伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2016/04/30

2016-04-30 10:42:12 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 10:1-2
『そこで、主はモーセに言われた、「パロのもとに行きなさい。わたしは彼の心とその家来たちの心をかたくなにした。これは、わたしがこれらのしるしを、彼らの中に行うためである。 また、わたしがエジプトびとをあしらったこと、また彼らの中にわたしが行ったしるしを、あなたがたが、子や孫の耳に語り伝えるためである。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るであろう」。』

神様はモーセとアロンを何度もエジプト王パロの元に遣わして奇跡を行いましたが、その度にパロは心を頑なにし、神様の御言葉に聞き従うことを拒み続けました。しかし神様はこれらの結末をすべてご存じで、むしろ神の民イスラエル人たちが子々孫々に至るまでこれらの救いの御業を語り継ぎ、神様こそが私たちの主であることを徹底的に認識させるためであると言われました。

聖書に記された神様の御言葉と歴史上の事実は、後の時代に生きる私たちが神様を信じるようになるため、神様こそが天地万物と歴史のすべてを統べ治められる主権者であられることを確信するために私たちの手元に届けられた神様からの愛のメッセージです。この素晴らしき福音を私たちだけのものに止めることなく、私たちの周りにいるすべての人々に、そして私たちの次の世代へと語り継ぐ責任を果たす者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.10.1-2.ja1955

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出エジプト記 10:7
『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』

パロの心の頑なさに、ついに家臣たちまでがついてゆけなくなり、エジプトを滅ぼさないためにもイスラエル人に神様を礼拝させるようにと進言します。パロの命令には絶対服従しなければならない家来たちが、パロの言葉よりも神様の言葉を信じるようになったとは何とも皮肉なことです。

私たちは人の言葉と、神様の御言葉と、どちらを信じたらよいのでしょう。たとえ奇跡が起こらなくても、神様の御言葉を信じる者はさいわいです。人の命令と、神様のご命令が相反するとき、どちらに従うべきでしょうか。たとえ一時的には自分が損することとなっても、神様のご命令に従う者は後の日には何倍もの祝福を受けます。私たちには真理を見る心の目が開かれています。目の前の現実を越えた神様の御心の世界に目を注ぎ、御言葉を確信して忠実に従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.10.7.ja1955

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出エジプト記 10:12, 15
『主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。

いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』

神様はパロへの裁きとしてエジプト全土にイナゴの大群を送り、先の雹の災いでわずかに残った作物を全滅させました。数世代前のエジプト王朝では飢饉からエジプトを救われた神様が、心の頑ななパロの故にエジプトを破滅に追い込む結果となったことは、何を意味しているのでしょうか。

それは指導者たる者の取るべき心構えです。指導者の罪は、その権威の及ぶ範囲全体に影響を及ぼします。これを教会のみならず国や会社に置き換えてみれば、現代に生きる私たちにとっても極めて身近な問題です。私たちは指導者が正しい心を持つようにと祈らなければなりません。そうしないと私たち自身も破滅に追い込まれてしまいます。私たちの属する国や地域、会社などの組織の指導者が、神様を畏れ、正しい心で職務に当たるようにと祈り続けるキリスト者でありますように。

http://bible.com/81/exo.10.12,15.ja1955

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出エジプト記 10:16-17
『そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。 それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。』

自国に深刻な被害が及んだの見て初めてパロは自分の過ちに気付きます。しかしパロの悔い改めは心の底からのものではなく、目前の課題だけ何とか乗り越えればよいという、その場しのぎの表面的な反省、あるいは単なる後悔に過ぎませんでした。

一時の反省や後悔は誰でもします。本当に大切なことは失敗から学び、根本的に悔い改めることです。私たちには罪を完全に解決してくださるイエス様がいらっしゃいます感謝します。過去の過ちも、ここのに根深く残る罪の根さえもイエス様の十字架と共に完全に滅ぼしていただけるよう、心から悔い改めて祈り求める私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.10.16-17.ja1955

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出エジプト記 10:22-23
「モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。 三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」

砂漠地帯では大きな砂嵐が起こると太陽さえも見えなくなると言います。手で触れるほどの暗闇の災いとは、強大な砂嵐であったのではないかという説もあります。いずれにせよエジプト全土が3日間にもわたって暗闇に包まれたのに対し、イスラエル人の住むゴセンの地には光がありました。

これはキリストの死と蘇りを予表しているようにも思えます。世の人々にとっては暗闇でも、まことの神様を信じ畏れる者には希望の光が与えられます。私たちクリスチャンはその光を持っています。深い暗闇のような罪の世にあっても、福音の光に照らされて、希望に満ちた信仰生活を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.10.22-23.ja1955

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出エジプト記 10:28-29
『それでパロはモーセに言った、「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は二度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」。 モーセは言った、「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう」。』

9つの災いを経て、ついにパロは災いの元凶となった(とパロが考えた)モーセと決裂します。パロは自らモーセに最後通告を与えたように思っていたかもしれませんが、実のところはパロが神様から決定的に見放された瞬間でした。

私たち人間は、心を頑なにして自分の考えに凝り固まると、自らの置かれた状況を冷静に判断することができなくなり、ついには自滅の道を開いてしまいます。このときのパロがまさにそうでした。聖書を通して歴史を知る私たちは、先人たちの失敗から正しく学び、二の轍を踏まぬようにしなければなりません。頑なな心を直ちに悔い改め、神様の権威の下にへりくだって御言葉に聞き従い、永遠のいのちへと続く義の道を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.10.28-29.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/30

2016-04-30 06:12:35 | 今日の聖句
ピリピ人への手紙 2:13
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」

