伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/02/28

2018-02-28 07:50:15 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 40:1-2
『あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。』

イザヤ書の構成は、39章までがイザヤが活動していた時代に対する預言、今日の通読箇所40章から66章までは未来の約束について記されています。これはちょうど旧約聖書39巻、新約聖書27巻、全66巻という構成と同じであることは興味深いことです。その新約部分の書き出しに相当する40章は、あたかもイエス様が登場する前の道備えに相応しい御言葉の数々で満ちています。「慰めよ、わが民を慰めよ」とは、主イエス様が神の民イスラエルとすべての人の罪を赦して救うためにこの世に来られた喜びの訪れを告げ知らせる預言の言葉です。

http://bible.com/81/isa.40.1-2.ja1955

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イザヤ書 40:3-5
『呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。 もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。』

この御言葉は、新約聖書ではバプテスマのヨハネの出現によって成就しました。彼は主イエス様が福音を宣べ伝えるのに先立ち、人々に己の罪を自覚させ、その心を神様に向ける道備えの役割を果たしました。まさにこの御言葉の通り、イエス様の出現を心から期待して待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.40.3-5.ja1955

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イザヤ書 40:6-8
『声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。』

人の一生は儚くも短く、一夜にして咲いてはしぼむ野の花のようです。だからこそ私たちは永遠に変わらないものを求めるのかもしれません。世のはじめから終わりまで存在し続ける神様こそ、永遠に変わらない人生の基準です。

http://bible.com/81/isa.40.6-8.ja1955

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イザヤ書 40:13-14, 17-18
「だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。 主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。

主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。 それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。」

私たちの人生の基準は何でしょうか。ともすると自分自身を基準として物事を判断し、異なる価値観を持つ人々と衝突しては互いに傷つけ合う、心に平安のない人生を送ってはいないでしょうか。それは被造物に過ぎない私たちが、造り主である神様に向かって自分の基準を教えること、すなわち自分を神とすることに他なりません。そういった主客転倒の関係をやめ、自分にとって都合の良いように人の手で造られた虚しい偶像に心を寄せることなく、この世の真理であられる主を唯一の基準として人生を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.40.13-14,17-18.ja1955

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イザヤ書 40:28-31
「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」

私たちの信じる聖書の神様は永遠の神、天地万物を創造された全知全能の神、まどろむことも眠ることもなく、いつでも私たちの叫び求める声を聞いてくださる主、私たちに生きる力と希望を与えてくださるお方です。まことの神に頼らず自分の力で人生を歩もうとする者は、あたかもバッテリー切れで動かなくなるような電子機器のようにいつしか力尽き、立ち上がることもできなくなるとき、究極的には死を迎えます。しかしまことの神に寄り頼む者は、電源ケーブルをつないだ状態の電子機器のように常にエネルギー源を保ちながら、永遠のいのちに向かって歩み続けることができます。

http://bible.com/81/isa.40.28-31.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/28

2018-02-28 06:35:11 | 今日の聖句
コリント人への第二の手紙 1:3-4
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」

私たちの信じる神様は、この世の悩み苦しみの中にいる私たちを慰め、励まし、生きる希望と力を与えてくださる、実に憐れみと慰めに富む神様です。この神様の愛と慰めを受けて、私たちもまた身近にいる人々に自分の受けた恵みと慰めを分かち合う、愛と慰めの連鎖を生み出す者でありたいと切に願います。

http://bible.com/81/2co.1.3-4.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/27

2018-02-27 07:35:14 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 39:1-2
「そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダク・バラダンは手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病気であったが、直ったことを聞いたからである。 ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。」

死に瀕する病から癒されたヒゼキヤは、バビロンの王が遣わした使者の快気祝いを手放しで喜ぶがあまりに、国の最高機密でもある宝物や財産、武器蔵、倉庫のすべてを、何一つ隠さず見せてしまいました。ソロモン時代のように圧倒的な勢力を誇っていた時代ならばまだしも、常に近隣諸国の脅威にさらされていた緊縛した時代に、国の資産や戦力を暴露してしまうとは、一国の王としてはあまりにも軽率で迂闊な振る舞いです。南ユダ王国の中興の名君と賞賛されるヒゼキヤ王の最大の欠点は、この有頂天になりやすく、喜怒哀楽の激しい心です。感情豊かであることはよいことですが、冷静さを欠く言動は、後に命取りとなりますから注意が必要です。

http://bible.com/81/isa.39.1-2.ja1955

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イザヤ書 39:3-4
『時に預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとに来て言った、「あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、すなわちバビロンから来たのです」。 イザヤは言った、「彼らは、あなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキヤは答えて言った、「彼らは、わたしの家にある物を皆見ました。倉庫のうちには、彼らに見せなかった物は一つもありません」。』

