伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/05/31

2018-05-31 07:40:25 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 9:1-2
時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。 見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のかたわらに立った。

私たちの住む目に見える世界の背後に、目には見えない霊の世界が存在します。この世のすべての出来事は、霊的な世界で描かれたシナリオ通りに歴史が動きます。神様はユダの罪を裁く執行者として6人の御使を、監督者として1人の御使の合計7人をエルサレムに遣わされました。7は聖書の世界では完全数を意味します。1人だけ白い亜麻布を着ていたのは神のきよさを表し、青銅の祭壇は神の裁きを意味します。彼らは北からエルサレムにやってきました。それはバビロンによるエルサレム陥落の背後には、神様の裁きの意志決定があったことを意味します。この世に起こるすべての出来事を霊的な目で見るならば、神様の御心がどのように成就するかを知り、裁きを免れることができます。これが正しい知恵の用い方です。

http://bible.com/81/ezk.9.1-2.ja1955

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エゼキエル書 9:3-4
ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。

エルサレムの人々を裁く前に、神様は亜麻布を着た1人の御使を呼び寄せ、神の宮の中で偶像礼拝が行われている現実を嘆き心を痛めている人々を見つけ出し、額にしるしを付けなさいと命じられました。この「しるしをつける」という言葉は、ヘブル語で「タブ」というヘブライ文字のアルファベット最後の文字1字で表され、当時の書体では「+」と、十字架の形であったということですから驚きです。神様の忌み嫌われる偶像礼拝や不品行に心を痛めるきよく正しい信徒を、神様は特別にしるしを付けて聖別し、裁きから守ってくださいますから感謝いたします。

http://bible.com/81/ezk.9.3-4.ja1955

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エゼキエル書 9:5-7
またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。 老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。 この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。

エルサレムに残っていた心のきよい正しい人々を聖別した後、神様は6人の御使に、老若男女を問わず、惜しむことも憐れむこともなく、ことごとく殺すようにと命じられました。これは出エジプトにおける過越と全く同じです。御使たちはまず聖所にいた長老たち、すなわち8章で、宮の中で忌まわしき偶像礼拝を行っていた人々から撃ち始めました。人々の上に立つ霊的指導者たちの責任は最も重いもので、裁きも彼らから始まります。そして神様は宮の中に死体を積み上げることにより、偶像礼拝で汚された神殿を裁かれました。それは人々が二度と偶像礼拝を行おうと思わないようにするためです。神様の情け容赦ない徹底的な裁きを免れるためには、この世の罪に同調することなく自らをきよく保ち、キリストの十字架のしるしを身に受けた者となることです。

http://bible.com/81/ezk.9.5-7.ja1955

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エゼキエル書 9:8
さて彼らが人々を打ち殺していた時、わたしひとりだけが残されたので、ひれ伏して、叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたがエルサレムの上に怒りを注がれるとき、イスラエルの残りの者を、ことごとく滅ぼされるのですか」。

エルサレムで人々が惨殺される様子を目の当たりにしたエゼキエルは心を痛め、残りの者をことごとく滅ぼされるのですかと、必死に執り為して祈りを捧げました。これはかつてソドムとゴモラがその罪のために滅ぼされたとき、アブラハムが「十人の正しい人がいても滅ぼすのですか」と、必死に食い下がって執り為したときと全く同じです。神のきよさと裁きの恐ろしさを知る私たちは、自分だけ助かればそれでよいと、他人事のように考えてはなりません。アブラハムのように、エゼキエルのように、この世の人々が1人でも悔い改めて、永遠の滅びを逃れるように、涙を流して必死に執り為す私たちでありますようよ。

http://bible.com/81/ezk.9.8.ja1955

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エゼキエル書 9:9-11
主はわたしに言われた、「イスラエルとユダの家の罪は非常に大きい。国は血で満ち、町は不義で満ちている。彼らは言う、『主はこの地を捨てられた。主は顧みられない』。 それゆえ、わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。彼らの行うところを、彼らのこうべに報いる」。 時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。

エゼキエルの必死の執り為しに対し、神様は、愛と憐れみに富む神様の存在を否定し、神様なんていない、見ていないところで多少罪を犯しても大丈夫とタカをくくっていた彼らの罪は大きいと、彼らが犯し続けてきた悪しき行いに対して、惜しむことなく、憐れむことなく、罪に報いられました。これが神様を否定し続け、御言葉の教える正しさの基準に反し続けてきた人々の結末です。バビロンを用いてエルサレムを滅ぼし尽くした後、白い亜麻布を着た御使が、主の命じられた通りに行いましたと報告しました。この世に起こっている戦争や虐殺行為などに心を痛め、この世に神様なんかいないと、神様がいるならどうしてこんな悲劇か起こるのかと憤慨する人がいますが、それは誤りです。すべてはまことの神様の存在を否定し、自分たちの勝手に思いこんでいる正義感を振り回して好き勝手に振る舞い、神様の忌み嫌われる偶像礼拝を行い続けているからこそ起こっていることを、私たちは素直に認めなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.9.9-11.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/30

2018-05-31 06:35:19 | 今日の聖句
箴言 序 9:10 新共同訳

主を畏れることは知恵の初め
聖なる方を知ることは分別の初め。

世界中のいかなる知識も悟りも、この世の根元であられる聖なる神様を畏れることなしに、正しく用いることはできません。知恵が身を滅ぼすことのないように心に分別を備え、まことの知恵ある者とならせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/pro.9.10.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/30

