エゼキエル書 9:1-2
時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。 見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のかたわらに立った。
私たちの住む目に見える世界の背後に、目には見えない霊の世界が存在します。この世のすべての出来事は、霊的な世界で描かれたシナリオ通りに歴史が動きます。神様はユダの罪を裁く執行者として6人の御使を、監督者として1人の御使の合計7人をエルサレムに遣わされました。7は聖書の世界では完全数を意味します。1人だけ白い亜麻布を着ていたのは神のきよさを表し、青銅の祭壇は神の裁きを意味します。彼らは北からエルサレムにやってきました。それはバビロンによるエルサレム陥落の背後には、神様の裁きの意志決定があったことを意味します。この世に起こるすべての出来事を霊的な目で見るならば、神様の御心がどのように成就するかを知り、裁きを免れることができます。これが正しい知恵の用い方です。
http://bible.com/81/ezk.9.1-2.ja1955
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エゼキエル書 9:3-4
ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。
エルサレムの人々を裁く前に、神様は亜麻布を着た1人の御使を呼び寄せ、神の宮の中で偶像礼拝が行われている現実を嘆き心を痛めている人々を見つけ出し、額にしるしを付けなさいと命じられました。この「しるしをつける」という言葉は、ヘブル語で「タブ」というヘブライ文字のアルファベット最後の文字1字で表され、当時の書体では「+」と、十字架の形であったということですから驚きです。神様の忌み嫌われる偶像礼拝や不品行に心を痛めるきよく正しい信徒を、神様は特別にしるしを付けて聖別し、裁きから守ってくださいますから感謝いたします。
http://bible.com/81/ezk.9.3-4.ja1955
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エゼキエル書 9:5-7
またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。 老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。 この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。
エルサレムに残っていた心のきよい正しい人々を聖別した後、神様は6人の御使に、老若男女を問わず、惜しむことも憐れむこともなく、ことごとく殺すようにと命じられました。これは出エジプトにおける過越と全く同じです。御使たちはまず聖所にいた長老たち、すなわち8章で、宮の中で忌まわしき偶像礼拝を行っていた人々から撃ち始めました。人々の上に立つ霊的指導者たちの責任は最も重いもので、裁きも彼らから始まります。そして神様は宮の中に死体を積み上げることにより、偶像礼拝で汚された神殿を裁かれました。それは人々が二度と偶像礼拝を行おうと思わないようにするためです。神様の情け容赦ない徹底的な裁きを免れるためには、この世の罪に同調することなく自らをきよく保ち、キリストの十字架のしるしを身に受けた者となることです。
http://bible.com/81/ezk.9.5-7.ja1955
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エゼキエル書 9:8
さて彼らが人々を打ち殺していた時、わたしひとりだけが残されたので、ひれ伏して、叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたがエルサレムの上に怒りを注がれるとき、イスラエルの残りの者を、ことごとく滅ぼされるのですか」。
エルサレムで人々が惨殺される様子を目の当たりにしたエゼキエルは心を痛め、残りの者をことごとく滅ぼされるのですかと、必死に執り為して祈りを捧げました。これはかつてソドムとゴモラがその罪のために滅ぼされたとき、アブラハムが「十人の正しい人がいても滅ぼすのですか」と、必死に食い下がって執り為したときと全く同じです。神のきよさと裁きの恐ろしさを知る私たちは、自分だけ助かればそれでよいと、他人事のように考えてはなりません。アブラハムのように、エゼキエルのように、この世の人々が1人でも悔い改めて、永遠の滅びを逃れるように、涙を流して必死に執り為す私たちでありますようよ。
http://bible.com/81/ezk.9.8.ja1955
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エゼキエル書 9:9-11
主はわたしに言われた、「イスラエルとユダの家の罪は非常に大きい。国は血で満ち、町は不義で満ちている。彼らは言う、『主はこの地を捨てられた。主は顧みられない』。 それゆえ、わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。彼らの行うところを、彼らのこうべに報いる」。 時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。
エゼキエルの必死の執り為しに対し、神様は、愛と憐れみに富む神様の存在を否定し、神様なんていない、見ていないところで多少罪を犯しても大丈夫とタカをくくっていた彼らの罪は大きいと、彼らが犯し続けてきた悪しき行いに対して、惜しむことなく、憐れむことなく、罪に報いられました。これが神様を否定し続け、御言葉の教える正しさの基準に反し続けてきた人々の結末です。バビロンを用いてエルサレムを滅ぼし尽くした後、白い亜麻布を着た御使が、主の命じられた通りに行いましたと報告しました。この世に起こっている戦争や虐殺行為などに心を痛め、この世に神様なんかいないと、神様がいるならどうしてこんな悲劇か起こるのかと憤慨する人がいますが、それは誤りです。すべてはまことの神様の存在を否定し、自分たちの勝手に思いこんでいる正義感を振り回して好き勝手に振る舞い、神様の忌み嫌われる偶像礼拝を行い続けているからこそ起こっていることを、私たちは素直に認めなければなりません。