バビロンの使者に国の重要機密をすべて見せてしまったヒゼキヤ王のもとに預言者がやってきて、彼らは誰で、何を見たのかと問い詰めました。ヒゼキヤ王は、彼らは遠い国バビロンから来た使者で、彼らに見せなかったものは何一つありませんと答えましたが、その言葉には緊迫した様子は見当たりません。当時、まだバビロンは小さな新興国家で、ヒゼキヤ王の目には取るに足らない国としか見えなかったかもしれません。しかしそれは人の見る目で、神様の視点とは異なります。神様はこの時すでにバビロン捕囚までの歴史をイザヤに示していました。私たちは自分の判断ですべてを決めてしまわず、何事もまず神様にお伺いを立ててから行動に移す習慣を身に付けさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.39.3-4.ja1955

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イザヤ書 39:5-8
『そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。 見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう」。 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。』

バビロンの脅威に気付かないヒゼキヤ王に対し、預言者イザヤは、やがて起こるユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の預言を伝えました。しかしヒゼキヤ王の取った態度は、神様の警告の言葉を無視した、不敬虔な態度です。ここにヒゼキヤ王の信仰の弱さがあります。彼の関心は自分がこの世に生きている間だけのもので、あとは野となれ山となれといった、実に無責任極まりない、自己中心な心です。もしヒゼキヤが自分の犯した失敗を素直に認めて悔い改めていたならば、バビロン捕囚の憂き目には遭わず、現在に至るまでイスラエル民族が放浪の民となることはなかったでしょう。これが前の章で学んだ、ヒゼキヤ王が命乞いをしたために訪れることとなった過ちの結果です。この世の幸福と利益にしか関心のない心は、永遠のいのちを信じるクリスチャンには相応しくありません。

http://bible.com/81/isa.39.5-8.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/27

2018-02-27 06:35:15 | 今日の聖句
ヨハネの第一の手紙 3:18
「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」

口先だけで愛の言葉を語るのは簡単ですが、実の伴わない偽りの愛には何の価値もありません。身を挺して限りない愛を示されたキリストのように、心の底からわき上がる真実の愛、言行一致する愛をもって互いに愛し合う私たちでありますように。

http://bible.com/81/1jn.3.18.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/26

2018-02-26 07:50:04 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 38:1-3
『そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、 「ああ主よ、願わくは、わたしが真実と真心とをもって、み前に歩み、あなたの目にかなう事を行ったのを覚えてください」。そしてヒゼキヤはひどく泣いた。』

そのころ、とあるのは、この物語がイザヤ書では一つ前の章にあるエルサレムがアッスリヤから守られた記事のちょうど最中に起きた出来事です。神様は病の床に伏していたヒゼキヤ王に、あなたは死ぬと告げられました。ユダ王国がアッスリヤの脅威にさらされている最中に王が死ぬとは、実に混乱に拍車を掛ける出来事ですから、ヒゼキヤ王が泣いて命乞いをしたことは人間的にはもっともなことです。しかし神様の冷酷ともいえる宣告の理由は、ヒゼキヤ王が生きながらえた場合にどのような結末が待っているかということです。ヒゼキヤ王は確かに神様の御前に忠実に歩みました。しかしヒゼキヤがこの世のいのちに執着したあまりに、ユダ王国は滅亡への道を辿ることになってしまいました。私たちが神様の御前に取るべき態度は、主の御心のままになりますようにという服従の姿勢です。

http://bible.com/81/isa.38.1-3.ja1955

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イザヤ書 38:4-8
『その時主の言葉がイザヤに臨んで言った、 「行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。 わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。 主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。 見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。』