2018-05-30 07:58:23 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 8:1-4
第六年の六月五日にわたしがわたしの家に座し、ユダの長老たちがわたしの前に座していたとき、主なる神の手がわたしの上に下った。 わたしは見ていると、見よ、人のような形があって、その腰とみられる所から下は火のように見え、腰から上は光る青銅のように輝いて見えた。 彼は手のようなものを伸べて、わたしの髪の毛をつかんだ。そして霊がわたしを天と地の間に引きあげ、神の幻のうちにわたしをエルサレムに携えて行き、北に向かった内庭の門の入口に至らせた。そこには、ねたみをひき起すねたみの偶像があった。 見よ、そこに、わたしがかの平野で見た幻のようなイスラエルの神の栄光があらわれた。

エゼキエルが預言者として召命を受けたのが第5年の4月5日でしたから、それから1年2ヶ月後のことです。4章で合計430日間、右や左を向いて寝るようにと言われ、髪の毛を剃りなさいと命じられた後のことです。ユダの長老たちと面会しているそのときに、エゼキエルに神の霊が臨み、幻のうちにエルサレムの現在の姿を見せられました。そのときエゼキエルの見た神様の御姿は、火と青銅のような輝きを放っていましたが、火も青銅も、罪の裁きを象徴するものです。そして幻の中で見せられたエルサレムの神殿の庭には、神様の忌み嫌われる偶像が置かれていましたが、その場にも神の栄光が現されました。永遠にその御名を置くと言われた神殿に偶像の神々が安置されている様子は、神様にとってどれほどはらわたが煮えくり返るような思いであったことでしょう。私たちは神様の同じ思いに立って、現実を見つめ直すときを持つ必要があります。

http://bible.com/81/ezk.8.1-4.ja1955

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エゼキエル書 8:5-6
時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。

神様はエルサレムの神殿で公然と偶像礼拝が行われていた様子をエゼキエルに見せ、これらの忌まわしい行為が神様を聖所から遠ざける理由になっていると告げられました。そして更に大きな、忌まわしい罪が潜んでいることを予告されました。神様がエゼキエルに神殿の北の方から見せたのは、やがてバビロンが北から攻めてくる予表でもあります。神様から責められるとき、自分の中に神様の忌み嫌われる罪が潜んでいないか、心の身辺整理を行う私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.8.5-6.ja1955

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エゼキエル書 8:7-11
そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。 彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。 彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。 そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。 またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。

神様はエゼキエルに、神殿の壁に穴を開けて中に入るようにと命じられました。すると神殿の中には諸々の偶像で満ち、70人で構成されるサンヘドリンの長老たちが集まって偶像に香を焚き、偶像礼拝を行っておました。その中には、ヨシヤ王の時代に神殿の中からモーセの律法の書を民に読み聞かせた王の書記官シャパンの子であるヤザニヤもいました。まさかイスラエルの最高議会が、まさか立派な家柄の彼が、神の宮の中で偶像礼拝を行っていたのかと、エゼキエルにとってはショッキングな光景であったことでしょう。神殿の外見は立派でも、壁の中で隠れて偶像礼拝を行っていた姿は、今の私たちに当てはめると、表面的にはクリスチャンらしく振る舞っていても、人の目に付かないところや、心の内では、神様の忌み嫌われる、きよくない行為を行っている姿です。しかし人の目は誤魔化せても、神様の目は決して見逃すことはありません。表裏のないきよい信仰を保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.8.7-11.ja1955

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エゼキエル書 8:12-18
またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。 そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。 その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。 彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。

イスラエルの長老たちが神殿の中で隠れて偶像礼拝を行っていただけでなく、庭(女性が神様を礼拝するための外庭)では敵国バビロンの男性神タンムズを拝む女性がおり、宮の内庭では主に向かって背を向け、エジプトの太陽神ラーを拝む人々がいるという有様でした。エルサレムの神殿が西向きに造られているのは世界共通の太陽崇拝に背を向ける意味があるそうですが、ここでは逆に主に背を向けて太陽を拝む姿が描かれています。長老たちだけではなく民までが偶像礼拝に浸りきったエルサレムに対し、神様は、もはやユダを憐れまず、鼻に木を掛けて捕囚とすると断罪されました。偉大なる神を知りながら、まことの神に背を向けて主の愛を裏切り続けてきた人々に、もはや救いの余地はありません。滅びに向かっている人々が主に立ち返ることができるよう祈り、一人でも悔い改めに導くことができるようにと切に願います。

http://bible.com/81/ezk.8.12-18.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/30

2018-05-30 06:35:09 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 4:5-6‬ ‭新共同訳‬‬

時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

常日頃から言葉遣いに注意していれば、語るべきときに適切な言葉を語る備えができています。誰に対しても、いつ何時でも福音を語る機会を逸することのないよう整えられ、世の光、地の塩としての使命を果たす私たちでありますように。

http://bible.com/1819/col.4.5-6.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/29

2018-05-29 07:50:45 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 7:1-4
主の言葉がまたわたしに臨んだ、 「人の子よ、イスラエルの地の終りについて主はこう言われる、この国の四方の境に終りが来た。 いま、あなたの終りが来た。わたしはわが怒りをあなたに漏らし、あなたの行いに従って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたを罰する。 わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」

