伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/09/30

2018-09-30 19:30:29 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 4:1-4

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

バプテスマを受けたイエス様は、その直後に荒野で40日40夜の試練を受けられました。これはイエス様が旧約聖書の出エジプトを追体験されたことを意味します。ヨハネから受けた水によるバプテスマはイスラエルが紅海を渡ったことを意味し、その後の40日の試練は、イスラエルが荒野を40年間さまよい続けた歴史を意味します。イスラエルの人々を荒野の40年間ずっと養ったものは、天から降ってきた不思議な食物、マナでした。イスラエルは荒野で食べ物がないと不満を神様にぶつけましたが、イエス様はサタンに試みられたときに、人はパンだけで生きるのではなく神様の御言葉によって生きるのだと答えられ、サタンの第一の誘惑を退けられました。出エジプトでイスラエルが学んだこと、すなわち天から降って来られたマナであられるイエス様の御言葉によって養われることを私たちも学ばせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mat.4.1-4.ja1955

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マタイによる福音書 4:5-11

それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

サタンはなおも聖書の御言葉を引用してイエス様を試みられましたが、イエス様は他の聖書の箇所を引用して神様を試すようなことをしてはならないと退けられました。私たちも聖書を断片的に読むのではなく、神様の御心は何であるかを問いつつ、総合的に読むことの大切さを学ばされます。最後の試みは、この世の栄誉と引き換えにサタンに魂を売ることをしてはならない、まことの神以外の何者をも神としてはならないとの戒めです。私たちがこの世を生き抜く中で、様々なこの世の誘惑との戦いを避けて通ることはできませんが、その度に神様を第一とする正しい御言葉信仰に基づき、誘惑に勝利する私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.4.5-11.ja1955

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マタイによる福音書 4:12-17

さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

サタンの試みに勝利されたイエス様は、人口の多いイスラエルの首都であり神の宮のあるエルサレムからではなく、北部の片田舎ガリラヤのカペナウムから宣教を始められました。これもまた旧約聖書を成就するためのことでしたが、神様の恵みはこの世の中心にいる支配者階層ではなく、世間から低く見られている者、追いやられた者、社会的弱者にまず向けられています。そして私たちの心の中にある暗闇にスポットライトが当てられ、罪が明るみに出されることによって悔い改めが促されることから、まことの救いが到来するのです。

http://bible.com/81/mat.4.12-17.ja1955

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マタイによる福音書 4:18-22

さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。

イエス様の宣教活動の初期から召された弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペテロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの2組の兄弟たちでした。彼らを弟子に召したときに語られた呼びかけが「人を漁る漁師にする」との有名な御言葉でした。彼らに共通していたことは、イエス様からかけられた召命の言葉に直ちに従ったこと、今の安定した生活を打ち捨てて従ったことでした。神様に聞き従うに際して、主のご命令を後回しにする信仰、今手にしているものを惜しむ信仰は主の僕に相応しくありません。神様が私たちに求めておられる信仰は、今、直ちに従えるかどうかです。

http://bible.com/81/mat.4.18-22.ja1955

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マタイによる福音書 4:23-25

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

イエス様の働きは、第一に会堂で教えること、第二に福音を宣べ伝えること、第三に病を癒すことでした。イエス様の宣教活動の評判は瞬く間にシリヤ全地に広まり、イスラエル北部のガリラヤだけにとどまらず、その南東にあるデカポリス地方、首都エルサレムを中心とするユダヤ地方、ヨルダンの向こう岸にある東部の地域にまで及び、人々は病人や悩み苦しんでいる者をイエス様の元にお連れして癒していただき、おびただしい群衆がイエスに従ったと記されています。イエス様は、健康な者に医者はいらない、必要なのは病人であると言われましたが、イエス様のまなざしはこの世の権力者、有力者、富裕層の人々は目もくれないような苦しんでいる人たちに当てられました。イエス様は常に弱い者の味方です。

http://bible.com/81/mat.4.23-25.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/30

2018-09-30 07:00:23 | 今日の聖句
詩編 18:3 新共同訳

「主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。」

神様が私たちを守ってくださる力強いお方であることを、この詩篇では様々な修辞句によって言い表しています。言葉の限りを尽くして神様に対するイメージをますます豊かにさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.18.3.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/29