神様はヒゼキヤ王の涙の祈りを聞き入れて御心を思い直し、15年生きながらえること、そしてエルサレムを必ず守ることを約束されました。その約束が確かなものであることのしるしとして、父アハズの作った日時計の影を10度戻す、すなわち時間を逆戻しにすることさえ行われました。これは救いのしるしを求めよと言われた主に、私はしるしを求めません、すなわち神様には頼りませんと答えた父アハズとは対照的です。このヒゼキヤの信仰は実に素晴らしいものですが、しかしヒゼキヤ王が15年生きながらえたことによって、ユダ王国が滅ぼされる決定的な原因を作ってしまったのです。それについては次の章で学びますが、神様の御心を私たちの意志で変えるような大それたことは、行わないに越したことはありません。

http://bible.com/81/isa.38.4-8.ja1955

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イザヤ書 38:9-10, 15-16
「次の言葉はユダの王ヒゼキヤが病気になって、その病気が直った後、書きしるしたものである。 わたしは言った、わたしはわが一生のまっ盛りに、去らなければならない。わたしは陰府の門に閉ざされて、わが残りの年を失わなければならない。

しかし、わたしは何を言うことができましょう。主はわたしに言われ、かつ、自らそれをなされたからである。わが魂の苦しみによって、わが眠りはことごとく逃げ去った。 主よ、これらの事によって人は生きる。わが霊の命もすべてこれらの事による。どうか、わたしをいやし、わたしを生かしてください。」

この祈りの中に、ヒゼキヤ王の、そして旧約時代の人々の死生観が表されています。それは人のいのちはこの世に生きる限りのもので、死んだらすべておしまいという、復活の希望がないことです。だからこそヒゼキヤ王は主に死を宣告されたときに、涙ながらに自分が忠実に主に従ってきたことを訴え、命乞いの祈りをしたのです。主イエス・キリストの十字架と復活を知る今の私たちには、永遠のいのちの約束がありますから感謝いたします。

http://bible.com/81/isa.38.9-10,15-16.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/26

2018-02-26 06:35:04 | 今日の聖句
ヨハネの黙示録 21:4
「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

この世に生きる限り、苦しみや悲しみ、悩み、恐れがあり、そして最大の課題である死を避けて通ることはできません。しかし神様から永遠のいのちをいただくとき、これら私たちを悩ませるすべての課題から完全に解放されますから感謝いたします。主の御言葉に聞き従い、天の御国に凱旋し、永遠に神と共に住まうさいわいに与る私たちでありますように。

http://bible.com/81/rev.21.4.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/25

2018-02-25 19:40:13 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 37:1-4
『ヒゼキヤ王はこれを聞いて、衣を裂き、荒布を身にまとって主の宮に入り、 宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて、アモツの子預言者イザヤのもとへつかわした。 彼らはイザヤに言った、「ヒゼキヤはこう言います、『きょうは悩みと責めと、はずかしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。 あなたの神、主は、あるいはラブシャケのもろもろの言葉を聞かれたかもしれません。彼はその主君アッスリヤの王につかわされて、生ける神をそしりました。あなたの神、主はその言葉を聞いて、あるいは責められるかもしれません。それゆえ、この残っている者のために祈をささげてください』」。』

アッスリヤ帝国の圧倒的な軍事力の前に為す術もなく主要都市を陥落させられ、いよいよ首都エルサレムに籠城する以外に生き延びる道がなくなったヒゼキヤ王は、アッスリヤの将軍ラブシャケの言葉を聞いて衣を裂き、荒布をまとって主の宮に上り、預言者イザヤに使者を遣わして、自分とユダ王国のために祈ってくださいと依頼しました。荒布を身にまとい「胎児が生まれようとして、生み出す力がない」と告白したヒゼキヤ王の姿は、自分の弱さを認め、主の御前に徹底的に遜った姿勢です。私たちも神様に祈るとき、ヒゼキヤのように己の弱さを認め、主の御前に遜った心を注ぎ出して祈ること、また共に祈ってくれる信仰の指導者や仲間たちと心を合わせて祈ることが、祈りの力を引き出す何よりの秘訣です。

http://bible.com/81/isa.37.1-4.ja1955

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イザヤ書 37:14-17
『ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、 主に祈って言った、 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。」』

