8,19-20.ja1955
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申命記 9:21
「わたしはあなたがたが造って罪を得た子牛を取り、それを火で焼き、それを撃ち砕き、よくひいて細かいちりとし、そのちりを山から流れ下る谷川に投げ捨てた。」
モーセがホレブの山で十戒を授かっている間にイスラエルの民が拝んだ金の子牛を、モーセは火で焼き、粉々に打ち砕いて、細かい塵となるまで徹底して跡形もなくして、川に投げ捨てました。火で焼くことは罪のきよめ、粉々に打ち砕いたことは徹底した悔い改めです。少しでも罪が残るならば、それは私たちを滅ぼす火種となるからです。私たちは、罪に対してこのような徹底した態度で臨まねばなりません。
http://bible.com/81/deu.9.21.ja1955
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申命記 9:26-27
「わたしは主に祈って言った、『主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。 あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。』」
エジプトを出てから荒野を通ってヨルダンのほとりに至るまでの40年間、何度も罪と背きを繰り返したイスラエルの民が、滅びることなく生き残ることができたのは、身を挺してとりなしの祈りを捧げ続けたモーセの働きがあったからです。
モーセの祈りの特徴は、神様の約束と真実に訴えかける祈りです。神様、あなたはイスラエルにこう約束されたではありませんか、その約束を簡単に破るような不真実なお方ではないと私は確信しています、という祈りの姿勢です。
この祈りのスタイルは、徹底した信仰と神様との親しい関係があってはじめて成立します。私たちもまたモーセの祈りに倣い、徹底した信仰と服従をもって神様との親しい関係を正しく保ち、モーセのように自らを捨ててとりなし祈る者でありたいと願います。
http://bible.com/81/deu.9.26-27.ja1955
「イスラエルよ、聞きなさい。あなたは、きょう、ヨルダンを渡って行って、あなたよりも大きく、かつ強い国々を取ろうとしている。その町々は大きく、石がきは天に達している。 その民は、あなたの知っているアナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い。あなたはまた『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と人の言うのを聞いた。 それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。」
神様は今まさに約束の地に入ろうとするイスラエルに、これから戦うことになる敵の強大さと、目の前の現実の厳しさを直視させた上で、主が自ら先頭に立って戦い、敵を滅ぼし、イスラエルの前に屈服させると約束されました。
神様は、現実逃避する者の味方ではありません。たとえ私たちの前に立ち塞がる障壁がいかに高くとも、私たちに先立って進まれる主に全く信頼し、勇敢に歩みを進めて、約束された祝福を勝ち取る私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.9.1-3.ja1955
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申命記 9:4-5
「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。 あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。」
主がイスラエルに味方されるのは、決してイスラエルが正しいからではなく、カナンの先住民たちが悪い民であるからであり、あくまでもアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を果たすためであると告げられました。
私たちの側には、主にここまで良くしていただく理由など一つもないことを覚えなければなりません。むしろ私たちは主に背き、主の恵みを忘れやすい、愚かな民に過ぎません。ですから私たちは自ら驕り高ぶり、自分たちに祝福を受ける権利があるなどと主張しては決してなりません。あくまでも謙虚に、神様の一方的な憐れみと恵みに感謝して、祝福に与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/deu.9.4-5.ja1955
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申命記 9:6-7
「それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。 あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。」
神様は重ねて、イスラエルが約束の地を得ることができるのは、決してイスラエルが正しいからではなく、むしろ心の頑なな民であり、主に背いて神様の怒りを買うことばかりであったと告げられました。
私たちはこの事実を謙虚に受け止めて、本来は赦されるはずもない罪人であることを深く認識し、罪を悔い改め、神様の憐れみにすがって救いを乞い求める者でありたいと願います。
http://bible.com/81/deu.9.6-7.ja1955
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申命記 9:8, 19-20
「またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。
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主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。 主はまた、はなはだしくアロンを怒って、彼を滅ぼそうとされたが、わたしはその時もまたアロンのために祈った。」
神様はイスラエル人の心の頑なさ、罪の深さを示す出来事の一例として、ホレブ山でモーセが十戒を授かっている最中に金の子牛の偶像を造って拝んだことを挙げられました。口では簡単に神様に従いますと言いながら、喉元過ぎれば熱さ忘れるとの諺のごとく、神様の目が届かないと思うとすぐに心を翻して偶像礼拝の罪を犯し、自ら滅びを招くようなことが何度も繰り返されました。
神様は、私たちの背きの罪を、決して忘れることはありません。にもかかわらず私たちの罪を赦してくださるのは、その背後に必死のとりなしの祈りがあったからです。イスラエルの民に対してはモーセがその役を担ったように、私たちに対しては神の一人子イエス様が、文字通り自らのいのちを懸けて、「父よ、彼らの罪をゆるしてください」と十字架の上で祈られた、そのとりなしの祈りのおかげで、今、私たちが祝福のうちに生かされていることを、決して忘れてはなりません。
http://bible.com/81/deu.9.8,19-20.ja1955
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申命記 9:21
「わたしはあなたがたが造って罪を得た子牛を取り、それを火で焼き、それを撃ち砕き、よくひいて細かいちりとし、そのちりを山から流れ下る谷川に投げ捨てた。」
モーセがホレブの山で十戒を授かっている間にイスラエルの民が拝んだ金の子牛を、モーセは火で焼き、粉々に打ち砕いて、細かい塵となるまで徹底して跡形もなくして、川に投げ捨てました。火で焼くことは罪のきよめ、粉々に打ち砕いたことは徹底した悔い改めです。少しでも罪が残るならば、それは私たちを滅ぼす火種となるからです。私たちは、罪に対してこのような徹底した態度で臨まねばなりません。
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申命記 9:26-27
「わたしは主に祈って言った、『主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。 あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。』」
エジプトを出てから荒野を通ってヨルダンのほとりに至るまでの40年間、何度も罪と背きを繰り返したイスラエルの民が、滅びることなく生き残ることができたのは、身を挺してとりなしの祈りを捧げ続けたモーセの働きがあったからです。
モーセの祈りの特徴は、神様の約束と真実に訴えかける祈りです。神様、あなたはイスラエルにこう約束されたではありませんか、その約束を簡単に破るような不真実なお方ではないと私は確信しています、という祈りの姿勢です。
この祈りのスタイルは、徹底した信仰と神様との親しい関係があってはじめて成立します。私たちもまたモーセの祈りに倣い、徹底した信仰と服従をもって神様との親しい関係を正しく保ち、モーセのように自らを捨ててとりなし祈る者でありたいと願います。
http://bible.com/81/deu.9.26-27.ja1955