2018-09-29 21:55:33 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 3:1-6

そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、 「悔い改めよ、天国は近づいた」。 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。

主イエスが福音を語り始める少し前に、バプテスマのヨハネが荒野に現れて神の国が近付いたと語り、イスラエルの人々に悔い改めのバプテスマを授けました。彼こそがメシヤ到来に先立って主の道を備えるためにあらかじめ遣わされた旧約時代最後の預言者で、エリヤの再来とも称されました。するとエルサレムだけでなくユダヤ全土から人々が彼の元に押し寄せ、自らの罪を告白して、ヨハネからバプテスマを受けました。マタイによる福音書では記されていませんが、バプテスマのヨハネはイエスの親戚にあたる人物で、約半年前に祭司の子として生まれました。主の初臨と同様、再臨の日にも罪を悔い改めて主の御前に立ち返る者が続々と起こされると記されています。その日が来るのを早めることが、私たちに託された宣教の使命です。

http://bible.com/81/mat.3.1-6.ja1955

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マタイによる福音書 3:7-12

ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

バプテスマのヨハネの元には一般庶民だけでなく、サンヘドリンと呼ばれるユダヤの国会議員の構成メンバーであったサドカイ人や、人々の霊的指導者を自負していたパリサイ人たちも大勢バプテスマを受けようとしたことが記されていますが、ヨハネは彼らを「まむしの子らよ」と一蹴しました。ヨハネがサドカイ人やパリサイ人たちに厳しい態度で臨んだのは、表面的には立派な人物を装っても、この世の豊かさを追い求める物質主義者であったり、極端な厳格さを人々に押しつけ表面だけを取り繕った見かけ倒しの信仰者たちでした。そのような内実を伴わない信仰を、神様もまた忌み嫌われます。そしてヨハネの後に来られるメシヤなるキリストは、そのような偽善の信仰を籾殻のように打ち分け、永遠の火で焼き尽くすと語りました。私たちの信仰はどうであるか、人の目を気にしてばかりの信仰に陥っていないか、自分の義の基準で人々を裁く憐れみを欠いた信仰者になっていないか、それとも神の義とまことの愛とに基づいた信仰であるか、時折自己点検することが必要です。

http://bible.com/81/mat.3.7-12.ja1955

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マタイによる福音書 3:13-17

そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

ヨルダン川で人々に水によるバプテスマを授けていたヨハネの元に、公生涯に入られる前のイエス様がバプテスマを受けようとしてやってきました。ヨハネの側からしたら、聖霊と火によってバプテスマを授ける権威をお持ちである方が、水によってでしかバプテスマを授けることのできない自分の元に来られたのですから、こんな恐れ多いことはなく、思いとどまらせようとしたのは当然のことです。しかしイエス様は、罪を悔い改めてバプテスマを受けることは正しいことであると答えて、ヨハネから洗礼を受けました。神様もこのイエス様の行動を御心に適う者であると評し、バプテスマを契機としてイエス様の上に聖霊を降されました。私たちもまた洗礼を通して心の内に聖霊なる神様をお迎えすることができるようになり、きよい神の宮としての信仰の生涯をスタートすることができますから感謝いたします。

http://bible.com/81/mat.3.13-17.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/29

2018-09-29 06:45:16 | 今日の聖句
ヘブライ人への手紙 6:10 新共同訳

神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。

真実なお方であられる神様は、私たちが主に対する愛に基づいて、神様のため、聖徒たちのために仕えた一切を忘れることなく、その働きに応えてくださるお方です。永遠の神に覚えられる恵みに感謝しつつ、なおも忠実に仕えるさいわいを学ぶ私たちでありますように。

http://bible.com/1819/heb.6.10.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/28