神様は私たちに魂の救いを達成する願いを起こさせ、実現に至らせてくださいます。自己実現の願望を捨て、主の思いと一つとなっていのちの御言葉を堅く保つ従順な者となり、曲がった邪悪な世界のただ中にあって星のように輝く神の子となる私たちでありますように。

http://bible.com/81/php.2.13.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/29

2016-04-29 12:40:43 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 9:1-4
『主はモーセに言われた、「パロのもとに行って、彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。 あなたがもし彼らを去らせることを拒んで、なお彼らを留めおくならば、 主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。 しかし、主はイスラエルの家畜と、エジプトの家畜を区別され、すべてイスラエルの人々に属するものには一頭も死ぬものがないであろう」と』」。』

神様はパロに、イスラエル人たちが神様を礼拝するためにエジプトの地を去らせないならば、激しい疫病をエジプト人の家畜だけに下すと告げられます。このような災いの中でも主は、イスラエル人の家畜をエジプト人の家畜と区別し、一頭も危害が及ばないという超自然的な神様の守りを約束されました。

私たちの神様は、ただ主に寄り頼み従う御心に適う者と、主を認めず心にも留めない御心に反する者とを区別されるお方です。神様の祝福を受けるか、災いを受けるかは私たちの側の態度にかかってきます。心を頑なにして我を張り主を認めない者となって神様の怒りを招くことなく、主を畏れ従う者となって神様の御手の内に守られ災いからかくまっていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.1-4.ja1955

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出エジプト記 9:5-7
『主は、また、時を定めて仰せられた、「あす、主はこのことを国に行うであろう」。 あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。 パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。』

パロはモーセとアロンの告げた言葉の通りになったかを見定めるために野に人を遣わしましたが、その通りになったことを知っても悔い改めず、神様に反抗しました。モーセとアロンの言葉を確かめさせたパロの姿勢は、神様を気にするようにはなったものの、それだけで終わってしまいました。

神様の御言葉を知っているだけで、従わなければ何の意味もありません。御言葉を真摯に受け止めて聞き従い、神様を畏れ敬う私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.5-7.ja1955

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出エジプト記 9:10-12
「そこで彼らは、かまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセは天にむかってこれをまき散らしたので、人と獣に付いて、うみの出るはれものとなった。 魔術師らは、はれもののためにモーセの前に立つことができなかった。はれものが魔術師らと、すべてのエジプトびとに生じたからである。 しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。」

モーセとアロン対エジプトの魔術師たちとの対決は、かまどのすすが腫れ物となる奇跡で決定的な結末を迎えます。魔術師たちは神様の奇跡の前になす術もなく、モーセとアロンの前に立つことすらできなくなりました。しかしパロは魔術師たちの完全な敗北を見ても心を頑なにし、神様の御言葉に聞き従おうとしませんでした。

神様は御言葉に従う者を、自分の能力に頼る者に対して完璧な勝利を与えられます。それは私たちの能力が勝っているのではなく、私たちの背後におられるお方の権威に依るものであることを忘れてはなりません。もし自分の力で勝利したかのように自惚れるならば、私たちもまた滅ぼされるべき者となってしまいます。そのようなことにならないよう、常に謙虚に、神様に栄光を帰する私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.10-12.ja1955

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出エジプト記 9:15-17
「わたしがもし、手をさし伸べ、疫病をもって、あなたと、あなたの民を打っていたならば、あなたは地から断ち滅ぼされていたであろう。 しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。 それに、あなたはなお、わたしの民にむかって、おのれを高くし、彼らを去らせようとしない。」

神様はパロに対し、私はお前の命を奪う権威を持っているが、直ちにそれをしないのは、心の頑ななパロに神様の圧倒的な力を見させるため、また全世界に神様を権威を示し、宣べ伝えさせるためであると告げました。この世の権力を誇ったパロでさえ、まことの主権者であられる神様の前には単なる道具に過ぎないことを、私たちは知るべきです。

私たちのいのちも、仕事も、立場も、すべては神様から授かったものであり、私たちは主の栄光を世に示すための器に過ぎません。この事実を謙虚に受け止め、神様が喜んで用いてくださるような聖なる器となり、神様のためにお役に立つ者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.9.15-17.ja1955

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出エジプト記 9:18-21
『ゆえに、あすの今ごろ、わたしは恐ろしく大きな雹を降らせるであろう。それはエジプトの国が始まった日から今まで、かつてなかったほどのものである。 それゆえ、いま、人をやって、あなたの家畜と、あなたが野にもっているすべてのものを、のがれさせなさい。人も獣も、すべて野にあって家に帰らないものは降る雹に打たれて死ぬであろう」と』」。 パロの家来のうち、主の言葉をおそれる者は、そのしもべと家畜を家にのがれさせたが、 主の言葉を意にとめないものは、そのしもべと家畜を野に残しておいた。』

神様はなおも災いをエジプトに下そうとされましたが、エジプト人の中でも今までの数々の災いと奇跡を通して神様の御言葉を信じるようになった者には、その災いから逃れさせようと、あらかじめ猶予のときを与えました。

私たちの信じる神様は一方的に災いを下す怒りの神ではなく、たといかつては神様に敵対していた者であっても、心を改めて御言葉を信じ神様を畏れる者には救いの道を用意される、愛と憐れみに富む神様です。イスラエル人ではない異邦人の私たちもまた、かつては神様を知らない罪人でありましたが、神様の憐れみによりイエス様の十字架の購いを信じ受け入れて、神の祝福の民に加えていただいた者であることを覚えます。魂の救いのために広く門戸を開いてくださる神様に感謝し、主を畏れ御言葉に聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.18-21.ja1955

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出エジプト記 9:24-26
「そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。 雹はエジプト全国にわたって、すべて畑にいる人と獣を打った。雹はまた畑のすべての青物を打ち、野のもろもろの木を折り砕いた。 ただイスラエルの人々のいたゴセンの地には、雹が降らなかった。」

