伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2019/02/28

2019-02-28 07:45:11 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 6:1-2 口語訳

わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
 救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

いたずらに受けるとは、無駄にしてしまうということです。絶大なる神の恵みを無駄にしてしまうならば、最初から受ける資格などありません。聖なる神から遠くかけ離れた汚れた罪人に過ぎない私たち人間が、神の恵みを受けられるとは、実に有り得ないことなのだという自覚が足りないから、神の恵みを無駄にしても平気でいられるのです。受ける価値なき私たちに注がれている神の恵みを、心こら感謝して有り難く受け止める私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.1-2.口語訳

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コリント人への第二の手紙 6:3-10 口語訳‬‬

この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

パウロは、神の恵みを述べ伝えるに相応しい存在となることができるように、いかなることにも人につまずきの機会となることのないように細心の注意を払い、あらゆる苦難と試練を耐え忍び、人から非難されても酷評されても、偉大なる神の僕に恥じない態度をもって人々と接してきたという自負がありました。これら逆説的と思えるパウロの言動に倣い、生きるにも死ぬにも神の栄光を現す私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.3-10.口語訳

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コリント人への第二の手紙 6:11-13 口語訳‬‬

コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。 あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。 わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。

パウロの勧めの言葉は誰に対しても広く開かれていますが、聞く私たちの心が狭まっているならば、殊に自分で自分の心を狭めているならば、それは私たちのものとはならず、みすみす見過ごして、頭の上を通り過ぎてしまいます。そんなコリント教会の人々に、パウロは心の門を大きく広げて受け入れるようにと勧めています。それは現代に生きる私たちにも宛てられた、パウロからの、神からの、実に恵みに満ちた招きです。この神からの愛のメッセージに応え、心をの戸口を大きく開いて御言葉を受け入れる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.11-13.口語訳

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コリント人への第二の手紙 6:14-18 口語訳‬‬

不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
「わたしは彼らの間に住み、
 かつ出入りをするであろう。
 そして、わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、
「彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 そして、汚れたものに触れてはならない。
 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 そしてわたしは、あなたがたの父となり、
 あなたがたは、
 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
 全能の主が、こう言われる」。

クリスチャンは罪の支配するこの世とは分かたれた者、罪の汚れから分離され聖なる者とされた者です。空と大地がどこまで行ってもつながらないように、義と不義、光と闇、キリストとサタン、信仰と不信仰、神の宮と偶像の間には、一致するところはありません。だからこそ私たちは、自ら進んで再び罪に触れようとしてはならないのです。罪の世にあって罪に汚れず、自らをきよく保ち、聖なる神と一つとなって、生ける神の宮、神の子に相応しい者となる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.6.14-18.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/28

2019-02-28 06:50:48 | 今日の聖句
ルカによる福音書 16:10 新共同訳

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。

クリスチャンに必要とされる特質の一つは、事の大小を問わず忠実であることです。地上での些末なことに忠実でない者は、どうして天の大いなる祝福にありつけるでしょうか。些細なことと思えることにも御言葉の教えに忠実に聞き従う者となり、人知では計り知れない大きな祝福、永遠のいのちを神より受ける私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/luk.16.10.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/27

2019-02-27 07:55:26 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 5:1-5 口語訳

わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

ここにたとえられている幕屋とは、私たちの体のことを意味しています。地上の幕屋とは生きている今の肉体を、天から賜るすみかとは、神と共に永遠に生きる栄光のからだを指しています。地上の肉体は様々な欲望に支配され、誘惑に負けて罪を犯してしまいやすいものです。そのことをパウロは、地上の幕屋の中で重荷を負って苦しみもだえていると記しています。しかし天のからだは神の栄光に包まれて、罪も咎もしみもない、きよい永遠のいのちを宿すものです。その天のからだをいただく保証として、神様は私たちに、地上にいながらその心にきよい御霊を宿してくださいますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.1-5.口語訳