2018-09-28 07:40:23 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 2:1-6

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。

旧約聖書に約束されていたメシヤの誕生にいち早く気が付いたのは、メシヤを待望していたユダヤ人ではなく、遠く東の国にいた占星術の博士たちでした。彼らは大胆にも当時イスラエルを支配していたヘロデ王の下に来て、ユダヤの王はどこに生まれたのかと尋ねました。博士たちの言葉を聞いたユダヤの人々の心によぎった思いは、メシヤ誕生の喜びではなく、政情や今の暮らしがかき乱されることを恐れた不安でした。早速ヘロデは祭司長と律法学者たちを全員召集し、メシヤはどこに生まれるのかと問い質すと、ダビデの町ベツレヘムですと即答しましたが、彼らはメシヤを探しに行くことも拝みに行くこともなく、ただヘロデの質問に答えただけで終わりでした。神に愛された約束の民でありながら、今の安定した生活に満足し、まことの救いを求めることのなかったイスラエルの無関心と、異邦人でありながら危険をも顧みずにはるばるエルサレムまで旅を続けた東の博士たちの熱心な思いとの対照的な態度から、私たちは学ぶべき事は多いと思います。冷めた信仰、世俗化した生ぬるい信仰に陥ることなく、神の約束を切に待ち望む熱い信仰、御言葉の恵みに日々感謝する篤い信仰を保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.2.1-6.ja1955

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マタイによる福音書 2:7-12

そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

メシヤ誕生の地を突き止めたヘロデ王は、更に詳細な情報を博士たちから聞き出し、後で拝みに行くと偽って博士たちに報告するようにと言ってベツレヘムに送り出しました。博士たちは東で見た星に導かれ、幼子イエスの家までたどり着くと、大きな喜びに満たされました。そして早速イエスをひれ伏して礼拝し、宝の箱を開けて黄金・乳香・没薬を捧げました。博士たちの3種の捧げものにはそれぞれ意味があり、黄金は王の象徴、乳香は祈りの象徴、没薬は死の象徴です。イエスを来たるべきユダヤの王、祈りが捧げられるべき神の御子、十字架により罪購うお方と認める信仰による捧げものでした。異邦人にもかかわらず、イエスの御降誕の意味を誰よりもよく理解していたことは特筆すべきことです。そしてイエスを礼拝し終わると、夢で神様から告げられた通りヘロデに報告せずに自分の国に帰りました。博士たちの旅の意味は何だったのでしょうか? 幼子イエスを礼拝するだけのためにいかなる犠牲をも厭わず、時間を捧げ、高価な贈り物を捧げ、最後まで神の命令に聞き従う彼らの真摯な信仰を、私たちも見習わせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mat.2.7-12.ja1955

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マタイによる福音書 2:13-18

彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。 こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。 「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。

博士たちが帰ると、神様は直ちにこの地を離れてエジプトに行くようにと、夢でヨセフに告げました。これは幼子イエスのいのちを守ると共に、イスラエルの歴史である出エジプトを追体験する預言を成就するためでもありました。メシヤの所在地を自分に報告もせずに博士たちが自国に帰ったことを知ったヘロデ王は、怒りに燃えてイエスと同年代のベツレヘム周辺の幼子を皆殺しにするという暴挙に出ました。保身のためならばどんな罪でも平気で行うヘロデ王の深い闇がここにも出ましたが、これもまた旧約聖書の預言が成就するためでもあったとは驚くべき深い神の摂理です。

http://bible.com/81/mat.2.13-18.ja1955

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マタイによる福音書 2:19-23

さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、 「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。 そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。 しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、 ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

ヘロデ王が死んだ後、再び主の使いが夢でヨセフに現れ、イスラエルに帰還するようにと命じました。ヨセフは直ちに御告げに従い、エジプトを発ってイスラエルに戻りましたが、ユダヤの地はヘロデの子が治めていると知り、また夢で告げられた通りにガリラヤ地方の小さな町ナザレに移り住みました。これもまた旧約聖書に記されたメシヤ預言が成就するためでした。マタイによる福音者は、旧約聖書で預言されたメシヤが、主イエスであることを立証する、旧約と新約の橋渡しをするために記された書物です。聖書を読むときに、その記された目的をあらかじめ知ることは、御言葉を深く味わいつつ読むためにとても有用です。

http://bible.com/81/mat.2.19-23.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/28

2018-09-28 06:35:18 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 1:7 新共同訳

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

もしも私たちが光の中を歩んでいるならば、闇の行いはすべて白日の下に曝されるため、自ら進んで行うことはもはやできなくなります。光の道に歩むきよい生き方を貫き、御子イエスの尊い血潮によって罪きよめられ、いと高く聖なる神と親しく交わりを持つ私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.1.7.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/27

2018-09-27 07:45:04 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 1:1-11

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、 ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、 アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。

