出エジプト記 10:1-2
『そこで、主はモーセに言われた、「パロのもとに行きなさい。わたしは彼の心とその家来たちの心をかたくなにした。これは、わたしがこれらのしるしを、彼らの中に行うためである。 また、わたしがエジプトびとをあしらったこと、また彼らの中にわたしが行ったしるしを、あなたがたが、子や孫の耳に語り伝えるためである。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るであろう」。』
神様はモーセとアロンを何度もエジプト王パロの元に遣わして奇跡を行いましたが、その度にパロは心を頑なにし、神様の御言葉に聞き従うことを拒み続けました。しかし神様はこれらの結末をすべてご存じで、むしろ神の民イスラエル人たちが子々孫々に至るまでこれらの救いの御業を語り継ぎ、神様こそが私たちの主であることを徹底的に認識させるためであると言われました。
聖書に記された神様の御言葉と歴史上の事実は、後の時代に生きる私たちが神様を信じるようになるため、神様こそが天地万物と歴史のすべてを統べ治められる主権者であられることを確信するために私たちの手元に届けられた神様からの愛のメッセージです。この素晴らしき福音を私たちだけのものに止めることなく、私たちの周りにいるすべての人々に、そして私たちの次の世代へと語り継ぐ責任を果たす者でありたいと願います。
http://bible.com/81/exo.10.1-2.ja1955
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出エジプト記 10:7
『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』
パロの心の頑なさに、ついに家臣たちまでがついてゆけなくなり、エジプトを滅ぼさないためにもイスラエル人に神様を礼拝させるようにと進言します。パロの命令には絶対服従しなければならない家来たちが、パロの言葉よりも神様の言葉を信じるようになったとは何とも皮肉なことです。
私たちは人の言葉と、神様の御言葉と、どちらを信じたらよいのでしょう。たとえ奇跡が起こらなくても、神様の御言葉を信じる者はさいわいです。人の命令と、神様のご命令が相反するとき、どちらに従うべきでしょうか。たとえ一時的には自分が損することとなっても、神様のご命令に従う者は後の日には何倍もの祝福を受けます。私たちには真理を見る心の目が開かれています。目の前の現実を越えた神様の御心の世界に目を注ぎ、御言葉を確信して忠実に従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.7.ja1955
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出エジプト記 10:12, 15
『主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。
…
いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』
神様はパロへの裁きとしてエジプト全土にイナゴの大群を送り、先の雹の災いでわずかに残った作物を全滅させました。数世代前のエジプト王朝では飢饉からエジプトを救われた神様が、心の頑ななパロの故にエジプトを破滅に追い込む結果となったことは、何を意味しているのでしょうか。
それは指導者たる者の取るべき心構えです。指導者の罪は、その権威の及ぶ範囲全体に影響を及ぼします。これを教会のみならず国や会社に置き換えてみれば、現代に生きる私たちにとっても極めて身近な問題です。私たちは指導者が正しい心を持つようにと祈らなければなりません。そうしないと私たち自身も破滅に追い込まれてしまいます。私たちの属する国や地域、会社などの組織の指導者が、神様を畏れ、正しい心で職務に当たるようにと祈り続けるキリスト者でありますように。
http://bible.com/81/exo.10.12,15.ja1955
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出エジプト記 10:16-17
『そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。 それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。』
自国に深刻な被害が及んだの見て初めてパロは自分の過ちに気付きます。しかしパロの悔い改めは心の底からのものではなく、目前の課題だけ何とか乗り越えればよいという、その場しのぎの表面的な反省、あるいは単なる後悔に過ぎませんでした。
一時の反省や後悔は誰でもします。本当に大切なことは失敗から学び、根本的に悔い改めることです。私たちには罪を完全に解決してくださるイエス様がいらっしゃいます感謝します。過去の過ちも、ここのに根深く残る罪の根さえもイエス様の十字架と共に完全に滅ぼしていただけるよう、心から悔い改めて祈り求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.16-17.ja1955
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出エジプト記 10:22-23
「モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。 三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」
砂漠地帯では大きな砂嵐が起こると太陽さえも見えなくなると言います。手で触れるほどの暗闇の災いとは、強大な砂嵐であったのではないかという説もあります。いずれにせよエジプト全土が3日間にもわたって暗闇に包まれたのに対し、イスラエル人の住むゴセンの地には光がありました。
これはキリストの死と蘇りを予表しているようにも思えます。世の人々にとっては暗闇でも、まことの神様を信じ畏れる者には希望の光が与えられます。私たちクリスチャンはその光を持っています。深い暗闇のような罪の世にあっても、福音の光に照らされて、希望に満ちた信仰生活を送る私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.22-23.ja1955
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出エジプト記 10:28-29
『それでパロはモーセに言った、「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は二度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」。 モーセは言った、「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう」。』
9つの災いを経て、ついにパロは災いの元凶となった(とパロが考えた)モーセと決裂します。パロは自らモーセに最後通告を与えたように思っていたかもしれませんが、実のところはパロが神様から決定的に見放された瞬間でした。
私たち人間は、心を頑なにして自分の考えに凝り固まると、自らの置かれた状況を冷静に判断することができなくなり、ついには自滅の道を開いてしまいます。このときのパロがまさにそうでした。聖書を通して歴史を知る私たちは、先人たちの失敗から正しく学び、二の轍を踏まぬようにしなければなりません。頑なな心を直ちに悔い改め、神様の権威の下にへりくだって御言葉に聞き従い、永遠のいのちへと続く義の道を歩む私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.28-29.ja1955
『そこで、主はモーセに言われた、「パロのもとに行きなさい。わたしは彼の心とその家来たちの心をかたくなにした。これは、わたしがこれらのしるしを、彼らの中に行うためである。 また、わたしがエジプトびとをあしらったこと、また彼らの中にわたしが行ったしるしを、あなたがたが、子や孫の耳に語り伝えるためである。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るであろう」。』
神様はモーセとアロンを何度もエジプト王パロの元に遣わして奇跡を行いましたが、その度にパロは心を頑なにし、神様の御言葉に聞き従うことを拒み続けました。しかし神様はこれらの結末をすべてご存じで、むしろ神の民イスラエル人たちが子々孫々に至るまでこれらの救いの御業を語り継ぎ、神様こそが私たちの主であることを徹底的に認識させるためであると言われました。
聖書に記された神様の御言葉と歴史上の事実は、後の時代に生きる私たちが神様を信じるようになるため、神様こそが天地万物と歴史のすべてを統べ治められる主権者であられることを確信するために私たちの手元に届けられた神様からの愛のメッセージです。この素晴らしき福音を私たちだけのものに止めることなく、私たちの周りにいるすべての人々に、そして私たちの次の世代へと語り継ぐ責任を果たす者でありたいと願います。
http://bible.com/81/exo.10.1-2.ja1955
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出エジプト記 10:7
『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』
パロの心の頑なさに、ついに家臣たちまでがついてゆけなくなり、エジプトを滅ぼさないためにもイスラエル人に神様を礼拝させるようにと進言します。パロの命令には絶対服従しなければならない家来たちが、パロの言葉よりも神様の言葉を信じるようになったとは何とも皮肉なことです。
私たちは人の言葉と、神様の御言葉と、どちらを信じたらよいのでしょう。たとえ奇跡が起こらなくても、神様の御言葉を信じる者はさいわいです。人の命令と、神様のご命令が相反するとき、どちらに従うべきでしょうか。たとえ一時的には自分が損することとなっても、神様のご命令に従う者は後の日には何倍もの祝福を受けます。私たちには真理を見る心の目が開かれています。目の前の現実を越えた神様の御心の世界に目を注ぎ、御言葉を確信して忠実に従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.7.ja1955
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出エジプト記 10:12, 15
『主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。
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いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』
神様はパロへの裁きとしてエジプト全土にイナゴの大群を送り、先の雹の災いでわずかに残った作物を全滅させました。数世代前のエジプト王朝では飢饉からエジプトを救われた神様が、心の頑ななパロの故にエジプトを破滅に追い込む結果となったことは、何を意味しているのでしょうか。
それは指導者たる者の取るべき心構えです。指導者の罪は、その権威の及ぶ範囲全体に影響を及ぼします。これを教会のみならず国や会社に置き換えてみれば、現代に生きる私たちにとっても極めて身近な問題です。私たちは指導者が正しい心を持つようにと祈らなければなりません。そうしないと私たち自身も破滅に追い込まれてしまいます。私たちの属する国や地域、会社などの組織の指導者が、神様を畏れ、正しい心で職務に当たるようにと祈り続けるキリスト者でありますように。
http://bible.com/81/exo.10.12,15.ja1955
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出エジプト記 10:16-17
『そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。 それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。』
自国に深刻な被害が及んだの見て初めてパロは自分の過ちに気付きます。しかしパロの悔い改めは心の底からのものではなく、目前の課題だけ何とか乗り越えればよいという、その場しのぎの表面的な反省、あるいは単なる後悔に過ぎませんでした。
一時の反省や後悔は誰でもします。本当に大切なことは失敗から学び、根本的に悔い改めることです。私たちには罪を完全に解決してくださるイエス様がいらっしゃいます感謝します。過去の過ちも、ここのに根深く残る罪の根さえもイエス様の十字架と共に完全に滅ぼしていただけるよう、心から悔い改めて祈り求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.16-17.ja1955
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出エジプト記 10:22-23
「モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。 三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。」
砂漠地帯では大きな砂嵐が起こると太陽さえも見えなくなると言います。手で触れるほどの暗闇の災いとは、強大な砂嵐であったのではないかという説もあります。いずれにせよエジプト全土が3日間にもわたって暗闇に包まれたのに対し、イスラエル人の住むゴセンの地には光がありました。
これはキリストの死と蘇りを予表しているようにも思えます。世の人々にとっては暗闇でも、まことの神様を信じ畏れる者には希望の光が与えられます。私たちクリスチャンはその光を持っています。深い暗闇のような罪の世にあっても、福音の光に照らされて、希望に満ちた信仰生活を送る私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.22-23.ja1955
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出エジプト記 10:28-29
『それでパロはモーセに言った、「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は二度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」。 モーセは言った、「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう」。』
9つの災いを経て、ついにパロは災いの元凶となった(とパロが考えた)モーセと決裂します。パロは自らモーセに最後通告を与えたように思っていたかもしれませんが、実のところはパロが神様から決定的に見放された瞬間でした。
私たち人間は、心を頑なにして自分の考えに凝り固まると、自らの置かれた状況を冷静に判断することができなくなり、ついには自滅の道を開いてしまいます。このときのパロがまさにそうでした。聖書を通して歴史を知る私たちは、先人たちの失敗から正しく学び、二の轍を踏まぬようにしなければなりません。頑なな心を直ちに悔い改め、神様の権威の下にへりくだって御言葉に聞き従い、永遠のいのちへと続く義の道を歩む私たちでありますように。
http://bible.com/81/exo.10.28-29.ja1955