伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【今日の聖句】 2015/07/31

2015-07-31 07:05:34 | 今日の聖句
ペテロの第二の手紙 3:9
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

もし主の再臨が直ちに来ていたならば、私たちはこの救いの恵みから漏れてしまっていたことでしょう。自分だけ救われればそれで良いという思いではなく、自分と同じように一人でも救われる人が起こされるようにと祈りつつ再臨の日を待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/81/2pe.3.9.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/30

2015-07-30 07:30:13 | 今日の聖句
詩篇 119:1-3
「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。主のもろもろのあかしを守り心をつくして主を尋ね求め、また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。」

全き人とは非の打ち所のない完璧な人のことではなく、神様の御前に裏表のない人のことです。欠けだらけの土の器に過ぎない者ですが、誠心誠意主を求め、御言葉を守り、御心に従うことを何よりの喜びとして、神様から全き者と呼ばれるさいわいに与る私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.119.1-3.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御言葉の恵みを言い表せない悔しさ

2015-07-29 07:51:24 | 今日の聖句
今日の聖句のように、福音の根幹が凝縮された素晴らしい御言葉は、あまりにも多くのことを教えられ、また恵みが満ちあふれていて、一言ではとても言い表すことができません。

自分の文章表現力のなさとボキャブラリーの貧弱さを情けなく思いつつ、御言葉の配信を送信した後でも、あんなことも書きたかった、もうちょっといい表現がなかったか、などと、あれこれ考えてしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/29

2015-07-29 07:35:06 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 1:17
『神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。』

神の義とは道徳的な正しさではなく、神様のなさることはすべて正しいと信じる信仰そのものです。たとえ今の自分には理解できなくても、天地万物を治められる神様のなさることに間違いはないと確信し、英知の限りを尽くしても到達し得ないまことの救いと永遠のいのちに至る道を見出す私たちでありますように。

http://bible.com/81/rom.1.17.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/28

2015-07-28 07:04:03 | 今日の聖句
詩篇 33:4-5
「主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。」

たといこの世は不義と偽りで満ちているように見えても、主は真実で正しいお方であることは永遠に変わりません。私たちの目が神様から離れてしまうと、負の面しか見えなくなってしまいます。信仰をもって神様を見上げ、世に秘められた主の恵みと慈しみを再発見して心から御名をあがめる私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.33.4-5.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様の奥義の素晴らしさ

2015-07-27 08:02:25 | クリスチャン
もし神様の救いが頭で理解するものであれば、一部の知識人や哲学者だけのものにしかならなかったでしょう。もし神様の救いが努力して獲得するものであれば、厳しい訓練に耐えられる強靱な肉体と強い精神を持った人しか得られなかったでしょう。

しかし神様の救いは、ただ信仰に拠ります。そしてその信仰も、人の知性や努力で得られるものではなく、ただ神様の一方的な憐れみにより誰にでも授けられる賜物です。私たち人間がなすべきことは悔い改めて神様に立ち返り、御言葉の絶対的な権威の前に遜って跪くことです。

かといって神様の救いは誰もが思いつくような簡単なものではなく、また考えれば理解できるようなものでもなく、信仰のない者には閉ざされ、御霊の導きに従う者だけに開かれる神様の壮大なご計画であり、学べば学ぶほど奥深く、知れば知るほど喜びに満ちあふれるものです。

この救いの奥義に思いを馳せるとき、いかに神様は憐れみ深く公平なお方であるか、すべての人に対して開かれ、救いの御手が等しく差し伸べられていることかと、精緻かつ壮大な救いのご計画の素晴らしさをつくづく思い知らされます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/27

2015-07-27 07:20:02 | 今日の聖句
コリント人への第一の手紙 2:9
『しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。』

神様の救いのご計画は、人の知恵や経験では到底考えられないほど奥深く、御霊の導きがなければ理解することもできません。人がどんなに努力しても、どれほど哲学を学んでも到達できない救いの奥義を信仰によって見出し、イエス様の十字架に現された神様の一方的な愛を感謝して受ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/1co.2.9.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/26

2015-07-26 07:45:08 | 今日の聖句
コリント人への第一の手紙 10:13
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」

試練に合うとき、自分ほど不幸な目に遭う者はいないと思い込むのは自分中心に物事を見る癖から抜け切れていないからです。信仰の目で神様を見上げ、試練の目的に気付くとき、必ず突破口が開かれます。試練を乗り越えた者だけが到達できる恵みの高嶺を目指して、忍耐をもって歩み続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/1co.10.13.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/25

2015-07-25 06:50:36 | 今日の聖句
詩篇 139:23-24
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」

自分の良い面や正しさだけでなく、心の内にある醜さや人に知られたくない一面をもすべて主の御前に明け渡すとき、神様との正しい関係を回復することができます。いかなる罪も傷も癒される主の御前に心砕けた者となり、まことの救いときよめに至る私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.139.23-24.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/24

2015-07-24 07:20:05 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 5:16
「だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」

教会はお互いの欠けや弱さを祈りによって覆い合う愛の共同体です。自分の中に他人には見せたくない醜さがあることを素直に認め、虚勢を張ることなく、祈りの力を信じて、お互いの弱さを認め合い支え合う、恵みの交わりの場となりますように。

http://bible.com/81/jas.5.16.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/23

2015-07-23 06:55:33 | 今日の聖句
マタイによる福音書 6:1
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」

どんなに立派な行いも、動機が不純であれば無に等しい行為です。人の注目や賞賛を受けるためにではなく、神様から誉められることすら目的とせず、純然たる愛と喜びの心で神の義を守り行う私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.6.1.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

闘うことが正義?