エゼキエル書6章〜7章のキーフレーズは「これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」という言葉が繰り返されていることです。罪を悔い改めないエルサレムの民を神様が裁かれることによって、まことの神のいますことが明らかにされるというのです。この世は決して永遠に続くものではなく、必ず終末を迎えます。そのときになってはじめて罪を悔い改めても、既に遅いのです。悔い改めの機会が与えられている今という日々の間に、自らの罪を認め、義なる神に立ち返り、憐れみを乞い求めて赦していただき、永遠の救いを得させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.7.1-4.ja1955

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エゼキエル書 7:5-9
「主なる神はこう言われる、災が引き続いて起る。見よ、災が来る。 終りが来る。その終りが来る。それが起って、あなたに臨む。見よ、それが来る。 この地に住む者よ、あなたの最後の運命があなたに来た。時は来た。日が近づいた。混乱の日で、山々に聞える喜びの日ではない。 今わたしは、すみやかにわたしの憤りをあなたの上に注ぎ、わたしの怒りをあなたに漏らし尽し、あなたの行いに従ってあなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき事のためにあなたを罰する。 わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたは、主であるわたしがあなたを撃つことを知るようになる。」

世の終わりに罪の裁かれること、その結果としてかつてない災いが臨むことは、何度も繰り返し聖書に記されています。また世の終わりの兆候は少しずつ見えています。にもかかわらず、多くの人々は神様の警告を心にも留めず、肉の欲望に従って罪から離れられない生活を続けています。神様が下される災いが、自分の身に降りかかってからでは遅いのです。まだ大丈夫だとタカをくくって突然訪れる終末を迎えるのではなく、十分に備えして平安と希望のうちに主イエスの再臨を待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.7.5-9.ja1955

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エゼキエル書 7:10-13
「見よ、その日を。また見よ、かの日が来た。あなたの最後の運命が来た。不義は花咲き、高ぶりは芽を出した。 暴虐はつのって悪のつえとなった。彼らもその群衆も、その富も消え、また彼らの名声も消えて何も残らなくなる。 時は来た。日は近づいた。買う者は喜ぶな。売る者は悲しむな。怒りがすべての群衆の上に臨むからだ。 売る者はたとい生きていても、その売ったものに帰ることはない。怒りがそのすべての民衆の上にあるからだ。それはもとに帰らない。その不義のために、だれも命を全うすることはできない。」

花咲き芽を出す杖とは、明らかにモーセの杖を意識した詩的表現です。神様にイスラエルの民を率いて約束の地に帰りなさいと命じられたモーセは、神様が守ってくださる印として、アーモンドの花が咲く奇跡を見させていただいた杖を手にしっかりと握りしめて旅を続けました。しかしイスラエルの民はモーセの杖ではなく、不義と高ぶりと暴虐の花咲く杖を頼みとしました。いくら神様が憐れみ深いお方であっても、自らの選択で滅びの道を選んだ者は、頼みとしていた名声も財産も、終わりの日には無用の長物と槍、神様の厳しい裁きが待ち受けるのみです。

http://bible.com/81/ezk.7.10-13.ja1955

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エゼキエル書 7:19-24
「彼らはその銀をちまたに捨て、その金はあくたのようになる。主の怒りの日には金銀も彼らを救うことはできない。それらは彼らの飢えを満足させることができない、またその腹を満たすことができない。それは彼らの不義のつまずきであったからだ。 彼らはその美しい飾り物を高ぶりのために用い、またこれをもってその憎むべき偶像と忌むべき物を造った。それゆえわたしはこれを彼らに対して汚れたものとする。 わたしはこれを外国人の手に渡して奪わせ、地の悪人に渡してかすめさせる。彼らはこれを汚す。わたしは彼らから顔をそむけて、彼らにわたしの聖所を汚させる。強盗がこれにはいって汚し、 また荒れ地とする。この地は流血のとがに満ち、この町は暴虐に満ちているゆえ、 わたしは国々のうちの悪い者どもを招いて、彼らの家をかすめさせる。わたしは強い者の高ぶりをやめさせる。また彼らの聖所は汚される。」

神様はバビロン兵を用いて、エルサレムの民が頼みとしていた財産を無用の長物とし、また心の支えとしていた神殿を汚し、流血と暴虐で満たしてこの街を荒れ地にすると宣告されました。それはエルサレムの民が、神様の祝福を不義の躓きとし、霊的祝福の土台となる神殿を偶像礼拝の場とし、経済的祝福を神様のためにではなく自らの高ぶりのために用い、また偶像を造るために用いてしまったからです。それ故彼らの祝福は奪われ、神をも恐れぬ異邦人の手にかすめ奪われてしまいました。私たちは神様の祝福を無駄遣いして、目的外使用してはなりません。祝福を正しく管理することも、神の民に相応しい使命です。

http://bible.com/81/ezk.7.19-24.ja1955

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エゼキエル書 7:25-27
「滅びが来るとき、彼らは平安を求めても得られない。 災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。 王は悲しみ、つかさは望みを失い、その地の民の手はおののきによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らをあつかい、そのさばきに従って彼らをさばく。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

終末の滅びの日には、地に残された罪の民に希望は残されていません。平安を求めても災いが重なり来たり、預言者に幻を求めても、神の律法を忘れた祭司たちに預言は与えられません。人はその行いによって裁かれることを、私たちは肝に銘じなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.7.25-27.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/29

2018-05-29 06:35:42 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 4:7 新共同訳

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

誘惑に対して無力な人間が悪魔に対抗しうる唯一の方法は、神様に服従して悪魔の方から退散するように仕向けることです。真理の帯、正義の胸当、信仰の盾、救いの兜、御言葉の剣などの神の武具を身に着けて、神様を味方に付けて悪魔に立ち向かう私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jas.4.7.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/28

