伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/03/31

2018-03-31 11:20:29 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 5:1-3
エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす。 彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、実は、偽って誓うのだ。 主よ、あなたの目は、真実を顧みられるではありませんか。あなたが彼らを打たれても、痛みを覚えず、彼らを滅ぼされても、懲らしめを受けることを拒み、その顔を岩よりも堅くして、悔い改めることを拒みました。

神様はエレミヤに、今のエルサレムに公義を行い真実を求める者が一人でもいるか捜してみよ、一人でもいるならば彼らを赦す、と問いかけられました。しかし実際は神の都エルサレムでさえも、表面的な、中身の伴わない、偽り誓う信仰が横行していました。彼らは神様に撃たれても心に痛みを覚えず、滅ぼされても愛の懲らしめとして受け入れず、悔い改めて神様に立ち帰ることを拒む、心の頑なな者に成り下がっていました。神様の喜ばれる信仰は、心砕かれた、恥も外聞も捨てて悔い崩おれた真実な心です。

http://bible.com/81/jer.5.1-3.ja1955

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エレミヤ書 5:18-19
主は言われる、「しかしその時でも、わたしはことごとくはあなたを滅ぼさない。 あなたの民が、『どうしてわれわれの神、主はこれらのすべての事をわれわれになされたのか』と言うならば、あなたは彼らに答えなければならない、『あなたがたがわたしを捨てて、自分の地で異なる神々に仕えたように、あなたがたは自分のものでない地で異邦の人に仕えるようになる』と」。

数々の恵みと憐れみをもって自分たちを守り導いてくださったまことの神を捨てて偶像礼拝に走り、背信の限りを尽くしてきたイスラエルに対して、それでも主はイスラエルを滅ぼし尽くすことはしないと言われました。それは、自分たちがなぜこのような目に遭ったのかという疑問を持つ者に、神様の元に立ち帰らせるチャンスを与えるためでした。私たちは罪を犯しても、ふと立ち止まって神様の御心を尋ね求める者には回復の道が備えられていますから感謝いたします。

http://bible.com/81/jer.5.18-19.ja1955

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エレミヤ書 5:30-31
驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにすることを愛している。しかしあなたがたはその終りにはどうするつもりか。

世の終わりにはこのように地の面は不義が満ち、悪しき者が幅を利かせ、正しい者が虐げられるようになりますが、更に恐るべきことは、この世に神の義を伝え人を正しい道に導くために召された預言者や祭司たちまでも、偽りの預言をし、神様の御心のままにではなく自分たちの好きなように神様に仕え(ているつもりでいることにさえ気付かない)、人々も自分にとって都合の良い、耳障りのよい御言葉だけを語る霊的指導者たちであることを期待するようになっていました。これは当時のイスラエルだけでなく、現代のキリスト教界の風潮にも当てはまる由々しき事態です。耳の痛い忠告を避けるようになったら、人間おしまいです。私たちは義なる神の真理の御言葉から右にも左にも逸れず、主に喜ばれる正しい信仰、きよい生き方を保ち続けることを怠ってはなりません。

http://bible.com/81/jer.5.30-31.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/31

2018-03-31 07:50:16 | 今日の聖句
イザヤ書 25:8
「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。」

主は人にとって最大の絶望である死をもキリストの十字架によって滅ぼして、私たちの目から涙を拭い、辱めを取り除いてくださると語られました。この世の人生は悲しみの連続で、屈辱を味わうことも多いものですが、キリストにある永遠のいのちの希望をいただいて日々を歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.25.8.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/30

2018-03-30 07:45:01 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 4:1-4
主は言われる、「イスラエルよ、もし、あなたが帰るならば、わたしのもとに帰らなければならない。もし、あなたが憎むべき者をわたしの前から取り除いて、ためらうことなく、 また真実と正義と正直とをもって、『主は生きておられる』と誓うならば、万国の民は彼によって祝福を受け、彼によって誇る」。主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる、「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな。 ユダの人々とエルサレムに住む人々よ、あなたがたは自ら割礼を行って、主に属するものとなり、自分の心の前の皮を取り去れ。さもないと、あなたがたの悪しき行いのためにわたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない」。

神様の願いは、イスラエルが神と人とを仲立ちする祭司としての役割を果たし、地上のすべての民の祝福の基となることでした。にもかかわらずイスラエルは自らの繁栄を誇り、特権意識だけが先走りして祭司としての役割を果たさなかったどころか、まことの神を捨てて偶像礼拝に走り、この世を愛してまことの祝福から離れてしまいました。そんな堕落したイスラエルに対して神様は、偶像を捨ててわたしの下に帰れ、心に割礼を行って主に属する者となれと、本来の姿を取り戻すようにと奨められました。先に救われた私たちもまた、自分たちだけの幸福や、この世の繁栄ばかりを追い求めるならば、かつてのイスラエルの民と同じ運命を辿ることになります。神様が求めておられる使命を忘れることなく、神の民としての役割を果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.4.1-4.ja1955

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エレミヤ書 4:10-13
そこでわたしは言った、「ああ主なる神よ、まことにあなたはこの民とエルサレムとをまったく欺かれました。『あなたがたは安らかになる』と言われましたが、つるぎが命にまでも及びました」。 その時この民とエルサレムとはこう告げられる、「熱い風が荒野の裸の山からわたしの民の娘のほうに吹いてくる。これはあおぎ分けるためではなく、清めるためでもない。 これよりもなお激しい風がわたしのために吹く。いまわたしは彼らにさばきを告げる」。 見よ、彼は雲のように上ってくる。その戦車はつむじ風のよう、その馬はわしの飛ぶよりも速い。ああ、われわれはわざわいだ、われわれは滅ぼされる。

神様がエレミヤに告げた預言は、人々に祝福をもたらすものではなく裁きの宣告でした。このような厳しい言葉を告げなけれはならないエレミヤは、欺かれたと思うほどに、自らに課せられた使命の重さに恐れおののきました。しかし神様がエレミヤに告げた平安とは神様に忠実に従う者に対する約束であり、神様に背を向け、好き勝手に振る舞う者に対しては約束されていません。いのちの危険に晒されるほどの逆風吹く中で、厳しい裁きの言葉を民に告げ知らせなければならないエレミヤの苦悩は計り知れないものがありますが、神様が語れという言葉に口をつぐむことは、神様の警告を無視することと同じであり、それは自分にも降りかかる裁きとなります。私たちは最後まで主の僕としての役割を忠実に果たさなければなりません。

http://bible.com/81/jer.4.10-13.ja1955

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エレミヤ書 4:19-22
ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は、はげしく鼓動する。わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。 破壊に次ぐに破壊があり、全地は荒され、わたしの天幕はにわかに破られ、わたしの幕はたちまち破られた。 いつまでわたしは旗を見、またラッパの声を聞かなければならないのか。 「わたしの民は愚かであって、わたしを知らない。彼らは愚鈍な子どもらで、悟ることがない。彼らは悪を行うのにさといけれども、善を行うことを知らない」。

神様から厳しい裁きの預言を授かったエレミヤは、その恐ろしい結末、すなわちバビロンがユダに攻め込んで、主がイスラエルに賜った嗣業の地を蹂躙する光景を心に思い描いて、はらわたが苦くなるほどに、心臓が激しく鼓動するほどに、苦しみ悶えました。神様から告げられた厳しい裁きの預言を他人事と思わず、自分に向けられたものとして受け止めることのできたエレミヤの霊性を、ここに垣間見ることができます。執り為しの基本は、執り為す相手と一体化することから始まります。執り為しを自分のものとして祈らなければ、心を伴わない上っ面の言葉遊びに過ぎません。先に救われ神の民とされた私たちクリスチャンは尚更、神様と世の人々とをつなぐ中保者としての使命を果たすために、滅び行く人々の行く末を自分のものとして受け止め、真剣に救いを祈る者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/jer.4.19-22.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/30

2018-03-30 06:45:07 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 5:8 新共同訳
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

他人のために自分のいのちを差し出す人は滅多にいません。まして自分と敵対関係にあった罪人のためになど、なおさらです。しかし主イエスは父なる神の私たちに対する愛を示すために自らいのちを捨て、すべての罪を購ってくださいました。十字架に示された神の大いなる愛を黙って見過ごすことなく、心から感謝して受け入れる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.5.8.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/29

2018-03-29 07:50:40 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 3:6-10
ヨシヤ王の時、主はまたわたしに言われた、「あなたは、かの背信のイスラエルがしたことを見たか。彼女はすべての高い丘にのぼり、すべての青木の下に行って、そこで姦淫を行った。 わたしは、彼女がこのすべてを行った後、わたしの所に帰るであろうと思ったが、帰ってこなかった。その不信の姉妹ユダはこれを見た。 わたしが背信のイスラエルを、そのすべての姦淫のゆえに、離縁状を与えて出したのをユダは見た。しかもその不信の姉妹ユダは恐れず、自分も行って姦淫を行った。 彼女にとって姦淫は軽いことであったので、石と木とに姦淫を行って、この地を汚した。 このすべての事があっても、なおその不信の姉妹ユダは真心をもってわたしに帰らない、ただ偽っているだけだ」と主は言われる。

神様はエレミヤに北イスラエル王国と南ユダ王国の歴史を振り返らされました。ソロモン王の後に分裂した北イスラエル王国は、建国の時から偶像礼拝を行い続けたため、先にアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。妹にたとえられた南ユダ王国は、北イスラエル王国の滅ぼされた様を見ながら、自ら偶像礼拝を行い、特にヨシヤ王の祖父マナセ王の時代には、エルサレムの神殿の中にまで偶像を安置するほどでした。この背信行為が決定的となり、ユダの国の人々の心は神様から遠く離れ、ヨシヤ王の宗教改革も既に焼け石に水で、神様は南ユダ王国も滅ぼすことを決心されました。神様を信じる振りをしていながら偶像礼拝を行う罪は、神様を知らずに偶像礼拝を行う罪よりも重い罪です。

http://bible.com/81/jer.3.6-10.ja1955

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エレミヤ書 3:11-13
主はまたわたしに言われた、「背信のイスラエルは不信のユダよりも自分の罪の少ないことを示した。 あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。 ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいてすべての青木の下で異なる神々にあなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。』」

神様は先に滅ぼされた北イスラエル王国の人々に対し、まことの神とは異なる偶像の神々を拝んだ罪を認めて悔い改めの告白をするようにと、エレミヤに告げさせました。罪を認めて告白し、心から悔い改めるならば、神様はいつまでも怒ることをしない、慈しみと憐れみに富む主です。

http://bible.com/81/jer.3.11-13.ja1955

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エレミヤ書 3:15-17
「わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。 主は言われる、あなたがたが地に増して多くなるとき、その日には、人々はかさねて「主の契約の箱」と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない。 そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。」

御心に適う牧者とは、やがて来られる救い主イエス様を予表する預言です。そのときには、バビロン捕囚の際に失われたモーセの契約の箱を再び思い出さない、すなわち、出エジプトによる古い救いの契約は破棄され、キリストの十字架による新しい救いの計画が有効になるという福音の預言です。そのとき主の御名を信じる者は新しいエルサレム、永遠の神の都に集められ、再び心を頑なにして罪を犯すことをしないと主は言われました。まことの神に聞き従わず、裏切り続けてきた罪を悔い改め、キリストの十字架による購いを信じて主に立ち帰り、聖徒らと共に永遠に神の御国に住まわせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.3.15-17.ja1955

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エレミヤ書 3:21-23
裸の山の上に声が聞える、イスラエルの民が悲しみ祈るのである。彼らが曲った道に歩み、その神、主を忘れたからだ。 「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす」。「見よ、われわれはあなたのもとに帰ります。あなたはわれわれの神、主であらせられます。 まことに、もろもろの丘は迷いであり、山の上の騒ぎも同じです。まことに、イスラエルの救はわれわれの神、主にあるのです。」

神様はいつまでも背信のイスラエルに憤られたままではなく、わたしの下に帰れと、再び神の民となるように招いておられます。私たちはただ主の招きに応答して、あなたはわれわれの神、主です、救いはあなたにありますと、心から背信の罪を悔い改め、主の元に立ち帰って、失われた神様との関係を修復し、信仰の傷を癒していただき、再び神の民としての再スタートを切らせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.3.21-23.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/29

2018-03-29 06:35:22 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 6:23 新共同訳
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

人は誰一人として死を免れることはできません。この罪と死の縄目から私たちを解き放つために、主イエスは私たちの身代わりに十字架で死んでくださいました。神様の一方的な恵みによって与えられた永遠のいのちという賜物を、拒む理由などありません。この恵みを喜んで受け入れる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.6.23.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/28

2018-03-28 07:55:11 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 2:1-3
主の言葉がわたしに臨んで言う、 「行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、わたしはあなたの若い時の純情、花嫁の時の愛、荒野なる、種まかぬ地でわたしに従ったことを覚えている。 イスラエルは主のために聖別されたもの、その刈入れの初穂である。すべてこれを食べる者は罪せられ、災にあう」と主は言われる。

私たちはなぜ神様を信じるのか?という基本的な問いかけに対して、まず神様が何をしてくださったか思い起こし、信仰の原点に立ち帰ることが重要です。エレミヤは聖なる都エルサレムに住む人々に対し、初期のイスラエル民族がどのように神様との純粋な関係を保っていたかを語りました。初心忘れるべからず、自分たちは神様のために聖別された民というアイデンティティーを再認識して、神様に聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.2.1-3.ja1955

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エレミヤ書 2:4-7
ヤコブの家とイスラエルの家のすべてのやからよ、主の言葉を聞け。 主はこう言われる、「あなたがたの先祖は、わたしになんの悪い事があるのを見て、わたしから遠ざかり、むなしいものに従って、むなしくなったのか。 彼らは言わなかった、『われわれをエジプトの地より導き出し、荒野なる、穴の多い荒れた地、かわいた濃い暗黒の地、人の通らない、人の住まない地を通らせた主はどこにおられるか』と。 わたしはあなたがたを導いて豊かな地に入れ、その実と良い物を食べさせた。しかしあなたがたはここにはいって、わたしの地を汚し、わたしの嗣業を憎むべきものとした。」

こんなにも主はイスラエルを特別扱いしてエジプトから導き出し、約束の地に入らせて豊かな恵みを満喫させてくださったのに、イスラエルはいとも簡単に主を捨て、偶像の神々に仕えて、祝福の地を汚してしまったと主は嘆き悲しまれました。この主の悲しみに寄り添い、人々が心から悔い改めて主に立ち帰ることができるように祈り、また働きかけ続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.2.4-7.ja1955

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エレミヤ書 2:8-9
「祭司たちは、『主はどこにおられるか』と言わなかった。律法を扱う者たちはわたしを知らず、つかさたちはわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言し、益なき者に従って行った。 それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う、またあなたがたの子孫と争う」と主は言われる。

イスラエルの罪は一般庶民だけでなく、霊的な指導者であるはずの祭司や国のつかさたちまで主に尋ね求めようとせず、神の律法を解き明かすために選ばれたレビ人、神様の御言葉を告げ知らせるために選ばれた預言者たちまでが、こぞって偶像の神々に仕えるほどに、信仰が堕落してしまいました。そのため主はイスラエルを捨て、その子孫と争うとまで断言されました。霊的な堕落と神様との断絶は、悲劇的な結末を呼び込みます。罪に気付いたならば直ちに悔い改め、神様との関係を修復することをためらってはなりません。

http://bible.com/81/jer.2.8-9.ja1955

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エレミヤ書 2:18-19
「あなたがナイルの水を飲もうとして、エジプトへ行くのは何のためか。またユフラテの水を飲もうとして、アッスリヤへ行くのは何のためか。 あなたの悪事はあなたを懲らしめ、あなたの背信はあなたを責める。あなたが、あなたの神、主を捨てることの悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。

まことの王であられる神様を忘れたイスラエルの民は、人の知恵や政治力に頼ってアッシリヤやエジプトなどの大国に取り入ることによって生き延びようとしました。しかしこの背信行為こそが神様を怒らせ、主を捨てることが及ぼす苦々しい結末を痛いほど味わうことになりました。まことの神であられる主を畏れない者は、厳しい責めを免れることはできません。

http://bible.com/81/jer.2.18-19.ja1955

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エレミヤ書 2:27-28
「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父です』と言い、また石に向かって、『あなたはわたしを生んでくださった』と言う。彼らは背をわたしに向けて、その顔をわたしに向けない。しかし彼らが災にあう時は、『立って、われわれを救いたまえ』と言う。 あなたが自分のために造った神々はどこにいるのか。あなたが災にあう時、もし彼らがあなたを救えるなら、立ってもらうがよい。ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほど多いからである。」

困ったときの神頼みという諺の如く、普段は木や石で造った偶像を拝み仕えながら、困難や試練の時だけ神様に頼ろうとしたイスラエルに対し、主は、普段から礼拝を欠かさない偶像の神々に救ってもらえばよいと、厳しく突き放されました。人の手によって造られた数多の神々に、人を救える力があるでしょうか。この矛盾に気付かずに、鰯の頭も信心からと拝む姿は実に滑稽です。私たちが真に仕えるべきは、天地万物を造り、私たちにいのちを与えられたまことの神、ただお一人です。

http://bible.com/81/jer.2.27-28.ja1955

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エレミヤ書 2:29-31
「あなたがたは、なぜわたしと争うのか。あなたがたは皆わたしにそむいている」と主は言われる。 「わたしがあなたがたの子どもたちを打ったのはむだであった。彼らは戒めを受けず、あなたがたのつるぎは、たけりたつししのように、預言者たちを滅ぼした。 あなたがたこの世代の人よ、主の言葉を聞け。わたしはイスラエルにとって、荒野であったであろうか。暗黒の地であったであろうか。それならなぜ、わたしの民は『われわれは自由だ、もはやあなたのところへは行かない』と言うのか。」

人は厳しい戒めの言葉に耳を傾けるよりも、自分にとって都合の良い、耳障りのよい言葉を好みます。神様がイスラエルを正しい道に立ち帰らせるために遣わされた預言者たちの言葉に耳を貸さず、むしろ彼らを迫害し、剣で殺し、好き勝手にあしらって神様から離れ行こうとするイスラエルの傍若無人な態度に、ついに神様は裁きをもって臨まれる決断を下しました。その後のイスラエルの没落と苦難は、現在に至るまで続いています。彼らの過ちを繰り返すことなく、反面教師としてまことの神、主の戒めに聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jer.2.29-31.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/28

2018-03-28 06:35:04 | 今日の聖句
イザヤ書 53:5 新共同訳
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

しみも咎も汚れもなき尊き神の御子イエスが、私たちの罪科の身代わりとして十字架に命を落とされたことは、まぎれもない歴史的事実です。この十字架の購いを、他でもない自分のための救いの御業と信じ受け入れ、罪赦され、きよめられて、神との平和を回復させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/isa.53.5.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/27

2018-03-27 07:55:04 | 一日一章・聖書通読日記
エレミヤ書 1:1-3
「ベニヤミンの地アナトテの祭司のひとりである、ヒルキヤの子エレミヤの言葉。 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時、すなわちその治世の十三年に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。 その言葉はまたヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時にも臨んで、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの十一年の終り、すなわちその年の五月にエルサレムの民が捕え移された時にまで及んだ。」

「涙の預言者」とも呼ばれるエレミヤが祭司の家系の中から預言者として召命されたのは、ヨシヤ王の在位13年目の紀元前640年に始まり、南ユダ王国最後の王ゼデキヤの在位11年、すなわちエルサレムが陥落し最後のバビロン捕囚が行われた紀元前586年にまで及びました。イザヤの時代はアッスリヤがイスラエルの脅威となっていましたが、エレミヤの時代はアッスリヤの後に台頭したバビロンがユダ王国を攻め、やがて国を滅ぼすことになります。エレミヤは南ユダ王国の滅亡を預言するために召命されたと言っても過言ではありません。それが「涙の預言者」と呼ばれる所以です。しかしエレミヤが語った預言は国が滅びる絶望だけでなく、裁きの後に新たな国を興す希望の預言でもあります。神様の御言葉を通り一遍に表面的にしか読まないならば、裁きと絶望しか読み取れませんが、信仰の目を大きく開いて深く読みとるならば、永遠の希望が約束されています。

http://bible.com/81/jer.1.1-3.ja1955

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エレミヤ書 1:4
『主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。 』

エレミヤの召命は、彼がまだ生まれる前から、母の胎内ににいのちを宿す前から神様によって定められ、生別されていたとあります。これはまさにパプテスマのヨハネやイエス様と同じですが、それは実は私たちも同じです。私たちがこの世に生を受けるのは、神様が私たちの生まれる前から、一人一人に目的を持っておられるからです。神様の授けてくださるいのちを、神様の目的のために用いることこそ、私たちの人生の目的、いのちの理由です。

http://bible.com/81/jer.1.4.ja1955

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エレミヤ書 1:5-8
『その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。 しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。』

神様の立てられた壮大なご計画の前に、歳若きエレミヤは自分には荷が重すぎると恐れ、わたしはまだ若者に過ぎないと率直に答えました。この素直な心は彼の心の謙遜さをも表しています。神様はそんなエレミヤに対し、年が若いからと言い訳することなく、主ご自身が共にいて救うという約束に信頼して従いなさいと促され、エレミヤはその御言葉に聞き従いました。彼の預言者としての活動は、幾多の困難、反対、迫害に遭うものでしたが、そのような中でも最後まで使命を全うできたのは「私が共にいる」という神様の約束に信頼したからです。私たちの人生も数々の困難に遭いますが、主が共にいてくださるとの約束を確信して、力強く歩ませていただきたいと願います。

http://bible.com/81/jer.1.5-8.ja1955

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エレミヤ書 1:9-12
『そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。 主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」。』

預言者の使命は、神様が語れと言われた御言葉を、包み隠さず宣べ伝えることです。そのためには自らの唇をきよめていただかなければなりません。先の預言者イザヤもまた神の使であるセラフィムによって唇をきよめていただいたように、エレミヤもまた神様ご自身がその唇に触れ、きよめていただきました。それは、エレミヤの語る言葉が人の考えや知恵、知識としてではなく、神様から直接、御言葉を授けられて語るためです。人の言葉に力があるのではなく、生ける神の御言葉にこそ、まことの力があります。そして神様の御言葉は、年の始めに真っ先に咲くアーモンドの花のように、時代の先を行く、必ず実現する真理の御言葉です。

http://bible.com/81/jer.1.9-12.ja1955

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エレミヤ書 1:17-19
「しかしあなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる。 見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。 彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。」

エレミヤの生涯は、数多くの反対者、迫害者との対決の連続でした。しかしエレミヤは「私が共にいる」との神様の約束に堅く信頼して、最後まで預言者としての人生を全うしました。人を恐れることなく、神様を畏れることこそ、勝利の人生の秘訣です。

http://bible.com/81/jer.1.17-19.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/27

2018-03-27 06:35:24 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 8:11 新共同訳
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

キリストの十字架とよみがえりを信じる者は、主イエスを死人の中からよみがえらせた方の霊、すなわち聖霊を心に宿しています。この御霊の働きにより、キリストと共に罪を十字架につけ、キリストと共に新しいいのちを与えられて、神と共に永遠に生きる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.8.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/26

2018-03-26 07:45:22 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 66:1-2
『主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか」。 主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。」』

「嘆きの壁」で祈る敬虔なユダヤ教徒のように、イスラエル人の心に神殿信仰があります。神様を礼拝するために建てられた神殿が、いつの間にか礼拝の対象になってしまっているのです。そのような信仰の取り違えをしているイスラエル人に対し、神様は、天地万物を創造された神様の住まう家は神殿ではなく、主の御前にへりくだって悔い改め、主の御言葉に聞き従う者の心の中にあると言われました。私たちは神様をお迎えする聖なる宮として、きよく、御心に従う従順な心を保つ者でありたいと願います。

http://bible.com/81/isa.66.1-2.ja1955

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イザヤ書 66:7-9
『シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。 だれがこのような事を聞いたか、だれがこのような事どもを見たか。一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなやその子らを産んだ。 わたしが出産に臨ませて産ませないことがあろうか」と主は言われる。「わたしは産ませる者なのに胎をとざすであろうか」とあなたの神は言われる。』

神様は新天新地の創造について、産みの苦しみもないうちに突如として子を産む安産にたとえられました。なぜなら神様の御言葉は確実であり、現実のものとして必ず成就するからです。命の誕生が神様の御心次第であるように、聖なる都エルサレムの回復、永遠の宮の完成もまた神様の御心のままに造られます。それがいつ訪れるかは、私たちには明かされていませんが、再臨の主を待ち望む緊張感を保って日々の信仰生活を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.66.7-9.ja1955

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イザヤ書 66:18, 20-21
『「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。

彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。 「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。」』

神様はもはやイスラエル人だけの神ではなく、きよい信仰生活を送り心から主を待ち望むすべての民の神となって、彼らを主の宮に集めてその栄光を見させると約束してくださいました。そして私たち異邦人の中からも、相応しい人を選んでいと高き神の祭司とし、また神に仕えるレビ人を起こすと言われました。この特権に与らせていただく恵みに感謝し、喜んで神様に従い、誠心誠意、仕えさせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.66.18,20-21.ja1955

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イザヤ書 66:22-23
『「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。』

神様が新たに造られる新天新地、すなわち永遠の御国は、まことの神を信じ仕える私たちの子孫に及び、いのちの書に記されたその名は長く留まると約束してくださいました。神の御国に入れられ、永遠に神様の御前に仕え、礼拝する特権に与らせていただく恵みに感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.66.22-23.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/26

2018-03-26 06:35:47 | 今日の聖句
マタイによる福音書 20:28 新共同訳
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

この世では、人の上に立つ者はふんぞり返って人々を顎で使いますが、いと高き神の御子イエスは十字架の死に至るまで己を低くして、この世の最も小さな者に対しても僕の姿勢を貫かれました。この主イエスの姿に倣い、人々に仕える僕となって神の栄光を現す私たちでありますように。

http://bible.com/1819/mat.20.28.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/25

2018-03-25 08:35:41 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 65:1-2
『わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。』

神様の御思いは、主から遠く離れ、尋ね求めることさえしなかった人々が一人でも多く、造り主である神様を再発見し、尋ね求めるようになることを願っておられます。そのために神様は大自然の素晴らしさや天からの恵みなど、様々な方法を通してご自身の存在を現され、主に聞き従わず自分勝手に生きている世の人々に絶えず救いの手を差し伸べ続け、主の御許へと招いておられます。この深い愛に気付かずに歩んでいる心の鈍い私たちですが、主の差し伸べられた救いの御手をしっかりと握り締めさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.65.1-2.ja1955

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イザヤ書 65:8-9
主はこう言われる、「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う。そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、ことごとくは滅ぼさない。 わたしはヤコブから子孫をいだし、ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、わがしもべらはそこに住む。」

ぶどうは祝福の象徴であり、また神様という枝につながっていなければ実を結ぶことのできない私たち自身を表しています。神様はぶどうにたとえられた私たちを、一人でも信仰があるならばソドムとゴモラのように滅ぼし尽くすことはしないと言われます。それは一粒の種が多くの実りを生み出すように、まことの信仰者が祝福を受け継ぐ神の民を形成するようにと願っておられるからです。この忍耐強く憐れみ深い神様の愛に気付き、永遠の祝福を受け継ぐ神の民に加えていただきたいと願います。

http://bible.com/81/isa.65.8-9.ja1955

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イザヤ書 65:17-19
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。 わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。」

イエス様がこの世に来られた時代よりも700年以上も前の旧約時代に、すでに神様は死も滅びもない新天新地創造のご計画をイザヤを通して預言されました。それは神の御子キリストの到来と切って離すことのできない、完全な救いのご計画だからです。この世では悩み多く罪深い私たちですが、先のことは覚えられることなく御心に思い起こすことはないと約束された神様の御言葉に感謝し、主イエスの十字架の購いに寄り頼んで永遠の御国を待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.65.17-19.ja1955
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【今日の聖句】 2018/03/25

2018-03-25 06:20:17 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 12:13 新共同訳
『なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」』

エルサレムの人々は、ロバの背に乗って入城するイエス様を自分たちの王として歓喜の声を上げて出迎えました。しかしイエス様の目的はイスラエル人だけの王としてではなく、すべての国々の人々の王として十字架で救いの御業を完成するためでした。棕櫚の聖日の今日、このイエス様の覚悟を真摯に受け止め、自分の幸福だけを願うのではなく、すべての人の平和と祝福を願いつつイエス様を心にお迎えする私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jhn.12.13.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/03/24

2018-03-24 22:55:05 | 一日一章・聖書通読日記
イザヤ書 64:1-4
「どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。 火が柴木を燃やし、火が水を沸かすときのごとく下られるように。そして、み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に震えおののかせられるように。 あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事をなされた時に下られたので、山々は震い動いた。 いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。」

神様は力強いお方、すべてのものを焼き尽くし瞬時に水を沸騰させる激しい火のような、恐るべき力を持つお方です。かつてイスラエルの民がシナイ山で律法を授かったとき、山は全山煙り、地は震え動き、雷鳴り渡る様子に、人々は死を覚悟するほどに主を恐れました。なぜ神様はそのような恐ろしい姿をイスラエルに見せたのでしょうか。それは人が神様を畏れることを身をもって学ぶためです。私たちの神様に対するイメージは愛なる神様、何となくホンワリとした、人に優しいお方というイメージが強いかもしれません。しかしそのような一面だけで神様を捉えていると、私たちは神様を侮るようになります。かつて神様の真の姿を見たイスラエルですら、多くの時代を経て神様に背くようになったのですから、私たちは心して神様を畏れるべきことを胸に刻みつけるように学ばなければなりません。

http://bible.com/81/isa.64.1-4.ja1955

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イザヤ書 64:5-7
「あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。 あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。」

いと聖なる神様の御前では、人間が考える正しさなど血まみれで泥だらけになった衣服のようなもので、そう簡単に落とせるような汚れ具合でありません。それほど人間の罪は深くどろどろとしたもので、容易く救済できるようなものではないことを、私たちは深く認識する必要があります。己の罪深さを正しく認識しなければ、神様の救いの御業がどれほど計り知れない、到底あり得ない恵みであるか、自分のものとして受け止めることはできません。義なる神の圧倒的なきよさに触れたイザヤのように、わざわいなるかな、私は滅びるばかりだと告白せざるを得ない、己の罪深さを正しく認識し、十字架に現された神の愛の大きさ、赦しの恵みの深さ広さを真の意味で味わい知る私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.64.5-7.ja1955

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イザヤ書 64:8-9
「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。」

聖なる神様の御前に自分は汚れ果てた存在に過ぎないという自己認識の一方で、造り主なる神様は人をも再び造り変えてくださるお方ですと告白することのできるさいわいに感謝いたします。あたかも陶器師が整形に失敗した作品を、粘土を再び練り直して新しい作品を作り出すかのように、不義にまみれた私たちを作り直して新しい心を授けてくださると信じて、御心に適う神の民とならせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/isa.64.8-9.ja1955
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