神様の裁きは主の御言葉に聞き従わないエジプト人とエジプト全土に徹底的に及びました。エジプトの長い歴史の中で観測史上最大の被害をもたらした雹は、神の民イスラエルの住むゴセンの地は全く降らず、災いから完全に守られました。ここに神様の選びと守りの完全さを見ることができます。

私たちの背後には、この神様の守りの御手があることを覚えなければなりません。災いが及ばないことを喜ぶのではなく、当たり前だと思っている日常生活のすべてが、神様の守りの御業の結晶であると知るならば、何気ないことにも自然と感謝が生まれます。私たちの出ると入るとを守られる神様に常に感謝しつつ、日々の信仰生活を送る者でありますように。

http://bible.com/81/exo.9.24-26.ja1955

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出エジプト記 9:27-30
『そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。 主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。 モーセは彼に言った、「わたしは町を出ると、すぐ、主にむかってわたしの手を伸べひろげます。すると雷はやみ、雹はもはや降らなくなり、あなたは、地が主のものであることを知られましょう。 しかし、あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」。』

エジプト史上最大の災害を目の当たりにしたパロは、自らの非を認めてモーセとアロンに雹をとどめてくれるよう主に祈願してほしいと懇願しました。モーセはそのパロの言葉に対し、雹をとどめるようには祈るが、まだパロの中には頑なな心があることを指摘します。

私たちも自分の力ではどうにもならない現実の前に、神様を叫び求めるときがあります。しかしそれは信じる者は藁をも掴むような、一時しのぎの信仰ではないでしょうか。まことの信仰は、何か事が起こった後に神様を呼び求めるのではなく、何も起こらなくても常に神様を畏れ祈る日常生活の中に反映されます。パロの姿を見て自分の信仰状態を今一度確認し、改めるべき点は改め、常日頃から神様を畏れる敬虔な信仰生活を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.27-30.ja1955

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出エジプト記 9:33-35
「モーセはパロのもとを去り、町を出て、主にむかって手を伸べひろげたので、雷と雹はやみ、雨は地に降らなくなった。 ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。 すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。」

パロの心は頑なで、まだ神様の御前に心から悔い改めていないと知りながらも、モーセは主に向かって雹の災いをとどめてくださるように祈り、主もまたその祈りに直ちに答えられました。実際その通りにパロと家来たちは災いがやむと直ちに心を翻し、心を頑なにしてイスラエル人をエジプトから立ち去らせるという約束を反故にしました。

私たちも時折、結末がわかっていながらも、自分の意に反して何かをしなければならないときがあります。それは私たちにとって非常にストレスのかかることであり、できれば避けたいと思う気持ちが自然と起こります。しかしそれが神様の御心であるならば、私たちは従わなければなりません。そこに神様の祝福があるからです。決して人を恨むことなく、置かれた状況を悲観することなく、ただ御心のままに行動する強い信仰を今日も与えていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.9.33-35.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/29

2016-04-29 06:00:23 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 15:7
「こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」

愛することよりも愛されることを好むのが人間の本質的な姿ですから、神様の愛に依らなければ、自分よりも相手を大切に思う心は生まれません。自分のことだけで精一杯な心の狭い者をも受け入れてくださったイエス様の愛に包まれて、相手を受け入れ、神様の素晴らしさを世に現す私たちでありますように。

http://bible.com/81/rom.15.7.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/28

2016-04-28 08:04:07 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 8:5-8
『主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『つえを持って、手を川の上、流れの上、、池の上にさし伸べ、かえるをエジプトの地にのぼらせなさい』と」。 アロンが手をエジプトの水の上にさし伸べたので、かえるはのぼってエジプトの地をおおった。 魔術師らも秘術をもって同じように行い、かえるをエジプトの地にのぼらせた。 パロはモーセとアロンを召して言った、「かえるをわたしと、わたしの民から取り去るように主に願ってください。そのときわたしはこの民を去らせて、主に犠牲をささげさせるでしょう」。』

モーセのアロンが行った奇跡と、エジプトの魔術師たちが行った奇跡には根本的な違いがあります。それは、モーセとアロンが奇跡を行う目的はイスラエル人を救うためであるのに対し、魔術師たちは自らの能力を人々に見せびらかすためだけの目的で奇跡を行ったのです。その結果、モーセとアロンは自国の民を守り、魔術師たちはエジプトの民だけでなく自分を雇ったエジプト王パロにまで被害を及ぼすという、本末転倒な結末になりました。

エジプトの魔術師たちの行動には、私たちも気をつけなければなりません。それは、自己顕示欲は何の益にもならないこと、目的を履き違えるととんでもない結末に至ること、そして神様が私たちを召して用いられる目的は、神様の愛をこの世と人々に現すことに他ならないことです。私たち人間は、ともすると手段を目的化しがちです。また自分の能力を人に認めてもらいたいと願い、自己実現のために能力を使おうとします。神様から私たち一人一人に授かった賜物は、決して自分のためだけに使ってはなりません。神様の目的を果たすために賜物を用い、世の人々のお役に立って神様の愛と憐れみを証するために授けられた能力を正しく用いる私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.8.5-8.ja1955

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出エジプト記 8:12-15
「こうしてモーセとアロンはパロを離れて出た。モーセは主がパロにつかわされたかえるの事について、主に呼び求めたので、 主はモーセのことばのようにされ、かえるは家から、庭から、また畑から死に絶えた。 これをひと山ひと山に積んだので、地は臭くなった。 ところがパロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かなかった。」

エジプト全土に満ちたカエルの被害のために、ついにパロはモーセとアロンに、かえるを取り去るように主に祈ってほしいと嘆願します。しかしカエルが去るとパロは心を翻し、再び頑なになってイスラエル人をエジプトから去らせようとしませんでした。

