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伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/10/31

2018-10-31 07:50:09 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 7:1-8

さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

この箇所は水源の豊富な日本にいる私たちにはわかりにくい感覚かもしれませんが、砂漠気候のイスラエルで命の次に大事だともいわれる貴重な水を、手や食器を洗うために使うことがどれほど大変なことか想像すると良いかもしれません。パリサイ人たちは昔からの言い伝えを自ら堅く守るだけでとどまらず、それらの教えを守れない世間一般の人々を汚れた罪人だと見下していたことをイエス様は厳しく指摘されたのです。私たちは三者三様、人によって様々な個性の集合体です。それらを自分の内にとどめておけばよいものを、己の信条や思想に固執するあまり、自分と異なる人々を排斥したり敵視したりすることが、今なお世界中で起きている紛争や戦争の元凶です。私たちはそのような押しつけがましい態度で人と接してはなりません。

http://bible.com/81/mrk.7.1-8.ja1955

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マルコによる福音書 7:9-13

また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

パリサイ人たちは自分の神様に対する態度だけにとどまらず、人との関係の中でも、モーセの律法を通り越して独自な拡大解釈を施していました。その一例としてイエス様が指摘されたのがコルバンの規程です。これは神様に献金したといえば両親を経済的に支えなくてもよいという意味で、「あなたの父母を敬え」というモーセの十戒に明らかに反している、屁理屈のような曲がった教えです。神様が授けられた律法の根幹にある愛を差し置いて、自分の欲望を正当化する教えに毒されることのないよう、私たちも充分に気をつけなければなりません。

http://bible.com/81/mrk.7.9-13.ja1955

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マルコによる福音書 7:14-23

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。〔 聞く耳のある者は聞くがよい〕」。 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

パリサイ人の教えの誤りを指摘されたイエス様は群衆に向かって、人の外から入る食物が人を汚すのではなく、人の内側から出てくる様々な醜い欲望が人を汚すのだと教えられました。これは今もなおコーシャという厳格な食物規程を守っているユダヤ人にとって、目から鱗というよりも、今まで常識と堅く信じてきたものを根底からひっくり返すような全く新しい教えですから、弟子たちがその真の意味を理解できなかったのも頷けます。日本人にとって、キリスト教はバタ臭いとか、外国の教えだといわれることがありますが、神様が聖書の御言葉を通して私たちに教えようとなさっているのは、外国人にとってもこの世の常識とは異なる、天の御国に入るに相応しい者への教えなのですから、私たちは180度、発想の転換をすることが必要です。

http://bible.com/81/mrk.7.14-23.ja1955

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マルコによる福音書 7:24-30

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

イエス様は再び異邦人の地に向かい、家の中に潜んでおられましたが、そこでもイエス様が来られたと知った人々が押し寄せてくる有様でした。そのとき一人の異邦人の女性が、悪霊に取り憑かれた自分の娘を癒していただきたいと懇願しました。するとイエス様は、まず子どもたち(神の民イスラエル)に与えるはずのパン(祝福)を奪い取って先に子犬(異邦人)に与えるのはよくないと暗に断りましたが、この女性は食卓の下のパンくず、すなわち祝福のおこぼれに与りたいと、徹底した謙遜の姿勢を示しました。この女性はイエス様が試みた信仰のテストに合格したのです。私たちにも時折、どれほど祈っても答えられない祈祷課題があります。しかし神様は私たちの信仰を試みて、祈りが答えられるに相応しく成熟するときを待っておられます。この女性のように、何事もあきらめず、謙遜に、真摯に祈り求め続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.7.24-30.ja1955

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マルコによる福音書 7:31-37

それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。

イエス様が異邦人の地を通り抜けてガリラヤに戻ってこられると、群衆たちは、耳も聞こえず話すこともできない人を癒していただきたいと願い出ました。このときイエス様は、なぜ天を仰いで、ため息をつかれたのでしょうか。その真意は信仰に基づいて推測するしかありませんが、マルコの福音書の根底にあるテーマが、奇跡を見ても信じない、福音の御言葉を聞いても悟らない「霊的な鈍感」であることと照らし合わせると、何となく理解できるかもしれません。一つ前の箇所で登場した深い信仰を持つ異邦人の女性と対比するかのように、神の民を自称しながら神様の御心がわからないイスラエルの人々を代表するかのように、耳も口も利けない人に対して「開けよ」と言葉を掛けられた主イエスの御思いを思いめぐらして、真理に心を開く私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.7.31-37.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/31