今日から新約聖書の通読に入ります。マタイによる福音書はイエス・キリストの系図から始まります。カタカナの名前ばかり連なる系図は私たち日本人には取っつきにくいですが、系図を重んじるユダヤ人にとっては、イエスがメシヤとして約束されたアブラハムの子孫、ダビデの子孫であることを証明する最も重要な記録で、この箇所を読んだだけでイエスを救い主と信じるとさえ言われます。この中に記された人々の名前には、旧約聖書物語で聞いたことのある名前も多々あるでしょう。しかし何よりも重要なことは、イエス様が神様がアブラハム契約とダビデ契約によって約束された、やがてメシヤとしてこの世に来られるまことのイスラエルの王であることの証明です。神様の約束は必ず成就することを覚え、イエスを救い主として信じ従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.1.1-11.ja1955

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マタイによる福音書 1:12-17

バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、 ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、 エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

この箇所ではイエス・キリストの系図の総括として、アブラハム、ダビデ、バビロン捕囚、そしてキリストと、イスラエルの歴史上、極めて重要な通過点を挙げています。そしてイエスの父ヨセフとは記さず、母マリヤの夫ヨセフと記されているのは、イエスが系図の上ではダビデの子孫であると同時に、聖霊によって神から産まれた存在であることをも証明しています。ちなみに母マリヤもダビデの家系に属する者のため、イエスは正真正銘ダビデの子孫です。神様のなさることは子細に至るまで実に完璧です。

http://bible.com/81/mat.1.12-17.ja1955

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マタイによる福音書 1:18-21

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

結婚に関する当時のイスラエルの慣習では、新郎新婦の両親が認めた許婚となって約一年間の婚約期間を置いた後、晴れて結婚し同居する事となっていました。この婚約期間は結婚と同等の法的関係にあり、その間に不貞の事実が認められたならば、その者は姦淫の罪を犯したとして、公衆の前で石打の死刑に処されました。ヨセフはマリヤがそのような目に遭うことを避けるための、密かに離縁しようとしたのです。そんな優しい心を持ったヨセフの夢に御使が現れ、マリヤが宿した子は姦淫ではなく聖霊に依るもの、約束されたメシヤであるとの驚くべき御告げを受けました。普通の人にはこんな荒唐無稽な夢を信じられるとは到底思えませんが、ヨセフは信じました。このヨセフという名前が、創世記で夢解きの能力を賜ったヤコブの子ヨセフと同じ(ヨセフの父の名ヤコブというのも同じ)であることにも注目したいと思います。神様は信仰を以て御言葉を受け止める者を選び、大いなる御業のために用いられるお方です。

http://bible.com/81/mat.1.18-21.ja1955

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マタイによる福音書 1:22-25

すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

夢で神の御告げを受けたヨセフは、それまで悩み苦しんでいた思いを打ち捨て、直ちに行動に移します。人目をはばかることなくマリヤを妻として迎え、御使の告げた通り、産まれてきた子にイエスと名付けました。これは世間の目から彼女を守り通す強い意志がなければできない行動ですが、ヨセフはただ御使の語った言葉に信頼し、主われらと共にいますとの意味のインマヌエル預言に身を委ねる人生の選択を行ったのです。そしてイエスという名前はヘブル語ではヨシュア、主は救い、という意味を持ちます。まさに世の人々を罪から解放する救い主として、また神の民イスラエルを約束の御国に導くためにこの世にお生まれになったキリストに相応しい名前です。

http://bible.com/81/mat.1.22-25.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/27

2018-09-27 06:35:29 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 1:3-4 新共同訳

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

キリストにより私たちに与えられている希望は、この世のいのちが尽きると同時に消え失せてしまうような虚しいものではなく、永遠の天に積まれた朽ちることも目減りすることもない貴重な宝です。この素晴らしい希望を賜る神の憐れみに心より感謝し、栄光の主の御名をほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.1.3-4.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/26

2018-09-26 07:20:47 | 一日一章・聖書通読日記
マラキ書 4:1-3

「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。 しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。 また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。」

