士師記 2:1-3
「主の使がギルガルからボキムに上って言った、「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。 あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。 それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。」
神様はイスラエルに完全な祝福と平安を与えるために、罪を平然と行うカナンの先住民をすべて滅ぼし尽くすようにと命じましたが、イスラエルの人々はいつまでも嗣業の地を取りに行かず、また中途半端に先住民たちと和合して神様のご命令に従わなかったため、ついに神様の怒りを引き起こし、これらの土着の神々がイスラエルの祝福を奪う罠となると宣告されてしまいました。
怠慢と不徹底は、神様に従いきれない罪です。直ちに、徹底的に、最後まで気を緩めずに、神様の御言葉に従い通す者だけが、神様の祝福を受けることができます。ただ神様を信じていると口先で言うだけで具体的な行動を伴わない者は、神様の祝福を受ける資格はありません。イスラエルの不従順の結果を反面教師として、怠惰な者となることなく御言葉を行う者となり、まことの祝福と平安を手にする私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.2.1-3.ja1955
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士師記 2:7, 10-12
「民はヨシュアの在世中も、またヨシュアのあとに生き残った長老たち、すなわち主がかつてイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見た人々の在世中も主に仕えた。
…
そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。 イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、 かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」
神様の大いなる御業を自分の目で見たヨシュアとその時代の人々は神様に忠実に仕えましたが、彼らが死ぬと、自分の目で主の御業を見ず体験しなかった後の世代の人々は神様に仕えなくなり、むしろ身近にある異教の神々に仕えるようになりました。それゆえ神様はイスラエルに対して怒りを引き起こし、祝福を切り取り始められました。
信仰の継承は、いつの時代も大きな課題です。聖書の御言葉を読み先人たちの証を聞いても心に感じず、神様を信じることができない者は、イスラエルの人々のように今ある祝福を奪い取られてしまいます。そのような憂き目に遭わないためには、信仰を正しく受け継ぎ、聖書に記された神様の御業を、他人事ではなく自分のものとして体験することが必要です。御言葉を読んでも、礼拝メッセージを聞いても何も感じない鈍感な心になることなく、聖霊様の働きかけと主の細き御声を敏感にキャッチする生きた信仰を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.2.7,10-12.ja1955
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士師記 2:13-15
「すなわち彼らは主を捨てて、バアルとアシタロテに仕えたので、 主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手にわたして、かすめ奪わせ、かつ周囲のもろもろの敵の手に売られたので、彼らは再びその敵に立ち向かうことができなかった。 彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災をした。これは主がかつて言われ、また主が彼らに誓われたとおりで、彼らはひどく悩んだ。」
自分たちをエジプトの奴隷から救い出し約束の国を得させてくださった神様に従わなくなっただけでなく、偶像の神々に仕えるようになったイスラエルの人々は主の怒りを引き起こし、周囲の国々から攻められても太刀打ちできず、どんどん所有地を奪われて行きました。
まことの神様に従わず、身近にある御利益宗教や流行りの処世術に走る者は、この世の力に対抗できるわけもなく、主の祝福さえも取り去られます。主を捨てた者は主に捨てられ、この世の攻撃に晒されて何もかも奪われてしまうことを肝に銘じ、このような屈辱を味わうことのないよう、ただ神様にのみ仕える私たちでありすまように。
http://bible.com/81/jdg.2.13-15.ja1955
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士師記 2:16-17
「その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。 しかし彼らはそのさばきづかさにも従わず、かえってほかの神々を慕ってそれと姦淫を行い、それにひざまずき、先祖たちが主の命令に従って歩んだ道を、いちはやく離れ去って、そのようには行わなかった。」
http://bible.com/81/jdg.2.16-17.ja1955
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士師記 2:18-19
「主が彼らのためにさばきづかさを起されたとき、そのさばきづかさの在世中、主はさばきづかさと共におられて、彼らを敵の手から救い出された。これは彼らが自分をしえたげ悩ました者のゆえに、うめき悲しんだので、主が彼らをあわれまれたからである。 しかしさばきづかさが死ぬと、彼らはそむいて、先祖たちにまさって悪を行い、ほかの神々に従ってそれに仕え、それにひざまずいてそのおこないをやめず、かたくなな道を離れなかった。」
自ら主を捨てたイスラエルではありましたが、憐れみ深い主は愛するイスラエルの民が苦しめられる状況を見るに見かねて、さばきづかさと呼ばれる士師を起こして、主に立ち帰らせようとしました。彼らはさばきづかさが世を治める間は主に立ち帰りましたが、彼らが死ぬと再び主を捨て、偶像の神々に仕えて再び主の怒りを引き起こし、懲らしめを受けて苦難に遭うことの連続でした。この繰り返しが士師記の時代のイスラエルの歴史です。
神様を捨て罪を犯したら懲らしめを受けるのは当然のことです。にもかかわらず心の頑なで目先の利益を追い求める私たちは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の諺の如く、ちょっと平安が訪れるとすぐに気を緩め、神様に従いきることのできない愚かな者です。私たちはこれらの聖書の記録から、まことの信仰者のあり方、まことの祝福に満ちた人生を正しく学ぶ必要があります。
http://bible.com/81/jdg.2.18-19.ja1955