2018-05-28 07:50:13 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 6:1-4
主の言葉が、わたしに臨んで言った、 「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。 あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。」

日本でも高い山や絶景となる場所に神社があったり注連縄が懸けられているように、壮大な大自然を信仰の対象とする思いは今も昔も世界共通のようです。しかし天地万物を造られた神様は、その御手によって造られた被造物を信奉するのではなく、造り主なる神様を信じることを求めておられます。聖書の中で「高き所」と呼ばれる場所は、偶像礼拝を行うための祭壇を意味します。そこは人間が勝手に編み出した宗教的行為を行う場所で、姦淫を行ったり子どもを火で焼いて捧げたり、詰まるところ人間の欲望を満たすだけの、神様の忌み嫌われる行為を公然と行っていました。そのような場所を神様は荒らし、そのような愚かな真似をしていた人々の死体を曝すと宣告されました。自分勝手な信仰を打ち捨て、神様の求められている信仰を全うする私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.6.1-4.ja1955

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エゼキエル書 6:5-7
「わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。 すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒され、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。 また殺された者はあなたがたのうちに倒れる。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」

かつて南ユダ王国で宗教改革を行ったヨシヤ王が高き所を破壊したとき、偶像礼拝を行ってきた祭司たちの墓を暴き、その骨を祭壇にまき散らしたように、死体や骨を置くことは、その場所を徹底的に汚して霊的影響を無効化することです。このことは、神様の偶像に対する裁きも徹底しておられることを意味します。人の手によって作り出された偶像に何の力もないことは明らかで、そのような無意味なものを信奉した人の行為も消し去られます。その時はじめて、自分たちの犯してきた愚かな罪に人々は気付くようになるのです。最初から無意味とわかっているものを信じる愚かさを捨て、いち早くまことの神、主に立ち返ることができるようにと願ってやみません。

http://bible.com/81/ezk.6.5-7.ja1955

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エゼキエル書 6:8-10
「わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、 あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。 そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。

神様はモーセの時代から、主なる神の他に何者をも神としてはならない、そうしない者は厳しく裁かれると再三警告してこられましたが、直ちに裁きが下らないことをいいことに、人は、これくらいならば許されるだろうと小さな罪を犯し続ける間にどんどん積み重なって、やがて神を侮る大罪を平然と犯すようになってしまいます。しかし神様はそのような人が立ち返るまで忍耐をもって裁きを猶予されているだけのことで、やがて裁きの日は突然やってきます。神様の預言は虚しいものではないという御言葉は、イスラエルの歴史を紐解けば真実だとわかります。バビロン捕囚や度重なる迫害から生き残った彼らは今、自分の先祖たちが犯してきた罪を真正面から受け止め、旧約聖書の神だけを信じる熱心なユダヤ教徒となっています。残念ながら主イエスこそ彼らの待ち望んでいたメシヤだと気付かずにいるのですが、彼らの改心の徹底ぶりには私たちも学ぶところは多いと思います。

http://bible.com/81/ezk.6.8-10.ja1955

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エゼキエル書 6:11-14
主なる神はこう言われる、「あなたは手を打ち、足を踏みならして言え。ああ、イスラエルの家のすべての悪しき憎むべき者はわざわいだ。彼らはつるぎと、ききんと、疫病に倒れるからである。 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者はつるぎに倒れる。生き残って身を全うする者はききんによって死ぬ。このようにわたしはわが憤りを彼らの上に漏らし尽す。 彼らの殺される者がその偶像の中にあり、その祭壇のまわりにあり、すべての高き丘の上にあり、すべての山の頂にあり、すべての青木の下にあり、すべての茂ったかしの木の下にあり、彼らがこうばしいかおりを、すべての偶像にささげた所にある時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである。 わたしはまた手を彼らの上に伸べて、その地を荒し、すべて彼らの住む所を、荒野からリブラまで荒れ地とする。これによって彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

イスラエル人にとって手を打ち足を踏み鳴らす行為は、本来は喜び祝うときに行うものとのことですが、神様はエゼキエルに、災いを告げ知らせるために行うように指示しました。日本では地団太踏むという表現がありますが、その感覚に近いものです。神様がその憤りを漏らし尽くすと言われたように、神に聞き従わず偶像の神々を拝んできた人々に対する裁きは徹底しており、エルサレムの人々の3分の1は疫病で死に、3分の1はバビロン兵に惨殺され、残った人々も飢饉によって死ぬというのです。そしてイスラエルからシリヤ一帯を荒れ地とすると主が言われたように、今日に至っても中東諸国は戦争の絶えない国々です。神様の御言葉の真実であることは、歴史的に見ても明らかなことです。これらの事実を突きつけられて、主こそまことの神であると信じる者だけが、神様の徹底的な裁きを免れることができるのです。

http://bible.com/81/ezk.6.11-14.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/28

2018-05-28 06:35:18 | 今日の聖句
詩編 68:19 新共同訳
「主をたたえよ
 日々、わたしたちを担い、救われる神を。〔セラ

私たちの信じる神様は、私たちの人生を責任をもって担ってくださるお方、汚れた罪人に過ぎない私たちを滅びの中から救い出してくださる、実に愛に満ちたお方です。この愛と憐れみに富み給う主に心から感謝し、最高の讃美を以てその御名をほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.68.20.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/27

