伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2018/01/31

2018-01-31 07:25:52 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 12:1-2
『その日あなたは言う、「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。 見よ、神はわが救である。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである」。』

主の厳しい裁きを経て罪の悔い改めと真の救いに至った者は、主の慰めを受けることができます。そのとき神様はもはや恐怖の対象ではなく、救いを成し遂げられた恵みの源、信頼の対象となります。主は決して怒り狂う裁きの神ではなく、愛と憐れみと慰めの神であられます。私たちの側が誤った神様のイメージを持っているとしたら直ちに改め、喜びと感謝をもって主に近付かせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.12.1-2.ja1955

*****

イザヤ書 12:3
「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。」

小中学校などで「マイム・マイム」というフォークダンスを踊ったことのある人は多いのではないかと思います。そのとき輪の中心に向かって集まりながら「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・ベサソン」と歌いますが、この「マイム・ベサソン」という歌詞は「喜びながら、水を(汲む)」という意味のヘブル語です。イスラエルの三大祭の一つ、仮庵の祭のクライマックスともいえる水取りの儀式のとき、人々はこのイザヤ書12章を歌いながら、シロアムの池で汲んだ水を神殿まで運ぶ祭司の後に行列をなしてついて行くそうです。砂漠気候のイスラエルに住む人々にとって、水はいのちに等しい価値あるものです。永遠に尽きぬいのちの水を与えてくださると約束された主イエスの言葉を思い起こし、喜びをもって神様を求める私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.12.3.ja1955

*****

イザヤ書 12:4-6
『その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。 主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。 シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。』

救いが成就するとき、私たちは神様に向かって感謝の声を上げてほめ歌います。その喜びを自分だけの内に留めておくのではなく、諸々の民に伝え、語り告げ、宣べ伝えることが、先に救われた私たちクリスチャンの使命です。

http://bible.com/81/isa.12.4-6.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/31

2018-01-31 06:35:27 | 今日の聖句
詩篇 118:24
「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」

神様の救いの御業は、ある日突然、人の思いも寄らない方法で実現します。主が定められたときを待ち望み、救いの完成を喜び楽しませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.118.24.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/30

2018-01-30 07:25:18 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 11:1-2
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」

10章での厳しい裁きの言葉と打って変わって、11章では再び救い主、メシヤの到来と、裁きからの回復の道について語られています。神様は単に怒りにまかせて人を裁いているのではなく、罪からの真の回復を何よりも願っておられることがわかります。エッサイの根とはもちろんダビデ王家のこと、一つの芽、若枝というのが救い主を意味します。ここでいう若枝というのは「ひこばえ」というもので、切り倒された幹の切り株の脇から小さな若芽が伸び始める様子を示す言葉です。たとい神様に裁かれて切り倒されたとしても、根、すなわちまことの信仰が残っているならば、再び芽吹く希望がありますから感謝いたします。

http://bible.com/81/isa.11.1-2.ja1955

*****

イザヤ書 11:3-5
「彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。」

やがて来たる救い主の特徴について記されています。心から喜んで主を畏れ、表面的な裁きをなさず、正義と公平な裁きを行うお方、悪しき者を徹底的に滅ぼし尽くされるお方です。たとい今は御心に適う正しき人々が故なく虐げられていたとしても、やがて主が再び来られる日には、信仰こそその身を救う正義と忠信の帯となることを確信して、最後まで耐え忍ぶ私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.11.3-5.ja1955

*****

イザヤ書 11:6-8
「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。」

再臨の主が統べ治められる世界では、肉食動物と草食動物が、赤ちゃんと毒蛇が共存する、不思議な世界観が描かれています。しかし自然界ではよく見られる光景です。なぜなら肉食動物は自分が満腹のときには決して他の動物を襲うことはありません。神様の支配される御国では誰もが十分に満たされている様子を垣間見させていただき、感謝いたします。

http://bible.com/81/isa.11.6-8.ja1955

*****

イザヤ書 11:11-12, 15-16
「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。 主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。

主はエジプトの海の舌をからし、川の上に手を振って熱い風を吹かせ、その川を打って七つの川となし、くつをぬらさないで渡らせられる。 その民の残れる者のためにアッスリヤからの大路があり、昔イスラエルがエジプトの国から上ってきた時にあったようになる。」

その日、すなわち再臨のときには、神様は世界中に離散した主の民を呼び寄せ、神様の支配する御国を打ち立てられます。罪を悔い改め、主イエスの十字架の購いを自分のためのものと信じて救われた者は、主の備えられた王道を歩み、御国に導き入れられるとの約束の御言葉に感謝いたします。

http://bible.com/81/isa.11.11-12,15-16.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/30

2018-01-30 06:35:13 | 今日の聖句
ペテロの第二の手紙 3:9
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

神をも恐れぬ悪しき者が幅を利かせ、御心を行う正しき者が報われぬ時代が長く続くのは、一人でも多くの人が福音を聞いて主に立ち帰ることを願っておられるからです。主の救いの日が一日でも早く到来するためにも、救いの恵みを大胆に証し、福音宣教に励む私たちでありますように。

http://bible.com/81/2pe.3.9.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/29

2018-01-29 07:45:56 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 10:5-7
「ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。 わたしは彼をつかわして不信の国を攻め、彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。 しかし彼はそのようには思わず、その心もそのようには考えず、かえってその心は滅ぼすことを思い、あまたの国々を倒そうとする。」

主は神の民イスラエルの罪を裁くために、異教の国の王さえも用いられるお方です。イザヤの時代のアッスリヤ、エレミヤの時代のバビロン、イエス様の時代のローマなど、すべて神様を信じない人々でした。しかし彼らの愚かな点は、神様の御心の中で起きていることを自分たちの力、努力の賜物と勝ち誇り、驕り高ぶって自滅を招いていることです。先に救われた私たちが主に責められるとき、信仰の訓練として真摯に受け止め、罪の悔い改めに至らせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.10.5-7.ja1955

*****

イザヤ書 10:15-17
「おのは、それを用いて切る者にむかって、自分を誇ることができようか。のこぎりは、それを動かす者にむかって、みずから高ぶることができようか。これはあたかも、むちが自分をあげる者を動かし、つえが木でない者をあげようとするのに等しい。 それゆえ、主、万軍の主は、その肥えた勇士の中に病気を送って衰えさせ、その栄光の下に火の燃えるような炎を燃やされる。 イスラエルの光は火となり、その聖者は炎となり、そのいばらと、おどろとを一日のうちに焼き滅ぼす。」

この箇所はまさにヒゼキヤ王の時代にアッスリヤの王セナケリブが18万5千の大群をもってエルサレムを取り囲み、万軍の主の御名を汚す言葉を語った明くる日、主は御使を送って一晩のうちに疫病をもってアッスリヤ全軍を滅ぼし、命からがら逃げ帰ったセナケリブは部下たちの手に掛かって息絶えたことを預言した御言葉です。(列王紀下 19:32-37
http://bible.com/81/2ki.19.32-37.ja1955)

たとい神様に用いられた者であっても、栄光を主に帰せず、自ら心に高ぶり神様の御名を汚す者は、必ずこのように裁きを受けることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/isa.10.15-17.ja1955

*****

イザヤ書 10:20-23
「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、 残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。 あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。 主、万軍の主は定められた滅びを全地に行われる。」

この預言は一義的にはバビロン捕囚からの帰還を意味しますが、やがて来たる再臨の日、レムナントと呼ばれる残りの者たち、神様の御心を正しく知って主に立ち帰るまことのイスラエル人が現れることを意味します。今、イスラエル人たちの中に、メシアニック・ジューと呼ばれるクリスチャン、イエスの十字架の購いを信じる人々が起こされています。ユダヤ教の教えるメシヤが、まさに主イエス・キリストであると目が開かれて主に立ち帰る人々が確実に増えている事実を見るとき、神様の預言は確かなものであることを信じます。

http://bible.com/81/isa.10.20-23.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/29

2018-01-29 06:35:06 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 14:1
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

この世の現実は悪しき者の勢力が幅を利かせ、私たちの心を騒がせることもしばしばありますが、私たちの信じ仕え奉る主は、全能者にしてすべての主権を取られるお方です。たとい危害を加えても魂を滅ぼすことのできない人間を恐れることなく、永遠のいのちを握られるまことの神に寄り頼み、日々を力強く歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.14.1.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/28

2018-01-28 08:38:00 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 9:1-2
「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」