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コリント人への第二の手紙 5:6-11 口語訳

だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。

地上の肉体は悪、しかし魂はきよく尊いものという考えにとらわれてしまうと、それはグノーシス主義という異端の教えに陥ってしまいますから、注意が必要です。その考え方が極端になると、地上の肉体は悪なのだから、どれほど罪を犯しても魂さえきよく保っていれば救われるという誤った教えに傾いてしまいます。そこでパウロは、この地上の肉体を宿していながらも、肉体を離れたとしても、ただ主に喜ばれる者となることが神の御心であると教えました。そして私たちはやがて神の御前に立たされ、その業に応じて報いを受けることを思い起こさせています。罪の支配するこの世において、悪の道に陥ることなく、罪の誘惑と戦いながら、心も体もきよく保つ私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.6-11.口語訳

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コリント人への第二の手紙 5:12-16 口語訳‬‬

わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。

パウロはまたも自己推薦のことを例に挙げましたが、もし私たちが自らを誇るために生きているとしたら、それは人と自分とを比較し、人よりも優位に立ちたいと思う心の現れであり、人を肉によって知ることに他なりません。キリストの愛が強く迫っていることを知る私たちのこの地上のいのちは、決して自分の栄光を求めるためのものではなく、私たちを罪から解放するために命を懸けて救い出してくださったキリストのために、ひいては神の栄光を現すために授かったものだということを、私たちは忘れてはなりません。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.12-16.口語訳

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コリント人への第二の手紙 5:17-21 口語訳‬‬

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られた者、との有名な御言葉は、キリストの十字架の購いを受けて新しく生まれ変わることを念頭に挙げながら、罪人である私たちを義なる神と和解させてくださったキリストの福音を自らの身を以て証しし、世に伝えるべきことをも説き勧める教えです。罪きよめられたこの体を、自らのためにではなくキリストの証人として、世の人々に神との和解を得させる福音の使者として、尊く用いさせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.17-21.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/27

2019-02-27 06:40:16 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 1:19 新共同訳

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

人はとかく自己主張をしたがり、他人の意見に聞く耳を持たないことが往々にしてありますが、キリスト者に相応しい言動の優先順位は、聞くに早く、語るに遅いことです。怒ること遅く、憐れみ深い神に倣う者となり、隣人を尊び、自らを制する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/jas.1.19.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/26

2019-02-26 07:45:04 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 4:1-5 口語訳

このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。 もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。

公式な推薦状を持っていないと非難されたパウロが福音の働きの実によって自ら推薦するのは、決して自己主張のためにではなく、キリストの僕としてイエスの十字架による福音、罪の購いと永遠の希望を宣べ伝えるために召された僕だとの自覚に基づくものでした。そしてパウロを非難する者たちは、キリストの栄光に輝く福音を覆い隠しているものであり、この世の神の策略に引っ掛かっていることにすら気付いていないのです。御言葉の真理を知る私たちは、彼らのように惑わされることなく、神の働きの尊さを見極める信仰の目を備えさせていただきたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.4.1-5.口語訳

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コリント人への第二の手紙 4:6-10 口語訳

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。

私たちの心を照らす神の栄光の知識は、何かをひけらかすために輝いているのではありません。だからこそ、キリストの十字架を伝える信仰の愚かさという土の器の中に隠されているのです。それは心から真理を探し求める者にしか見出すことのできない永遠の宝、人から出たものではない神由来の信仰の賜物です。見栄えのしないものの中に隠されている真理の宝の故に、私たちは艱難も、迫害も、行き詰まりも、絶望も乗り越えることができますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.4.6-10.口語訳

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コリント人への第二の手紙 4:11-14 口語訳‬‬

わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。 それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。

人は死んだらおしまいだと、多くの人が諦めて生きています。しかし死は人の罪の結果であり、罪さえ解決すれば永遠に生きることができます。それがイエスのいのちが私たちのものとなる福音の本質です。私たちはもはやキリストの十字架と共に罪の自分に死んだだけでなく、キリストの復活と共に永遠に生きる者とされているという自覚をもつことが重要です。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.4.11-14.口語訳