神に信頼して籠城したヒゼキヤとユダの民に対して、大軍をもってエルサレムを包囲し、あらゆる国々の神々と戦って勝利してきたアッスリヤの軍事力に誰が対抗できるかと、挑戦状を叩きつけてきたセナケリブの手紙を受け取ったヒゼキヤ王は、主の宮に上り、その手紙を神様の御前に差し出して、主の栄光を汚す彼らの言葉の数々をお聞きくださいと祈りました。現代に生きる私たちも、神は死んだ、などと言ったこの世の哲学や無神論たちの影響を強く受けた人々から、神様に信頼する者は人生の敗北者であるかのような批判を受けることがあります。そのようなとき、私たちはそのまま彼らの言葉を神様の御前に差し出すとき、自ら反論することはなくとも主ご自身が報いてくださいますから、それら私たちの信仰をおとしめる言葉など聞き流して、ただ主に信頼する信仰をますます強く抱く者でありたいと願います。

http://bible.com/81/isa.37.14-17.ja1955

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イザヤ書 37:18-20
「主よ、まことにアッスリヤの王たちは、もろもろの民とその国々を滅ぼし、 またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の造ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。 今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」。

イスラエルの神、主を侮ったアッスリヤの王セナケリブの言葉に対し、彼らが滅ぼしたという他の国々の神々は人の手が造り出した偶像に過ぎなかったから滅ぼされたのであり、今ここで主が自ら立ち上がってアッスリヤの脅威からユダの国を救ってくださるならば、全世界でイスラエルの神、主こそまことの神であると信じるに至るでしょうと、神様の御前に大胆に祈り求めました。信仰が試されるとき、信仰の言葉をもって主の力を引き出すような大胆な祈りを捧げることは、神様の御心に適っています。

http://bible.com/81/isa.37.18-20.ja1955

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イザヤ書 37:21-23
『その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、あなたはアッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ、 主が彼について語られた言葉はこうである、『処女であるシオンの娘はあなたを侮り、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。 あなたはだれをそしり、だれをののしったのか。あなたはだれにむかって声をあげ、目を高くあげたのか。イスラエルの聖者にむかってだ。」』

ヒゼキヤ王の祈りを聞かれた神様は、預言者イザヤを遣わして、セナケリブは誰に向かってこれらの高慢な言葉を吐いたのかと、彼の驕り高ぶった心を責めました。天地を統べ治められる神様に向かって汚しごとを吐く者に主は怒りを発し、裁かずにはおられません。

http://bible.com/81/isa.37.21-23.ja1955

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イザヤ書 37:26, 29
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して今それをきたらせたのだ。

あなたが、わたしにむかって怒り叫んだことと、あなたの高慢な言葉とがわたしの耳にはいったゆえ、わたしは、あなたの鼻に輪をつけ、あなたの口にくつわをはめて、あなたを、もと来た道へ引きもどす』。

アッスリヤの王セナケリブは、自分の力と圧倒的な軍事力で近隣諸国に勝利し、自分に逆らう国々を滅ぼしてきたと考えていましたが、それは根本的な思い違いで、すべては神様のご計画の内にあったのだと主は告げられました。天地万物を創造されこの世の歴史を統べ治められる神様は、神様を信じる者であろうと信じない者であろうと、意のままに動かして御心を成し遂げられます。にもかかわらず背後にある神様の御手を認めようとせず、かえって主に向かって真っ向から全否定する言葉を手紙にしたためて、事もあろうに神の民イスラエルに送りつけたセナケリブは、なんと愚かなことをしたものでしょうか。神様は、ご自身を認めようとしない高慢な心を何よりも忌み嫌われ、授けた権威から地の底にまで引き落とされます。私たちは神様の御前にへりくだり、主の僕として仕える心を持つことが肝要です。

http://bible.com/81/isa.37.26,29.ja1955

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イザヤ書 37:31-35
「ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。 それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない。またここに矢を放たない。また盾をもって、その前にこない。また塁を築いて、これを攻めることはない。 彼は来た道から帰って、この町に、はいることはない、と主は言う。 わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのために町を守って、これを救おう』」。

ヒゼキヤ王の大胆な祈りを聞かれた神様は、ご自身の栄光を顕されるため、またダビデとの約束の故に、エルサレムの街をアッスリヤの軍勢から救い出すと答えられました。この神様の約束のキーワードは「万軍の主の熱心」です。真実なお方である神様は必ず約束を守り、ご自身の名誉に掛けて、神の民として選ばれたイスラエルを何があっても守り、いかなる窮地にあっても必ず救い出されるお方です。

http://bible.com/81/isa.37.31-35.ja1955

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イザヤ書 37:36-38
「主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。 アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰っていってニネベにいたが、 その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子らのアデラン・メレクとシャレゼルがつるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げていった。それで、その子エサルハドンが代って王となった。」

