ヨブ記 20:1-3
『そこでナアマびとゾパルは答えて言った、 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、これがために心中しきりに騒ぎ立つ。 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。」』
ヨブから非難されたゾパルは心中穏やかではなくなり、再び口を開いて反論しました。しかし彼の主張は「わたしの悟りの霊」とあるように個人的な見解に過ぎず、ヨブが尋ね求めた神の摂理の解き明かしとはほど遠いものでした。
私たちはよく「常識」という言葉を使って人の言葉を否定することがあります。しかしこの「常識」という言葉こそ曲者で、単に自分の考えや、自分と同じ考えを持つ人々の間でしか通用しない理念を人に押しつけるだけものに過ぎません。
私たちの陥りやすい過ちは、自分の考えを神様の御心とすり替えて、自分の価値基準で、上から目線で人を裁く罪です。しかし私たちが土台とする価値基準は、世の始めから終わりまで一貫して変わることのない生ける神の御言葉、普遍的な価値基準である聖書に基づくものであるべきです。
http://bible.com/81/job.20.1-3.ja1955
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ヨブ記 20:4-8
「あなたはこの事を知らないのか、昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、神を信じない者の楽しみはただつかのまであることを。 たといその高さが天に達し、その頭が雲におよんでも、 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。」
ゾパルは様々な比喩や詩的表現を用いて言葉巧みに語りましたが、つまるところ神をも恐れぬ悪人は滅びるという、子どもでも知っているようなごく当たり前のことを言っただけに過ぎませんでした。聞く相手の状況や求めを顧みず一方的に自分の意見を語るゾパルの姿は、単なる自己陶酔に過ぎない、端から見ると実に哀れな姿です。私たちは自己満足のために生きているのではなく、神の栄光を現し、人の徳を高めるためにこの世に遣わされていることを自覚して行動せねばなりません。
http://bible.com/81/job.20.4-8.ja1955
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ヨブ記 20:23, 26-27, 29
「彼がその腹を満たそうとすれば、神はその激しい怒りを送って、それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。
…
もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。 天は彼の罪をあらわし、地は起って彼を攻めるであろう。
…
これが悪しき人の神から受ける分、神によって定められた嗣業である」。
ゾパルの語った言葉は決して間違いではありませんが、場違いであり、的外れでした。もし同じ言葉を神を恐れぬ悪人に対して語ったならば、罪に気付かせ悔い改めに導くことができたかもしれませんが、自分の知らないところで罪を犯したかもしれないと燔祭を捧げることを常としていたヨブにとっては全く意味のない言葉でした。これが自分の考えで行動を起こす人の限界です。
「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」マタイによる福音書 10:19-20
とあるように、 私たちの語るべき言葉は人の言葉ではなく、その都度主に御心を求め、主から授けられた言葉だけを語る者でありたいと願います。
http://bible.com/81/job.20.23,26-27,29.ja1955
『そこでナアマびとゾパルは答えて言った、 「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、これがために心中しきりに騒ぎ立つ。 わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。」』
ヨブから非難されたゾパルは心中穏やかではなくなり、再び口を開いて反論しました。しかし彼の主張は「わたしの悟りの霊」とあるように個人的な見解に過ぎず、ヨブが尋ね求めた神の摂理の解き明かしとはほど遠いものでした。
私たちはよく「常識」という言葉を使って人の言葉を否定することがあります。しかしこの「常識」という言葉こそ曲者で、単に自分の考えや、自分と同じ考えを持つ人々の間でしか通用しない理念を人に押しつけるだけものに過ぎません。
私たちの陥りやすい過ちは、自分の考えを神様の御心とすり替えて、自分の価値基準で、上から目線で人を裁く罪です。しかし私たちが土台とする価値基準は、世の始めから終わりまで一貫して変わることのない生ける神の御言葉、普遍的な価値基準である聖書に基づくものであるべきです。
http://bible.com/81/job.20.1-3.ja1955
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ヨブ記 20:4-8
「あなたはこの事を知らないのか、昔から地の上に人の置かれてよりこのかた、 悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、神を信じない者の楽しみはただつかのまであることを。 たといその高さが天に達し、その頭が雲におよんでも、 彼はおのれの糞のように、とこしえに滅び、彼を見た者は言うであろう、『彼はどこにおるか』と。 彼は夢のように飛び去って、再び見ることはない。彼は夜の幻のように追い払われるであろう。」
ゾパルは様々な比喩や詩的表現を用いて言葉巧みに語りましたが、つまるところ神をも恐れぬ悪人は滅びるという、子どもでも知っているようなごく当たり前のことを言っただけに過ぎませんでした。聞く相手の状況や求めを顧みず一方的に自分の意見を語るゾパルの姿は、単なる自己陶酔に過ぎない、端から見ると実に哀れな姿です。私たちは自己満足のために生きているのではなく、神の栄光を現し、人の徳を高めるためにこの世に遣わされていることを自覚して行動せねばなりません。
http://bible.com/81/job.20.4-8.ja1955
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ヨブ記 20:23, 26-27, 29
「彼がその腹を満たそうとすれば、神はその激しい怒りを送って、それを彼の上に降り注ぎ、彼の食物とされる。
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もろもろの暗黒が彼の宝物のためにたくわえられ、人が吹き起したものでない火が彼を焼きつくし、その天幕に残っている者を滅ぼすであろう。 天は彼の罪をあらわし、地は起って彼を攻めるであろう。
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これが悪しき人の神から受ける分、神によって定められた嗣業である」。
ゾパルの語った言葉は決して間違いではありませんが、場違いであり、的外れでした。もし同じ言葉を神を恐れぬ悪人に対して語ったならば、罪に気付かせ悔い改めに導くことができたかもしれませんが、自分の知らないところで罪を犯したかもしれないと燔祭を捧げることを常としていたヨブにとっては全く意味のない言葉でした。これが自分の考えで行動を起こす人の限界です。
「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」マタイによる福音書 10:19-20
とあるように、 私たちの語るべき言葉は人の言葉ではなく、その都度主に御心を求め、主から授けられた言葉だけを語る者でありたいと願います。
http://bible.com/81/job.20.23,26-27,29.ja1955