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コリント人への第二の手紙 4:15-18 口語訳‬‬

すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

自分の目で見て確かめられるものでなければ信じないという人が多くいます。しかし人の目に見えるものはいずれ失われてゆく、期間限定の存在に過ぎません。この世の形あるものはいつしか壊れ、失われ、存在そのものが完全に否定されます。しかし信仰、愛、信頼、友情など、目には見えないものは、この世から完全に消え失せることはありません。だからこそ私たちは、見えないものに目を注ぐ必要があるのです。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.4.15-18.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/26

2019-02-26 06:35:07 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 3:15 新共同訳

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。

私たちの心を支配しているものはどんな思いでしょうか?怒り、妬み、復讐心、悪意、欲望、そのようなこの世の欲望に心を許すならば、私たちは神のきよさに与ることはできません。むしろ愛と平安と御霊の結ぶ実で心を満たし、キリストの平和の御支配の中に自らの身も心も委ね、神の愛と一致を実現する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/col.3.15.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/25

2019-02-25 07:35:22 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 3:1-4 口語訳

わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。 わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。

当時シナゴーグと呼ばれるユダヤの会堂を渡り歩いて聖書の説き明かすしを語っていた巡回説教者は、エルサレムからの推薦状を持参して自分が正統な教えを語る資格があると証明していたようです。コリント教会に混乱をもたらした人々は、パウロはそのような紹介状を持っていないと批判し、その教えの正当性を疑わせようと仕向けました。しかしパウロは、福音の実を結んだあなた方コリント教会の人々こそ推薦状なのだと反論しました。芽を出したばかりの苗ではその植物の種類はわからなくとも、その実を見れば何かがはっきりとわかるように、私たちがいよい実を結ぶならば、その教えが神から来た正統なものであると証明できます。私たち自身が神からの推薦状、福音の確かな証明書となることができるよう、御言葉の教えを忠実に守り行い、きよい御霊の実を結ぶ者とならせていただきたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.1-4.口語訳

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コリント人への第二の手紙 3:5-8 口語訳

もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。

聖書が旧約・新約とあるのは、翻訳が古いか新しいかではなく、神と人との間で交わした約束が古い契約か新しい契約かという意味です。クリスチャンは旧約・新約共に、神が私たち人間に賜った契約であることを信じる者です。新しい契約が交わされると古い契約は上書きされるように、私たちキリスト者は旧約聖書という原契約の上に、新約聖書という新しい契約に更新された神との約束を信じているのです。殊に石の板に刻まれたモーセの十戒は、人に罪が何たるかを意識させ、罪を犯す者は死に定められることを教え諭しましたが、イエスの十字架という新しい契約は、神の御前に罪を告白して悔い改めた者は罪に死に、キリストの復活と共に新しい永遠のいのちをいただく約束を得たと確信する者です。それが文字は人を殺し、霊は人を生かすというキリスト教の本質的な教えであり、私たちはこの信仰告白の上に立っています。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.5-8.口語訳

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コリント人への第二の手紙 3:9-13 口語訳

もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。 そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。 もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。

消え去るべきものとは、モーセの十戒を守りきれずに希望もなく死んで行く者、永存すべきものとはキリストの十字架を信じて罪赦され永遠のいのちに与った者を指します。私たちクリスチャンはこの希望の上に立っています。暗闇の中で懐中電灯をつけてもライトが当たった場所しか明るくなりませんが、朝日が昇るとき地上全体が明るく照らされるように、旧約の灯は人を部分的にしか明るく照らすことができませんが、新約の光なるキリストの栄光は、すべての人を罪から救い永遠の輝きを放つ者となす眩いばかりの光ですから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.9-13.口語訳