2018-10-31 06:35:14 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 4:18 新共同訳

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

真に愛する者のためならば、たとえ火の中、水の中も恐れずに立ち居振る舞えるように、まことの愛は恐れに縛られることはありません。私たちの罪を赦すために十字架をも恐れずに歩まれた主イエスの大いなる愛を受けて、困難や迫害をも恐れずに隣人を愛する私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.4.18.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/30

2018-10-30 07:45:13 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 6:1-6

イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。

イエス様は郷里でも福音を宣べ伝えようとされましたが、イエス様の生い立ちを知っていた人々は、自分が知っているイエス像から離れることができず、語られた御言葉の恵みにも力ある奇跡にも与ることができませんでした。歴史上の偉人の一人として人間イエスを見る者は、神の恵みも力ある御業も何一つ引き出すことはできません。私たちの罪を購うために神から遣わされた主イエスとして心に受け入れる者だけが、救いの恵みを受けることができるのです。

http://bible.com/81/mrk.6.1-6.ja1955

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マルコによる福音書 6:7-13

また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。

12弟子に福音宣教の業を託されるに際し、イエス様は汚れた霊を追い出す権威を与え、2人ずつの組にして遣わされました。これは2人または3人が主の御名の元に集まるとき主もそこにいてくださるとの臨在の約束に則ったものです。また私たちは何事を為すにも、単独行動ではなく、互いに助け合うことの重要性をも教えてくれます。そして何も持たせずに弟子たちを遣わされたのは、自分の持っているものや能力に頼らず、常に神様に必要な力を祈り求め、助けていただくことをも教えています。

http://bible.com/81/mrk.6.7-13.ja1955

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マルコによる福音書 6:14-29

さて、イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった。ある人々は「バプテスマのヨハネが、死人の中からよみがえってきたのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」と言い、 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者のような預言者だ」と言った。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」と言った。 このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったが、そのことで、人をつかわし、ヨハネを捕えて獄につないだ。 それは、ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。 そこで、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。 ところが、よい機会がきた。ヘロデは自分の誕生日の祝に、高官や将校やガリラヤの重立った人たちを招いて宴会を催したが、 そこへ、このヘロデヤの娘がはいってきて舞をまい、ヘロデをはじめ列座の人たちを喜ばせた。そこで王はこの少女に「ほしいものはなんでも言いなさい。あなたにあげるから」と言い、 さらに「ほしければ、この国の半分でもあげよう」と誓って言った。 そこで少女は座をはずして、母に「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母は「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。 するとすぐ、少女は急いで王のところに行って願った、「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆にのせて、それをいただきとうございます」。 王は非常に困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、少女の願いを退けることを好まなかった。 そこで、王はすぐに衛兵をつかわし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、獄中でヨハネの首を切り、 盆にのせて持ってきて少女に与え、少女はそれを母にわたした。 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、その死体を引き取りにきて、墓に納めた。

イエスの評判を聞いた領主ヘロデは、それはバプテスマのヨハネの生まれ変わりだと言ってうろたえました。というのもヘロデは自分の不貞を指摘したバプテスマのヨハネを捕らえたものの、彼が聖なる正しい人物であることを理解し、その教えを喜んで聞いていましたが、信仰告白を公にすることができず、またメンツを保つためにヨハネを処刑した後ろめたさに苛まれていたからです。彼の罪は、一言で言うと優柔不断です。信じたいと思っていても人目を気にして信仰を告白せず、正しいことだとわかっていてもできず、間違ったことだと思っても止めることができなかったからです。私たちはヘロデのように優柔不断の結果悩み続けることのないように、今日み声を聞いたならば心を頑なにせず直ちに信仰告白する勇気が必要です。

http://bible.com/81/mrk.6.14-29.ja1955

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マルコによる福音書 6:30-44

さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりのや村々へ行かせてください」。 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。 みんなの者は食べて満腹した。 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。 パンを食べた者は男五千人であった。

宣教から戻って来た12弟子たちの報告を聞いたイエス様は、彼らに休息のときを与えようと向こう岸に渡らせましたが、それと知って先回りしてイエスの元に集まった群衆は待ったなしの状況で、弟子たちは休むどころか、人々の世話に追い回されました。そして夕刻になったので食事のために解散させようと提案した弟子たちに対し、あなた方自身の手で食事を与えなさいと、イエス様は弟子たちに命じられました。休みを与えるために船で湖を渡ったのに、そこでも働きなさいと命じられるのは一見矛盾することですが、イエス様はここで究極の休息として天の祝福を弟子たちに体験させようとなさったのではないかと思います。主のために働くことは労働ではなく、他では味わうことのできない特別な神様の恵みであることを、私たちは深くく心に留めたいと思います。

http://bible.com/81/mrk.6.30-44.ja1955

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マルコによる福音書 6:45-56

それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。 そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。 夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。 先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。 彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ。 そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って、 その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた。 そして、村でも町でもでも、イエスがはいって行かれる所では、病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いした。そしてさわった者は皆いやされた。

5,000人の給食の奇跡の後、イエス様は再び弟子たちを船に乗り込ませ、先に向こう岸に行くように命じて、ご自身は祈るために山に退かれました。神の一人子であられるイエス様でさえも個人的に神様と交わる祈りのときを大切になさったのですから、まして私たちは主と一対一で交わりを持つデボーションのときを積極的に持つ必要があります。一方、弟子たちは逆風の吹く夜の湖で難儀していましたが、それと知って近寄られたイエス様を幽霊だと見間違えるほど心が鈍くなっていました。イエス様が船に乗られると風は凪いだように、私たちは神様と共にいるときこそが真の平安、祝福のときとなります。

http://bible.com/81/mrk.6.45-56.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/30

2018-10-30 06:35:09 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 12:21 新共同訳

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

もし私たちが悪を働いた者に悪をもって接し、報復合戦になってしまったら元も子もありません。敵を愛し迫害する者のために祈れと言われた主イエスの御言葉に従い、自分に悪を行う者にも善をもって報いて罪の連鎖を食い止める私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.12.21.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/29

2018-10-29 07:50:09 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 5:1-10

こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。

イエス様と弟子たちが嵐のガリラヤ湖を渡った先は、異邦人ゲラサ人の住む地でした。イエス様が船から陸に上がると、悪霊に憑かれた一人の人が墓場から出てきて、自分とは関わらないでくださいと懇願しました。しかし、現地の人々が鎖でさえもつなぎ止めておくことのできなかった狂人が、この地に到着したばかりのイエス様の元に出てきたのは、心の底にある正気の自分がイエス様を求めていたのではないかとも思えます。そして何よりも、イエス様がガリラヤ湖を渡られた目的は、この人を何とか救おうとされたからではないかと思います。たとい今は本来の自分を見失い、自分で自分を傷つける状況に陥っていたとしても、イエス様は心の奥底に潜む魂の叫びを聞き、その人を罪と悪しき者の束縛から解放するために出向いてくださるお方です。

http://bible.com/81/mrk.5.1-10.ja1955

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マルコによる福音書 5:11-17

さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。

レギオンとは古代ローマの軍隊の一個師団を指す言葉で、おおよそ4,000〜5,000人の部隊でした。それほど多くその人に取り憑いていた悪霊は、追い出されるならばせめて山の中腹で飼育されていた豚に移らせてくださいと懇願し、イエス様が許可すると、2,000匹ほどの豚は一斉に湖に自ら飛び込んで溺れ死んでしまいました。動物には生存本能があり、自死するのは人類だけと言われていますから、豚の集団自殺など本来あり得ないことです。豚を飼っていた人々はこの有様を見て町へ出て行って報告すると、人々はレギオンに憑かれた人が正気に戻ってイエス様の元に座っているのを見て恐れ、この地から立ち去ってほしいと懇願しました。イスラエルの食物規程コーシャで禁じられていた豚を飼育していたことから、ゲラサ人はまことの神を信じていない人々であったとわかります。そして彼らは、一人の人が悪霊から解放された喜ばしい出来事よりも、自分たちの収入源である豚が失われたことの方が大事だったのです。私たちは目先の利益と、救いの喜びと、どちらを大切にしているでしょうか?