まさに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」との諺通りの姿に、私たちは何を学ぶべきでしょうか。人の心は変わりやすいこと、しかし頑なな心を直すことはなかなか難しいこと、様々なことを学ぶことができるでしょう。その中でも確かなことは、主は人の心を見通され、人の心の移り変わりも主が御支配されていることです。イエス様は「人にはできないが神には何でもできる」とおっしゃいましたが、人の心を作り替えることは主にしかできない業です。私たちの中にある頑なな心に気付いたならば、他の宗教家たちのように自分の努力で何とかしようとするのではなく、何でもできる主の御前に立ち帰り、主を認めようとしなかった罪を悔い改めて心をきよめていただき、真の心の解放に至ることができますように。

http://bible.com/81/exo.8.12-15.ja1955

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出エジプト記 8:16-19
『主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。 彼らはそのように行った。すなわちアロンはそのつえをとって手をさし伸べ、地のちりを打ったので、ぶよは人と家畜についた。すなわち、地のちりはみなエジプトの全国にわたって、ぶよとなった。 魔術師らも秘術をもって同じように行ない、ぶよを出そうとしたが、彼らにはできなかった。ぶよが人と家畜についたので、 魔術師らはパロに言った、「これは神の指です」。しかし主の言われたように、パロの心はかたくなになって、彼らのいうことを聞かなかった。』

モーセとアロンが行った3番目の奇跡まではエジプトの魔術師たちも真似ることができましたが、ついに彼らの能力では神様と立ち向かうことができなくなりました。彼らはモーセとアロンこそまことの神から遣わされた者であることを認めて「これは神の指です」とパロに報告しましたが、それでもパロは心を頑なにして聞く耳を持ちませんでした。

心の頑なな者の哀れな結末を見るに忍びません。私たちもまた、心を頑なにするとパロのように悲惨な結末を迎えることとなります。そのようにならぬよう、今日という日があるうちに主に御前に立ち帰り、罪を悔い改めて頑なな心を素直な心へと変えていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.8.16-19.ja1955

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出エジプト記 8:22-24
『「その日わたしは、わたしの民の住むゴセンの地を区別して、そこにあぶの群れを入れないであろう。国の中でわたしが主であることをあなたが知るためである。 わたしはわたしの民とあなたの民の間に区別をおく。このしるしは、あす起るであろう」と』」。 主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。』

空を自由に飛び回るアブが、イスラエル人たちの住むゴセンの地だけに立ち入らないとは、通常考えられないことです。しかし神様はそのように自然現象の法則にも反してまで、神の民イスラエルをアブの害から守られました。

私たちの背後には、神様の手厚い守りの御手があることを決して忘れてはなりません。当たり前のように思っている日常生活が守られていることほどの奇跡は、実はないのです。それは健康を害したときのことを思えば誰もが実感することができるでしょう。神様の祝福とは、自分の思い通りの人生を送ることではなく、今日が守られ安心して生活できることに勝るものはありません。今日を守られる神様の力強い守りの御手の中にあるさいわいに深く感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.8.22-24.ja1955

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出エジプト記 8:29-32
『モーセは言った、「わたしはあなたのもとから出て行って主に祈願しましょう。あすあぶの群れがパロと、その家来と、その民から離れるでしょう。ただパロはまた欺いて、民が主に犠牲をささげに行くのをとめないようにしてください」。 こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、 主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。 しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。』

アブの被害を受けて再びモーセとアロンにこの害を去らせてくれるように頼んだパロでしたが、モーセの「再び欺かないように」との忠告の言葉も聞き流して、害が去るとまた心を頑なにしました。もちろんこのパロの態度は神様もモーセも折り込み済だったことではありますが、人の心の頑なさには聖書を読む私たちさえも驚かざるを得ません。

神様の本当の奇跡は、エジプトを襲った10の超自然的な災いではなく、私たちの頑なな心を変えてくださり、心の罪を悔い改めて主の御前に立ち帰ることができたことにあります。生まれながらの罪人である私たちが神様を信じることができたこと、異邦人にもかかわらず神の民に加えていただける恵みに心から感謝し、主の御前にひれ伏して神の栄光をほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.8.29-32.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/28

2016-04-28 06:55:28 | 今日の聖句
箴言 29:25
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」

この世のいかなる人も、私たちの人生を保証してはくれません。私たちが真に頼るべきお方は、恵みと憐れみに富む天の父なる神様ただお一人です。人の目を恐れて媚びへつらう場当たり的な人生ではなく、天地万物の創造者であり主権者であられる主を畏れ、まことの平安に満ちた生涯を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.29.25.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/27

2016-04-27 08:00:08 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 7:1-2
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。 あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。」』

神様はモーセをパロに対して神のごとき者とし、アロンをモーセの預言者とすると言われ、神様の権威をモーセに授けました。人が神様の御言葉を取り次ぐ預言者となることはあっても、神様の代理人になるなど、普通では考えられないことです。しかし神様はそこまでモーセを信頼し、権威を授けられたのです。

神様の代理人となったモーセ、そして預言者となったアロンに貸せられた使命は、神様のご命令に全く従い、告げられた御言葉を余すことなく取り次ぐことです。彼らはその通りに、人の考えでは到底理解も納得もできないような神様のご命令すべてに完全に従いました。私たちもまた、世の人々に対して神様の御言葉を伝える使命を託されています。モーセとアロンのように神様のご命令に愚直に従い、福音宣教の愚かさを恥とせず、救霊と伝道の業に励む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.7.1-2.ja1955

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出エジプト記 7:3-5
『「しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、 パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。 わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。』