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コリント人への第二の手紙 3:14-18 口語訳‬‬

実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

シナイ山の頂でモーセが十戒を授かった後、モーセの顔が神の栄光で光を放っていたため、人と面会するときには顔に覆いを当てていたという記事があります。聖なる神と直接顔を合わせると、私たちは光を放ち、罪の支配するこの世においては顔覆いを当てなければならなくなりますが、光の根元であられる栄光の神に向かうときには、私たちは顔覆いなしに主の栄光を見させていただき、光り輝く栄光の御体をいただいて永遠に生きる者とさせていただくこの特権に与らせていただいた恵みに心より感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.14-18.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/25

2019-02-25 06:35:12 | 今日の聖句
詩編 91:1-2 新共同訳

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
 わたしの神、依り頼む方」と。

大自然の驚異、また罪の力の前に、私たち人間は実に弱く頼りない存在ですが、万が一のときに身を寄せることのできる堅固な緊急避難先があるならばさいわいです。たとい闇の勢力が束となって襲い来るとも、万軍の主なる神の懐に抱かれ守っていただける平安に感謝する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/psa.91.1-2.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/24

2019-02-24 19:25:06 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 2:1-3 口語訳

そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。 もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。 このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。

様々な問題を抱えていたコリント教会のことが気が気でなかったパウロは、再び痛みを伴う教会の改革を自ら出向いて断行することを願ってはいませんでした。そこで第二の手紙を送り、自分たちで問題を解決してほしいと願いました。教会内に溜まった膿を出すことは決して喜ばしいものではなく、悲しい思いをすることがあります。しかし罪の根を断ち切ることができたならば、一時的には悲しい思いになっても、結果として喜びとなるでしょう。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.2.1-3.口語訳

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コリント人への第二の手紙 2:4-7 口語訳

わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。 しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。 その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。

第一の手紙の中で、コリント教会内には罪を平然と犯して悔い改めずにいる人々がいたことが記されていましたが、パウロはそのような人々を教会の交わりから追放しました。しかしこの処分はあくまでも教会を罪から守るためであり、その人を憎んでいたわけではありません。厳しい処分を受けて悔い改めたならば、その人を許し、慰めて、再び愛の交わりを回復するようにと勧めました。まことの愛とは、厳しい一面の背後に慰めに満ちた憐れみの心があります。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.2.4-7.口語訳

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コリント人への第二の手紙 2:8-11 口語訳

そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。 わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。 もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。 そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。

教会のゆるしは個人的なものではなく、キリストの御前でゆるす公的なものです。教会に授けられた権威をもってゆるすのですから、私はその場にいなかったからゆるさない、自分は同意していないからゆるさない、などということはありません。また、サタンが罪悪感に乗じてお前はまだゆるされていないなどと囁くときも、主の御名によってゆるされたのですから、私たちは恐れる必要はありません。主イエスが命懸けで、自らの血を流して罪を洗いきよめてゆるされたのだという自覚を抱いて、赦しを確信する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.2.8-11.口語訳

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コリント人への第二の手紙 2:12-17 口語訳‬‬

さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、 兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。 しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。 後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。

御子イエスの尊い血潮によって購われた私たちを通して、キリストの芳しい香りを放つ者とされているとは、なんと素晴らしい恵みでしょうか。この素晴らしい働きに相応しい者として、真心から福音の尊い御言葉を語り、また神から遣わされた者としての自覚をもって、永遠のいのちに至る道、神の奥義を知る知識を、ひけらかすのでもなく、安売りするのでもなく、真摯に語り伝える私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.2.12-17.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/24

2019-02-24 06:35:47 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 2:6 新共同訳‬‬

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。

イエスをキリスト、救い主として受け入れるということは、訳も分からず盲信することではなく、イエスの心をわが心とすることです。イエスの生き様に倣い、二人三脚のようにキリストに結ばれてこの世の日々を歩ませていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/col.2.6.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/23

2019-02-23 23:52:30 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 1:1-3 口語訳‬‬

神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。

今日からコリント人への第二の手紙を通読します。パウロ書簡は挨拶文から始まりますが、相手のために神の恵みと平安を祈り、父なる神をほめたたえて手紙を書き始めることは、対人関係の中に神が仲立ちくださり、円満で良好な関係を築く秘訣であるように思います。私たちの言動が一挙一動に至るまで神に喜ばれるものとなるように、何事も讃美と頌栄と祈りから始める者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.1-3.口語訳

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コリント人への第二の手紙 1:4-7 口語訳

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

この世に生きる限り、人は必ず試練や苦難に遭遇します。それらの苦しみはできれば避けて通りたい、受け入れたくはないと思うことばかりですが、すべての試練は神の慰めを受けるためにあると、パウロはコリント教会の人々に勧め、諭しました。この真理は、非常にスケールの大きな約束です。艱難は忍耐を生み出し、練達を生み出し、希望を生み出すとは、まさにこのことです。様々な試練を経験するとき、それは当座は喜ばしいものではありませんが、自分を成長させるために通過しなければならないステップとして受け止め、必ず神様は試練を乗り越えさせてくださると確信して、逃げることなく真正面から受け止める私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.4-7.口語訳

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コリント人への第二の手紙 1:8-11 口語訳‬‬

兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。 神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。 そして、あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、多くの人が感謝をささげるようになるためである。

パウロがアジアで遭遇した艱難とは、おそらく銀細工人デメテリオの訴えにより起きたエペソ市全体を巻き込んだ暴動のことではないかと思われます。その結果パウロはエペソにいることができなくなり、街を出て行く羽目になりました。艱難は慰めを受けるためにあると教えたパウロは、決して気休めのように語ったのではなく、自分自身、死を覚悟するほどの試練を数多く受け、その結果、神様から平安を賜ったからこそ語ることのできた、実に深い教えです。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.8-11.口語訳

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コリント人への第二の手紙 1:12-14 口語訳‬‬

さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。 わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。 すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。

パウロは何をするにも人間の知恵によってではなく、聖なる神の恵みと真実によって行動してきたことが自分の誇りであり、良心の証であると自負しました。そしてその誇りをコリント教会の人々に対しても抱いていることを理解するようにと勧めました。私たちもまたパウロに倣い、神の恵みと真実に生きることを誇りとする者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.12-14.口語訳

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コリント人への第二の手紙 1:15-20 口語訳‬‬

この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、 それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。 この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。 神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に、「否」というようなものではない。 なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。 なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。

パウロは以前、エペソからマケドニア地方を通ってコリントに向かう予定であると手紙に記しましたが、実際は船で直行し、コリント教会の問題を解決するための改革を断行しました。この行動を、パウロは勝手に予定を変える嘘つきだと非難する人々がいたようです。そのような人々に対してパウロは、何一つ不正はしていないと弁明をしました。常に神に栄光を帰する言動こそがパウロの真実だったのです。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.15-20.口語訳

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コリント人への第二の手紙 1:21-24 口語訳‬‬

あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。 わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。

人から非難されることの多かったパウロの確証は、常に真実なお方であられる神にありました。パウロが神様を証人として立てるほどの確信を得ていたのは、私たちの心に神が賜った聖霊によるものでした。私たちもまたパウロのように人の思いによらず神の恵みに従って行動し、御霊を心にしっかりと抱いているならば、どれほど人から非難を受けることがあっても、決して屈することのない確信を得手へ慰安のうちに日々を過ごすことができますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.1.21-24.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/23

2019-02-23 07:25:37 | 今日の聖句
使徒言行録 2:21 新共同訳

『主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

物事すべてには必ず終わりがあります。この世もまた然りです。やがて来たるべき世の終わりのとき、永遠の滅びに落とされることのないよう、私たちを罪から救い得る唯一の御名を呼び求め、再臨の日に備える私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/act.2.21.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/22

2019-02-22 07:50:13 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第一の手紙 16:1-4 口語訳

聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。 わたしが到着したら、あなたがたが選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、エルサレムに送り出すことにしよう。 もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになろう。

ユダヤの指導者たちから厳しく弾圧されていたエルサレムの教会は、常に貧困との戦いがありました。そこでパウロは、自ら開拓伝道したアジア・ヨーロッパ地方の異邦人教会に呼びかけて、エルサレム教会を経済的に支援するための献金を募ったことが、ガラテヤ人への手紙にも記されています。パウロはコリント教会にも呼びかけていて、毎週の礼拝毎に献金を募り蓄えるようにと勧めました。現代の教会においても、毎週の月定献金、集会献金の他に、愛の献金を募り、捧げています。BFPジャパン、ワールドビジョン、ハンガーゼロ(国際飢餓対策機構)などの様々なクリスチャンの支援団体を通じて、イスラエルをはじめとする世界中の様々な国々を支援しています。私たちは自分の教会や家庭のことだけでなく、広く世界に目を向けて、人的・経済的な支援をもって神の愛を実践することが求められています。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.16.1-4.口語訳

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コリント人への第一の手紙 16:5-9 口語訳

わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、 あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない。そうなれば、わたしがどこへ行くにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう。 わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。 しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、 また敵対する者も多いからである。

パウロはコリント人への手紙をエペソに滞在しているときに記しました。使徒行伝を見ればわかるように、エペソでは尋常ではない奇跡が行われて、神を信じる者が続々と起こされていました。そこでパウロはもうしばらくエペソに滞在した後、自らが宣教したマケドニア地方の諸教会を訪問してコリント教会に向かい、そこでしばらく滞在して教会の体制を整え、次の働きの準備を進めようとしていました。だからこそ、パウロが到着したときまでに、命じられていたことを守り行って備えるように勧めているのです。私たちもまた指導者が不在の間、怠惰を貪ってはなりません。なぜなら主の再臨はいつ来るのか、誰にもわからないからです。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.16.5-9.口語訳

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コリント人への第一の手紙 16:10-12 口語訳‬‬

もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。 だれも彼を軽んじてはいけない。そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っている。 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみた。しかし彼には、今行く意志は、全くない。適当な機会があれば、行くだろう。

先にパウロは、愛弟子のテモテをコリント教会に遣わして、パウロの教えを守り行うように指導することを手紙に記しました。テモテはまだ青年でしたが、彼を年が若いからといって疎かにしてはならないと戒め、むしろ彼の教えに聞き従い、不自由のなく活動できるように助けてほしいとお願いしています。またパウロは同労者であるアポロにもコリント教会に行くことを勧めましたが、今アポロにはその気がないと、彼を批判するのではなく、彼の働きを尊重しました。私たちは誰に対しても上から目線で接するのではなく、相手を尊重し、敬意をもって接することが肝要です。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.16.10-12.口語訳

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コリント人への第一の手紙 16:13-18 口語訳‬‬

目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。 いっさいのことを、愛をもって行いなさい。 兄弟たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた。 どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に労する人々とに、従ってほしい。 わたしは、ステパナとポルトナトとアカイコとがきてくれたのを喜んでいる。彼らはあなたがたの足りない所を満たし、 わたしの心とあなたがたの心とを、安らかにしてくれた。こうした人々は、重んじなければならない。

パウロはまた教職者、伝道者を紹介するだけでなく、教会内で主の業に励む信徒たちを賞賛して、彼らを重んじ、彼らに倣う者となるようにと勧めました。そして常に信仰の目を覚まし、勇敢に、愛をもってすべてのことを行うようにと説き勧めています。私たちの周りにも、主の働きに励む信仰の諸先輩、仲間たちがいます。彼らの素晴らしい、具体的な行動を見習い、自ら共に実践することを通して、神に喜ばれる者となる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.16.13-18.口語訳

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コリント人への第一の手紙 16:19-24 口語訳‬‬

アジヤの諸教会から、あなたがたによろしく。アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。 すべての兄弟たちから、よろしく。あなたがたも互に、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。 ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。 もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。