http://bible.com/81/mrk.5.11-17.ja1955

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マルコによる福音書 5:18-20

イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。

レギオンを追い出していただいた人はイエス様について行きたいと献身の意志を訴えましたが、イエス様は彼の申し出を断り、むしろこの地に残って自分の身に起こったことを語り継ぎなさいと命じられました。主イエスに従う道は、直接献身だけではありません。むしろ一般信徒として証を立て、周囲の人々に福音を宣べ伝えるようにと、イエス様は救われた私たち一人一人に求めておられます。

http://bible.com/81/mrk.5.18-20.ja1955

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マルコによる福音書 5:25-34

さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。 そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

会堂司ヤイロの娘を癒すために彼の家に出向く途中で、一人の長血を患っていた女性が、せめてイエス様の御衣にでも触れば癒されると信じて、イエス様に触れました。大勢の群衆が押し寄せる中、ご自身の中から力が出て行くことを感じたイエス様は足を止めて、癒しの力を引き出した人を捜しました。女性がおそるおそる進み出て事の始終を申し上げると、イエス様はあなたの信仰があなたを救ったのですと優しく声を掛けられました。私たちもまたイエス様から力を引き出すほどの信仰をもって、御側に近付く者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.5.25-34.ja1955

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マルコによる福音書 5:35-43

イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。

12年間苦しめられた長血を癒していただいた女性との対話の最中、会堂司ヤイロの娘が息を引き取ったとの報告が届きました。このときヤイロはどれほど落胆し、悔やんだことでしょう。しかしイエス様はこの悪い知らせを聞き流し、恐れることなくただ信じなさいとヤイロを励まして彼の家に向かわれました。そして泣き叫んでいる人々に、娘は眠っているだけだと言い渡し、群衆を家から追い出してヤイロ夫妻とペテロ、ヤコブ、ヨハネの最も信頼していた3人の弟子の他は中に入れずに、「タリタ、クミ」少女よ起きなさいと言って、12歳にもなっていた娘を立ち上がらせました。ユダヤの女性は12歳でバト・ミツヴァーと呼ばれる成人式を迎えます。イエス様は少女をよみがえらせただけでなく、そして12年間の長血の女性をも癒されただけでなく、一人の成人女性として立ち上がらせたのです。私たちもまたイエス様の御言葉によって、一人の成人として神の御前に立つ者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.5.35-43.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/29

2018-10-29 06:35:12 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙二 5:7‬ 新共同訳‬‬

目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

今、私たちの目に見えるこの世のすべては一時的なものに過ぎません。やがて消え失せるこの世の富や繁栄、権力、地位などに頼る愚かさを捨て、永遠に続く天の御国を目指す信仰に人生を委ねて生きる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/2co.5.7.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/28

2018-10-28 07:15:45 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 4:1-9

イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

イエス様の譬話の中でも有名な種蒔きの譬です。ここで種とは福音の御言葉、種が落ちた4つのタイプの土地は御言葉を聞く人々の心の状態を意味しています。同じ福音の御言葉を聞いても、良い地に落ちた種以外はすべて、実を結ぶことができませんでした。福音が実を結ぶためには、御言葉を聞いて信じ受け入れ、ただ聞くだけに終わらず、その教えを守り行って霊的に成長することが必要です。

http://bible.com/81/mrk.4.1-9.ja1955

*****

マルコによる福音書 4:10-20

イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。 それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。 種まきは御言をまくのである。 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

ずっとイエス様と行動を共にしていた弟子たちでさえ、譬の意味を解説してもらわなかったらその意味が理解できなかったのですから、まして2000年以上も後に生きる私たちは、正しい聖書解釈を学ばなければ福音を間違って受け止めてしまう危険性が高くなります。御言葉を正しく理解するために、正統的な教会の礼拝に集い、毎週の礼拝を通して信仰を養う私たちでありますようよ。

http://bible.com/81/mrk.4.10-20.ja1955

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マルコによる福音書 4:26-34

また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

からし種の譬は、当時のイスラエルの人々にとって身近な日常生活の中から、福音を体験的にイメージすることができるようにされたイエス様のご配慮に満ちた教えです。そのようにイエス様は聞く人の理解力に応じて譬を語られました。そして弟子たちには譬の意味を解き明かされたのは、正しく福音を伝えることができるように教えてくださったのです。私たちに託された福音の御言葉を人々に伝えることができるように、常日頃から御言葉に学び、いつ何時でも福音を語ることができるように備える私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.4.26-34.ja1955

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マルコによる福音書 4:35-41

さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

イエス様は弟子たちと共に船に乗り、夜のガリラヤ湖を渡ろうとされました。弟子たちの中にはペテロやヤコブ、ヨハネなど、元漁師たちがいましたから、船を扱うのは得意中の得意でした。しかしこの夜は突然の激しい突風に難破しそうになり、身の危険を感じてイエス様に救いを求めるほどでした。しかしイエス様はそんな大風に揺られる船の中でも寝ておられました。それはこの世のいのちをすべて神様に委ね切っていたからでした。だからこそ風がやんだ後、「どうして信仰がないのか」と弟子たちに言われたのです。私たちも人生の荒波の中で、沈没しそうになるようなことが多々ありますが、そのとき自分の力や経験にのみ頼る者は、それ以上前に進むことができません。私たちと共にいてくださるイエス様に信頼する者は、何があっても動じることなく、祈りと信仰によって前進させていただくことができますから感謝いたします。

http://bible.com/81/mrk.4.35-41.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/28

2018-10-28 06:35:19 | 今日の聖句
ペトロの手紙一 4:8 新共同訳

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

過去に犯してしまった過ちや罪を何もなかったことにすることはできませんが、心から悔い改めて罪を告白するならば、キリストの十字架に示された神の大いなる愛によって覆い隠されますから感謝いたします。神に罪赦された者として互いに許し合い、神の愛をもって心を込めて愛し合う私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1pe.4.8.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/27

2018-10-27 08:15:14 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 3:1-6

イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。 すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。

安息日に何の働きもしてはならないとの伝統を頑なに守ってきたパリサイ人たちは、会堂に片手の萎えた人がいることを目ざとく見つけ、イエスが彼を癒すだろうと踏んで、この機会にイエスを訴える口実を作ろうとしました。イエス様は彼らの思惑を察し、安息日に善を行い命を救うのと悪を行い殺すのとどちらがよいか、と問いかけると、彼らは黙り込んでしまいました。安息日に善を行う方がよいとわかっていながらだんまりを決め込んで、この機会を利用してイエスを陥れようとしていた心の頑なな彼らに嘆きつつも、イエス様は片手の萎えた人を癒されました。人を憐れみの心で見ることができず、自分たちの主義主張を通すために利用するだけの愛の冷えた人間には、私たちは決してなってはなりません。

http://bible.com/81/mrk.3.1-6.ja1955

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マルコによる福音書 3:7-12

それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、 エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた。 イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。

イエス様の行くところどこでも、群衆がついてきました。そしてユダヤとイスラエルの全土のみならず、ツロ、シドンの異邦人の地からも、イエス様の噂を聞いて集まってきました。イエス様は病人を癒し、汚れた霊を追い出しましたが、ご自身を神の子と話さないように戒められました。人の噂話を聞いてその言う通り盲信的に信じるのではなく、直接イエス様と出会い、自分の心でイエス様が神の御子救い主であると告白するのでなければ、信仰は空しいものです。

http://bible.com/81/mrk.3.7-12.ja1955

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マルコによる福音書 3:13-20

さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、 またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。 つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。イエスが家にはいられると、 群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。

いと高き神の御子であるイエス様でも、一人の人間として地上の生涯を送られた以上、お一人でできることには限界があります。そこでイエス様は弟子たちの中から御心に適った者12人を選び、ご自分の御側近くに置いて訓練し、イスラエル全土に福音を宣べ伝えるために宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を授けられました。12使徒に選ばれた者の顔ぶれを見ると、無学なただ人とも言われた元漁師もいれば律法を熱心に学んだ知識人もおり、中にはテロリストまがいの国粋主義者がいると思えばローマの手先としめ働いてきた元取税人まで、実に様々でした。これは神の国に招かれた者の多様性、すべての人に福音の門戸は開かれていることが端的に表されたたものです。同時に、神様の働きに携わる者は、イエス様の御側近くでしっかりと弟子訓練を受けるべきことをも意味しています。私たちもまたイエス様の御言葉から正しく学び、神様から託された使命を果たされなければなりません。

http://bible.com/81/mrk.3.13-20.ja1955

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マルコによる福音書 3:21-30

身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。 また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。 もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。 だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。

イエス様の家族は、共に暮らしていた時代と余りにもかけ離れてしまったイエス様を気が狂ったと勘違いして取り押さえに出てきました。それはエルサレムから派遣されてきた由緒正しい立派な律法学者たちが、イエス様は悪霊どものかしらによって悪霊を追い出していると非難していたからです。しかしイエス様はその言葉を激しく否定し、殊に聖霊なる神様の働きを悪霊によるものだと決めつけた彼らの言葉に対して、人の犯した罪は赦されることはあっても、聖霊なる神様を汚す言葉は決して赦されないと厳しく戒められました。私たちも聖霊を悲しませることをしてはいないか今一度吟味し、神様を汚すような言動を慎む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.3.21-30.ja1955

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マルコによる福音書 3:31-35

さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。 すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。 そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

イエスが気が狂ったと思って連れ帰ろうとしたイエス様の家族は、人を送ってイエス様を自分たちの元に呼び寄せようとしましたが、イエス様は神の御心を行う者こそ真の神の家族なのだと答えられました。たといこの世における身内であっても、神の御子なるイエス様を自分たちの元に引き寄せるのではなく、自分たちの側から神様に近付く姿勢を守らなければ、天における神の家族となることはできません。

http://bible.com/81/mrk.3.31-35.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/27

2018-10-27 06:45:33 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 4:19 新共同訳

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

一度も愛されたことのない人は、どのようにして人を愛ればよいかわからないと言われます。それでも人が不器用ながらも自然と誰かを愛するようになるのは、まず天の父なる神様が私たちを愛してくださっているからです。神様の大いなる愛を受けて、まことの愛を知る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.4.19.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/26

2018-10-26 07:55:08 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 2:1-4

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。

主イエスの噂が広まると共に、行く所どこででも人だかりができるようになりました。そのためイエス様がカペナウムに戻ってこられ家におられるとの情報を得た中風の男の友人たちは、せっかくイエス様に癒していただこうと連れてきたのに、御許に近付くことさえできなくなってしまいました。そこで彼らは大胆にも家の屋根をはがして吊り下ろすという行動に出ました。友人にイエス様を紹介するために、自分はここまで一所懸命に労しているだろうかと反省させられることしきりです。

http://bible.com/81/mrk.2.1-4.ja1955

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マルコによる福音書 2:5-12

イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。

イエス様は中風の男の友人たちの熱心な信仰に心動かされ、彼に向かってあなたの罪は赦されたと宣言されました。しかしその言葉を聞いた律法学者は、これは神を汚す暴言だと不服を抱きました。そんな彼らの心を見抜いたイエス様は、目には見えない罪の赦しと、目に見える病の癒しと、どちらが簡単に宣言できるかと問いかけた上で、病の男に向かって起き上がって家に帰るように命じると、彼は直ちに病の床から起き上がって家に帰りました。この一部始終を目の当たりにした人々は大いに驚くと共に、神をあがめました。私たちは素晴らしい御業を見るときに、些細なことを問題視して咎める心ではなく、素直に神をほめたたえる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.2.5-12.ja1955

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マルコによる福音書 2:13-17

イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。 また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。 それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