心に驕り高ぶり、主の御名を汚す暴言を吐いたアッスリヤの王セナケリブでしたが、エルサレムを包囲した18万5千人もの大軍が一夜にして主の御使に滅ぼされてしまった現実の前に命からがら自国へと背走せざるを得ず、挙げ句の果ては自分を守ってくれるはずの神ニスロクの神殿で、自分の子どもたちに殺害されて息絶えてしまう、実にあっけない最期を遂げました。自分の力や権威、財力に寄り頼んで心に驕り高ぶり、まことの神を侮る者は、セナケリブのように虚しい人生の結末を迎えることとなります。主を侮る者は、身の程知らずの愚か者です。

http://bible.com/81/isa.37.36-38.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/25

2018-02-25 07:00:04 | 今日の聖句
ヨハネの黙示録 3:20
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

イエス様はいつも私たちの心の戸の外に立ち、扉をノックしてくださっています。堅く心を閉ざすことなく、イエス様の御声を聞き分け、心の内に主をお迎えして、親しく食事を共にするさいわいを味わう私たちでありますように。

http://bible.com/81/rev.3.20.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/24

2018-02-24 19:00:11 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 36:1-3
「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッスリヤの王セナケリブが上ってきて、ユダのすべての堅固な町々を攻め取った。 アッスリヤの王はラキシからラブシャケをエルサレムにつかわし、大軍を率いてヒゼキヤ王のもとへ行かせた。ラブシャケは布さらしの野へ行く大路に沿う、上の池の水道のかたわらに立った。 この時ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナおよびアサフの子である史官ヨアが彼の所に出てきた。」

前章までの黙示録のような預言の言葉から一転、歴史書になりますが、これは神様の御言葉が絵空事ではなく、現実のものとなって必ず成就することを意味しているのではないでしょうか。列王記下を読むと、1節と2節の間には12年ほどの時間が経っていることがわかります。神様の御言葉は、今すぐにでも成就するものばかりではなく、長い歳月を経て、私たちを取り巻く環境の変化や、私たち自身が成長し変えられてゆく、そのような様々な過程を経て現実のものとなることに気付くと、私たちの毎日の営み一つ一つに意味があることが分かります。

http://bible.com/81/isa.36.1-3.ja1955

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イザヤ書 36:4-5, 7, 10
「ラブシャケは彼らに言った、「ヒゼキヤに言いなさい、『大王アッスリヤの王はこう仰せられる、あなたが頼みとする者は何か。 口先だけの言葉が戦争をする計略と力だと考えるのか。あなたは今だれを頼んで、わたしにそむいたのか。

しかし、あなたがもし「われわれはわれわれの神、主を頼む」とわたしに言うならば、ヒゼキヤがユダとエルサレムに告げて、「あなたがたはこの祭壇の前で礼拝しなければならない」と言って除いたのは、その神の高き所と祭壇ではなかったのか。

わたしがこの国を滅ぼすために上ってきたのは、主の許しなしでしたことであろうか。主はわたしに、この国へ攻め上って、これを滅ぼせと言われたのだ』」。

アッスリヤの軍勢の長として遣わされたラブシャケは18万5千の大軍を率いてエルサレムを包囲し、イスラエルの人々に向かって、おまえたちは何に寄り頼むのかと問いかけます。南ユダ王国はエジプトと同盟関係を結んでアッスリヤに対抗しようとしましたが、ラブシャケはそのような人の力に頼ることも無意味だと言い、更には自分はイスラエルが信じる神の許しを得てこの国を滅ぼすために来たのだとさえ言いました。世の人々は、神様に頼ることなど何の意味もないと言い、あるいは自分の考えを正当化するために神の名を騙ったりさえします。しかしまことの神の力を知る私たちは、そのような騙し言に欺かれてはなりません。

http://bible.com/81/isa.36.4-5,7,10.ja1955

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イザヤ書 36:18-21
『ヒゼキヤが、主はわれわれを救われる、と言って、あなたがたを惑わすことのないように気をつけよ。もろもろの国の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手から救ったか。 ハマテやアルパデの神々はどこにいるか。セパルワイムの神々はどこにいるか。彼らはサマリヤをわたしの手から救い出したか。 これらの国々のすべての神々のうちに、だれかその国をわたしの手から救い出した者があるか。主がどうしてエルサレムをわたしの手から救い出すことができよう』」。 しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。』

アッスリヤの将軍ラブシャケは、エルサレムの人々に向かい、ヒゼキヤ王が神様を信頼して救いを待ち望みなさいと言う言葉に惑わされてはならないと、アッスリヤの言葉ではなく、誰にでもわかるアラム語で、大声で呼ばわり叫びました。そして他の神々に頼った国の名を列挙して、それらの神々が信じる者を救うことも、アッスリヤに勝利することもできなかったではないかと言いました。

当時の戦争は、それぞれの国々が信じる神同士の戦争でもありましたから、アッスリヤの神が一番力ある神だという論法です。しかし他の国々がアッスリヤに敗北を喫したのは、その神々が偶像の神に過ぎなかったからです。私たちの信じる聖書の神こそまことの神、天地万物を創造され、歴史をも意のままに動かされるすべての上に立つ神様です。

この神様を心から信頼する者は、ラブシャケの言葉に心動かされることなく、信仰を堅く守り通すことができます。エルサレムの人々も、ヒゼキヤの宗教改革により神様に対する絶対的な信頼を守り通して、ラブシャケの言葉をただ黙って聞き過ごすことができました。私たちもまた当時のエルサレムの人々のように、神様を信じなくさせる世の惑わしに耳を傾けることなく、黙して耐え忍ぶ信仰を身に付けさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.36.18-21.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/24

2018-02-24 08:15:50 | 今日の聖句
ガラテヤ人への手紙 5:13
「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」

自由とは欲望の赴くままに生きることではなく、人に強いられることなく自分の意志に従って生きることです。その自由を与えてくださった神様のために生きることこそ、正しい自由の用い方ではないでしょうか。愛なる神様の御心に従い、自由な意志をもって率先して互いに愛し合い仕え合う私たちでありますように。

http://bible.com/81/gal.5.13.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/23

2018-02-23 07:50:02 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 35:1-2
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、 さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。」

神様が天地創造の御業を行ったとき、この世界をご覧になって「はなはだよかった」と評されました。その大地を、乾ききった大地と岩のほか何もない荒野のようにしてしまったのは、この世に忍び込んできた罪の故です。しかし主の再臨の日には、その荒野が一面に花咲くシャロンのように麗しい地へと変えられます。その背後にあるものは、主の栄光と神の麗しさです。その日、神様の御言葉の確かなるを見、この目に焼き付けさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.35.1-2.ja1955

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イザヤ書 35:3-4
『あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。 心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。』

神様の御言葉を信じる私たちに主は、約束してくださった救いと報いに希望を抱いて、弱った手を強くし、膝にしっかりと力を入れて、信仰に堅く立つことを求めておられます。かつて主が、モーセの意志を継いで約束の地に入らんとするヨシュアに「強く、かつ雄々しくあれ」と御言葉を掛けてくださったように、栄光の御国に入ろうとする私たちにも「強くあれ、恐れてはならない」と約束の御言葉を掛けてくださいっていることに感謝して、いかなる試練にも困難にも恐れることなく、信仰によって堅く立つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.35.3-4.ja1955

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イザヤ書 35:8-10
「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。 そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

この大路という単語は、他の聖書の箇所にはない単語が使われているそうです。それはこの大路が罪購われた者だけが通ることを許された聖なる道、永遠の御国へと続くいのちの道だからです。現代に生きる私たちは、道は安全なものと思いがちですが、聖書の時代には道の途中で強盗に遭ったり、野生の猛獣に襲われるかもしれない、常にいのちの危険と隣り合わせのものであったことと思います。だからこそ聖徒だけが歩むことのできるこの大路が格別なもので、実に素晴らしい恵みであると受け止めることが私たちに必要です。わたしは道であり、真理であり、いのちであると言われた主イエスの御言葉を思いつつ、喜びと感謝と讃美をもって、主の備えられた栄光の大路を歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.35.8-10.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/23

2018-02-23 06:35:33 | 今日の聖句
テモテヘの第一の手紙 4:8
「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」

健康維持などのために肉体のトレーニングを行うように、信仰のトレーニングは心の健康維持と永遠のいのちを得るために大いに有益です。身も心もシェイプアップして研ぎ澄まされた信仰の高みを極めさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/1ti.4.8.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/22

2018-02-22 07:48:00 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 34:1-3
「もろもろの国よ、近づいて聞け。もろもろの民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。 主はすべての国にむかって怒り、そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らをわたして、ほふらせられた。 彼らは殺されて投げすてられ、その死体の悪臭は立ちのぼり、山々はその血で溶けて流れる。」

今日の聖書通読で開かれたイザヤ書34章は、世の終わりの日に起こる最後の審判、罪に対する神様の裁きについて記された箇所です。ヨハネの黙示録と対比させて読むと、その奥深さをより味わい知ることができます。神様はすべての国々のすべての人々に対して「聞け」と、その御言葉の奥義に耳を傾けることを命じられています。私たちは実に聞くことに乏しい者です。特に自分にとって不都合な、耳に痛い言葉に対して、真摯に耳を傾けることを嫌い、真実に目を背けて、自分の思い通りに生きようとします。しかし、いつまでも御言葉の真理を無視し続けて罪を悔い改めない者は、最後の審判のときには、この御言葉のように無惨な永遠の滅びを味わうことになります。

http://bible.com/81/isa.34.1-3.ja1955

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イザヤ書 34:4-5, 8-10
「天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。 わたしのつるぎは天において憤りをもって酔った。見よ、これはエドムの上にくだり、わたしが滅びに定めた民の上にくだって、これをさばく。

主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えのために報いられる年をもたれるからである。 エドムのもろもろの川は変って樹脂となり、その土は変って硫黄となり、その地は変って燃える樹脂となって、 夜も昼も消えず、その煙は、とこしえに立ちのぼる。これは世々荒れすたれて、とこしえまでもそこを通る者はない。」

この箇所は、弟子たちがイエス様に世の終わりに起こるべきことについて訪ねたときのイエス様の答えや、ヨハネの黙示録に記されたこの世に対する罪の裁きの様子と非常に似ています。ここで罪人の代表としてエドムの名が記されていますが、エドムは元々イスラエル民族の父祖ヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルに対して敵対心が強く、バビロン帝国にエルサレムが滅ぼされたときには略奪を繰り返したとされています。そのように神の民イスラエルに対しても、第二の神の民であるクリスチャンに対しても、悪を行う者を、神様は罪人の代表として、徹底的な永遠の滅びに定められます。信仰の故に迫害に遭っても、私たちはこの神様の約束を信じて、自ら悪を行うことなく、神様の裁きに委ねることが肝要です。

http://bible.com/81/isa.34.4-5,8-10.ja1955

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イザヤ書 34:16-17
「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。 主は彼らのためにくじを引き、手ずから測りなわをもって、この地を分け与え、長く彼らに所有させ、世々ここに住まわせられる。」

聖書を通して、この世の終わりに起こるべき出来事を知らされている私たちに対する神様の奨めは、「主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。」との一言に凝縮されています。つまびらかにたずねるとは、詳細に調べる、奥深く読み解くことを意味します。私たちが聖書の御言葉を読むとき、表面的に字面を追うような通り一遍の読み方しかしていないとしたら、実にもったいないことであり、御言葉の真理に到達することはできません。世界には今なお聖書を自由に手にすることの許されていない国々があることを思うとき、私たちに聖書が与えられ、自由に読み、詳細に調べることができることは、実にさいわいなことです。この特権と自由を用いて、私たちはもっと聖書に親しみ、格別な愛情を以てこれを慕い求め、神様が私たちに与えようとしている恵みを100%受け止めることのできる者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.34.16-17.ja1955
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【今日の聖句】 2018/02/22

2018-02-22 06:40:31 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 8:39
「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」

私たちに対する神様の愛は、御子イエスの尊いいのちと引き替えにするほど強い絆で私たちと結びついています。キリストの十字架に示された大いなる愛を自ら手放すことなく、やがて永遠の御国に入るそのときまで神の愛の内に留まり続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/rom.8.39.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/02/21

2018-02-21 07:45:32 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 33:1
「わざわいなるかな、おのれ自ら滅ぼされないのに、人を滅ぼし、だれも欺かないのに人を欺く者よ。あなたが滅ぼすことをやめたとき、あなたは滅ぼされ、あなたが欺くことを終えたとき、あなたは欺かれる。」

この預言は近未来的にはアッシリヤ帝国を指していますが、同時に世の終わりのときに聖徒たちを迫害する人々をも指しています。私たちの周りには、理由なく人を攻撃したり、自分の欲望を満たすためだけに誰彼かまわず人を威圧し、略奪する人々がいます。そのような利己的・自己中心な人々に対して、主は「わざわいなるかな」と嫌悪感をあらわにし、その行く末は必ず滅びることを宣告されました。

http://bible.com/81/isa.33.1.ja1955

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イザヤ書 33:2, 5-6
「主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。

主は高くいらせられ、高い所に住まわれる。主はシオンに公平と正義とを満たされる。 また主は救と知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる。主を恐れることはその宝である。」

罪の支配するこの世において、義なる神様に聞き従う者は数々の迫害を受け、苦しみに遭うでしょう。そのような私たちの希望は、まことの神、義なる主を待ち望むことのできるさいわいです。

http://bible.com/81/isa.33.2,5-6.ja1955

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イザヤ書 33:10-12
『主は言われる、「今わたしは起きよう、いま立ちあがろう、いま自らを高くしよう。 あなたがたは、もみがらをはらみ、わらを産む。あなたがたの息は火となって、あなたがたを食いつくす。 もろもろの民は焼かれて石灰のようになり、いばらが切られて火に燃やされたようになる」。』

義なる主は善悪を振り分け、悪しき者を跡形もなく燃え尽くす火であられます。神様の徹底的な裁きに、耐えられる人は存在しません。

http://bible.com/81/isa.33.10-12.ja1955

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イザヤ書 33:13-14
『あなたがた遠くにいる者よ、わたしがおこなったことを聞け。あなたがた近くにいる者よ、わが大能を知れ。 シオンの罪びとは恐れに満たされ、おののきは神を恐れない者を捕えた。「われわれのうち、だれが焼きつくす火の中におることができよう。われわれのうち、だれがとこしえの燃える火の中におることができよう」。』

「あなたがた遠くにいる者よ、あなたがた近くにいる者よ」と呼びかけられていますが、この遠近感は地理的な距離だけでなく、時間軸・歴史的な距離、そして霊的・精神的な距離に当てはめて考えることができます。聖書の話は遠いイスラエルで起きた過去の出来事だ、あるいは遠い未来の世の終わりのことだ、今の私には関係がない、と考えている人こそ、これらの警告の御言葉は今の自分に対して語られていると悟るべきです。

http://bible.com/81/isa.33.13-14.ja1955

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イザヤ書 33:15-16
「正しく歩む者、正直に語る者、しえたげて得た利をいやしめる者、手を振って、まいないを取らない者、耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者、 このような人は高い所に住み、堅い岩はそのとりでとなり、そのパンは与えられ、その水は絶えることがない。」

私たちの住むこの世は罪で満ちていますが、世の罪に染まることなく、神の義ときよさを堅く保って、主の御前に正しく人生を歩む者は、やがて栄光の御国に入れられ、永遠のいのちが約束されていますから感謝いたします。罪の世にありて罪に汚れず、ただ主の御言葉に聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.33.15-16.ja1955

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イザヤ書 33:20-21, 24
『定めの祭の町シオンを見よ。あなたの目は平和なすまい、移されることのない幕屋エルサレムを見る。その杭はとこしえに抜かれず、その綱は、ひとすじも断たれることはない。 主は威厳をもってかしこにいまし、われわれのために広い川と流れのある所となり、その中には、こぐ舟も入らず、大きな船も過ぎることはない。

そこに住む者のうちには、「わたしは病気だ」と言う者はなく、そこに住む民はその罪がゆるされる。』

この預言に語られているエルサレムは、ヨハネの黙示録にも描かれている永遠の御国の特徴と全く同じです。この栄光に満ちた御国が、神様の御言葉に最後まで忠実に聞き従う者に約束されていることは、私たちにとって何よりも素晴らしい希望です。

http://bible.com/81/isa.33.20-21,24.ja1955
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