神様の御心は、モーセとアロンの言葉にパロが素直に従うことではなく、むしろパロの心を頑なにして、イスラエル人たちに不当な奴隷生活を強いたエジプトに裁きを下すことにありました。その通りパロとエジプト人たちは神様の御言葉に最後まで聞き従うことをせず、イスラエル人たちがエジプトを去るにあたって初めて神様の存在を認めるようになりました。

神様の御言葉を聞いても悔い改めることをしない頑なな心は、パロの姿と一致します。最後まで神様の御言葉を拒絶し、自らの罪を認めない者は、神様の裁きを免れることはできません。私たちはパロのようになりたいですか? それとも罪を悔い改めて永遠の裁きを免れたいですか? 今すぐに神様を認めようとしない罪を悔い改め、恥も、外聞も、プライドも、頑なな心と共に捨て去って、罪からの解放と永遠の救いを得る私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.7.3-5.ja1955

*****

出エジプト記 7:10-12
「それで、モーセとアロンはパロのところに行き、主の命じられたとおりにおこなった。すなわちアロンはそのつえを、パロとその家来たちの前に投げると、それはへびになった。 そこでパロもまた知者と魔法使を召し寄せた。これらのエジプトの魔術師らもまた、その秘術をもって同じように行った。 すなわち彼らは、おのおのそのつえを投げたが、それらはへびになった。しかし、アロンのつえは彼らのつえを、のみつくした。」

モーセもアロンは神様の言葉に従い、パロの目の前で杖をへびに変える奇跡を行います。しかし心の頑ななパロはエジプトの魔術師を呼び寄せ、同じように杖をへびに変える奇跡を行わせて神様に対抗しました。ここで注目すべきは、アロンのへびは魔術師たちのへびを飲み尽くした、と記されていることです。人の力で神様に対抗しようとしても、神様には決して敵うはずがありません。

私たちも同じようなことをしていないでしょうか。人の力に頼り、科学や文明の利器を駆使して、自分の念願を果たそうと空しい努力をしていないでしょうか。神様の御心に従わずに努力することは、単なる自己満足に過ぎません。私たちに必要なことは、神様から託されたことに集中してベストを尽くすことです。自分の思いではなく神様の思いに沿うこと、それが私たちに求められている信仰生活の要だと忘れないでください。

http://bible.com/81/exo.7.10-12.ja1955

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出エジプト記 7:20-22
「モーセとアロンは主の命じられたようにおこなった。すなわち、彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。 それで川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことができなくなった。そしてエジプト全国にわたって血があった。 エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。」

へびの奇跡を見て更に心を頑なにしたパロに対し、神様は今度はナイル川の水を地に換える奇跡を行います。エジプト人にとってナイル川は聖なる川であり、自分たちの命をつなぐ生命線でもありました。ですからナイル川を血に変える奇跡とは、エジプトに対する裁き以外の何物でもありません。

しかし心を頑なにしたパロは、同じ奇跡を行うよう魔術師たちに命じます。自分たちの聖なるものを汚れたものとし、自ら生命線を捨てる、これほどの馬鹿げた矛盾はあるでしょうか。ここに、心の頑なな者の愚かさを見ることができます。

私たちも同様に、心を頑なにしてはいないでしょうか。神様の御言葉や、親しい人からの忠告に耳を貸さず、自分の考えに凝り固まって、自分の首を絞める愚かな行為をしてはいないでしょうか。心の頑なな者は神の国を受け継ぐことはできません。堅く閉ざされた心の扉を神様の御前に大きく開き、真の自由と祝福の人生に踏み出す私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.7.20-22.ja1955

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出エジプト記 7:23-25
「パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。 すべてのエジプトびとはナイル川の水が飲めなかったので、飲む水を得ようと、川のまわりを掘った。 主がナイル川を打たれてのち七日を経た。」

二度目の奇跡を見て更に心を頑なにしたパロは怒って家に帰り、自分の不都合なことから目をそらして心にも留めようとしませんでした。その間、エジプト人たちは飲み水に困り、何とか命をつなごうと必死の努力を強いられました。そして7という数字は聖書では完全を表す数ですから、7日を経たというのは神様の裁きの徹底を意味します。

自国の民を苦しめてまで自分の過ちを認めないパロの姿を反面教師として、正しい人生のあり方をよく考える必要があります。私たちは人間ですから、過ちを犯さないということはありません。しかし過ちを認めず放置することは自滅につながります。過ちに気付いたら直ちに悔い改める、それが私たちの取るべき態度です。パロのように心を頑なにせず、素直な心に立ち返って、赦しを与えてくださる神様の御前に悔い改める私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.7.23-25.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/27

2016-04-27 06:55:30 | 今日の聖句
コリント人への第二の手紙 3:17
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」

ここでいう自由とは人間の自分勝手な生き方を指すのではなく、聖霊様のように罪に縛られない自由を意味します。聖霊は思いのままに吹く風のようなお方であると聖書に記されています。私たちに自由を与えてくださる主の霊に導かれ、罪とは無縁の、神様に喜ばれる信仰生活を送らせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/2co.3.17.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/26

2016-04-26 07:56:05 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 6:1
『主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。』

モーセとアロンが語った言葉の故に更に心を頑なにしたパロについて、神様は、私が彼に何をしようとしているかを見せると答えられました。神様は、人の心をも御支配なさるお方です。パロの心を頑なにするのも、神様の強い御手に強いられてイスラエル人を解放すると決断させるのも、雄弁な人の語る言葉ではなく、すべては神様の一存にかかっていることをイスラエルの人々に示すためです。

私たちもまた、神様の御手が働かれる時を見ることができます。神様を知らない人々にとっては、単なる偶然、ラッキーとしか見えないことも、聖書の御言葉を心に蓄え、神様の御心を知ることのできる私たちには、この世のすべての動向の背後に神様の強い御手があることを見ることができるのは幸いです。人の目線ではなく、神様の視点に立って物事を見る習慣を身に付け、神様の御業の素晴らしさを更に知る私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.6.1.ja1955

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出エジプト記 6:2-5
『神はモーセに言われた、「わたしは主である。 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。 わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。 わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。」』

神様はモーセとアロンに、彼らの父祖であり信仰の父とさえ呼ばれるアブラハム、そしてイサク、ヤコブにさえ知らせなかった、主というお名前と、ご自身の本質を現されました。また神様は、今イスラエル人たちが置かれている苦境をつぶさに見られ、ご自身がアブラハムに立てた契約を思い起こされたと語られました。

今私たちが、聖書に記された神様の御言葉を通して、主のお名前と、その本質を知ることができることは驚くべきことです。なぜならあのアブラハムでさえ主というお名前を知らなかったのですから。このような素晴らしい神様の摂理を、汚れた罪人であり異邦人に過ぎない私たちが知ることができる幸いに、心から感謝して主の御名を拝する者でありたいと思います。

http://bible.com/81/exo.6.2-5.ja1955

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出エジプト記 6:9
「モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。」

主ご自身がイスラエル人たちをエジプトから救い出すと約束してくださったことをモーセとアロンがいくら語っても、イスラエル人たちは耳を貸そうともしませんでした。神様ご自身が語られた真理の御言葉に、聞く耳を持たせなくさせてしまったものは一体何でしょうか。それは自分の目の前にある厳しい現実です。

私たちが現実に目を奪われるとき、真理に心が開かれることはありません。私たちの心の目が神様に向かなければ、いかなる真理にも、目の前の現実を越えたところにある豊かな祝福にも気付くことができず、現実を乗り越えることができないまま、一生戦い続けなければなりません。現実は現実として受け止めつつも、心の目は常に神様を見上げる姿勢が、私たちクリスチャンの取るべき態度です。

http://bible.com/81/exo.6.9.ja1955

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出エジプト記 6:12-13
『モーセは主にむかって言った、「イスラエルの人々でさえ、わたしの言うことを聞かなかったのに、どうして、くちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましょうか」。 しかし、主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々と、エジプトの王パロのもとに行かせ、イスラエルの人々をエジプトの地から導き出せと命じられた。』

モーセもまた、自分の語った神様の言葉にイスラエル人たちが聞き従わなかった現実に直面して、神様に自分の無力さを訴えて否定的な言葉を口にします。しかし神様は、それでもパロに主の御言葉を語りなさいとモーセに命じました。なぜならパロの心を変えるのは、主の代弁者であるモーセではなく、主ご自身だからです。

私たちもまた、神様のことを人に伝えても、なかなか受け入れてくれない現実に直面します。特に異教の国である日本では、福音伝道の難しさは誰もが経験します。しかし語る者がいなければ、誰が神様の言葉を聞くことができましょうか。私たちは単なる語り部で、人の心を変えるのは主ご自身です。誰も聞いてくれないと悲観的にならず、上手に雄弁に伝道しようと方法論に走ることなく、ただ主のご命令に従って御言葉を語り、伝えた人の心を変えてくださる主に委ねて、その人の救いのために祈りつつ伝道に励む私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.6.12-13.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/26

2016-04-26 07:00:19 | 今日の聖句
箴言 16:9
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」

誰もが自分の理想の人生を心に思い描きますが、なかなか思い通りにならず葛藤が生まれます。私たちの人生を導くお方は、私たち一人一人の将来までも俯瞰的に見通される主であると知るとき、心の葛藤は平安に変わります。今日もすべてを主に委ね、主が備えられた最善の道と確信して歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.16.9.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/25

2016-04-25 07:52:12 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 5:1-2
『その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。』

この世で権力を誇る者は、驕り高ぶって自分の上に更に権威あるお方がおられることを認めようとせず、この世の権威は主から賜るものであることを知ろうともしません。そして自分の権力を誇るために人を従わせ、自己満足に陥ります。この高ぶる心こそ、主が最も忌み嫌われる人間の態度です。

すべての人は、この全世界を創造され、命を与える絶対的な主権者であられる主の存在を認めるべきです。主を認めない者を神様は必ず裁かれます。エジプト王パロのように神様を認めず滅びに至ったことが後々の世まで語り草となることのないよう、主なる神様の存在を認め、その権威ある御言葉に聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.5.1-2.ja1955

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出エジプト記 5:6-9
『その日、パロは民を追い使う者と、民のかしらたちに命じて言った、「あなたがたは、れんがを作るためのわらを、もはや、今までのように、この民に与えてはならない。彼らに自分で行って、わらを集めさせなさい。また前に作っていた、れんがの数どおりに彼らに作らせ、それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。それだから、彼らは叫んで、『行ってわたしたちの神に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。』

神様を礼拝するためにイスラエル人に休みを与えるよう進言したモーセとアロンに、パロは心を頑なにして、それはイスラエル人たちがずる休みをするための口実だと何難癖を付けて、更に厳しい労役を課しました。

この世の権力者たちは、富を得るために人を人と思わず、無理難題を押しつけることは昔からの常套手段です。ですから私たちもこの世に生きる限り、厳しい現状にさらされることを世の常と受け止めなければなりません。大切なことは、そのとき私たちが何を心の頼りとするかです。この世の一時しのぎの慰めに逃げるならば、この世の苦しみに打ち勝つことはできません。永遠なる神様の御言葉に慰めを求めるとき、この世の苦しみにも耐え忍ぶ力が与えられます。主なる神様に助いを求め、永遠の慰めを得る私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.5.6-9.ja1955