2018-05-27 12:20:22 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 5:1-4
「人の子よ、鋭いつるぎを取り、それを理髪師のかみそりとして、あなたの頭と、ひげとをそり、はかりで量って、その毛を分けなさい。 その三分の一は包囲の期間の終る時、町の中で火で焼き、また三分の一を取り、つるぎで町のまわりでこれを打ち、さらに三分の一を風に散らしなさい。わたしはつるぎを抜いて、彼らのあとを追う。 あなたはその毛を少し取って、衣のすそに包み、 またそのうちから少しを取って火の中に投げ入れ、火でこれを焼きなさい。火はその中から出て、イスラエルの全家に及ぶ。」

中東の人々にとって髭は成人男性としての象徴であり誇りです。髪も髭も剃り落とすことは死者を弔うときにのみ行われたことですが、神に仕える祭司には律法の規定により禁じられていました。ですから神も髭も剃り落としなさいという神様の命令は、祭司であったエゼキエルにとっては受け入れ難いことでした。しかし神様はこの預言的行動を通して、エルサレムの街にどのような最後が待ち受けているかを示そうとしたのです。それは聖なる神に仕えるため葬式に出てはならない祭司が喪に服すほどの徹底的な裁きと滅びの予表でした。神様は時折、人が理解に苦しむ不思議なこと、つじつまの合わないことをなさりますが、それには必ず意味があります。私たちは祈りの中で、神様の真意を尋ね求めなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.5.1-4.ja1955

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エゼキエル書 5:5-7
「主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。 エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった。 それゆえ主はこう言われる、あなたがたはそのまわりにいる異邦人よりも狂暴であって、わたしの定めに歩まず、わたしのおきてを行わず、むしろ、あなたがたの回りにいる異邦人のおきてを守っていた。」

神様はエゼキエルに、主がどれほどエルサレムを愛し、特別扱いしてこられたかを語り聞かせました。小さな民であったイスラエルを四方の国民から守り、ソロモン王の時代には世界各国から貢ぎ物を納めるまでに、栄光に輝く中心的存在となりました。にもかかわらず、エルサレムの人々は主の恵みを忘れ、神様の忌み嫌われる悪しき行い、偶像礼拝の忌まわしい儀式を神の宮の中で公然と行い、神様が追い払われた異邦人にもまさって悪行三昧の日々を送り、その心は神様から遠く離れ去っていました。恵みを恵みとして感じなくなるとき、人は堕落が始まり、坂道を転がり落ちるようにどんどん悪に染まり行きます。私たちは恵みに感謝する心を決して忘れてはなりません。

http://bible.com/81/ezk.5.5-7.ja1955

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エゼキエル書 5:8-10
「それゆえ主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、異邦人の目の前で、あなたの中にさばきを行う。 あなたのもろもろの憎むべき事のために、わたしがまだした事のないような事、またこの後ふたたびしないような事をあなたに対してする。 それゆえ、あなたのうちで父はその子を食い、子はその父を食う。わたしはあなたに対してさばきを行い、あなたのうちの残りの者をことごとく四方の風に散らす。」

神様から心が離れ、偶像礼拝による悪行の限りを尽くしたエルサレムとユダの人々に対し、神様は歴史上後にも先にもかつてなかったような恐ろしい裁きを行うと宣告されました。実際に、バビロン軍に包囲され兵糧責めに遭ったエルサレムの街では、親がわが子を食べ、子がその親を食べるほどの飢饉に陥り、まさに地獄絵図の様相を呈しました。そして生き残った者は捕囚として連れ去られ、残されたわずかな人々もエルサレムを捨てて廃墟となりました。神様から離れた心の行く末は、このような悲惨な結末を迎えます。私たちは歴史の事実から教訓を得なければなりません。

http://bible.com/81/ezk.5.8-10.ja1955

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エゼキエル書 5:11-13
「それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの数を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。 あなたの三分の一はあなたの中で疫病で死に、ききんで滅び、三分の一はあなたのまわりでつるぎに倒れ、三分の一は四方の風に散らされる。わたしはつるぎを抜いてそのあとを追う。 こうしてわたしは怒りを漏らし尽し、憤りを彼らの上に漏らして、満足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし尽した時、彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。」

神様はエゼキエルに命じた預言的行動の解き明かしをされました。それはエルサレムの人々が神殿の中で偶像礼拝を行い聖なる場所を汚したため、剃った髪や髭のように3分の1は疫病と飢饉で死に、3分の1はバビロン兵に剣で殺され、残りの3分の1は四方に散らされるという内容でした。その裁きが現実のものとなったとき、預言者の警告の言葉を軽んじたエルサレムの人々ははじめて神様の御言葉が真実であることを知るようになると言われました。生ける神の御言葉を侮る者は、実際に裁きを身に受けるまで自らの過ちに気付かないものです。私たちは彼らと同じ過ちに陥って二の轍を踏まないように気を付けなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.5.11-13.ja1955

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エゼキエル書 5:14-17
「わたしはまわりにある国々の中と、すべてそばを通る者の目の前であなたを滅亡とあざけりに渡す。 わたしが怒りと、憤りと、重い懲罰とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。 すなわち、わたしがあなたを滅ぼすききんの矢、滅亡の矢をあなたに放つ時、わたしはあなたを滅ぼすために放つのだ。わたしはあなたの上にききんを増し加え、あなたがつえとするパンを打ち砕く。 わたしはあなたにききんと野獣を送って、あなたの子を奪い取り、また疫病と流血にあなたの中を通らせ、またつるぎをあなたに送る。主であるわたしがこれを言う」。

