コリント人への第二の手紙 6:1-2 口語訳
わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
いたずらに受けるとは、無駄にしてしまうということです。絶大なる神の恵みを無駄にしてしまうならば、最初から受ける資格などありません。聖なる神から遠くかけ離れた汚れた罪人に過ぎない私たち人間が、神の恵みを受けられるとは、実に有り得ないことなのだという自覚が足りないから、神の恵みを無駄にしても平気でいられるのです。受ける価値なき私たちに注がれている神の恵みを、心こら感謝して有り難く受け止める私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.1-2.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:3-10 口語訳
この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
パウロは、神の恵みを述べ伝えるに相応しい存在となることができるように、いかなることにも人につまずきの機会となることのないように細心の注意を払い、あらゆる苦難と試練を耐え忍び、人から非難されても酷評されても、偉大なる神の僕に恥じない態度をもって人々と接してきたという自負がありました。これら逆説的と思えるパウロの言動に倣い、生きるにも死ぬにも神の栄光を現す私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.3-10.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:11-13 口語訳
コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。 あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。 わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
パウロの勧めの言葉は誰に対しても広く開かれていますが、聞く私たちの心が狭まっているならば、殊に自分で自分の心を狭めているならば、それは私たちのものとはならず、みすみす見過ごして、頭の上を通り過ぎてしまいます。そんなコリント教会の人々に、パウロは心の門を大きく広げて受け入れるようにと勧めています。それは現代に生きる私たちにも宛てられた、パウロからの、神からの、実に恵みに満ちた招きです。この神からの愛のメッセージに応え、心をの戸口を大きく開いて御言葉を受け入れる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.11-13.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:14-18 口語訳
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
「わたしは彼らの間に住み、
かつ出入りをするであろう。
そして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、
「彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。
触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、
わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主が、こう言われる」。
クリスチャンは罪の支配するこの世とは分かたれた者、罪の汚れから分離され聖なる者とされた者です。空と大地がどこまで行ってもつながらないように、義と不義、光と闇、キリストとサタン、信仰と不信仰、神の宮と偶像の間には、一致するところはありません。だからこそ私たちは、自ら進んで再び罪に触れようとしてはならないのです。罪の世にあって罪に汚れず、自らをきよく保ち、聖なる神と一つとなって、生ける神の宮、神の子に相応しい者となる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.14-18.口語訳
わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
いたずらに受けるとは、無駄にしてしまうということです。絶大なる神の恵みを無駄にしてしまうならば、最初から受ける資格などありません。聖なる神から遠くかけ離れた汚れた罪人に過ぎない私たち人間が、神の恵みを受けられるとは、実に有り得ないことなのだという自覚が足りないから、神の恵みを無駄にしても平気でいられるのです。受ける価値なき私たちに注がれている神の恵みを、心こら感謝して有り難く受け止める私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.1-2.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:3-10 口語訳
この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
パウロは、神の恵みを述べ伝えるに相応しい存在となることができるように、いかなることにも人につまずきの機会となることのないように細心の注意を払い、あらゆる苦難と試練を耐え忍び、人から非難されても酷評されても、偉大なる神の僕に恥じない態度をもって人々と接してきたという自負がありました。これら逆説的と思えるパウロの言動に倣い、生きるにも死ぬにも神の栄光を現す私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.3-10.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:11-13 口語訳
コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。 あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。 わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
パウロの勧めの言葉は誰に対しても広く開かれていますが、聞く私たちの心が狭まっているならば、殊に自分で自分の心を狭めているならば、それは私たちのものとはならず、みすみす見過ごして、頭の上を通り過ぎてしまいます。そんなコリント教会の人々に、パウロは心の門を大きく広げて受け入れるようにと勧めています。それは現代に生きる私たちにも宛てられた、パウロからの、神からの、実に恵みに満ちた招きです。この神からの愛のメッセージに応え、心をの戸口を大きく開いて御言葉を受け入れる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.11-13.口語訳
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コリント人への第二の手紙 6:14-18 口語訳
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
「わたしは彼らの間に住み、
かつ出入りをするであろう。
そして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、
「彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。
触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、
わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主が、こう言われる」。
クリスチャンは罪の支配するこの世とは分かたれた者、罪の汚れから分離され聖なる者とされた者です。空と大地がどこまで行ってもつながらないように、義と不義、光と闇、キリストとサタン、信仰と不信仰、神の宮と偶像の間には、一致するところはありません。だからこそ私たちは、自ら進んで再び罪に触れようとしてはならないのです。罪の世にあって罪に汚れず、自らをきよく保ち、聖なる神と一つとなって、生ける神の宮、神の子に相応しい者となる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.14-18.口語訳