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出エジプト記 5:19-21
『イスラエルの人々のかしらたちは、「れんがの日ごとの分を減らしてはならない」と言われたので、悪い事態になったことを知った。 彼らがパロを離れて出てきた時、彼らに会おうとして立っていたモーセとアロンに会ったので、 彼らに言った、「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」。』

今までよりも更に厳しい労役を課されたと知ったイスラエル人のかしらたちは、モーセとアロンに会うと、神様があなたたちを裁かれるようにと呪いの言葉をかけて立ち去りました。つい先日まで神様が私たちの苦しみを顧みてくださったとモーセとアロンの言葉を喜んで受け入れた彼らが、パロの命令の前に心を翻して彼らを呪うところに、人の心の移り変わりやすさと弱さを覚えます。

私たちもまた、自分の置かれた状況の変化に、神様の御言葉を疑うことはないでしょうか。礼拝でメッセージを聞いたときには神様感謝しますと喜んで受け入れながら、普段の生活に戻って厳しい現実に直面するとすぐに神様何故ですかと叫んで喜びも吹き飛んでしまう弱さを覚えます。状況が良くても悪くても、神様の約束の御言葉を疑わないことが私たちに求められる信仰です。順境の時には喜び楽しめ、逆境の時は考えよ、との箴言の御言葉のように、時が良くても悪くても神様を疑うことをせず、むしろ信仰によって現状を打破する私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.5.19-21.ja1955

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出エジプト記 5:22-23
『モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。 わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」。』

イスラエル人のかしらたちの言葉を聞いて、モーセは神様に訴えます。信仰者の取るべき態度は、イスラエル人のかしらたちのように悩みを人にぶつけるのではなく、このときのモーセのように私たちの喜びも悲しみもすべて知っておられる神様の元に打ち明けることです。人の言葉と、神様の御言葉と、どちらに頼る方が根本解決に近いか、考えてみてください。その場しのぎの手近な解決よりも、根源から解決してくださる神様に頼り、慈しみと憐れみに富む神様の真実にすべての悩みを訴えかける私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.5.22-23.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/25

2016-04-25 06:55:07 | 今日の聖句
箴言 16:6
「いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。」

私たちの罪とがを赦すことのできるお方は慈しみとまことに富む主なる神様ただお一人、義なる主を畏れることこそ私たちが悪の道に陥らない唯一の方法です。自分の思い通りの人生を歩み続けて永遠の滅びに至ることのないよう、人を正しき道に導く主の御言葉を心に刻みつけて守り行う私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.16.6.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/24

2016-04-24 07:58:13 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 4:1-5
『モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。-そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。- これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである」。』

奴隷として苦しめられているイスラエル人たちを救い出すためにエジプトに遣わそうとされた神様に対し、モーセは彼らは私を信じないと答えて断りました。若かった頃の失敗がまだ尾を引いていたのでしょう。しかし神様は、イスラエル人たちにモーセの言葉を信じさせるために、モーセの手にある何の変哲もない杖をもって奇跡を行われました。

神様は、人々が神様を信じることができるように、私たちを、そして私たちの手にあるものを用いられます。それは私たち自身に力があるのではなく、私たちを用いられる神様の力が働くことを意味します。私たちにできることは、黙って従うことです。自分の力や言葉で人を信じさせるようにするのではなく、ただ黙々と、愚直に御言葉に従うとき、神様の力が働いて、人々が神様を信じることができるようになります。どうか私たち自身を神様が用いてくださるようにと祈り、神様の御業を拝させていただく者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.4.1-5.ja1955

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出エジプト記 4:13-17
『モーセは言った、「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」。そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。』

神様の数々の奇跡と説得の言葉にもかかわらず、モーセは自分にはできないと断ります。そのような態度を示したモーセに対し、ついに神様は怒りを発します。そして神様が共におられることを心許ないと言うならば、話術の巧みな兄弟アロンをも共に遣わして、モーセを神の代理人として語るべき言葉を授け、モーセには杖をもって奇跡を行わせてイスラエル人たちをエジプトから導き出すと約束されました。

神様から御言葉を掛けられたとき、私たちの取るべき態度は、直ちに従うことです。あれこれ理由をつけて言い訳をして逃げるような不信仰を、神様は最も嫌われます。もしそのような態度で神様の御言葉を受け止めるならば、神様は逃げ場所を奪ってまでも御心を行われます。そして自分一人ではできないというならば、共に働くパートナーまでも備えてくださいます。神様の御言葉に素直に従うのが、結局は最も近道なのです。どうか神様のご命令に、直ちに、素直に従う信仰を身に付けさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.4.13-17.ja1955

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出エジプト記 4:19-20
『主はミデヤンでモーセに言われた、「エジプトに帰って行きなさい。あなたの命を求めた人々はみな死んだ」。 そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った。』

神様はモーセをエジプトに送り出すに際し、彼の命を狙っていた人々は皆死んだと告げてモーセを安心させました。そしてモーセは神様が共におられるしるしとして、神様がこれをもって奇跡を行うと約束された杖を手に取り、エジプトに向かって旅立ちました。

私たちの信じる神様は、御心を行うために私たちを無理矢理従わせたり、無責任に危険な中に放り投げるような無謀なお方ではなく、私たちの目の前にある障害を取り除き、安心して神様に従うことができるようにしてくださる配慮と憐れみに満ちたお方です。私たちが信仰をもって一歩踏み出すとき、道が開かれることを決して忘れないでください。

http://bible.com/81/exo.4.19-20.ja1955

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出エジプト記 4:26
『そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。』

神様の御言葉に従ってエジプトに向かったモーセを、神様が殺そうとされたとは信じられないことです。しかしこの原因はモーセの側の態度にありました。彼はエジプトに向かう理由を「家族と再会するため」と偽り、またイスラエル人のアイデンティティーであった割礼を子どもたちに施さずに、異教の国エジプトに向かったことにありました。そこでミデアンの祭司の娘であったモーセの妻チッポラが彼を助け、子どもたちに割礼を施して、神様の使命に生きることを再認識させたのでした。