神様の裁きは密かに行われるものではなく、イスラエルに敵対する者たちの見ている中で、公然と行われました。それは他国の人々に、主が自らご自身の民を裁かれることを通して、神様の義であられること、そしてこの世に神様のいますことを知らせるためでもありました。神様は人を偏り見る不当な方ではなく、罪を犯せば誰しも裁かれます。罪を黙認することは、神の義に反しています。私たちもエルサレムの人々と同様、特別扱いされることはないことを肝に銘じ、罪を犯すことのないように自らを省みなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.5.14-17.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/27

2018-05-27 06:18:03 | 今日の聖句
フィリピの信徒への手紙 4:6-7 新共同訳

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

思い煩いとは、恐れの念に心が支配されてしまい、「○○ならばどうしよう」と実際には起きていないことを心配する単なる取り越し苦労です。すべての思いを全知全能の神に委ねて祈るとき、天来の平安に包まれ、思い煩いから解放されて心と思いとを守っていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/php.4.6-7.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/26

2018-05-26 12:30:09 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 4:1-3
「人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。 そしてこれを取り囲み、これにむかって雲梯を設け、塁を築き、陣を張り、その回りに城くずしを備えてこれを攻めなさい。 また鉄の板をとり、それをあなたと町の間に置いて鉄の壁となし、あなたの顔をこれに向けなさい。町をこのように囲んで、その包囲を押し進めなさい。これがイスラエルの家のしるしである。」

エゼキエルが預言者として活動を始めたのは第二期バビロン捕囚から5年後でしたから、神様からこの預言的行動を命じられたのはまだエルサレム陥落前のことです。この時すでに神様はエルサレムがバビロンの大軍に包囲され、鉄の戦車や武器によって城壁が打ち破られようとする様子を予告されました。捕囚の身とはいえ、祖国の都が滅ぼされる預言など、人々は受け入れたくないものです。しかし義なる神様は、散々罪を指摘し悔い改めを迫っても、心を頑なにして主に立ち返らなかったエルサレムの人々の悪を見過ごすことができなかったのです。神様の御心は、罪を放置して自ら滅びを招くことではなく、悔い改めて罪から離れ、いのちを得ることです。

http://bible.com/81/ezk.4.1-3.ja1955

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エゼキエル書 4:4-8
あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家の罰を置く。あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らの罰を負わなければならない。 わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。 あなたはその期間を終ったなら、また右脇を下にして寝て、ユダの家の罰を負わなければならない。わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める。 あなたは自分の顔をエルサレムの包囲の方に向け、腕をあらわし、町に向かって預言しなければならない。 見よ、わたしはあなたに、なわをかけて、あなたの包囲の期間の終るまで、左右に動くことができないようにする。」

神様はまたエゼキエルに、390日もの間、寝返りをうたずに左脇を下にして寝なさいと命じ、続いて40日間、今度は右脇を下にして寝るという、意味の分からない行動をとらせました。最初の390日は北イスラエル王国の罪のため、後の40日は南ユダ王国の罪のためだというのですが、その具体的な根拠は未だ解明されていないようです。合計430年はエジプトでの奴隷生活、後の40年は出エジプトでの荒野の放浪生活だという説もあるようですが、いずれにせよエゼキエルは、神様の命により約一年と二ヶ月もの間、体の自由を奪われ束縛された忍耐の生活を余儀なくされた後、エルサレムに向かって預言するように命じられました。まことの神の僕は、その預言の言葉を語りかける相手の分までその罪を担い、責任をとらなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.4.4-8.ja1955

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エゼキエル書 4:9-13
「あなたはまた小麦、大麦、豆、レンズ豆、あわ、はだか麦を取って、一つの器に入れ、これでパンを造り、あなたが横になって寝る日の数、すなわち三百九十日の間これを食べなければならない。 あなたが食べる食物は量って一日に二十シケルである。あなたは一日に一度これを食べなければならない。 また水を量って一ヒンの六分の一を一日に一度飲まなければならない。 あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。 そして主は言われた、「このようにイスラエルの民はわたしが追いやろうとする国々の中で汚れたパンを食べなければならない」。

普通、パンは小麦や大麦で作りますが、神様がエゼキエルに食べよと命じられたパンは大豆やレンズ豆、粟、裸麦などを混ぜ合わせた、ぼそぼそでおいしくないパンでした。しかも公衆の面前で糞で焼いて作らなければならないとは、臭いにおいで薫製にされた、食べたくもなくなるような汚れた食物です。神様はこれから異国の地で生きてゆかなければならないイスラエルの民が、これまでの自由な身とは異なり、好まざる生活を余儀なくされる過酷さを示されました。異教の国に生きる私たちもまた、自らの信仰に堅く立つ生活は容易いものではありませんが、それでも神の民として生き延びなければならないことに変わりありません。

http://bible.com/81/ezk.4.9-13.ja1955

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エゼキエル書 4:14-17
そこでわたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしは自分を汚したことはありません。わたしは幼い時から今日まで、自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また汚れた肉がわたしの口にはいったことはありません」。 すると彼はわたしに言われた、「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。 またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。彼らはパンを量って、恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。 これは彼らをパンと水とに乏しくし、互に驚いて顔を見合わせ、その罰のために衰えさせるためである。」

