エレミヤ書 5:1-3
エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。 彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、実は、偽って誓うのだ。 主よ、あなたの目は、真実を顧みられるではありませんか。あなたが彼らを打たれても、痛みを覚えず、彼らを滅ぼされても、懲らしめを受けることを拒み、その顔を岩よりも堅くして、悔い改めることを拒みました。
神様はエレミヤに、今のエルサレムに公義を行い真実を求める者が一人でもいるか捜してみよ、一人でもいるならば彼らを赦す、と問いかけられました。しかし実際は神の都エルサレムでさえも、表面的な、中身の伴わない、偽り誓う信仰が横行していました。彼らは神様に撃たれても心に痛みを覚えず、滅ぼされても愛の懲らしめとして受け入れず、悔い改めて神様に立ち帰ることを拒む、心の頑なな者に成り下がっていました。神様の喜ばれる信仰は、心砕かれた、恥も外聞も捨てて悔い崩おれた真実な心です。
http://bible.com/81/jer.5.1-3.ja1955
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エレミヤ書 5:18-19
主は言われる、「しかしその時でも、わたしはことごとくはあなたを滅ぼさない。 あなたの民が、『どうしてわれわれの神、主はこれらのすべての事をわれわれになされたのか』と言うならば、あなたは彼らに答えなければならない、『あなたがたがわたしを捨てて、自分の地で異なる神々に仕えたように、あなたがたは自分のものでない地で異邦の人に仕えるようになる』と」。
数々の恵みと憐れみをもって自分たちを守り導いてくださったまことの神を捨てて偶像礼拝に走り、背信の限りを尽くしてきたイスラエルに対して、それでも主はイスラエルを滅ぼし尽くすことはしないと言われました。それは、自分たちがなぜこのような目に遭ったのかという疑問を持つ者に、神様の元に立ち帰らせるチャンスを与えるためでした。私たちは罪を犯しても、ふと立ち止まって神様の御心を尋ね求める者には回復の道が備えられていますから感謝いたします。
http://bible.com/81/jer.5.18-19.ja1955
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エレミヤ書 5:30-31
驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたはその終りにはどうするつもりか。
世の終わりにはこのように地の面は不義が満ち、悪しき者が幅を利かせ、正しい者が虐げられるようになりますが、更に恐るべきことは、この世に神の義を伝え人を正しい道に導くために召された預言者や祭司たちまでも、偽りの預言をし、神様の御心のままにではなく自分たちの好きなように神様に仕え(ているつもりでいることにさえ気付かない)、人々も自分にとって都合の良い、耳障りのよい御言葉だけを語る霊的指導者たちであることを期待するようになっていました。これは当時のイスラエルだけでなく、現代のキリスト教界の風潮にも当てはまる由々しき事態です。耳の痛い忠告を避けるようになったら、人間おしまいです。私たちは義なる神の真理の御言葉から右にも左にも逸れず、主に喜ばれる正しい信仰、きよい生き方を保ち続けることを怠ってはなりません。
http://bible.com/81/jer.5.30-31.ja1955
エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。 彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、実は、偽って誓うのだ。 主よ、あなたの目は、真実を顧みられるではありませんか。あなたが彼らを打たれても、痛みを覚えず、彼らを滅ぼされても、懲らしめを受けることを拒み、その顔を岩よりも堅くして、悔い改めることを拒みました。
神様はエレミヤに、今のエルサレムに公義を行い真実を求める者が一人でもいるか捜してみよ、一人でもいるならば彼らを赦す、と問いかけられました。しかし実際は神の都エルサレムでさえも、表面的な、中身の伴わない、偽り誓う信仰が横行していました。彼らは神様に撃たれても心に痛みを覚えず、滅ぼされても愛の懲らしめとして受け入れず、悔い改めて神様に立ち帰ることを拒む、心の頑なな者に成り下がっていました。神様の喜ばれる信仰は、心砕かれた、恥も外聞も捨てて悔い崩おれた真実な心です。
http://bible.com/81/jer.5.1-3.ja1955
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エレミヤ書 5:18-19
主は言われる、「しかしその時でも、わたしはことごとくはあなたを滅ぼさない。 あなたの民が、『どうしてわれわれの神、主はこれらのすべての事をわれわれになされたのか』と言うならば、あなたは彼らに答えなければならない、『あなたがたがわたしを捨てて、自分の地で異なる神々に仕えたように、あなたがたは自分のものでない地で異邦の人に仕えるようになる』と」。
数々の恵みと憐れみをもって自分たちを守り導いてくださったまことの神を捨てて偶像礼拝に走り、背信の限りを尽くしてきたイスラエルに対して、それでも主はイスラエルを滅ぼし尽くすことはしないと言われました。それは、自分たちがなぜこのような目に遭ったのかという疑問を持つ者に、神様の元に立ち帰らせるチャンスを与えるためでした。私たちは罪を犯しても、ふと立ち止まって神様の御心を尋ね求める者には回復の道が備えられていますから感謝いたします。
http://bible.com/81/jer.5.18-19.ja1955
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エレミヤ書 5:30-31
驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたはその終りにはどうするつもりか。
世の終わりにはこのように地の面は不義が満ち、悪しき者が幅を利かせ、正しい者が虐げられるようになりますが、更に恐るべきことは、この世に神の義を伝え人を正しい道に導くために召された預言者や祭司たちまでも、偽りの預言をし、神様の御心のままにではなく自分たちの好きなように神様に仕え(ているつもりでいることにさえ気付かない)、人々も自分にとって都合の良い、耳障りのよい御言葉だけを語る霊的指導者たちであることを期待するようになっていました。これは当時のイスラエルだけでなく、現代のキリスト教界の風潮にも当てはまる由々しき事態です。耳の痛い忠告を避けるようになったら、人間おしまいです。私たちは義なる神の真理の御言葉から右にも左にも逸れず、主に喜ばれる正しい信仰、きよい生き方を保ち続けることを怠ってはなりません。
http://bible.com/81/jer.5.30-31.ja1955