http://bible.com/81/ezk.9.9-11.ja1955
時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。 見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のかたわらに立った。
私たちの住む目に見える世界の背後に、目には見えない霊の世界が存在します。この世のすべての出来事は、霊的な世界で描かれたシナリオ通りに歴史が動きます。神様はユダの罪を裁く執行者として6人の御使を、監督者として1人の御使の合計7人をエルサレムに遣わされました。7は聖書の世界では完全数を意味します。1人だけ白い亜麻布を着ていたのは神のきよさを表し、青銅の祭壇は神の裁きを意味します。彼らは北からエルサレムにやってきました。それはバビロンによるエルサレム陥落の背後には、神様の裁きの意志決定があったことを意味します。この世に起こるすべての出来事を霊的な目で見るならば、神様の御心がどのように成就するかを知り、裁きを免れることができます。これが正しい知恵の用い方です。
http://bible.com/81/ezk.9.1-2.ja1955
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エゼキエル書 9:3-4
ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。
エルサレムの人々を裁く前に、神様は亜麻布を着た1人の御使を呼び寄せ、神の宮の中で偶像礼拝が行われている現実を嘆き心を痛めている人々を見つけ出し、額にしるしを付けなさいと命じられました。この「しるしをつける」という言葉は、ヘブル語で「タブ」というヘブライ文字のアルファベット最後の文字1字で表され、当時の書体では「+」と、十字架の形であったということですから驚きです。神様の忌み嫌われる偶像礼拝や不品行に心を痛めるきよく正しい信徒を、神様は特別にしるしを付けて聖別し、裁きから守ってくださいますから感謝いたします。
http://bible.com/81/ezk.9.3-4.ja1955
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エゼキエル書 9:5-7
またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。 老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。 この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。
エルサレムに残っていた心のきよい正しい人々を聖別した後、神様は6人の御使に、老若男女を問わず、惜しむことも憐れむこともなく、ことごとく殺すようにと命じられました。これは出エジプトにおける過越と全く同じです。御使たちはまず聖所にいた長老たち、すなわち8章で、宮の中で忌まわしき偶像礼拝を行っていた人々から撃ち始めました。人々の上に立つ霊的指導者たちの責任は最も重いもので、裁きも彼らから始まります。そして神様は宮の中に死体を積み上げることにより、偶像礼拝で汚された神殿を裁かれました。それは人々が二度と偶像礼拝を行おうと思わないようにするためです。神様の情け容赦ない徹底的な裁きを免れるためには、この世の罪に同調することなく自らをきよく保ち、キリストの十字架のしるしを身に受けた者となることです。
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エゼキエル書 9:8
さて彼らが人々を打ち殺していた時、わたしひとりだけが残されたので、ひれ伏して、叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたがエルサレムの上に怒りを注がれるとき、イスラエルの残りの者を、ことごとく滅ぼされるのですか」。
エルサレムで人々が惨殺される様子を目の当たりにしたエゼキエルは心を痛め、残りの者をことごとく滅ぼされるのですかと、必死に執り為して祈りを捧げました。これはかつてソドムとゴモラがその罪のために滅ぼされたとき、アブラハムが「十人の正しい人がいても滅ぼすのですか」と、必死に食い下がって執り為したときと全く同じです。神のきよさと裁きの恐ろしさを知る私たちは、自分だけ助かればそれでよいと、他人事のように考えてはなりません。アブラハムのように、エゼキエルのように、この世の人々が1人でも悔い改めて、永遠の滅びを逃れるように、涙を流して必死に執り為す私たちでありますようよ。
http://bible.com/81/ezk.9.8.ja1955
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エゼキエル書 9:9-11
主はわたしに言われた、「イスラエルとユダの家の罪は非常に大きい。国は血で満ち、町は不義で満ちている。彼らは言う、『主はこの地を捨てられた。主は顧みられない』。 それゆえ、わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。彼らの行うところを、彼らのこうべに報いる」。 時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。
エゼキエルの必死の執り為しに対し、神様は、愛と憐れみに富む神様の存在を否定し、神様なんていない、見ていないところで多少罪を犯しても大丈夫とタカをくくっていた彼らの罪は大きいと、彼らが犯し続けてきた悪しき行いに対して、惜しむことなく、憐れむことなく、罪に報いられました。これが神様を否定し続け、御言葉の教える正しさの基準に反し続けてきた人々の結末です。バビロンを用いてエルサレムを滅ぼし尽くした後、白い亜麻布を着た御使が、主の命じられた通りに行いましたと報告しました。この世に起こっている戦争や虐殺行為などに心を痛め、この世に神様なんかいないと、神様がいるならどうしてこんな悲劇か起こるのかと憤慨する人がいますが、それは誤りです。すべてはまことの神様の存在を否定し、自分たちの勝手に思いこんでいる正義感を振り回して好き勝手に振る舞い、神様の忌み嫌われる偶像礼拝を行い続けているからこそ起こっていることを、私たちは素直に認めなければなりません。
http://bible.com/81/ezk.9.9-11.ja1955