私たちも神様のご命令に従うとき、世間体を気にしたり、表面上を取り繕ったりして心を偽ってはなりません。神様の使命を果たすために必要なことは、私たちの覚悟を神様と人々の前に明らかに表明することです。神様を立派に証することのできる人生を送るならば、神様は必ず私たちと共にいてくださり、大いなる御業をもって私たちの人生を豊かに祝福してくださると確信して、信仰生活を歩む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.4.26.ja1955

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出エジプト記 4:28-31
「モーセは自分をつかわされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた。そこでモーセとアロンは行ってイスラエルの人々の長老たちをみな集めた。そしてアロンは主がモーセに語られた言葉を、ことごとく告げた。また彼は民の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した。」

エジプトに到着したモーセはアロンと再会し、共にイスラエル人の長老たちの元に赴いて、神様が語られた約束の御言葉と奇跡をもってイスラエル人たちに神様の御心を告げました。するとイスラエル人たちはモーセの言葉を信じ、また自分たちの苦しみを顧みてくださった神様を礼拝しました。ミデヤンの地でモーセが抱いていた恐れは、すべて杞憂だったのです。

私たちはともすると何でも悪い方に考えてしまい、恐れることがあります。しかし私たちの抱く不安は多くの場合、単なる自分の思い込みであり、杞憂に過ぎないことがわかります。私たちクリスチャンの取るべき態度は、神様の約束を疑わずに信じることです。確信は恐れを取り除く最も効果的な薬です。聖書の御言葉に記された神様の約束を信じ、まだ見ぬ将来に漠然とした不安を抱くことなく、神様から託された使命に生き、希望と確信をもって神様が約束された祝福の人生を大胆に歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.4.28-31.ja1955
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【今日の聖句】 2016/04/24

2016-04-24 06:40:43 | 今日の聖句
エペソ人への手紙 3:10-11
「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。」

神様の御心と絶大な知恵は、森羅万象と歴史の中に隠されていましたが、教会を通して私たちに啓示されます。御子イエスの十字架の奥義により明らかにされた神様の愛と憐れみが豊かに注がれ、永遠のいのちに生きる喜びに満たされて、私たちの身に起こるすべてのことを感謝して受け止める者でありたいと願います。

http://bible.com/81/eph.3.10-11.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/04/23

2016-04-23 08:31:12 | 一日一章・聖書通読日記
出エジプト記 3:1-2
「モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。 ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。」

故郷を離れ、ミデヤンの地で隠遁生活を送っていたモーセの前に、神様は突然現れます。羊飼いをしていたモーセを神の山ホレブに導かれ、いつまでも燃え尽きない炎をもってモーセの前に身を現されました。

自分の力に寄り頼んで物事を無理矢理進めようとするとき、私たちは燃え尽きてしまいます。しかし神様は燃え尽きない炎のように、永遠に尽きることのないエネルギー源のように私たちに生きる力を与えてくださるお方です。己の力の限界を感じるとき、神様の御許に立ち返りましょう。そして永遠に尽きることのない神様の力に寄り頼み、目の前に立ち塞がる困難をも乗り越える力を与えていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.3.1-2.ja1955

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出エジプト記 3:3-6
『モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。』

柴の中に燃え尽きることのない炎を見たモーセは、不思議なもの見たさに近寄ろうとします。そのとき神様はモーセの名を呼び、聖なる神様に迂闊に近寄らないように戒められました。

私たちも神様の領域に土足で踏み込んではなりません。神様に近付こうとする思いは良いことですが、罪に汚れた身に過ぎない私たちが聖なる神様に無造作に触れるようなことは断じて赦されません。神様に近付くときには、大いなる畏れの心をもって近付くべきです。あたかも動物園のパンダを見に行くかのように高見の見物のような気持ちで神様に近付くことなく、最大級の畏敬の念と、身をきよめる厳粛な心をもって神様に近付く私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.3.3-6.ja1955

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出エジプト記 3:7-8
『主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。』

神様は、エジプト人に奴隷として扱われていたイスラエル人たちの心の叫びを聞き届けられました。そして神様自ら地に下ってイスラエル人たちを苦しみの中から救い出すとモーセに告げられました。

神様はいつでも私たちの苦しみを知っておられ、最も必要なときに助けの御手を差し伸べてくださるお方です。私たちが苦しみに遭うとき、神様に対する絶対的な信頼を見失わないことが大切です。この世の試練は、神様の助けを実体験するチャンスです。私たちの祈りを必ず聞いてくださる神様に助けを求め、今も生きて働かれる主の御手の業を見させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/exo.3.7-8.ja1955

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出エジプト記 3:10-12
『さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。 モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」。 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。』

神様はイスラエル人をエジプト人の手から救い出すためにモーセを選び、指導者としてパロの元に遣わされました。しかしパロの手を逃れて長年隠遁生活を送ってきたモーセは、まだ過去の失敗から立ち直っておらず、自分はいったい何者でしょうと卑屈な心に縛られていました。そんなモーセに対し、神様は必ずモーセと共にいると約束され、モーセにエジプトに戻るように促します。

私たちはともすると自分を過小評価してしまいがちです。特に過去の失敗がある時にはなおさらです。しかし神様はそんな私たちの心を鼓舞し、私が共にいるから大丈夫だと約束され、私たちの背中を押して送り出してくださるお方です。私たちもいつまでも過去にとらわれることなく、いつも共にいてくださり、未来を切り開いてくださる神様に信頼して、勇気をもって立ち上がる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/exo.3.10-12.ja1955
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