ダビデ王家の直系であり、正しい信仰を保ってきたという自負を持つ南ユダ王国の人々から見たら、偶像礼拝に陥りイスラエルに敵対してきた民族と結託した北イスラエル王国、ガリラヤ地方は軽蔑の対象でした。しかし神様の恵みはそのような見捨てられた人々にも注がれることを忘れてはなりません。一時は罪の裁きを受けても、心から悔い改める者には必ず回復の道を備えてくださる主の憐れみに感謝いたします。

http://bible.com/81/isa.9.1-2.ja1955

*****

イザヤ書 9:6-7
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」

イザヤ書9章もまた、やがて来られるメシヤ、救い主について預言された箇所です。「霊妙なる議士」とは、英語の聖書では「Wonderful Counselor」と訳されています。私たちのことを誰よりもよく理解し、私たちの側に立って相談に乗り、父なる神様との仲を取り持ってくださる素晴らしいカウンセラー、それが救い主の特長だというのです。そして神様の力を持ち、永遠なる存在、平和を愛されるお方です。救い主が来たるとき、この世に平和が訪れ、神様の御心に適う世界が実現します。それは人間の努力や願望によって成し遂げられるのではなく、万軍の主の熱心、一方的な神様の憐れみによるものです。


http://bible.com/81/isa.9.6-7.ja1955

*****

イザヤ書 9:13-16
「しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、万軍の主を求めない。 それゆえ、主はイスラエルから頭と尾と、しゅろの枝と葦とを一日のうちに断ち切られる。 その頭とは、長老と尊き人、その尾とは、偽りを教える預言者である。 この民を導く者は、これを迷わせ、彼らに導かれる者は、のみ尽される。」

神様から罪の裁きを受けてもなお悔い改めず、主を求めない心の頑ななイスラエルに対して、神様は徹底的な裁きを下されます。その矢面に立つのが、民を指導する者たち、長老、地位の高い人、そして偽りの預言者たちです。民を導く者にはそれだけの責任が伴います。私たちはこの厳しい現実を心に留め、国の指導者たちが誤った判断を下し、誤った道に民を導くことのないよう、祈り続けることが大切な務めです。

http://bible.com/81/isa.9.13-16.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/28

2018-01-28 06:50:23 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 1:12
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」

汚れた罪人に過ぎない私たちが、主イエスの御名を信じるだけで、いと高き神の子となる力を与えていただけるとは、何たる恵みでしょうか。主イエスの購いの十字架を自分のためのものとして受け入れ、罪を悔い改め解放されて、神の子として真の自由を得させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.1.12.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/27

2018-01-27 10:55:32 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 8:1-4
『主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。 そこで、わたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立てた。 わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。 それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからである」。』

イザヤが神様から大きな板に書くようにと命じられ、更には自分の次男に名付けた「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」という言葉には「分捕りは急、略奪は速やか」という意味があるとのことです。これは預言的行動といって、人々の前に神様から授かった預言をはっきりとした形で表明することです。その預言の通り、ユダに攻めてきたアラム(ダマスコ)とエフライム(サマリヤ)はイザヤの次男が年端も行かないうちにアッシリヤ帝国に滅ぼされてしまい、多くの略奪品が持ち去られました。神様の御言葉を高く掲げて証することは責任ある行動です。

http://bible.com/81/isa.8.1-4.ja1955

*****

イザヤ書 8:5-8
『主はまた重ねてわたしに言われた、 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。 それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、 ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。』

シロアの水とは神様の守りの象徴、大川とはもちろんユーフラテス川を指していて、アッシリヤ帝国の力がアラムとエフライムを越えてユダにまで迫ってくることを示唆した預言です。目の前の敵に恐れおののくことなく、インマヌエルなる主に堅く信頼して寄り頼む者には、神様の守りは両翼を広げた鷲のように力強く、ユダの国中にあまねく満ち渡ることを意味しています。

http://bible.com/81/isa.8.5-8.ja1955

*****

イザヤ書 8:11-15
『主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、さとして言われた、 「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。またおののいてはならない。 あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。 主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。 多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。』

いつの時代もこの世には神様の御言葉に聞き従う者を迫害する勢力があります。それらの者にとっては神様は単なる躓きの石、思い通りにならない邪魔者としか目に映りません。しかし神をも恐れぬ不義なる者を恐れず、彼らの語る偽りの言葉に心動かされることなく、ただ万軍の主、神様のみを畏れ敬う者にとっては、いと高き神の聖所となります。神様に対抗するこの世の権力者に多くの人々が惑わされるとも、真理を知る私たちは決してなびいてはなりません。

http://bible.com/81/isa.8.11-15.ja1955

*****

イザヤ書 8:16-18, 20
「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。 主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。 見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。

ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。」

悪しき者が幅を利かせるこの闇の時代においては、真理の御言葉は封印され、神様の御顔は隠されてしまいます。しかし私たちは主を待ち望み、聖書に秘められた神様の教えと証を尋ね求め、夜明けのないような暗黒時代においても耐え忍んで信仰を保ち続けなければなりません。

http://bible.com/81/isa.8.16-18,20.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/27

2018-01-27 07:10:21 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 1:1
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

私たちの信じる主イエスは歴史のはじめから神様と共におられ、天地万物を創造し、いのちを与えられた真理の御言葉そのものです。人のかたちとなってこの世に来られたいのちの御言葉なるイエス様を主とあがめ、力ある御言葉に信頼して聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.1.1.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/26

2018-01-26 07:45:13 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 7:1-2
『ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができなかった。 時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。』

ウジヤ王の孫アハズが南ユダ王国の王となった時代、北イスラエル王国の王ペカは大国となったアッシリヤ帝国に対抗するためスリヤと同盟関係を結び、南ユダ王国にも同盟を持ちかけましたが、アハズはこの誘いを断りました。そこでイスラエルの王ペカは報復措置として南ユダ王国に攻め上りましたが、難攻不落の自然の要塞でもあるエルサレムは陥落することはありませんでした。そのとき新たな同盟関係の噂が入り、アハズ王とユダの人々の心は動揺しました。戦争に勝利しても、たった一つの根も葉もない噂で動揺する心、ここに国や軍事力、人の力に頼る者の脆さがあります。

http://bible.com/81/isa.7.1-2.ja1955

*****

イザヤ書 7:3-4, 7
『その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、 彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。

主なる神はこう言われる、この事は決して行われない、また起ることはない。」』

根も葉もない噂に動揺したアハズ王に対し、神様は預言書イザヤを遣わして、これらの噂は決して起こることはないと告げさせました。このとき主がイザヤを遣わした「布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端」とはギホンの泉のことで、エルサレムの水源地です。これはアハズ王が籠城を覚悟して水源の確保に走ったことを意味します。またイザヤが伴った息子の名「シャル・ヤシュブ」とは「残る者は帰ってくる」という意味があり、このとき既にバビロン捕囚からの帰還を示唆しているとのことです。世界の歴史を司られる神様は、すぐにでも起こる近未来のことのみならず、遠い将来のことまで見通して、私たちに歩むべき道を示されるお方です。

http://bible.com/81/isa.7.3-4,7.ja1955

*****

イザヤ書 7:10-13
『主は再びアハズに告げて言われた、 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。」』

神様はイザヤを通してアハズ王に、先の預言が真実であることを証明するためにしるしを求めてもよいと言われました。これは神様の預言がいかに確実であるかを意味します。しかしアハズの答えは、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」と、神様の提案を断りました。これは「主なる神を試みてはならない」という律法の言葉を引用した一見信仰的にも思われる返事ですが、その真意は「私は神様に頼ることをいたしません」という、婉曲的に神様を否定する回答でした。そこでイザヤはアハズに対し「わが神をも煩わそうとするのか」と怒ったのです。愛と憐れみに満ちた神様は私たち人間に対し、いつでも「わたしに信頼しなさい」と声を掛け続けています。しかし私たち人間の側が、神様の手を振り払い、自分勝手な生き方を通そうとして罪に陥り、自ら失敗を招いているのが現状です。私たちはもっと素直に神様から伸べられた愛の御手により頼むべきです。

http://bible.com/81/isa.7.10-13.ja1955

*****

イザヤ書 7:14-17
『それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。 その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。 それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。 主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあなたと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王である」。』

この箇所は有名なインマヌエル預言、やがて主イエス様が乙女マリヤより生まれることを預言した御言葉ですが、当時のイザヤが直接的に語ったのは、まもなく生まれる赤ちゃんが自分で善悪の判断ができるようになる頃に、アッスリヤ帝国が押し寄せて来るという近未来に対するしるしでした。「主が共におられる」という意味を持つ「インマヌエル」と呼ばれる子が誰なのかはわかりませんが、もしかしたらアハズ王の子ヒゼキヤかもしれません。ヒゼキヤは不信仰な悪王アハズとは異なり、主に信頼して南ユダ王国の中興の名君となった善王ですが、彼の治世にアッシリヤ帝国がエルサレムを包囲し、今アハズとイザヤが会話しているギホンの泉を攻め取ったのです。聖書の歴史を紐解くと、神様の御言葉の持つ意味、恐ろしいほどまでの預言の確かさがより深く見えてきます。私たちは真摯に聖書の御言葉から学ばなければなりません。

http://bible.com/81/isa.7.14-17.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/26