旧約聖書最後の章で、主は「まことに見よ、その日が来る」と、世の終わり(=キリストの再臨の日)が必ず来ることを預言されました。その日には、心に驕り高ぶって主に聞き従わず悪を行う者は、炉のように燃える神の裁きの火によって藁のように何一つ残らず焼き尽くされてしまいますが、主を畏れる者には義の太陽が昇り、癒しの力が備えられた翼が与えられ、主の勝利を喜び飛び跳ね、燃えかすの灰となった悪人たちを足の裏で踏みつけると記されています。たとい今は悪が栄え義人が苦しみに遭うとも、主の再臨の日には大逆転が起こり、義なる神が世の罪に対して勝利を取ってくださいますから、私たちはただ主の怒りの御手に任せて自ら悪に報いることなく、神の義を貫き通す者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mal.4.1-3.ja1955

*****

マラキ書 4:4-6

「あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

その日、すなわち世の終わりの日に神から裁かれることのないように、ホレブの山で定められた掟、すなわちモーセの律法を覚えよと主は言われます。モーセの律法が集約された十戒を、更にイエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛せよ。」「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ。」と集約され、この2点に律法全体とすべての預言の言葉が掛かっていると言われました。しかし旧約聖書の掟には、神の呪いを受けないためというネガティブな面において、自ずと限界がありました。そこで神様は世の終わりの前に預言者エリヤを再びこの世に遣わし、父なる神と子なる私たちを向き合わせ関係を修復されると告げられました。神様が望まれているのは、エデンの園でアダムとエバが当初あった神様との関係、顔と顔を向き合わせて語り合うことのできる愛の交わりを持つことです。

http://bible.com/81/mal.4.4-6.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/26

2018-09-26 06:35:15 | 今日の聖句
詩編 116:1-2a 新共同訳

「わたしは主を愛する。
 主は嘆き祈る声を聞き
 わたしに耳を傾けてくださる。」

主は私たちの心の内にある想いと願いとをすべてご存じであられ、嘆きと祈りとに耳を傾け、聞き届けてくださるお方です。この慈愛に満ちた主を、私たちは愛さずにはいられません。全力を尽くして主を愛し、主の憐れみと慈しみに応える私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.116.1-2.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/25

2018-09-25 07:50:38 | 一日一章・聖書通読日記
マラキ書 3:1-5

「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。 その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。 彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。 その時ユダとエルサレムとのささげ物は、昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる。 そしてわたしはあなたがたに近づいて、さばきをなし、占い者、姦淫を行う者、偽りの誓いをなす者にむかい、雇人の賃銀をかすめ、やもめと、みなしごとをしえたげ、寄留の他国人を押しのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、すみやかにあかしを立てると、万軍の主は言われる。」

この箇所には、イスラエルを救いに導くメシヤの到来が記されていますが、1節ではバプテスマのヨハネと主イエスの到来を、2節以降は主イエスが再臨されるときに起こることについて預言されています。昔の日、先の年とは、イスラエルが最も輝いていたダビデ・ソロモン王国時代のようになることを指しています。この時代に捧げられていた礼拝こそ、神様に喜ばれる心からの喜びに満ちた礼拝でした。そのために必要な行程が祭司の勤めの復興であり、偶像礼拝やあらゆる悪しき行いの排除です。主の再臨の前にはイスラエルの霊的な回復が必須条件です。主を待ち望む私たちはそのために祈り、また積極的に働きかけてゆきたいと願います。

http://bible.com/81/mal.3.1-5.ja1955

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マラキ書 3:6-9

「主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。 あなたがたは、その先祖の日から、わが定めを離れて、これを守らなかった。わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろうと、万軍の主は言われる。ところが、あなたがたは『われわれはどうして帰ろうか』と尋ねる。 人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。 あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。」

イスラエルが神の民、祭司の国としての回復を成し遂げるために必要なことは、真実な心を以て主に立ち帰ることが必要です。それは表面的な行為だけに留まらず、その信仰的意味を正しく解釈した上で主の律法を守り行うことが求められます。その一つが神様への捧げものです。お金の使い方がその人の心の奥底にある願望を如実に示すといわれますが、私たちが神様に捧げものをするとき、どのような心で捧げているかが問われます。この箇所は時折、クリスチャンになった人に対して献金の規定を示すために用いられることがありますが、決してその額を具体的に指定するために用いるべき箇所ではありません。什一献金の根拠となる箇所は創世記14章、あるいは28章が原型です。その上で、あなた方は心から捧げていますか?と問うているのがこの箇所です。単に献金の額を守るだけでなく、その心、自分の持てる最良のものを主にお捧げしているか?という問いかけが、現代に生きるクリスチャンにも向けられているのではないでしょうか。

http://bible.com/81/mal.3.6-9.ja1955

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マラキ書 3:10-12

「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。 わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。 こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。」