「主の使がギルガルからボキムに上って言った、「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。 あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。 それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。」
神様はイスラエルに完全な祝福と平安を与えるために、罪を平然と行うカナンの先住民をすべて滅ぼし尽くすようにと命じましたが、イスラエルの人々はいつまでも嗣業の地を取りに行かず、また中途半端に先住民たちと和合して神様のご命令に従わなかったため、ついに神様の怒りを引き起こし、これらの土着の神々がイスラエルの祝福を奪う罠となると宣告されてしまいました。
怠慢と不徹底は、神様に従いきれない罪です。直ちに、徹底的に、最後まで気を緩めずに、神様の御言葉に従い通す者だけが、神様の祝福を受けることができます。ただ神様を信じていると口先で言うだけで具体的な行動を伴わない者は、神様の祝福を受ける資格はありません。イスラエルの不従順の結果を反面教師として、怠惰な者となることなく御言葉を行う者となり、まことの祝福と平安を手にする私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.2.1-3.ja1955
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士師記 2:7, 10-12
「民はヨシュアの在世中も、またヨシュアのあとに生き残った長老たち、すなわち主がかつてイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見た人々の在世中も主に仕えた。
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そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。 イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、 かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」
神様の大いなる御業を自分の目で見たヨシュアとその時代の人々は神様に忠実に仕えましたが、彼らが死ぬと、自分の目で主の御業を見ず体験しなかった後の世代の人々は神様に仕えなくなり、むしろ身近にある異教の神々に仕えるようになりました。それゆえ神様はイスラエルに対して怒りを引き起こし、祝福を切り取り始められました。
信仰の継承は、いつの時代も大きな課題です。聖書の御言葉を読み先人たちの証を聞いても心に感じず、神様を信じることができない者は、イスラエルの人々のように今ある祝福を奪い取られてしまいます。そのような憂き目に遭わないためには、信仰を正しく受け継ぎ、聖書に記された神様の御業を、他人事ではなく自分のものとして体験することが必要です。御言葉を読んでも、礼拝メッセージを聞いても何も感じない鈍感な心になることなく、聖霊様の働きかけと主の細き御声を敏感にキャッチする生きた信仰を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.2.7,10-12.ja1955
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士師記 2:13-15
「すなわち彼らは主を捨てて、バアルとアシタロテに仕えたので、 主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手にわたして、かすめ奪わせ、かつ周囲のもろもろの敵の手に売られたので、彼らは再びその敵に立ち向かうことができなかった。 彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災をした。これは主がかつて言われ、また主が彼らに誓われたとおりで、彼らはひどく悩んだ。」
自分たちをエジプトの奴隷から救い出し約束の国を得させてくださった神様に従わなくなっただけでなく、偶像の神々に仕えるようになったイスラエルの人々は主の怒りを引き起こし、周囲の国々から攻められても太刀打ちできず、どんどん所有地を奪われて行きました。
まことの神様に従わず、身近にある御利益宗教や流行りの処世術に走る者は、この世の力に対抗できるわけもなく、主の祝福さえも取り去られます。主を捨てた者は主に捨てられ、この世の攻撃に晒されて何もかも奪われてしまうことを肝に銘じ、このような屈辱を味わうことのないよう、ただ神様にのみ仕える私たちでありすまように。
http://bible.com/81/jdg.2.13-15.ja1955
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士師記 2:16-17
「その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。 しかし彼らはそのさばきづかさにも従わず、かえってほかの神々を慕ってそれと姦淫を行い、それにひざまずき、先祖たちが主の命令に従って歩んだ道を、いちはやく離れ去って、そのようには行わなかった。」
http://bible.com/81/jdg.2.16-17.ja1955
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士師記 2:18-19
「主が彼らのためにさばきづかさを起されたとき、そのさばきづかさの在世中、主はさばきづかさと共におられて、彼らを敵の手から救い出された。これは彼らが自分をしえたげ悩ました者のゆえに、うめき悲しんだので、主が彼らをあわれまれたからである。 しかしさばきづかさが死ぬと、彼らはそむいて、先祖たちにまさって悪を行い、ほかの神々に従ってそれに仕え、それにひざまずいてそのおこないをやめず、かたくなな道を離れなかった。」
自ら主を捨てたイスラエルではありましたが、憐れみ深い主は愛するイスラエルの民が苦しめられる状況を見るに見かねて、さばきづかさと呼ばれる士師を起こして、主に立ち帰らせようとしました。彼らはさばきづかさが世を治める間は主に立ち帰りましたが、彼らが死ぬと再び主を捨て、偶像の神々に仕えて再び主の怒りを引き起こし、懲らしめを受けて苦難に遭うことの連続でした。この繰り返しが士師記の時代のイスラエルの歴史です。
神様を捨て罪を犯したら懲らしめを受けるのは当然のことです。にもかかわらず心の頑なで目先の利益を追い求める私たちは「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の諺の如く、ちょっと平安が訪れるとすぐに気を緩め、神様に従いきることのできない愚かな者です。私たちはこれらの聖書の記録から、まことの信仰者のあり方、まことの祝福に満ちた人生を正しく学ぶ必要があります。
http://bible.com/81/jdg.2.18-19.ja1955