パウロ書簡は挨拶文で締めくくられますが、当時の手紙は書記役が口述筆記をすることが常でしたが、ここでパウロは自らの手で、最後の挨拶を記しました。パウロには「肉体のとげ」があり、それはおそらく目の病気ではなかったかとも言われていますから、自らの手で文字を書くことは相当の苦痛を伴うことだったことと思われます。そこまでして自ら挨拶を記そうとしたのは、パウロのコリント教会の人々に対する愛の深さの故です。すべてのことを愛をもって行いなさいと説き勧めたパウロ自ら、愛のしるしとして最後の挨拶文を記したのです。私たちもまた苦労をものともせず、愛に動機づけられた言動をもって、神の愛を広く世の人々に示す者でありたいと願います。

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【今日の聖句】 2019/02/22

2019-02-22 06:45:04 | 今日の聖句
ガラテヤの信徒への手紙 6:9 新共同訳‬‬

たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

「商いは飽きない」といわれますが、飽きずに続けることが商売を長続きさせる秘訣であるように、飽きることなく善行に励むならば、やがて平安の義の実を刈り取ることができるようになります。たゆむことなく善を行い、この世のものとは異なる神からの豊かな実りを収穫する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/gal.6.9.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/02/21

2019-02-21 07:50:16 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第一の手紙 15:1-11 口語訳

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。

様々な問題を抱えていたコリント教会には、キリストの復活はなかったとする異端の教えが入り込んでいました。そこでパウロは、イエスが確かに十字架で死んだこと、3日目によみがえって弟子たちの前に現れたこと、そしてイエスの弟子たちを迫害していた自分自身にも現れてくださったことを、順を追って証言しました。証言とは、その出来事が誤りなき事実であると、自らの体験を通して証明することです。ですからキリストの復活を証言する人々が今なお生存していると記されているのは、その人から直接確かめることができると言っているのです。キリストの復活を証言する人が生存していない現代に生きる私たちは、聖書の御言葉を通して、キリストの復活を信じています。見ないで信じる者はさいわいであると言われたイエスの御言葉の通り、私たちは誤りなき神の言葉である聖書の御言葉を通してキリストの復活を信じていますからさいわいです。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.15.1-11.口語訳

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コリント人への第一の手紙 15:12-22 口語訳‬‬

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

キリストの復活を否定する人々に対して、もしそうだとすれば、12弟子やパウロをはじめとするクリスチャンたちが宣べ伝えていた福音も虚しいものであるどころか、誤った事実を伝える偽証人、神に背く者になってしまうとパウロは言います。もし復活しなかった死者を信じているならば、私たちの信仰は何の意味もなく、罪の赦しさえもなく、すでに死んだ人々は復活さえも望み得ない虚しい人々になってしまいます。しかしいのちの源であられる神はキリストを死者の中からよみがえらせ、アダムの死と共に死ぬべき私たちを、キリストの新しいいのちに生きる者としてくださいましたから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.15.12-22.口語訳

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コリント人への第一の手紙 15:50-58 口語訳‬‬

兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

パウロは死者の復活について、神の奥義を私たちに告げ知らせます。奥義とは、神を信じない者にとっては愚にもつかない荒唐無稽なものですが、神を信じる者だけに明かされる極秘事項の真理です。私たちはこの世のいのち尽きた後、肉体は土に帰りますが、幽霊のように魂だけが浮遊するのではなく、神の国の新しい栄光の肉体をもってよみがえるのです。この朽ちず、汚れず、ほころぶこともない永遠の体をいただいて神と共に永遠に生きる希望を、キリストの復活を信じる者は得ているのですから感謝いたします。罪の結果としての死は、十字架の購いによる罪の赦しと共に、復活の主に与る永遠のいのちの勝利に飲み込まれてしまいました。だからこそ私たちはこの主イエスに希望を抱き、ますます主の業に励むことができるのです。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.15.50-58.口語訳
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