伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2016/10/31

2016-10-31 07:57:03 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 8:1-3
「サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。 長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。 しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。」

サムエルの息子たちは年老いた父に代わりイスラエルのさばきづかさに任命されましたが、父の教えに従わず、この世の富に目がくらんで不正を働きました。これが一代限りで世襲制とはならなかった士師の限界です。

信仰は個人的な神様との関係によるもので、いかに父が偉大な信仰者また指導者であったとしても、自分と神様との関係がしっかりと確立されなければ、人は正しい道を歩むことができません。生まれ育った恵まれた環境に甘えることなく、自分の意志で神様に従い仕える決断を行い、主に喜ばれる人生を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.8.1-3.ja1955

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サムエル記上 8:4-5
『この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。』

イスラエルの人々はサムエルの息子たちが裁きを曲げたことを不服とし、周囲の他の国々のようにイスラエルの王を立てるようにと求めました。しかしこれは筋違いの要求で、たとえサムエルの息子たちが父に倣い正しい裁きを行っていたとしても、イスラエルを治める王は神様に他なりません。イスラエルの民は口実を見つけては自分たちの思い通りの要求を繰り返すのみでした。私たちは彼らの過ちを見習ってはなりません。

http://bible.com/81/1sa.8.4-5.ja1955

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サムエル記上 8:6-9
『しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、 主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。 今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。』

自分の息子たちの不正を指摘されイスラエルの王が欲しいという民の要求を不服としたサムエルでしたが、主は民の声に聞き従うよう、サムエルに語りました。サムエルが不満に思った以上に、主こそイスラエルの民のわがままな要求をどれほど悲しんだでしょうか。それでも主は民の声を聞き、王のならわしを条件提示してそれでも王が欲しいというならば、神様に代わりイスラエルを治める王を立てることを許可されたのです。主の心の広さ、寛容さに感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.8.6-9.ja1955

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サムエル記上 8:10-11, 17-18
『サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、 言った、「あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。

また、あなたがたの羊の十分の一を取り、あなたがたは、その奴隷となるであろう。 そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。』

サムエルは主のご命令に聞き従い、この世の王のならわしをイスラエルの民に語り聞かせました。それは自分たちから搾取する王であり、民は王の奴隷となるということです。せっかくエジプトの奴隷から解放されたのに、再び王の奴隷になるのです。神様はイスラエルを愛し、豊かな祝福をもって恵まれるお方ですが、この世の王はそれと正反対です。神様を王としない生き方は、このような虚しい人生だということを決して忘れてはなりません。

http://bible.com/81/1sa.8.10-11,17-18.ja1955

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サムエル記上 8:19-22
『ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。 われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。 サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。』

サムエルからこの世の王のならわしを聞かされたイスラエルの民たちは、それでも王が欲しいと主張しました。彼らの要求は、目には見えない神様の守りと御支配に気付かず、目先の利益を追うものでしかありませんでした。しかし主は民の声を聞き、王を立てるようにとサムエルに命じました。神様は、私たちの誤った判断をも、最善に導いてくださいます。このような二重三重の恵みの中に生かされていることを心から感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.8.19-22.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/31

2016-10-31 06:55:09 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 8:12
『イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。』

どんな小さな光でも、闇は光に打ち勝つことができません。まして天の栄光に光輝く主イエス様と共に歩むならばなおさらです。罪の闇を切り裂く世の光として来られた主イエス様に従う人生を歩み、永遠に輝くいのちの光を放つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.8.12.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/30

2016-10-30 10:08:25 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 7:1-2
「キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。 その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。」

神の箱の中を見てしまったため主に撃たれたベテシメシの人々から神の箱を託されたキリアテ・ヤリムの人々は、アビナダブの子エレアザルを聖別して神の箱を守らせました。しかし神の箱が本来あるべき会見の幕屋にはない状態が20年も続き、イスラエルの人々は主を慕って嘆くようになりました。信仰もまた、本来あるべき姿に回復する必要があります。

http://bible.com/81/1sa.7.1-2.ja1955

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サムエル記上 7:3-4
『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。 そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』

イスラエルの人々が主を慕い求めるようになったとき、サムエルはイスラエルの中から偶像礼拝をすべて取り除き、ただ主のみに仕えるべきことを宣べ伝えました。真の信仰の回復には、心の中にある神様以外の自分を楽しませるもの、自己満足、利己主義などの偶像をすべて取り去って、ただ主のみに心を傾けなければなりません。

http://bible.com/81/1sa.7.3-4.ja1955

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サムエル記上 7:5-6
『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。 人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』

サムエルの呼び掛けに応じたイスラエルの人々は、ミヅパに集まって主の前に心を注ぎ出し、断食をして罪の悔い改めの祈りを捧げました。私たちもまた自分の罪を主の御前に告白し、恥も外聞も捨て心から悔い改めて祈りを捧げるならば、主は信仰を回復してくださいますから感謝いたします。

http://bible.com/81/1sa.7.5-6.ja1955

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サムエル記上 7:7-8
『イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。 そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。』

ペリシテ人たちは、イスラエルの人々がミヅパに集まっていることを聞いて、一気に攻め落とそうと戦いを仕掛けてきました。戦の準えなど何もしていなかったイスラエルの人々は、ペリシテ人を恐れましたが、サムエルに祈りをやめないでくださいと乞い願いました。まさかの不意打ちに遭って動揺しましたが、それはただ主のみに頼ることを知る最適な環境でした。真面目に神様を信じているのに突然、苦境に陥ることがありますが、それを主のみに寄り頼むチャンスと捉え、信仰によって試練を克服する私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.7.7-8.ja1955

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サムエル記上 7:9-11
「そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。 サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。 イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。」

絶体絶命のピンチの中で、サムエルは主の御前に燔祭を捧げ、イスラエルの人々の救いのために叫び求めました。そのとき神様はサムエルの祈りを聞かれ、激しい雷をもってイスラエルに迫るペリシテ人たちの軍勢を乱したため、ついにペリシテ人たちは敗走し、イスラエルは追撃しました。自分の力に頼らず、ただ主のみに寄り頼む者を主は必ず助けてくださり、勝利を得させてくださいます。

http://bible.com/81/1sa.7.9-11.ja1955

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サムエル記上 7:12-14
『その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。 こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。 ペリシテびとがイスラエルから取った町々は、エクロンからガテまで、イスラエルにかえり、イスラエルはその周囲の地をもペリシテびとの手から取りかえした。またイスラエルとアモリびととの間には平和があった。』

祈りによってペリシテ人に勝利したサムエルは、その場所を記念として石碑を建て、エベネゼル(助けの石)と名付けました。そしてその後、ペリシテ人たちはサムエルの存命中は二度とイスラエルに攻め入ることなく、アモリ人との間にも戦いもなく、平和な時代となりました。

エベネゼルの正確な場所はわかっていませんが、4章を見ると神の箱が奪われたペリシテ人との最初の戦いもエベネゼルに集まったとあります。神様は過去の大失敗をも大勝利に変えてくださるお方です。

http://bible.com/81/1sa.7.12-14.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/30

2016-10-30 07:20:56 | 今日の聖句
詩篇 18:2
「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」

私たちにとって神様とはどのような存在でしょうか。この詩篇の作者のように、言葉に尽くせないほど信頼できるお方、最上級の賛辞をもってほめたたえるべきお方と言えたならば、なんと素晴らしいことでしょうか。限りなく真実な神様に心から信頼し、言葉の限りを尽くしてほめたたえる私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.18.2.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/29

2016-10-29 09:48:12 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 6:1-3
『主の箱は七か月の間ペリシテびとの地にあった。 ペリシテびとは、祭司や占い師を呼んで言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょうか。どのようにして、それをもとの所へ送り返せばよいか告げてください」。 彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。そうすれば、あなたがたはいやされ、また彼の手がなぜあなたがたを離れないかを知ることができるであろう」。』

イスラエルから奪い取った神の箱の故に災いを受けたペリシテ人たちは、どのように送り返したらよいか、祭司や占い師を呼んで指導を受けました。彼らはただ単に返却すればよいのでなく、咎のための供え物を添えるべきと進言しました。神の民イスラエルよりも、異教の民ペリシテ人たちの方が、よほど神様に対して真摯な態度を取ったことは注目すべきです。まことの神に出会った者は、畏れをもって神様に接すべきことを、経験的に学び取ることができます。

http://bible.com/81/1sa.6.1-3.ja1955

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サムエル記上 6:4-6
『人々は言った、「われわれが償うとがの供え物には何をしましょうか」。彼らは答えた、「ペリシテびとの君たちの数にしたがって、金の腫物五つと金のねずみ五つである。あなたがたすべてと、君たちに臨んだ災は一つだからである。 それゆえ、あなたがたの腫物の像と、地を荒すねずみの像を造り、イスラエルの神に栄光を帰するならば、たぶん彼は、あなたがた、およびあなたがたの神々と、あなたがたの地に、その手を加えることを軽くされるであろう。 なにゆえ、あなたがたはエジプトびととパロがその心をかたくなにしたように、自分の心をかたくなにするのか。神が彼らを悩ましたので、彼らは民を行かせ、民は去ったではないか。」』