当時も今も、共に食事をすることはお互いに仲間同士であることを公言するようなものです。イエスに招かれて従った取税人マタイが自分の友人たちを招いてイエス様と共に食事をしていると、厳格なパリサイ派の律法学者たちは罪人の仲間だと揶揄しました。するとイエス様は、自分は罪人を招いて義に導くためにこの世に来られたのだと答えました。イエス様の福音は、自分はきよく正しい者だと自認している(その実、欺瞞に満ちている)人々にではなく、自分は罪深い者だと素直に認めることのできる者に向けられています。

http://bible.com/81/mrk.2.13-17.ja1955

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マルコによる福音書 2:18-22

ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。 しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。 だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。

断食の本来の趣旨は、食事を摂る時間を惜しんで神様に心を集中することにあります。しかしパリサイ人たちは人々から断食をしている立派な人だと賞賛されるために断食をしていました。人々がなぜ断食をしないかと問うと、イエス様は婚礼の宴席で断食ができるかと答えられ、よいことを行うにも時と場合があることを教えられました。新しいぶどう酒と皮袋の譬は、固定観念に縛られることなく御心をその都度求めて臨機応変に対処することの重要性を説いたものです。

http://bible.com/81/mrk.2.18-22.ja1955

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マルコによる福音書 2:23-28

ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

パリサイ人たちが重要視していた当時の安息日の教えは、神様が直接モーセに語られた律法を通り越して、あれをしてはならない、これをしてはならないと、後の人々が付け加えた言い伝えに過ぎませんでした。飢えを満たすために落ち穂を摘んだイエス様の弟子たちに向かって安息日を破ったと訴えるパリサイ人たちに向かって、イエス様は彼らの尊敬してやまないダビデでさえ飢えを満たすために祭司しか食べることのできないパンを食べたと旧約聖書を引用し、律法のために人が生きているのではなく、人が生きるために律法があるのだと反論されました。人の行いに逐一ケチをつけて裁く者ではなく、愛と憐れみの心で人を受け入れ、人を生かす私たちでありますように。

http://bible.com/81/mrk.2.23-28.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/26

2018-10-26 06:50:12 | 今日の聖句
ルカによる福音書 6:27-28 新共同訳

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

自分に好意を寄せている人には親切にし気にくわない人には辛く当たるのが人の常です。殊に自分に敵意を抱く者を愛することは人並みの努力では到底できませんが、すべての人を愛しておられる神様の大いなる愛をいただいて、どんな人でも愛をもって接する心を授けていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/luk.6.27-28.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/25

2018-10-25 07:45:21 | 一日一章・聖書通読日記
マルコによる福音書 1:1-8

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。

マルコによる福音書は、四福音書の中で最も初期に記されたもので、当時はまだイエス様が地上の生涯を送られたときに行動を共にした人々も多くいたため、その記述は簡潔に記されています。そしてイエス様を自分の目で見ていながらまだ信じていなかった人々に宛てたもので、「信じなかった」「悟らなかった」という表現が多いことも特徴です。冒頭でバプテスマのヨハネの出現を記して、主イエス・キリストの福音のはじめ、として旧約の預言が実現したことを著していますが、当時の人々にとってはそれさえも隠された真理だったのです。私たちは信仰の目で歴史を見ないと、背後で働かれる神様の御手を見ることはできません。

http://bible.com/81/mrk.1.1-8.ja1955

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マルコによる福音書 1:9-15

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

バプテスマのヨハネは来るべきメシヤを「聖霊によってバプテスマをお授けになる」と公言していたように、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられると、ただちに聖霊が鳩のように降ってイエスに宿り、その後の荒野の試練にも耐える力を与え、ガリラヤから神の福音を宣べ伝える力を授かりました。私たちもまた御霊に満たされなければ何一つできない者であることを認めて、日々聖霊の力をいただいて神と共に歩む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.1.9-15.ja1955

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マルコによる福音書 1:16-20

さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。

イエス様がガリラヤから福音を語り始めるに際し、「人を漁る漁師にしてあげよう」と、最も初期の弟子たちをガリラヤ湖の漁師たちからお選びになりました。水面の下にいる目には見えない魚を一網打尽にする漁師から、罪の世の暗闇の中でまだ福音に目の開かれていない人々を救い出す漁師へと変えられたのです。人を救いに導くことは、目には見えない水面下に網をおろすように、予測のつかない、思い通りにはならない、先の見通しも立たない大事業ですが、主が共にいてくださるならば、必ず救われる人が起こされます。

http://bible.com/81/mrk.1.16-20.ja1955

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マルコによる福音書 1:21-28

それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、 「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。 イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。 すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。 人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。 こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。

イエス様は弟子たちを伴って会堂(シナゴーグ)に入り、福音のメッセージを語られました。それは当時の律法の教えとは全く異なる教え、人の伝聞によるものではない、神の一人子から直接語られる権威ある御言葉でした。そしてその場にいた悪霊に憑かれた人から、汚れた霊を追い出すことのできる力がありました。イエス様の教えを聞いた人々は、新しい教えに驚嘆し、ガリラヤ一帯に広まりました。本物を前にした贋作には何の価値もないように、真理の御言葉だけが光を放ちます。

http://bible.com/81/mrk.1.21-28.ja1955
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【今日の聖句】 2018/10/25

2018-10-25 06:50:25 | 今日の聖句
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

私たちは本来、天国に入る資格などない汚れた罪人に過ぎないのに、神様の深い憐れみの故に特別に天の御国へ招待された者です。高慢になることなく、地上の恥ずべき行いを改め、愛と忍耐、平和、柔和、寛容などの天に国籍を持つ者として相応しい品格を身に付ける私たちでありますように。

http://bible.com/1819/eph.4.1-3.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/10/24

2018-10-24 07:22:31 | 一日一章・聖書通読日記
マタイによる福音書 28:1-7

さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。

イエス様が十字架で息を引き取られてから3日目の朝、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤがイエス様の遺骸に香油を塗るためにアリマタヤのヨセフが葬った墓に行くと、主の御使が墓石を転がして大きな地震が起こりました。そして恐怖におびえていた女性たちに、主イエスはよみがえられたこと、弟子たちよりも先にガリラヤに向かわれ、そこで主にお会いできると弟子たちに伝えるように告げました。この福音を初めて聞くことのできた恵みは、せめて一目でも主イエスに会いたいと夜明け早々に出かけた女性たちが戴くことのできた祝福です。

http://bible.com/81/mat.28.1-7.ja1955

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マタイによる福音書 28:8-10

そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

御使の語られた言葉を弟子たちに伝えるために急いで走っていった女性たちは、よみがえられたイエス様に最初に出会い礼拝する恵みをもいただくことができました。イエス様が「平安あれ」と語られたそのとき、恐れは喜びに変わり、涙は感謝に変わりました。私たちもまた聖日の朝、主イエスを礼拝する毎に、喜びと感謝に満ちあふれる信仰生活を送らせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mat.28.8-10.ja1955

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マタイによる福音書 28:11-15

女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

墓の番をしていた者たちは、事の始終をいっさい、祭司長立ちに報告しました。すると祭司長たちは多額の金銭で彼らを買収して、口止めと隠蔽工作を働きました。同じ出来事を見ても、恵みと受け止めるか、やっかい事と受け止めるかで、全く正反対の行動につながります。目先の利益や欲望に目を奪われることなく、真実をありのままに受け入れ、事実を曲げることなく信じる私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.28.11-15.ja1955

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マタイによる福音書 28:16-20

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

女性たちの報告を聞いた弟子たちはガリラヤに向かい、かねてから聞かされていた山に登ると、そこでよみがえられたイエス様に出会うことができました。しかし目の前にイエス様が現れても疑う者もいたと記されています。別の福音書で、イエス様をこの目で見、この指で触って確かめなかったら信じないと言ったトマスも、よみがえりのイエス様に出会って主を拝しました。信じない者にならないで信じる者でありたいと願います。そしてイエス様は天に昇られる前、地上での最後のご命令として、全世界に出て行って福音を宣べ伝えよと、大宣教命令を弟子たちに託されました。現代に生きる私たちもまた主の弟子として、再臨の主を待ち望みつつ、この福音を余すことなく伝える使命を果たす者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mat.28.16-20.ja1955
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