2018-01-26 06:35:02 | 今日の聖句
コリント人への第一の手紙 10:13
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」

神様は私たちの信仰がステップアップするために、時折、試練の中を通過させられます。しかし神様の与える試練は罪の裁きとは異なり、私たちが耐えられないほどのものではなく、祈って御心を求めるなら必ず脱出の道が開かれますから、主に信頼して試練に立ち向かう私たちでありますように。

http://bible.com/81/1co.10.13.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/25

2018-01-25 07:43:11 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 6:1-4
『ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。』

イザヤはウジヤ王の治世の末期から預言者として活動した人物で、おそらく王族の一人と考えられています。そして歴代志にはウジヤ王の功績を書き残した人物と記されていることから、ウジヤ王とは親しい関係にあったことがわかります。ウジヤ王の時代はソロモン王以降、最もユダ王国が勢力を拡大した時代でした。しかしその繁栄はいわゆるバブル景気のようなもので、人々の心は神様から遠く離れ、不義が横行し、空虚な繁栄に酔いしれていた時代です。その象徴ともいうべきウジヤ王が亡くなったとき、まさにユダ王国の歴史が大きく変わるターニングポイントで、イザヤは神殿の中で生ける神様と出会う経験をしました。ですからこの箇所は神秘主義的な不思議な経験として読んではなりません。イザヤの見た神様の御姿は、いと高く、栄光の雲に包まれて、神の御側に仕える天使のセラフィムでさえ顔と足を翼で覆い隠しながら「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と翔り、その叫びによって地の基が震い動くほどの、超越的なきよさに満ちた御姿でした。イザヤの神体験は、それまでのイザヤの信仰も、人格も、すべて根底から覆されるほどの衝撃的な出来事でした。私たちも真に神様と向き合うとき、イザヤと同じ経験をすることになるでしょう。それこそが新たに生まれ変わる、いと高き神の僕となる瞬間です。

http://bible.com/81/isa.6.1-4.ja1955

*****

イザヤ書 6:5
『その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。』

神様の圧倒的な威厳ときよさに触れたイザヤは、自らの罪深さ、汚れた心を鋭く突きつけられ、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ」と叫ばざるを得ませんでした。汚れた唇とは、心の奥底にまで到達する罪深さを意味します。また預言者として活動してきたイザヤにとっては、それまで自分が語ってきた言葉は実に汚れたものだったという徹底的な悔い改めです。なぜならイザヤは1章から5章まででユダの国の人々の腐敗した姿を批判してきましたが、それは自分には関係ないと思っていた節があります。しかし実は汚れていたのは、そのように他人事のように罪を指摘して裁いてきた自分自身だったという悔い改めです。私たちも人の罪や過ちを指摘するばかりでなく、まずは自分自身から徹底的にきよめていただく経験をさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.6.5.ja1955

*****

イザヤ書 6:6-7
『この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。』

イザヤの悔い改めを聞いたセラフィムが祭壇から燃える炭を取ってイザヤの唇に触れ、あなたの罪は赦されたと宣告したのは、イザヤのきよめの経験です。徹底的な悔い改めがなければ、私たちの罪はきよめられません。同時に、きよめは神様から一方的に与えられる恵みです。自分自身で私はきよめられたと言ってはならず、いつまでも罪を引きずったままできよめの経験をいただかないことも正しい信仰ではありません。

http://bible.com/81/isa.6.6-7.ja1955

*****

イザヤ書 6:8
『わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。』

この箇所は献身の聖句として有名な箇所ですが、単にこの一節だけを抜き出して献身したつもりになってはなりません。献身には絶対に抜かしてはならないプロセスがあります。それは、神様と直接対峙する経験、徹底的な罪の悔い改め、そして神様から罪をきよめていただいた経験、神様から献身を促す御言葉が与えられる経験、これらのプロセスをすべてパスしてはじめて真の献身に導かれます。直接献身であれ、信徒としての献身であれ、私たちは一人残らずクリスチャンとして世に遣わされる献身が求められています。献身なきクリスチャンは本物ではありません。