主を試みてはならないという律法があるにもかかわらず、なぜ神様はここで10分の1を捧げて試みよと言われているのか? それは試みるという言葉の意味が違うからで、ヘブル語では異なる単語が使われているそうです。神様のあふるる恵みを疑う前に試してみなさい、という積極的な信仰を行動に移すことを勧めておられるのです。捧げものは決して義務ではなく感謝の表れであり、私たちを良きもので満たしてくださる主への信頼の証であり、更に祝福を期待する積極的な信仰表明です。神様の求める信仰は常に先取りの信仰、まず一歩踏み出す信仰です。

http://bible.com/81/mal.3.10-12.ja1955

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マラキ書 3:13-18

「主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。 そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。」

罪の支配するこの世では、神を知らぬ者、知りながら逆らう者が幅を利かせて、あらゆる悪に満ちている現実があります。悪が栄え、義が廃れるこの世の不条理をもって、だから神など存在しないのだと言う者さえいます。それならば悪を働いても良いかというと、決してそうではありません。その背後には、この世の罪に心を痛め、迫害されながらも常に執り為し続けている義人の存在があるのです。神様はそのような神に忠実に仕える人々を悪しき者と一緒に滅ぼさないために、あえて罪の裁きの執行を延期されているだけに過ぎません。神の祭司たる民族イスラエルが再び神に立ち帰った暁に、主イエスが再びこの世に再臨され、この世の罪の裁きが行われ、義人と罪人が区別され、義人は永遠のいのちに、その期に及んでも罪を悔い改めなかった者には永遠の滅びが下されることを、私たちはとくと知り置く必要があります。

http://bible.com/81/mal.3.13-18.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/25

2018-09-25 06:35:52 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 6:35 新共同訳

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

私たちの肉体を維持し地上の命をつなぐために日毎の糧が必要であるように、魂に生きる力をいただき永遠のいのちに至るためには天から降って来られたいのちのパンなる主イエスを信じる信仰が必要です。生ける神の御言葉によって日々養われ、永遠のいのちを得るさいわいに与る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jhn.6.35.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/24

2018-09-24 09:30:44 | 一日一章・聖書通読日記
マラキ書 2:1-3

「祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。 万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。 見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。」

神様の怒りは、いと高き神の御声に聞き従わず、その勤めを果たさなかった祭司たちに臨みました。イスラエル12部族の中で祭司職を任されたレビ人は、その名前の由来に「結びつく」という意味があります。すなわち神と強く結びつく、神と一体となることが、神様の御側近くで仕えるレビ人が取るべき態度の必須用件でした。にもかかわらず、世俗化して神様から遠く離れてしまったレビ人に、祭司としての勤めを果たせるはずがありません。そのような祭司たちに、神様は顔に泥を塗るどころか糞を塗ると、厳しく臨まれました。いと高き神の御心を知る私たちクリスチャンもまた、世の人々と神様の仲立ちとなる祭司としての役割が求められています。当時の祭司たちのように世俗化した考えに染まっていたとしたら、神様はどのような態度で臨まれるでしょうか。祝福を求めるときだけ主よ、主よ、と近付き、果たすべき責任を放棄することのないよう、自らを律する者となりたいと願います。

http://bible.com/81/mal.2.1-3.ja1955

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マラキ書 2:4-7

「こうしてわたしが、この命令をあなたがたに与えたのは、レビと結んだわが契約が、保たれるためであることを、あなたがたが知るためであると、万軍の主は言われる。 彼と結んだわが契約は、生命と平安との契約であって、わたしがこれを彼に与えたのは、彼にわたしを恐れさせるためである。彼はすでにわたしを恐れ、わが名の前におののいた。 彼の口には、まことの律法があり、そのくちびるには、不義が見られなかった。彼は平安と公義とをもって、わたしと共に歩み、また多くの人を不義から立ち返らせた。 祭司のくちびるは知識を保ち、人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である。彼は万軍の主の使者だからだ。」

この箇所に示されているのは、いと高き神の祭司としての理想的な姿です。それを完全に守られたお方こそ、霊妙な代議士なる主イエス様です。まことの王であり、祭司であり、仲裁人であられる主イエスに倣い、キリストの徳の高さに至る者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mal.2.4-7.ja1955

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マラキ書 2:8-12

「ところが、あなたがたは道を離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。 あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする」。 われわれの父は皆一つではないか。われわれを造った神は一つではないか。なにゆえ、われわれは先祖たちの契約を破って、おのおのその兄弟に偽りを行うのか。 ユダは偽りを行い、イスラエルおよびエルサレムの中には憎むべき事が行われた。すなわちユダは主が愛しておられる聖所を汚して、他の神に仕える女をめとった。 どうか、主がこうした事を行う人をば、証言する者も、答弁する者も、また万軍の主にささげ物をする者をも、ヤコブの幕屋から断たれるように。

マラキがこれらの預言を語った当時のイスラエルの祭司たちは、何が間違っていたのでしょうか? それは神様の律法を民に教えるにあたり、主の御心を伝えるのではなく、人を偏り見て教義を変えたという罪でした。そのため多くの人々を誤った教えに導いて躓かせ、イスラエルに忌むべき事が行われるようになったと神様は嘆いておられます。そのような者はヤコブの幕屋から絶たれると、神様との断絶を宣告されました。このマラキの預言に記された祭司たちの堕落は、実に約400年後のイエス様の時代まで続いたことは、イエス様と祭司たちや律法学者たちとの対話の中からも明らかです。そのため神様はローマ帝国によってエルサレムの神殿を破壊し、祭司としての働きそのものが失われてしまいました。残念ながら今も、聖書の御言葉を、人々に受けれられやすいように都合のよい解釈をして語る人たちがいます。神様はそのような人々をどのように見ていらっしゃるでしょうか。様々な事情を抱えた人に対する配慮は必要ですが、人の視点に立つのではなく、神様の視点に立って、御言葉の真理を語る者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mal.2.8-12.ja1955

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マラキ書 2:13-17

あなたがたはまたこのような事をする。すなわち神がもはやささげ物をかえりみず、またこれをあなたがたの手から、喜んで受けられないために、あなたがたは涙と、泣くことと、嘆きとをもって、主の祭壇をおおい、 「なぜ神は受けられないのか」と尋ねる。これは主があなたと、あなたの若い時の妻との間の、契約の証人だったからである。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った。 一つ神は、われわれのために命の霊を造り、これをささえられたではないか。彼は何を望まれるか。神を敬う子孫であるゆえ、あなたがたはみずから慎んで、その若い時の妻を裏切ってはならない。 イスラエルの神、主は言われる、「わたしは離縁する者を憎み、また、しえたげをもってその衣をおおう人を憎むと、万軍の主は言われる。ゆえにみずから慎んで、裏切ることをしてはならない」。 あなたがたは言葉をもって主を煩わした。しかしあなたがたは言う、「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」。それはあなたがたが「すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる」と言い、また「さばきを行う神はどこにあるか」と言うからである。

イエス様と律法学者たちとのやりとりの中で、離縁状の是非を問う議論がありました。イエス様は律法学者たちに、モーセが離縁状を渡せといったのは不貞や暴力など人の罪による場合に許されたのであって、他の人を好きになったからといって簡単に離婚することを勧めたのではないと、厳しく非難されました。マラキが当時の祭司たちを厳しく叱責する預言を語ったのも同じ理由です。「あなたがたは言葉をもって主を煩わした」とありますが、人々の顔色を見て御言葉の解釈を変えた祭司たちの罪は、決して主の御前に消えることはありません。聖書の御言葉を読み解くとき、神様に真意を問うことなく、人の考えで理解することの恐ろしさがここにあります。主の御言葉を語るとき、単なる道徳問題ではなく、神様の御心はどこにあるのか、意図しておられることは何であるか、常に神様に問いつつ、御言葉の権威の前に平伏して語る者であり続けたいと切に願います。

http://bible.com/81/mal.2.13-17.ja1955
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【今日の聖句】 2018/09/24

2018-09-24 06:50:06 | 今日の聖句
詩編 59:17 新共同訳

「わたしは御力をたたえて歌をささげ
 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。
 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。」

罪の支配するこの世において、闇の勢力に打ち勝つには、義なる主の御力に頼る以外にありません。私たちを罪から守ってくださる主の慈しみに感謝を捧げ、喜びの歌を捧げて主をほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.59.17.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/09/23

2018-09-23 06:55:03 | 一日一章・聖書通読日記
マラキ書 1:1-5

マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉の託宣。 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。 もしエドムが「われわれは滅ぼされたけれども、荒れた所を再び建てる」と言うならば、万軍の主は「彼らは建てるかもしれない。しかしわたしはそれを倒す。人々は、彼らを悪しき国ととなえ、とこしえに主の怒りをうける民ととなえる」と言われる。 あなたがたの目はこれを見て、「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言うであろう。

いよいよ聖書通読も旧約聖書最後の書物であるマラキ書に入ります。マラキはゼカリヤの預言から約100年後に活躍した預言者で、彼の預言からバプテスマのヨハネまでの約400年間、預言は開かれません。それはせっかく神殿が再建されたにもかかわらず、イスラエルの礼拝が形式的に陥り、喜びと真実にあふれた礼拝とはかけ離れたものとなってしまったからです。その現れの一つが、彼らの神様の愛に対する不満です。神様が愛しているならなぜ他国の属国に成り下がっているのか?というこの世の理不尽に、神様の愛が見えなくなってしまったのです。しかしマラキは、民族的に滅ぼされ絶えてしまったエドム人を引き合いに出して、イスラエルは神様の特別な愛を受けているのだとマラキは説きます。私たちは目の前の現実を見るときに虚無感を抱くことがあるかもしれませんが、それでもなお神の愛が注がれているという事実を見る信仰の目が開かれなければなりません。

http://bible.com/81/mal.1.1-5.ja1955

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マラキ書 1:6-10

「子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか。わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実が、どこにあるか。わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、 汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。 あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。 あなたがたは、神がわれわれをあわれまれるように、神の恵みを求めてみよ。このようなあなたがたの手のささげ物をもって、彼はあなたがたを受けいれられるであろうかと、万軍の主は言われる。 あなたがたがわが祭壇の上にいたずらに、火をたくことのないように戸を閉じる者があなたがたのうちに、ひとりあったらいいのだが。わたしはあなたがたを喜ばない、またあなたがたの手からささげ物を受けないと、万軍の主は言われる。」

神様はマラキを通して、特に神殿で仕える祭司たちの不平不満に満ちた働きぶりに対して預言なさいました。彼らは神様の御前にイスラエルの民が捧げた尊い犠牲を捧げ、そのお下がりによって養われていながら、これっぽっちしかもらえないのかと不平を並べ立てていたのです。本来は傷一つないきよい捧げものを捧げなければならないのに、彼らはその奉仕を怠り、神殿の祭壇を汚していました。これを神様は厳しく指摘されたのです。神様への捧げものに対する姿勢は、その人の信仰状態を如実に表します。私たちはどのような思いで神様に捧げ、礼拝しているでしょうか? 今一度、己の信仰を再点検する必要があります。

http://bible.com/81/mal.1.6-10.ja1955

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マラキ書 1:11-14

「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。 ところがあなたがたは、主の台は汚れている、またこの食物は卑しむべき物であると言って、これを汚した。 あなたがたはまた『これはなんと煩わしい事か』と言って、わたしを鼻であしらうと、万軍の主は言われる。あなたがたはまた奪った物、足なえのもの、病めるものを、ささげ物として携えて来る。わたしはそれを、あなたがたの手から、受けるであろうかと主は言われる。 群れのうちに雄の獣があり、それをささげると誓いを立てているのに、傷のあるものを、主にささげる偽り者はのろわれる。わたしは大いなる王で、わが名は国々のうちに恐れられるべきであると、万軍の主は言われる。」

11節に表された礼拝の姿は、神の支配する王国が到来したときの理想的な姿です。しかし当時のイスラエル人が捧げていた犠牲は、主の律法に則ったきよい獣ではなく、自らの懐の痛みを感じない他人から奪い取ったもの、不具合のあるもの、病気で死んだ獣などを平気で神様への捧げものとしていたようです。このような価値のない余り物のような犠牲を神様が喜んで受けるだろうかと、マラキは厳しく叱責したのです。このような形式的な礼拝、義務的な礼拝、喜びを感じない礼拝は、神様から忌み嫌われるものとなります。私たちは心からの喜びと感謝をもって今の自分にできる最良のものを捧げる、真実な礼拝者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mal.1.11-14.ja1955
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