ペリシテ人はイスラエルの神に対し、はるか昔の出エジプトの出来事、すなわちパロのように心を頑なにする者は滅びることを覚えていました。そして神の箱を聖なるものとしてではなく戦利品として扱った自ら犯した咎の供え物として、ペリシテの君主たちの数にちなんで金の像を5つずつ作り、イスラエルの神に栄光を帰することを行いました。異教の民であっても主の偉大なる御業を覚え栄光を帰するのですから、まことの神様を信じる私たちはなおさら、主の救いの御業を忘れることなく、その栄光をほめたたえる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/1sa.6.4-6.ja1955

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サムエル記上 6:7-9
『それゆえ今、新しい車一両を造り、まだくびきを付けたことのない乳牛二頭をとり、その牛を車につなぎ、そのおのおのの子牛を乳牛から離して家に連れ帰り、 主の箱をとって、それをその車に載せ、あなたがたがとがの供え物として彼に償う金の作り物を一つの箱におさめてそのかたわらに置き、それを送って去らせなさい。 そして見ていて、それが自分の領地へ行く道を、ベテシメシへ上るならば、この大いなる災を、われわれに下したのは彼である。しかし、そうしない時は、われわれを撃ったのは彼の手ではなく、その事の偶然であったことを知るであろう」。』

ペリシテ人たちはこの災いが主から来たものか、それとも単なる偶然かを見分けるために、子牛が生まれたばかりの乳牛が引く車に神の箱を乗せて、まっすぐにイスラエルの領地に上るかどうかにより判断しようとしました。子牛が生まれたばかりのは母牛は本能的に子牛のもとに帰ることを利用して、自然現象か、それとも目には見えない神様の力が背後に働いているかを見極めようとしたのです。神様を盲信するのではなく、理性的な状況判断により神様の見えざる御手の業を見ることができるならばさいわいなことです。

http://bible.com/81/1sa.6.7-9.ja1955

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サムエル記上 6:10-12
「人々はそのようにした。すなわち、彼らは二頭の乳牛をとって、これを車につなぎ、そのおのおのの子牛を家に閉じこめ、 主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。 すると雌牛はまっすぐにベテシメシの方向へ、ひとすじに大路を歩み、鳴きながら進んでいって、右にも左にも曲らなかった。ペリシテびとの君たちは、ベテシメシの境までそのあとについていった。」

神の箱を乗せた牛車を引く母牛たちは、自らの母性本能に反して、イスラエルの領地ベテシメシにまっすぐに向かいました。鳴きながら、という言葉に、子牛たちのことを思いながらも神様の見えざる力に動かされて進む母牛たちの嘆きの心が聞こえてくるようです。

ペリシテ人の君主たちは、自分たちが受けた災いが本当に神様の御業であるかどうか、事の次第を見極めるために、神の箱の後を追ってついて行きました。神様は、動物にも、信じない者にも、ご自身こそまことの神であり、この世のすべてを統べ治められることを明らかにされるお方です。

http://bible.com/81/1sa.6.10-12.ja1955

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サムエル記上 6:13-16
「時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。 車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。 レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。 ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。」

ベテシメシの人々は、神の箱が帰ってきたことを喜び、牛車を取り壊して薪として、神の箱を引いてきた牛を燔祭として捧げて、その場で神様を礼拝しました。ペリシテ人の君主たちは、ことの始終を見納めて、自分たちの国に帰りました。イスラエルの神、聖書の神こそまことの神であることは、誰の目から見ても明らかなことです。

http://bible.com/81/1sa.6.13-16.ja1955

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サムエル記上 6:19-21
『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。 ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか」。 そして彼らは、使者をキリアテ・ヤリムの人々につかわして言った、「ペリシテびとが主の箱を返したから、下ってきて、それをあなたがたの所へ携え上ってください」。』

神の箱が帰ってきたことを喜んだのも束の間、ベテシメシの人々のうち、神の箱の中を見てしまった人々がいたために、多くの者が主に撃たれて殺されてしまったのです。主を喜ぶと言いながらただ単にお祭り騒ぎをするだけで、主に対する畏れの心を抱かない不敬虔な者は、自ら滅びを招きます。私たちは主を心から愛し喜ぶと共に、畏敬の念を込めて礼節を保って接すべき心を、同時に兼ね備えなければなりません。

http://bible.com/81/1sa.6.19-21.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/29

2016-10-29 06:50:38 | 今日の聖句
ヘブル人への手紙 6:10
「神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。」

神様は真実なお方ですから、主に仕えた者の働きと愛の業を決して忘れることなく、報いてくださるお方です。主の僕に水一杯でも恵んだ者は神様の愛から決して漏れることはないとの御言葉を信じ、主に好意的な態度を示す人々が真に救われるよう祈り、福音宣教に励む私たちでありますように。

http://bible.com/81/heb.6.10.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/28

2016-10-28 07:50:19 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 5:1-4
「ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。 そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。 アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。 その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。」

イスラエルに勝利したペリシテ人は、神の契約の箱を戦利品として奪い、彼らの神ダゴンの宮に運び、ダゴンの傍らに置きました。純金で覆われた神の箱を、単なる宝飾物として受け止め、彼らの神に対する捧げものとしたのでしょう。天地の造り主なる神様が、人の手で造られた偶像の神に捧げられるとは、本来あるべき姿とは正反対です。

そこで神様は、自らがまことの神であることを異教の民にも示すために、偶像の神に対する裁きを行います。明くる朝、彼らがダゴンの宮に来ると、ダゴンは神の箱の前にうつむきに倒れていました。これはダゴンがまことの神様に屈服したことを意味します。しかしペリシテ人たちは単なる偶然と受け止めてダゴンの像を起こしましたが、翌朝来てみると今度は首と両腕をもがれて神の箱の前にうつ伏せになっていました。これはダゴンに対する裁きであり、まことの神を神と認めない者に対する警告です。私たちの信じる聖書の神様こそが何者にも勝る唯一の神様であることを、私たちは心に刻みつけなければなりません。

http://bible.com/81/1sa.5.1-4.ja1955

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サムエル記上 5:6-7
『そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドとその領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。 アシドドの人々は、このありさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの所に、とどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴンの上にきびしく臨むからである」。』

神様の裁きは偶像ダゴンに対してだけではなく、アシドドの人々の上にも臨み、腫れ物をもって苦しめました。そこでアシドドの人々は、これらの災いが神の箱によるものであると認め、神を恐れて、神の箱を自分たちの町に留め置いてはならないと考えるようになりました。

私たちの神様は、神様を信じ仕える者だけでなく、神をも恐れない者にも臨み、厳しい裁きをもって懲らしめ、ついには主こそまことの神であることを認めさせます。私たちはただ主の御名とその御業を伝えるだけで、後は神様ご自身が自ら証明されると信じることが、福音を語る秘訣です。

http://bible.com/81/1sa.5.6-7.ja1955

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サムエル記上 5:8-10
『そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちを集めて言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょう」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱はガテに移そう」。人々はイスラエルの神の箱をそこに移した。 彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、非常な騒ぎが起った。そして老若を問わず町の人々を撃たれたので、彼らの身に腫物ができた。 そこで人々は神の箱をエクロンに送ったが、神の箱がエクロンに着いた時、エクロンの人々は叫んで言った、「彼らがイスラエルの神の箱をわれわれの所に移したのは、われわれと民を滅ぼすためである」。』

彼らはアシドドの町に災いをもたらした神の箱をガテに移しましたが、そこでも災いは止まることなく、老若男女を問わずガテの人々を腫れ物をもって苦しめました。そこで彼らは神の箱をエクロンに移しましたが、先の災いの話を伝え聞いていたエクロンの人々は、自分たちを滅ぼすためかと、拒絶反応を示しました。

当時のペリシテ人の国は主に5つの町からなる連合王国であったため、町の間のいさかいは連合国間の信頼関係を破壊し、秩序を乱して国を解体させる危機的状況に陥りました。まことの神様を神として認めず、神の箱を不思議なパワーの源と勘違いする者には、神様は厳しい裁きをもって臨まれることを、私たちはわきまえ知らなければなりません。

http://bible.com/81/1sa.5.8-10.ja1955

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サムエル記上 5:11-12
『そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。そこには神の手が非常にきびしく臨んでいたので、 死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。』

連合王国の危機に陥ったペリシテ人の君主たちは共に集まり、ペリシテの国に災いをもたらすイスラエルの神の箱の扱いについて協議しました。その結果、自分たちの国から元のイスラエルの国に送り返す決断をします。せっかく勝利の証として奪い取った戦利品を手放すことは、実質的敗北を意味しますが、死と腫れ物によって混乱状態に陥ったペリシテの国を安定させるためには、背に腹は代えられません。神様はこのようにして自らの神であることを広く証しし、勝利されるお方です。

http://bible.com/81/1sa.5.11-12.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/28

2016-10-28 06:50:00 | 今日の聖句
ヨハネの第一の手紙 1:7
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」

罪を隠蔽しようとする者は闇の中を歩きます。光の中を歩くとは、罪をうやむやにせず、神様の御前に包み隠さず明らかにすることです。罪を罪として素直に認め、神様に告白して悔い改める心の潔い者を、憐れみ深い神様は御子イエス様の血潮できよめてくださいますから感謝いたします。

http://bible.com/81/1jn.1.7.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/27

2016-10-27 07:57:10 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 4:1-3
『イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。 ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。 民が陣営に退いた時、イスラエルの長老たちは言った、「なにゆえ、主はきょう、ペリシテびとの前にわれわれを敗られたのか。シロへ行って主の契約の箱をここへ携えてくることにしよう。そして主をわれわれのうちに迎えて、敵の手から救っていただこう」。』

イスラエル人はペリシテ人に戦いを挑みましたが、逆に打ち負かされてしまいました。そこでイスラエルは神の箱を持ってくれば主が助けてくださるだろうと考えました。主の御心を求めずに勝手に戦いを始めて、失敗しても反省することも悔い改めることもなく、一方的に主の助けを求める、こんな無責任で自己中心な信仰が許されるでしょうか? 私たちもまた同じようなことをしていないか自ら顧み、何事にもまず主の御心を求めること、自分の都合の良いように神様を動かそうとしないこと、もし失敗したならば悔い改めて正しい信仰に立ち返ることを学ばせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/1sa.4.1-3.ja1955

*****

サムエル記上 4:4-5
「そこで民は人をシロにつかわし、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから携えてこさせた。その時エリのふたりの子、ホフニとピネハスは神の契約の箱と共に、その所にいた。 主の契約の箱が陣営についた時、イスラエルびとはみな大声で叫んだので、地は鳴り響いた。」

主の契約の箱は、ケルビムの上すなわち最も聖なる場所にあるべきものですが、イスラエルの人々は勝手に戦場の最前線に持ち出しました。そのとき神の箱と共にいたのが、エリの二人の息子、ホフニとピネハスでした。彼らは祭司に相応しくない悪行の数々を働いておきながら、人々の前ではまるでスター気取りで前に立つ、表面上のにせ祭司です。

私たちの信仰は、彼らのように見せかけだけで中身を伴わない虚しい信仰ではないでしょうか。いくら私たちが表面を取り繕い、素晴らしい信仰の持ち主のように装っても、主は心の中をすべてご存じであることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/1sa.4.4-5.ja1955

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サムエル記上 4:8-11
『ああ、われわれはわざわいである。だれがわれわれをこれらの強い神々の手から救い出すことができようか。これらの神々は、もろもろの災をもってエジプトびとを荒野で撃ったのだ。 ペリシテびとよ、勇気を出して男らしくせよ。ヘブルびとがあなたがたに仕えたように、あなたがたが彼らに仕えることのないために、男らしく戦え」。 こうしてペリシテびとが戦ったので、イスラエルびとは敗れて、おのおのその家に逃げて帰った。戦死者はひじょうに多く、イスラエルの歩兵で倒れたものは三万であった。 また神の箱は奪われ、エリのふたりの子、ホフニとピネハスは殺された。』

ペリシテ人たちは、神の箱がイスラエルの陣営に到着したことを知り、かつて主がエジプトを撃ち破ってイスラエルに勝利をもたらした歴史を振り返り、むしろ奮起して戦ったため、イスラエルは惨敗し、ホフニとピネハスも殺されてしまいました。これはペリシテ人が強かったのではなく、主がそのようにしてイスラエルの罪に報いたのです。御心を求めず自分の思い通りに神様を動かそうとする自分勝手で他力本願な信仰、悔い改めもせず外見ばかり装って中身の伴わない信仰の持ち主は、主の裁きと懲らしめを免れることはできません。

http://bible.com/81/1sa.4.8-11.ja1955

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サムエル記上 4:17-18
『しらせをもたらしたその人は答えて言った、「イスラエルびとは、ペリシテびとの前から逃げ、民のうちにはまた多くの戦死者があり、あなたのふたりの子、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました」。 彼が神の箱のことを言ったとき、エリはその座から、あおむけに門のかたわらに落ち、首を折って死んだ。老いて身が重かったからである。彼のイスラエルをさばいたのは四十年であった。』

エリはイスラエルが惨敗し、神の箱が奪われたことを聞いてその場に崩れ落ち、首の骨を折って死んでしまいました。前の節には、エリは2人の子どものことよりも、神の箱のことを気遣っていたとあります。ホフニとピネハスの裁きについては、すでにサムエルから神様の御告げを聞いていたからでしょう。こんな不幸せな死に方はないでしょう。いくら自分は神様に正しく仕えていたつもりでも、子どもたちの罪を正すこともせず放置した報いです。私たちは決してこのような最期は迎えたくないものです。自分だけ神様を信じて救われていればよいという信仰ではなく、人を義に導き、福音を宣べ伝えることを怠ってはなりません。

http://bible.com/81/1sa.4.17-18.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/27

2016-10-27 06:55:04 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 16:33
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

人には皆まだ見ぬ未来への悩みがあり、この世に生きる限り死の不安がつきまといます。しかしこの世にも、死にさえも勝利された主イエスと共にある確信があるならば、すべての恐れと不安から解放されます。先の見えない現代社会にあって、すべての悩みを主に委ねてまことの平安を得る私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.16.33.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/26

2016-10-26 07:48:36 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 3:1-2
「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。」

サムエルはエリの元で主に仕えて成長しました。しかし当時は主の預言も黙示もまれな、イスラエルの霊的な暗黒時代でした。エリの目がかすんで見えなくなったというのは、年齢的な肉体の衰えのみならず、霊的にも目が閉ざされていたことを意味します。

私たちもまた、主の御言葉が臨むことがまれになっていないでしょうか。聖書を読んでも心にピンと感じるものがなく、御言葉に目が閉ざされていないでしょうか。今一度、自分の信仰状態を見つめ直し、心の目を開いてくださいと主に祈り求める私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.3.1-2.ja1955

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サムエル記上 3:3-5
『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』

主の預言がまれな暗黒時代にあっても、神の箱の前に灯火はまだ消えていませんでした。これは、希望は失われていないことを意味します。主は祭司エリに代わり、主の御言葉を語り告げる者としてわらべサムエルを呼ばれました。

しかしまだ幼かったサムエルは、エリが自分を呼んだものと勘違いし、エリの元に駆けつけました。エリもまた主がサムエルを呼ばれたことに気付かず、帰って寝なさいと答えました。私たちは主の細き御声に気付く耳と心を兼ね備え、主の語りかけを待つ姿勢を学ばなければなりません。

http://bible.com/81/1sa.3.3-5.ja1955

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サムエル記上 3:7-9
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』

主が三度サムエルを呼ばれたとき、ようやくエリも、サムエルに語りかけたのが主であることを悟り、次に呼び掛けられたら「僕は聞きます、お話ください」と答えるように教えました。たとい肉体的にも霊的にも衰えていても、サムエルを正しく指導したエリの姿勢に信仰の継承の大切さを学ばせていただきたいと思います。

http://bible.com/81/1sa.3.7-9.ja1955

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サムエル記上 3:10
『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』

主は再びサムエルを呼びました。そしてサムエルはエリから指導された通りに、主の御声を聞く姿勢を取りました。主は私たちにも、いつ語りかけられるか誰もわかりません。しかし主の御声を聞いたならば、直ちに「しもべは聞きます。主よ、どうぞお話ください」と、主の御声を聞く姿勢を取ることができるように、常日頃から備える私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.3.10.ja1955

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サムエル記上 3:15-18
『サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。 しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。 エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。 そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』

サムエルが主から告げられた言葉は、自分の仕える祭司エリの家系に対する厳しい裁きでした。幼いサムエルはその裁きの言葉をエリに語ることを恐れましたが、エリは、主の言葉は何事も隠さず話すようにとサムエルを指導しました。そこでサムエルはエリの指導に素直に聞き従い、神様から告げられた言葉を包み隠さず語りました。そしてエリはその言葉が主の言葉であると認め、受け止めました。

この箇所から私たちが学ぶべき事はたくさんあります。まず最初に、主から授かった御言葉は余すことなく語らなければならないことです。人を恐れて都合の悪いことは隠したり、人に喜ばれるために受け入れられやすい言葉だけを語ることは、主の御言葉を語り継ぐ者として相応しくありません。最近は教会でも愛や癒し、許容のメッセージばかり語られる傾向がありますが、それは御言葉の飢饉につながる危険信号です。

また、どんな厳しい言葉でも、主の御声と聞き従う耳と心を持つことが私たちに求められます。自分にとって受け入れやすい御言葉ばかりを選り好みする者は、信仰の失格者です。エリもまたサムエルから告げられた厳しい裁きの言葉を、すべて主の御告げであると素直に受け入れました。この謙虚さと素直さがなければ、罪の悔い改めもなく、赦しも受けることなどできません。

http://bible.com/81/1sa.3.15-18.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/26

2016-10-26 06:55:09 | 今日の聖句
詩篇 116:1-2
「わたしは主を愛する。主はわが声と、わが願いとを聞かれたからである。 主はわたしに耳を傾けられたので、わたしは生きるかぎり主を呼びまつるであろう。」

どれほど叫んでも誰も聞いてくれないことほど、辛く悲しいことはありません。しかし私たちの神、主は、言葉にならない心の叫びにも耳を傾け、聞き届けてくださる慈愛に満ちたお方です。声なき者の祈り願いをつぶさに聞かれる主に感謝し、生涯を通して愛し仕える私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.116.1-2.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/25

2016-10-25 07:55:01 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 2:1
『ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。」』

長年祈り求めた待望のわが子サムエルを主に生涯を捧げる者として祭司エリの元に連れてきたとき、ハンナは感謝の祈りを捧げました。彼女は自分の願望が満たされたことよりも、主が祈りを聞かれたことへの感謝の方が大きかったのです。私たちもまたハンナのように、自分の思いが叶うことよりも、祈りに答えてくださる神様の御名をほめたたえる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/1sa.2.1.ja1955

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サムエル記上 2:11-12, 17
「エルカナはラマにある家に帰ったが、幼な子は祭司エリの前にいて主に仕えた。 さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。

このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじたからである。」

神様に生涯を捧げ主の御前に仕えた幼な子サムエルとは対照的に、祭司エリの実の子は主を恐れぬ悪い者でした。彼らは主に捧げられた供え物を、人々の制止を振り切って自分の好きなように横取りするほど、俗悪で罪深い息子たちでした。

今日でも、いかに父親が主に忠実に仕える素晴らしい牧師あるいは信徒であっても、その子たちは神をも畏れぬ極悪非道な者となり、我が物顔で教会を食い物にしている事例が、残念ながら少なからずあります。私たちはそのような罪深く悪しき行為を決して真似てはなりません。

http://bible.com/81/1sa.2.11-12,17.ja1955

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サムエル記上 2:18-21
『サムエルはまだ幼く、身に亜麻布のエポデを着けて、主の前に仕えていた。 母は彼のために小さい上着を作り、年ごとに、夫と共にその年の犠牲をささげるために上る時、それを持ってきた。 エリはいつもエルカナとその妻を祝福して言った、「この女が主にささげた者のかわりに、主がこの女によってあなたに子を与えられるように」。そして彼らはその家に帰るのを常とした。 こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。』

エリの息子たちとは対照的に、幼子サムエルは主の御前に忠実に仕える者としてすくすくと成長しました。その背後には母ハンナの献身的な愛と祈りによる支えがあったことは間違いありません。そのハンナの信仰と献身にエリは祝福の祈りを捧げ、主がハンナを顧みてくださったので、彼女は更に子宝に恵まれました。

主の前に喜んですべてを捧げる献身的な信仰の持ち主こそ、主の祝福が豊かに注がれる受ける者となることを、ハンナの生涯の歩みから学ばせていただき、その信仰に倣う者となる私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.2.18-21.ja1955

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サムエル記上 2:22-25
『エリはひじょうに年をとった。そしてその子らがイスラエルの人々にしたいろいろのことを聞き、また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて、 彼らに言った、「なにゆえ、そのようなことをするのか。わたしはこのすべての民から、あなたがたの悪いおこないのことを聞く。 わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。 もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」。しかし彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである。』

主の前に正しく健全に育つサムエルとは対照的に、エリの息子たちの罪は更に増し、神殿で仕える女性との肉体関係にまで達してしまいました。エリもこの事態に非情に心を痛め、息子たちを戒めますが、息子たちは聞く耳を持ちませんでした。それは主が自ら彼らの罪に報いることを定められてしまったからです。

私たちの心に、人の忠告に耳を貸さない傲慢で頑なな心はないでしょうか。これくらいの罪ならば赦されるだろうとタカをくくっているならば、どんな小さな罪をも決して見逃されない主ご自身が自ら裁かれます。私たちは決してこのような滅びの道を歩んではなりません。

http://bible.com/81/1sa.2.22-25.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/25

2016-10-25 07:00:47 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 6:35
「イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」

人々がイエス様に求めたパンは、やがて尽きる肉体の生命を維持することしかできません。しかし魂にいのちが豊かに宿るとき、人ははじめて生き生きと、真にさいわいな生涯を送ることができます。心の飢え渇きを満たすいのちのパンなる主イエス様ご自身を切に求める私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.6.35.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/24

2016-10-24 07:55:04 | 一日一章・聖書通読日記
サムエル記上 1:2-5
「エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。 この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。シロには、エリのふたりの子、ホフニとピネハスとがいて、主に仕える祭司であった。 エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。」

今日からサムエル記に入ります。イスラエルに王のいなかった時代、人々は主を忘れ自分勝手に生きてきた士師の時代が終わりを告げます。

このような罪に満ちた時代の中でも主の御前に正しく生きる人エルカナに、二人の妻がいました。その一人ハンナはエルカナの愛をいっぱい受けていましたが、子宝に恵まれませんでした。その理由を聖書は「主が胎を閉ざされたので」と記しています。どれほど正しく生きていても、愛情を豊かに注がれていても、自分の思い通りになる人生などありません。私たちの人生は良いことをすれば願いが叶う因果応報の世界ではなく、主の深いご計画の中にあることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/1sa.1.2-5.ja1955

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サムエル記上 1:6-8
『また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。 こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。 夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。』

エルカナのもう一人の妻ペニンナは、自分は子宝に恵まれていながら、夫エルカナの愛を一身に受けるハンナに嫉妬し、事もあろうに主が胎を閉ざされたことを恨ませようとしました。ペニンナの姿は自分が今いただいている恵みに気付かない愚かな人の象徴です。人をおとしめて優越感に浸ろうとする者を、主は決して喜ばれません。私たちの中にある嫉妬や対抗心などの悪しき感情に心を支配されないよう、細心の注意を払う私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.1.6-8.ja1955

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サムエル記上 1:10-11
『ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』

ペニンナの執拗ないじめを受けたハンナは、主の前に出て激しく泣き、子どもを授かったならばその子を一生、主に捧げますと誓いを立てました。かみそりを頭に当てないというのは、ちょうど最後の士師サムソンと同じナジル人の姿です。ナジル人の死によって士師の時代が終わり、新たなナジル人の登場でイスラエル王国時代が始まるという、神様の綿密なご計画にただ驚くばかりです。

http://bible.com/81/1sa.1.10-11.ja1955

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サムエル記上 1:13-18
『ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。』

祭司エリは、ハンナが主の御前にずっと祈っている姿を見ながらも、酒に酔っているのだと勘違いするほどに、この時代は霊的に鈍感な、堕落しきった時代でした。しかしそのような中でも、まことの祈りを捧げる者を、主は決して見過ごすことはありません。

主の御前に心を注ぎ出して祈ったハンナは、祭司エリの「主があなたの祈りを聞き届けられるように」との言葉を聞いて、もはや悲しみは吹き飛んでしまいました。私たちは長年の悩みが一気に解消するほど、深く主の前に祈りを捧げているでしょうか。目の前よ現実は何も変わらなくとも、結果を見る前にもはや祈りは聞き届けられたと確信する信仰を与えていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.1.13-18.ja1955

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サムエル記上 1:19-22
『彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。 エルカナその人とその家族とはみな上っていって、年ごとの犠牲と、誓いの供え物とをささげた。 しかしハンナは上って行かず、夫に言った、「わたしはこの子が乳離れしてから、主の前に連れていって、いつまでも、そこにおらせましょう」。』

主はハンナの心を注ぎ出す祈りを聞き届けられ、待望の子どもを授かりました。しかしハンナは、ようやく与えられた大切な子どもを、主に捧げると誓った誓約を守りました。

ようやく手にしたしあわせを、主との約束のために自ら手放す覚悟が私たちにあるでしょうか。しかしそのような信仰の持ち主こそ、祈りが聞かれるに相応しい人です。主は与え、主は取り給う、との信仰告白を、口先だけでなく自らの行動で示す私たちでありますように。

http://bible.com/81/1sa.1.19-22.ja1955

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サムエル記上 1:24-28
『乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。 そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。 ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。 この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。 それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。』

ハンナはサムエルが乳離れするまで愛情を豊かに注いで育て、そして主の御前に祈った誓約の通り、その子の一生を主に捧げるために宮に上り、祭司エリに祈りの結果を報告して、共に礼拝を捧げました。

主は私たちの祈りを、決して忘れることなどありません。私たちもまた主の御前に捧げた祈りを決して忘れることなく、誓いを果たす者でありたいと願います。

http://bible.com/81/1sa.1.24-28.ja1955
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