http://bible.com/81/isa.6.8.ja1955

*****

イザヤ書 6:9-10
『主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。』

イザヤの献身の応答に、神様は献身者が遭遇する厳しい現実を突きつけます。しかし自分にとって都合の良い、心地よい献身など、本当の献身ではありません。これからイザヤが語る預言は人々に受け入れられるものではありませんでした。今、キリスト教会の中にも、人々に受け入れられやすい、耳障りの良い聖書のメッセージばかりを語る傾向がありますが、しかし神様が語れと言うならば、たとい迫害されても語る、それが真の献身者の姿勢です。

http://bible.com/81/isa.6.9-10.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/01/25

2018-01-25 06:35:19 | 今日の聖句
詩篇 139:23-24
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」

主なる神様は私たちの心の内を探り、誰よりもよく私たちの思いをご存じであられます。喜びは主と分かち合い、悩み苦しみは主に委ね、悪しき思いがわき起こるときは主にきよめていただいて、天の御国へと続く永遠の義の道に導いていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.139.23-24.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/01/24

2018-01-24 07:45:20 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 5:1-2
「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。」

この歌は預言者イザヤが神様の心の嘆きを表現した詩です。神様はぶどう畑にたとえられた愛する民イスラエルのために肥沃な土地を耕して最高級のぶどうの苗を植え、手間暇を惜しまず最善の準備を整えて収穫のときを待ちましたが、彼らの結んだ実は、原語では腐ったぶどうとも訳される野ぶどうでした。このときの神様の悲しみと落胆は如何ばかりなものでしょうか。私たちもまた神様から大いに期待されて数々の恵みを受けていますが、私たちの結ぶ実はどのようなものでしょうか。

http://bible.com/81/isa.5.1-2.ja1955

*****

イザヤ書 5:7-10
『万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。 わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。 万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。 十反のぶどう畑もわずかに一バテの実を結び、一ホメルの種もわずかに一エパの実を結ぶ」。』

この箇所でイザヤははっきりとイスラエルの罪を指摘しました。神様の愛と憐れみと恵みを一身に受けていたイスラエル人でしたが、貪欲な彼らはその繁栄を一部の支配者階層だけで独占し、貧しい者、弱い者を虐げ、搾取を繰り返しました。それゆえ神様は災いを下し、飢饉をもって裁かれると宣告されました。ここで1バテは約23リットル、1ホメルは約230リットルで10エパに相当しますが、蒔いた種の10分の1しか実がならないとは、大変な凶作です。神様の御心は、すべての人が幸せに、平和に生きることです。愛と憐れみの神を信じる私たちは、かつてイスラエルの犯した罪を繰り返すことなく、御心に適う世界の実現に向けて、謙虚に、誠実に、隣人を愛する日々を実践する者でありたいと願います。

http://bible.com/81/isa.5.7-10.ja1955

*****

イザヤ書 5:26-30
「主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き、地の果から彼らを呼ばれる。見よ、彼らは走って、すみやかに来る。 その中には疲れる者も、つまずく者もなく、まどろむ者も、眠る者もない。その腰の帯はとけず、そのくつのひもは切れていない。 その矢は鋭く、その弓はことごとく張り、その馬のひずめは火打石のように、その車の輪はつむじ風のように思われる。 そのほえることは、ししのように、若いししのようにほえ、うなって獲物を捕え、かすめ去っても救う者がない。 その日、その鳴りどよめくことは、海の鳴りどよめくようだ。もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光は雲によって暗くなる。」

神様を忘れ、愛と憐れみの律法の精神をないがしろにし、恵みの数々に感謝する心を失って、驕り高ぶり、繁栄の寡占に陥った神の民イスラエルに対し、神様は遠くから一つの国民、すなわちバビロン帝国を呼び寄せてその罪を裁くと、イザヤは預言の言葉を語りました。このときのイスラエルの状況は、現代の社会情勢にも似ています。その日、すなわち裁きのときが、当時のイスラエルにとってはバビロン捕囚により成就したように、私たちにもまた最後の審判の日が突然訪れます。そのとき永遠の滅びに定められることのないよう、まことの神を畏れ、御言葉を守り行い、愛と憐れみを実践する日々を送る者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.5.26-30.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする