レビ記 1:1-2
『主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。』
今日からレビ記について学びます。出エジプト記は罪からの救いについて、レビ記からは救われた人がどのように主と共に歩むべきかについて記されています。
神様に罪赦され救われた人がまず第一になすべきことは、罪の悔い改めと購いの犠牲を捧げることです。これは今日では礼拝にあたります。この箇所は、新改訳聖書では、あなた方が供え物を捧げるときには自分の家畜の中から、と訳されています。野生の動物ではないのは、狩猟によって得たものは神様の所有を自分のために奪ったことになるからです。購いの供え物は、自分が手塩にかけて育て、また貴重な財産である家畜の中から捧げるのです。
これは私たちの礼拝に対する基本姿勢です。自分の所有の中から痛みをもって、しかし惜しむ心からではなく自ら進んで神様の御前に差し出すものが真の捧げ物です。人の物を奪って捧げたからとて、神様が喜ばれるはずがありません。捧げものは私たちの心です。私たちが自らの手で苦労して得た生活の糧の中から捧げる姿勢が、神様の喜ばれるまことの礼拝であると肝に銘じて信仰生活を歩ませていただきたいと願います。
http://bible.com/81/lev.1.1-2.ja1955
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レビ記 1:3-4
「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。 彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」
まずは牛の燔祭についてです。牛は最も高価な家畜です。その中でも傷のない全き雄牛をすべて火で焼き尽くして、その香りを神様に捧げます。そのとき捧げる人は牛の頭に手を置きます。これは牛と一体化し、自分の罪をすべて燔祭の雄牛に転嫁して、自分の身代わりに跡形もなく火で焼き尽くすのです。これが購いの意味です。また購いの犠牲が主に受け入れられるように、とあります。身勝手で一方的な捧げ物は主に受け入れられません。
私たちが主の御前に罪の悔い改めをするとき、どんな犠牲をもいとわず、全き心で、すべてを主の御前に注ぎ出して、火で焼き尽くすほどに徹底して罪を悔い改めることが必要です。そのとき主はその祈りに応えて、私たちの罪を完全に消し去り、購ってくださいます。
http://bible.com/81/lev.1.3-4.ja1955
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レビ記 1:5
「彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。」
犠牲を捧げるとき、雄牛に手をかけるのは祭司ではなく、捧げる本人です。購いの犠牲として、罪のない全き雄牛のいのちを自らの手で奪う痛みを感じることが、罪の悔い改めには必要です。これは罪を決して他人事として処理するのではなく、自分のこととして、当事者として、心から罪を悔い改めるべきことを意味します。
また聖書の中で血はいのちの象徴です。罪の悔い改めと赦しは命懸けで行うものです。燔祭の牛の血と同様、主イエス様が十字架で流された血潮が私たちの罪を赦します。この尊い犠牲の上に私たちは罪赦され、永遠のいのちを得させていただいたことを心から感謝して受け止める者でありたいと願います。
http://bible.com/81/lev.1.5.ja1955
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レビ記 1:10, 13
「もしその燔祭の供え物が群れの羊または、やぎであるならば、雄の全きものをささげなければならない。
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その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。」
次いでレビ記では燔祭のいけにえとして羊を捧げる場合について記しています。羊は愛情を注いで育てた家畜であり、また牛ほど高価ではありませんが立派な財産です。この羊を燔祭として主に捧げるときの手続きは、牛の燔祭のときと全く同じです。神様への捧げものは、高価であるかどうかに依らず、その捧げ方、捧げる者の主に対する信仰の姿勢に依ることを意味しています。私たちの捧げ物も同じく、心から喜んで、また罪の痛みを感じつつ、主の御前に捧げる者でありたいと願います。
http://bible.com/81/lev.1.10,13.ja1955
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レビ記 1:14
「もし主にささげる供え物が、鳥の燔祭であるならば、山ばと、または家ばとのひなを、その供え物としてささげなければならない。」
牛も羊も捧げることのできない貧しい人たちに対しても、主は購いの犠牲を捧げる手段を定められました。これはすべての人に対する配慮であると同時に、人は皆、罪の悔い改めが必要であることを意味しています。捧げものの価に依らず、また罪の痛みを感じつつ、主に受け入れられる捧げものを心から喜んで捧げる私たちでありますように。
http://bible.com/81/lev.1.14.ja1955