エゼキエルはこのような汚れた食物など食べたことがないと神様に申し上げました。すると神様は人糞ではなく牛の糞で焼くことを許されましたが、一日に20シケルのパンとは約220グラム、6分の1ヒンの水とは約600ミリリットルで、人が生きて行くには余りにも少ない量です。これを430日間も続けなければならないとは、いのちの危機に陥る可能性がありますが、これはエルサレムにいる人々がやがて籠城生活の中で激しい飢饉に襲われることをも予表していたものです。遠くバビロンの地にいるからと安泰した生活を送るのではなく、同族と共に苦しみを分かち合うべきことを示されたのではないでしょうか。飽食の時代に生きる日本にあっても、世界中の国々では飢饉に貧している人々の方が多いことを覚え、苦しみを共に分かち合い、支援の手を差し伸べる私たちでありたいと願います。

http://bible.com/81/ezk.4.14-17.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/26

2018-05-26 07:25:12 | 今日の聖句
箴言 序 13:3 新共同訳
自分の口を警戒する者は命を守る。
いたずらに唇を開く者は滅びる。

「口は災いの元」との諺もあるように、自分の口から出た言葉は必ず自分の身に戻ってきます。感情の赴くままに吐いた言葉は、詰まるところ自分の首を絞めるだけです。聖なる主に唇をきよめていただき、軽率な言葉を口にすることなく、舌禍から守っていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/pro.13.3.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/25

2018-05-25 07:50:15 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 3:1-3
彼はわたしに言われた。「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」。 そこでわたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。 そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい」。わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。

神様はエゼキエルに、御言葉の記された巻物を食べなさいと命じられました。その巻物に記されていたのはイスラエルの民に対する裁きの言葉でしたが、エゼキエルが食べると蜜のように甘かったとあります。これは人の悪口に喜んで同調するといった意味ではなく、厳しい裁きの御言葉の裏に隠された真意、神様の大いなる愛を知る者だけが味わうことのできる恵みです。御言葉が密のように甘いという表現は詩篇にも数多く見られます。そして御言葉の恵みを味わい知った者は、その御言葉を語る責任があります。それは上から目線で人を裁く言葉ではなく、塩で味付けられた真理の御言葉を、神様の大いなる愛と憐れみの心で、甘い言葉として語ることが求められています。

http://bible.com/81/ezk.3.1-3.ja1955

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エゼキエル書 3:4-7
彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。 わたしはあなたを、異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく、イスラエルの家につかわすのである。 すなわちあなたがその言葉を知らない、異国語の舌の重い多くの民につかわすのではない。もしわたしがあなたをそのような民につかわしたら、彼らはあなたに聞いたであろう。 しかしイスラエルの家はあなたに聞くのを好まない。彼らはわたしに聞くのを好まないからである。イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情である。」

神様はエゼキエルをバビロンの地に捕囚となっているイスラエルの民たちの下に遣わし、神様の御言葉をそのまま語りなさいと命じられました。エゼキエルが遣わされたのは異邦人ではなく同じ母国語を話す同族たちでしたが、主の御言葉を聞くことを好まないと、最初からエゼキエルに心備えをさせました。しかも、もし異国の民に語るならば、彼らはすぐに聞くだろうとさえ言われました。なぜなら、イスラエルの民たちの心は極めて頑なで、厚顔無恥な、強情な民であることを、神様は痛いほどよく知っておられたからです。私たちも伝道するとき、神様の御言葉を語るとき、同じ日本語を語っているのに、どうしてこれほど伝わらないのだろうと、福音宣教の難しさを痛感しますが、それは聞く側の耳が御言葉に対して開かれていないからです。御言葉を伝えるとき、まず聖霊なる御霊がその人の心に働きかけて、聞く耳を持つようにと祈ることから始める私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.3.4-7.ja1955

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エゼキエル書 3:8-11
「見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。 わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」。また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」。

エゼキエルという名前の由来は、主は強くしてくださる、という意味だそうです。たとい語りかける相手が厚顔無恥であっても、あなたの顔を鉄面皮のようにして、激しい反抗にも屈することのないように強めてくださると、神様はエゼキエルに約束されました。そのときに大切なことは、「主なる神はこう言われる」と、神様の御言葉をそのまま、包み隠さずに、大胆に語ることです。私たちの側が臆する心で語るならば、神様の言葉も弱くなってしまいます。ときが良くても悪くても、いかに相手が御言葉に心開かれていなくとも、真理の御言葉を大胆に語る私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.3.8-11‬.ja1955

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エゼキエル書 3:12-15
時に霊がわたしをもたげた。そして主の栄光がその所からのぼった時、わたしの後に大いなる地震の響きを聞いた。 それは互に相触れる生きものの翼の音と、そのかたわらの輪の音で、大いなる地震のように響いた。 霊はわたしをもたげ、わたしを取り去ったので、わたしは心を熱くし、苦々しい思いで出て行った。主の手が強くわたしの上にあった。 そしてわたしはケバル川のほとりのテルアビブにいる捕囚の人々のもとへ行き、七日の間、驚きあきれて彼らの中に座した。

神様から励ましの言葉をいただき、心を熱くしてバビロン近郊のケバル川のほとりに捕囚となっていたイスラエルの民たちの下に出向いたエゼキエルでしたが、あまりにも不信仰な彼らを前にして、驚き呆れて7日間もの間、ただ座しているだけの日々を過ごしました。私たちの篤い信仰も、滅びに向かっている群衆を前にすると、ただ無力で立ち尽くすように感じることがあります。しかし神様は、私たちを羊の中にではなく狼の中のように、そのような人々に対する証人として遣わされたのだという使命を思い起こし、福音宣教に携わらせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/ezk.3.12-15.ja1955

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エゼキエル書 3:16-21‬
七日過ぎて後、主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。 わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。 しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。

余りにも不信仰で罪の生活を続けていたイスラエルの人々の姿を目の当たりにして、茫然自失となっていたエゼキエルに対し、神様は、あなたを彼らを見守る者とし、神様から授かった御言葉をありのまま余すことなく語るようにと命じました。神様が授けた悪しき者に対する戒めの言葉を語らないならば、その人は永遠のいのちを受ける機会を失うと同時に、その責任は語らなかった者にあると主は言われ、また人を義に導き罪を犯さないように語らないならば、その責任もまた語らなかった者にあると、主はエゼキエルを戒められました。私たちには滅びに向かっている人々を救い、罪を犯さないように語る責任があることを肝に銘じ、救霊の熱い思いで福音の御言葉を宣べ伝える者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/ezk.3.16-21‬.ja1955

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エゼキエル書 3:22-27
その所で主の手がわたしの上に臨み、彼はわたしに言われた、「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう」。 そこで、わたしは立って平野に出て行った。見よ、主の栄光が、かつてわたしがケバル川のほとりで見た栄光のように、その所に立ち現れたので、わたしはひれ伏した。 しかし霊がわたしのうちにはいって、わたしを立ちあがらせ、わたしに語って言った、「行って、あなたの家にこもっていなさい。 人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。 わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたをおしにして、彼らを戒めることができないようにする。彼らは反逆の家だからである。 しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。彼らは反逆の家だからである。」

イスラエルの人々の前に立ち尽くしていたエゼキエルに、主が再び栄光の御姿を現されました。そして人々が彼を幽閉しようとするから家に籠もっていなさいと命じられ、語るべきでないときには主が口を閉じ、語るべきときには主が口を開くと言われました。私たちもまた真理の御言葉を語るときも、必ず人々の抵抗に遭います。しかし、聞く耳を持つ者は聞き、拒む者は拒むのです。私たちはただ主の御霊の命ずるままに聞き従い、語るべきときに語り、語るべきでないときには沈黙を守る、徹底して主の導きに従う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/ezk.3.22-27.ja1955
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【今日の聖句】 2018/05/25

2018-05-25 06:40:09 | 今日の聖句
詩篇 51:10
「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」

人の心はそう簡単に変わるものではなく、一から全く作り直すような労力を必要とします。自分の努力によって心を入れ替えるよりも、無から有を創造される神様にすべてをお委ねし、きよく正しい心を新たに造り出していただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.51.10.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/05/24

2018-05-24 07:20:11 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 2:1-2
彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。

この箇所こそエゼキエルが預言者として召命を受けた場面です。偉大な預言者エゼキエルも、神の霊が入ってはじめて、主のご用のために立ち上がり、神様の語りかけられる御言葉を聞くことができるようになりました。主イエスの十字架と復活を信じた者に与えられると約束された聖なる御霊を心の内に宿し、御言葉を聞いて御旨を悟り、神の忠実な僕として生きる私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.2.1-2.ja1955

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エゼキエル書 2:3-5
彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。 彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。 彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。」

預言者としての召命に応えたエゼキエルに対し、あなたを遣わす先は反逆の民、心が頑なで厚顔無恥な者たちの中に遣わすと神様はあらかじめ予告されました。その上で、聞いても拒み続ける彼らに「主はこう言われる」と言いなさいと命じられました。どれだけ一所懸命に語り掛けても、人の言葉に聞く耳を持たない人々に語り続けることは、何一つ実を結ばない徒労のように思えます。しかし、やがて主のときが来ると、彼らの中に預言者のいたことがわかるようになると、主は永遠の時の流れの中で物事を見つめておられます。私たちの為すべきことはただ一つ、主のご命令に従い続けることです。

http://bible.com/81/ezk.2.3-5.ja1955

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エゼキエル書 2:6-7
「人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。 彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。」

神様は更にエゼキエルに向かい、彼らを恐れてはならないと勇気づけました。神の僕として生きる生涯は、まるでアザミと棘の道のように前途多難で、また蠍の中に住むようにいのちの危険をも伴う人生です。しかし神様は、彼らの言葉を恐れてはならない、彼らの顔をはばかって遠慮してはならないと命じられました。拒み続ける反逆の民に語り続けなければならない理由、それは、神の御言葉こそ永遠に変わることのない真理であるからです。私たちに授けられた御言葉の権威に懸けて、いかなる困難が待ち受けようとも、真実を語り続ける者でありたいと願います。

http://bible.com/81/ezk.2.6-7.ja1955

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エゼキエル書 2:8-10
「人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。 この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。 彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。

神様は預言者として召されたエゼキエルに対し、わたしがあなたに語ることを聞き、背いてはならない、口を開いてわたしが与えるものを食べなさい、と命じられました。そこでエゼキエルが見たものは、神の御言葉の記された巻物でした。その巻物を開くと、表にも裏にも悲しみと、嘆きと、災いの言葉がびっしりと記されていました。普通の人は聞きたくもない厳しい言葉を受け取ることを拒みます。しかし神の僕として召された者は、耳に痛い裁きと呪いの言葉をも受け止めなければなりません。人としての感情的にはできなくとも、聖霊なる神様が心の内に住んでくださるならば、辛辣な言葉をも受け止める覚悟が心に与えられます。人にはできなくとも神には何でもできる、この受容性こそがいと高き神の僕としての証です。

http://bible.com/81/ezk.2.8-10.ja1955
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