2015-07-22 07:46:49 | クリスチャン
最近気になることの一つに、漫画やゲーム、テレビ番組にバトルものが多くを占めていることです。しかも戦国時代など特殊な状況に置かれた場面ではなく、日常生活に近いところで闘いを繰り広げるストーリーが多くなっているように思います。

その主人公たちは言います。自分の大切な人を守るために戦う。愛のために戦う、正義のために立ち上がるのだと。本当にそうでしょうか? 敵と戦うことは果たして正義なのでしょうか?

敵、憎む、呪う、辱める。これらはすべて対立関係の中から出てきます。対立すると言うことは、相手から見たら自分たちも同じ敵対関係にある者の一人なのです。敵の側から見れば自分も憎き敵なのだという事実に気付くならば、戦って勝利した結果、どうなるでしょうか。自分が勝つと相手は負ける。相手はまた戦いを仕掛けてくる。こうして戦いの連鎖がいつまでも続くのです。この果てしない戦いの連鎖が、果たして正義なのでしょうか。戦いは一時的な自己満足の正義であって、何も解決しないのです。

イエス様の正義は敵をも愛することです。決して戦うことではありません。愛はすべてを完全に結ぶ帯だとも言われます。考え方や立場の違う者同士が互いに理解し合い、協力し合うために必要なものが愛です。そして敵を愛し迫害する者のために祈る姿は、すべてイエス様の十字架での出来事とぴったり重なります。イエス様はまさに正義のお手本を示されたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/22

2015-07-22 07:10:34 | 今日の聖句
ルカによる福音書 6:27-28
「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。」

人間的な考えではやられたらやり返すのが普通ですが、敵と戦うことは果たして正義なのでしょうか? このイエス様の御言葉は、私たちに人間的な愛の限界を突きつけます。すべての人に等しく恵みを賜う神様の愛を受けて、敵対関係にある者のために祝福を祈ることから始めさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.6.27-28.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2015/07/21

2015-07-21 07:10:20 | 今日の聖句
ヨハネの第一の手紙 4:18
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」

完全な愛とは口切りいっぱいまで神様の愛で満たされて、疑いも恐れも一切入る余地のない状態になることです。もしサタンに「お前は本当にクリスチャンか?」と責められても、「はい、私は神様に愛されている者です」と疑いもせず自信を持って答えられるよう、完全な愛で満たしていただきたいと願います。

http://bible.com/81/1jn.4.18.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雄々しくあれ、強くあれ。

2015-07-20 15:33:32 | クリスチャン
「雄々しくあれ、強くあれ。」という聖歌があります。このあとの歌詞が「少年たちよ」と続くことから、教会学校でもよく歌われる聖歌です。この聖歌は明らかに今日の聖書の箇所であるヨシュア記1章をモチーフにしていますが、この御言葉を語られたヨシュアは少年ではなく、モーセに代わってイスラエルを導くリーダーとなっていました。ですからこの聖歌は決して子どもたち向けの賛美ではなく、大人を含む全てのクリスチャンに向けられた神様からのメッセージが込められています。

神様がヨシュアに語りかけた言葉は「強く、また雄々しくあれ。」です。しかも「わたしはあなたに命じたではないか」と、単なるお奨めの言葉ではなく「命令」の言葉です。クリスチャンは強く、また勇敢であるべきです。なぜでしょうか? それは神様の御心をこの世界に成し遂げるために選ばれた存在だからです。その進む道は険しく、いくつもの障害が立ちはだかるでしょう。それらを乗り越えるために、全知全能の神様が共にいるのだからと約束してくださっているのが今日の聖書の箇所です。

私が最近感じている危惧は、クリスチャンは守られるべき存在だという風潮があることです。もちろんそれは真実です。しかし、神様の庇護の中にある存在として、余りにも受け身の体勢になりすぎてはいないでしょうか? 神様はたしかに私たちを守って下さいます。ですが、神様は決して私たちを甘やかすために守るとおっしゃっているのではありません。神様の守りは、私たちが現実逃避するためでもなく、神様の御手の中でぬくぬくと安穏な日々を過ごすためにあるのでもなく、この世の誘惑や罪に勝利して神様の祝福を勝ち取るためにあるのです。

私はクリスチャンの皆さんにぜひ言いたい!「強く、また雄々しくあれ」と。世の中は厳しいです。特に異教の国、日本の社会でクリスチャンとして生きて行くのはそう簡単なことではありません。だからといって、神様の守りという殻の中に閉じこもらないでください。現実に立ち向かうために、強く、雄々しくありましょう。頼みの綱は自分ではありません。全知全能の神様が共にいてくださるという約束を心の底から信じる信仰です。この御言葉を堅く信じる者に、神様は必ず目の前の現実を乗り越えさせてくださり、まだ見ぬ約束の地、本当の祝福の中に導き入れてくださいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする