伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/12/31

2018-12-31 09:05:24 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 7:1-8

大祭司は「そのとおりか」と尋ねた。 そこで、ステパノが言った、「兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。 神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。 それから、さらに仰せになった、『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』。 そして、神はアブラハムに、割礼の契約をお与えになった。こうして、彼はイサクの父となり、これに八日目に割礼を施し、それから、イサクはヤコブの父となり、ヤコブは十二人の族長たちの父となった。」

ここから長いステパノの説教が続きますが、彼が訴えられた理由は、リベルテン派の人々が、
「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」
「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません 」
と偽証したためでした。そこでステパノは、モーセと律法、神殿の成り立ちについて、イスラエルの歴史から紐解いて、説き始めるに至ったのです。聖書解釈も歴史解釈も、通り一遍の知識に留まっては真理を悟ることはできません。聖霊のよって御言葉を解き明かしていただき、信仰によって神の御心を悟らせていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.7.1-8.ja1955

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使徒行伝 7:9-16

「族長たちは、ヨセフをねたんで、エジプトに売りとばした。しかし、神は彼と共にいまして、 あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みを与え、知恵をあらわさせた。そこで、パロは彼を宰相の任につかせ、エジプトならびに王家全体の支配に当らせた。 時に、エジプトとカナンとの全土にわたって、ききんが起り、大きな苦難が襲ってきて、わたしたちの先祖たちは、食物が得られなくなった。 ヤコブは、エジプトには食糧があると聞いて、初めに先祖たちをつかわしたが、 二回目の時に、ヨセフが兄弟たちに、自分の身の上を打ち明けたので、彼の親族関係がパロに知れてきた。 ヨセフは使をやって、父ヤコブと七十五人にのぼる親族一同とを招いた。 こうして、ヤコブはエジプトに下り、彼自身も先祖たちもそこで死に、 それから彼らは、シケムに移されて、かねてアブラハムがいくらかの金を出してこの地のハモルの子らから買っておいた墓に、葬られた。」

6節まではイスラエル12部族の成り立ちについて解き明かし、13節からはイスラエルの間に妬みが入り込んだ歴史が記されています。その結果として、エジプトという国を介して、救いの御業が行われることとなりました。神はイスラエルが犯した罪の結末さえも用いて、罪からの救いの計画を立てられたのです。

http://bible.com/81/act.7.9-16.ja1955

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使徒行伝 7:17-25

「神がアブラハムに対して立てられた約束の時期が近づくにつれ、民はふえてエジプト全土にひろがった。 やがて、ヨセフのことを知らない別な王が、エジプトに起った。 この王は、わたしたちの同族に対し策略をめぐらして、先祖たちを虐待し、その幼な子らを生かしておかないように捨てさせた。 モーセが生れたのは、ちょうどこのころのことである。彼はまれに見る美しい子であった。三か月の間は、父の家で育てられたが、 そののち捨てられたのを、パロの娘が拾いあげて、自分の子として育てた。 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。 四十歳になった時、モーセは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽すことを、思い立った。 ところが、そのひとりがいじめられているのを見て、これをかばい、虐待されているその人のために、相手のエジプト人を撃って仕返しをした。 彼は、自分の手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。」

ここでステパノは、自身が訴えられた理由の一つであるモーセについて解き明かし始めます。モーセは神様がイスラエルの救いの計画を成し遂げるために立てられた器ですが、神の御声に聞かず、肉の思い、人間としての感情にまかせて仕返しをし、救いを成し遂げようとしたところ、同族からも理解されずに、孤立する結果となりました。これが人の正義感の限界です。「復讐するは我にあり」という神の御言葉は、罪に対する裁き、怒りは神に任せて、人が直接手を下して罪を犯すなという戒めです。このことを若きモーセは理解していなかったのです。私たちもまた、悪に対して自分自身で報復することなく、復讐は神に委ねて、自らは善を以て悪に報いる者と、心を整えさせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/act.7.17-25.ja1955

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使徒行伝 7:26-37

「翌日モーセは、彼らが争い合っているところに現れ、仲裁しようとして言った、『まて、君たちは兄弟同志ではないか。どうして互に傷つけ合っているのか』。 すると、仲間をいじめていた者が、モーセを突き飛ばして言った、『だれが、君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか。 君は、きのう、エジプト人を殺したように、わたしも殺そうと思っているのか』。 モーセは、この言葉を聞いて逃げ、ミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけた。 四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。 彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、 『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』。モーセは恐れおののいて、もうそれを見る勇気もなくなった。 すると、主が彼に言われた、『あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である。 わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう』。 こうして、『だれが、君を支配者や裁判人にしたのか』と言って排斥されたこのモーセを、神は、柴の中で彼に現れた御使の手によって、支配者、解放者として、おつかわしになったのである。 この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである。 この人が、イスラエル人たちに、『神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』と言ったモーセである。」

エジプト王の後継者として育てられながら、40歳にして同族イスラエルのために立ち上がり、救いを成し遂げようとしたところ、同胞からも認められず、傷ついたモーセは、ミデアンの地で隠遁生活を送りました。しかし神は40年を経てシナイ山にてモーセの前に現れ、出エジプトの救いを成し遂げるためにモーセを遣わされました。そして荒野での40年を経てイスラエル人の信仰を練りきよめられ、ついにアブラハムと契約を立てた約束の地に帰還することとなりました。こうしてステパノは自身が訴えられていたモーセについて、イスラエル人と全く同じ信仰を持ち、敬っているいることを弁明したのです。

http://bible.com/81/act.7.26-37.ja1955

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使徒行伝 7:38-43

「この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。」

次いでステパノは、イスラエルの反逆の歴史についても解き明かしました。出エジプトにおいて荒野での40年を過ごさなければならなかったのも、神様がモーセに十戒と律法を授けている間に、イスラエルの民がアロンに私たちの神を造ってくださいと嘆願して金の子牛を造ったからであり、約束の地を授かった後も様々な偶像を拝んで神様に背を向け、神の怒りを買ってバビロン捕囚の憂き目に遭ったのもそのためでした。旧約聖書の歴史は、神の救いと祝福の契約と、民の反逆の繰り返しであることに気付くと、新しい救いと祝福の契約である福音の恵みがよくわかります。

http://bible.com/81/act.7.38-43.ja1955

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使徒行伝 7:44-50

「わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、 『主が仰せられる、どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。」

次いでステパノは、自身が訴えられた偽証に挙げられていた神殿についての説教を始めます。イスラエルの人々が何よりも大切にしていた神殿は、モーセの幕屋を原型として造られたものでしたが、最初の神殿であるソロモンの神殿が建てられたとき、その願いを神に申し上げたダビデも、神殿を奉献したソロモンも、神様は人の手で造った神殿の中に住まれるほど小さな存在ではなく、天を玉座とし、大地を足台とする壮大なお方であることを認めていました。しかしイスラエルの人は神殿に神様が居られると神格化し、神殿さえあれば自分たちは外敵から守られるといった、いびつな神殿信仰に陥ってしまいました。そのことをステパノは指摘したのです。私たちも、神様ではなく、教会や牧師を大切にする気持ちが高じて、神格化して拝むようなことがあってはなりません。

http://bible.com/81/act.7.44-50.ja1955

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使徒行伝 7:51-60

「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

ステパノを訴えた人々の信仰がいびつであることを指摘し、神に反逆する者であるといったステパノに対して、人々は激しく怒りを覚え、ステパノが御子イエスが天の父の右に立っておられると発言したことを口切りに、人々は耳を塞いでステパノめがけて殺到し、議会の判決を待たずに石打の刑に処して殺害してしまいました。彼らが行ったことは公式の判決に基づかない私刑に他なりません。しかし彼らの行動を指揮していた人物がいます。それが後に大伝道者となるサウロです。しかしイエスの御姿を見つめていたステパノは、自分に石を投げつけている人々の罪をお許しくださいと、イエスご自身が十字架の上で祈られたの全く同じ心で祈りを捧げ続けて、天に召されました。真理の言葉に耳を塞ぐ人と、天のイエスに目を注いでいる人は、こんなにも正反対の行動を取ることになることを、私たちはとくと知り置かなければなりません。

http://bible.com/81/act.7.51-60.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/31

2018-12-31 07:30:29 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙二 5:17 新共同訳

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

陶器師が土をこねて新たな器を造形するように、キリストに結び付く者とされた私たちは、もはや過去の自分とは一線を画する者と造り替えられたのです。古い肉のいのちから、キリストと共に生きる新しいいのちをいただいて、聖なる神の民として、心機一転、新たなスタートを切る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/2co.5.17.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/30

2018-12-30 21:20:20 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 6:1-4

そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。

キリストの御名の元に同じ信仰を持つ神の家族である教会といえど、生まれながらの罪を持つ欠けだらけの人間の集まりですから、人間関係の不平不満が持ち上がることが多々あります。そのようなときの解決手段のために、教会全体をまとめるリーダーや仲裁人となる人々が必要となります。ここでペテロは、御言葉を取り次ぐ使徒たちの働きとは別に、教会内の様々な用向きをとりとめる執事を任命することを提案し、人々の賛同を得ました。ここから教職者と信徒の役割分担が始まります。執事に相応しい人の条件として、御霊と知恵とに満ちた評判のよい人たち7人と定められました。今も多くの教会で、執事、長老、教会役員などといった呼称で、信徒として教会に仕える働きが成されていますが、働きの内容は異なれど、教職者と信徒が共に相働いて主に仕えあう教会を形成する私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.6.1-4.ja1955

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使徒行伝 6:5-7

この提案は会衆一同の賛成するところとなったそして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。

パウロの提案に従い、教会の中から7人の執事が任命されました。任職に際し、使徒たちは彼らのために祈って手を置きました。ここに按手の祈りの原型があります。今も教会で大切な働きをする人々を選出したり送り出すとき、按手の祈りをもって任命し、あるいは任地に遣わします。神の教会の働きは人の力によるのではなく、イエスの御名による祈りと御霊の満たしによるときに、教会の働きはますます前進し、神の御言葉が広く宣べ伝えられ、イエスを救い主と受け入れる人々が続々と起こされます。

http://bible.com/81/act.6.5-7.ja1955

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使徒行伝 6:8-10

さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。

初代教会の執事の一人ステパノは、御霊の恵みと力に満たされて、数々の奇跡やしるしを行って、目覚ましい働きを成し遂げました。すると新たな対抗勢力がやってきます。リベルテンと呼ばれたその人たちはギリシャ系ユダヤ人で、ステパノと同族です。ギリシャ哲学の影響を受けた彼らは議論好きで、自分たちの知恵によってステパノと議論しましたが、御霊によって語るステパノの神の知恵には対抗できませんでした。福音は知恵だけで理解したり相手を説得できるようなものではなく、御霊によってのみ授かることのできる神の知恵です。

http://bible.com/81/act.6.8-10.ja1955

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使徒行伝 6:11-15

そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。 『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」。 議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。

ステパノの語る福音に議論では太刀打ちできなかったリベルテン派の人々は、民衆をそそのかしてステパノが神を汚す言葉を吐いたと虚偽の証言をさせ、民衆や民の長老、律法学者たちを扇動して、彼を捕らえて議会に連行しました。これはまさに祭司長たちがイエスを捕らえたのと全く同じ方法で、主導者が異なっても真理に聞き従わない人々のやることは、結局のところ同じです。偽りの証言で訴えられ議会に立たされたステパノを見ると、彼の顔は天使の顔のように見えたと記されています。義のために迫害される人はさいわいである、との山上の垂訓のように、ステパノは神の子と呼ばれるに相応しい立ち居振る舞いをしたのです。私たちもステパノに倣い、常に聖霊に満たされ、何が起きても平安の内に神を証する者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/act.6.11-15.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/30

2018-12-30 07:25:13 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 4:15 新共同訳

イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。

信仰告白こそ、神様と私たちの関係を確かなものとする根拠となるものです。礼拝の度に使徒信条を唱和する毎に、神様との関係を揺るがないものとして確認させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.4.15.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/29

2018-12-29 22:55:16 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 5:1-6

ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。 それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。

バルナバが自分の畑を売って得た代金を使徒たちの足下に置いてすべて捧げたのを見たアナニヤとサッピラ夫妻は、自分たちもバルナバに倣いたいと思い、資産を売却しました。しかし彼らは全額を献金することを惜しみ、夫婦で共謀して、売却した代金の一部だけを使徒たちの足下に置きました。するとペテロはアナニヤに、資産をあなたのものであり、売却して得た代金の使い道もあなたの自由になるはずなのに、どうしてごまかしたのか、あなたは神を欺こうとしたのだと責めました。するとアナニヤはたちどころに神に撃たれ、死んでしまいました。この話を聞いた人々は非常に恐れました。献金はあくまでも自由意志に基づくものであり、収入の全額を捧げなければならないとか、額の大小によって左右されるということは決してあり得ません。重要なことは、神の御前に真実な心で捧げているかどうかです。

http://bible.com/81/act.5.1-6.ja1955

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使徒行伝 5:7-11

三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。 そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。 ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。 すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。 教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

献金の額をごまかしたアナニヤが神に撃たれて死んだことを知らなかった妻サッピラは、パウロが捧げた額についてお藻割れると、夫と話し合って決めた一部の額が全額だと答えました。するとパウロが、夫婦そろって献金の額を過小報告して共謀したことを、御霊を試みたと叱責すると、彼女もまた神に撃たれて命を落とすこととなりました。そこに夫アナニヤの遺体を運び去った若者たちが戻ってきて、夫の傍らに葬りました。教会全体はこの出来事を聞いて、非常に恐れました。この恐れとは、単に恐ろしいという感情ではなく、神様に対する畏敬の念、神様を偽ろうとする者に対する厳粛さを表したものです。神様の御前に隠し事などできないのですから、私たちは常に真実を貫く者でありたいと願います。

http://bible.com/81/act.5.7-11.ja1955

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使徒行伝 5:12-16

そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。 ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。 ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。 またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。

聖霊を受けた使徒たちは多くのしるしと奇跡を行い、信徒たちはソロモンの廊下に集まって絶えず神を賛美しました。そして仲間に加わる者が続々と起こされ、ついには病人がペテロの影にでも掛かるようにと、人々は大通りに多くの病人たちを連れてきました。そしてエルサレムのみならず、付近の町々からも大勢の病人たちが集まり、一人残らず皆、癒されました。聖霊が降るとき、使徒たちは神より力を受けて、偉大なる神の共にいますことを証する者とされました。

http://bible.com/81/act.5.12-16.ja1955

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使徒行伝 5:17-24

そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。 彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした。 そこで、下役どもが行って見ると、使徒たちが獄にいないので、引き返して報告した、 「獄には、しっかりと錠がかけてあり、戸口には、番人が立っていました。ところが、あけて見たら、中にはだれもいませんでした」。 宮守がしらと祭司長たちとは、この報告を聞いて、これは、いったい、どんな事になるのだろうと、あわて惑っていた。

イエスの弟子たちがキリストの十字架と復活、そして福音のメッセージを語り続けていると、敵意を抱いた人々が出てきました。大祭司と仲間たち、復活はないと主張していたサドカイ人など、いわばエルサレムの特権階層の人々です。彼らは自分たちの既得権や、甘い汁を吸っていた安定した生活を脅かす者に対する嫉妬と保身の思いからなるものです。彼らは使徒たちを捕らえて拘留しましたが、その夜、主の使が拘留されていた使徒たちの元に来て獄の戸を開いて連れ出し、宮の庭に立っていのちの御言葉を漏れなく民に語るようにと命じました。翌朝早く、大祭司たちが使徒を議会に引き出そうとしたところ、弟子たちが番人に守られ鍵のかかった獄の中から消えていたため、どうなることかと慌てふためきました。その頃弟子たちは、神の使に命じられた通り宮の庭に立って人々に教え始めました。御言葉が伝えられるためには、いかなる迫害も困難も障壁とはなりません。

http://bible.com/81/act.5.17-24.ja1955

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使徒行伝 5:25-32

そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。 そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。

獄に入れたはずの使徒たちの行方がわからなくなり、慌てふためいていた祭司長たちの元に、宮の庭に立って民衆に教えているとの情報が入りました。急いで下役共を遣わし、議会に立たせて、イエスの名によって語ってはならないと禁じたではないかと責めましたが、ペテロたちは、人に聞き従うよりは神に聞き従うべきであると答え、自らは十字架の死からイエスがよみがえったことの証人だと答えました。事実を事実であると証言することは当然の権利です。使徒たちのように、この世の権威に屈することなく、いかなる脅迫をもものともせず、大胆に真実を語る勇気を得させていただきたいと願います。

http://bible.com/81/act.5.25-32.ja1955

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使徒行伝 5:33-42

これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。 ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。 先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。 そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。 使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。 そして、毎日、宮や家で、イエスがキリストであることを、引きつづき教えたり宣べ伝えたりした。

使徒たちの答えに、大祭司たちは激しい怒りのあまり、使徒たちを殺害しようとさえ思うほどでした。しかしイスラエル国民全体から尊敬されていた律法学者のガマリエルは、一旦使徒たちを議会から退場させてから、議員一同に対し、最近起こったいくつかのクーデターの事例を引き合いに出して、彼らの教えが人から出たものであれば、いずれ自滅するであろうから、しばらく様子を見るようにと提案しました。そして彼は、使徒たちを迫害することは、もしかしたら神を敵に回すことになるかもしれないとも警告を発しました。大概の場合、福音の敵と見なされる律法学者たちの中にも、冷静な状況判断を行える人が備えられていたことは幸いです。自分と意見の合わない人を敵対視することなく、真理に目が開かれ、意見の対立する者同士の仲裁人とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/act.5.33-42.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/29

2018-12-29 06:35:19 | 今日の聖句
ルカによる福音書 6:35 新共同訳

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

神様は善人の上にも悪人の上にも分け隔てなく太陽の恵み、雨の恵みを降り注がれるように、いと高き神の僕とされた者に相応しく見返りを求めずに愛を注ぎ、喜びを分かち合う私たちでありますように。

http://bible.com/1819/luk.6.35.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/28

2018-12-28 07:45:15 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 4:1-4

彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。 しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。

生まれつき足の利かなかった男を癒したペテロが宮でイエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えていると、祭司たち、宮の番人、サドカイ人たちがやってきて、ペテロとヨハネ、そして足を癒された人を捕らえて翌朝まで拘留しました。しかしペテロの説教を聞いた人々は福音を受け入れ、5,000人もの人々がイエスを信じました。いかなる妨害があろうとも、福音の真理は人の心に働きかけて、悔い改めと救いへと導きます。

http://bible.com/81/act.4.1-4.ja1955

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使徒行伝 4:5-12

明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

翌日、エルサレムの役人、長老、律法学者たち、すなわちサンヘドリンの主要メンバーが召集され、ペテロとヨハネに対する尋問が行われました。その中にはイエスを徹夜の裁判に掛けた大祭司アンナスとカヤパもいました。彼らが何の権威によってイエスの名を語ったのかと問いただすと、ペテロは聖霊に満たされて、この人を癒したのも、福音を宣べ伝えたのも、あなた方が十字架につけて殺し、神によってよみがえらされたイエス・キリストの御名の権威によるもので、この御名の他には救いはないと、預言書を引用して大胆に説教をしました。そこにはもはや、人の目を恐れてイエスを知らないと3度も言った臆病なペテロの姿はありません。かつてイエスが、あなた方は裁判に掛けられても何と弁明しようかと悩む必要はない、聖霊が語らせるままに語りなさいと言われた通りでした。御霊に満たされるとき、もはや恐れも消え、最も適切な御言葉が授けられます。

http://bible.com/81/act.4.5-12.ja1955

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使徒行伝 4:13-22

人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。 そこで、ふたりに議会から退場するように命じてから、互に協議をつづけて 言った、「あの人たちを、どうしたらよかろうか。彼らによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全体に知れわたっているので、否定しようもない。 ただ、これ以上このことが民衆の間にひろまらないように、今後はこの名によって、いっさいだれにも語ってはいけないと、おどしてやろうではないか」。そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。 わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。 そこで、彼らはふたりを更におどしたうえ、ゆるしてやった。みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていたので、その人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。 そのしるしによっていやされたのは、四十歳あまりの人であった。

ペテロとヨハネを尋問するために召集された人々は、彼らが無学なただ人であること、そしてイエスと行動を共にしていた人物であることを認め、かつ、美しの門に置かれていた、生まれながら足の利かなかった男が、癒されて彼らの傍らに立っているのを見ては、ペテロの言葉に反論のしようが全くありませんでした。そこで彼らは協議した上、今後一切イエスの名によって語ってはならないと脅迫しましたが、ペテロは、神に聞き従うことと、あなたがたに聞き従うことと、どちらが正しいかと、ひるむことなく反論しました。尋問していた人々は、癒しの御業を目の当たりにしてペテロの説教を聞いた人々が神をあがめていたため、彼らを罰する術がなく、脅迫する以外になかったのです。神の真実と福音の御業の前には、地上のいかなる権威も全く無力です。

http://bible.com/81/act.4.13-22‬.ja1955

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使徒行伝 4:23-31

ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、 地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか』。 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

釈放されたペテロとヨハネは、信仰の仲間たちの集まっている場所に帰り、事の次第を報告しました。すると弟子たちはイエスの御名の故に受けた迫害と、この世のいかなる権威も真実の前には無力であったことを神に感謝し、ますます大胆に福音を宣べ伝えさせてくださいと祈りました。すると彼らのいた場所が揺れ動き、聖霊に満たされて神の言葉を大胆に語り始めました。イエスの御名の故に受ける迫害をものともすることなく、聖霊を受けてますます大胆に福音を語り継ぐ私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.4.23-31.ja1955

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使徒行伝 4:32-37

信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。 使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。 彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、 使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。 クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、 自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。

イエスの御名を信じた者は心を一つにして共に集い、一切のものを共有する神の家族、愛の共同体を形成しました。使徒たちは主イエスの復活を力強く証しし、資産家たちは自分の財産を喜んで捧げて使徒たちの足下に置き、必要に応じて分け与えられたため、人々は誰一人として乏しいことはありませんでした。ここに神に喜ばれる捧げものの代表例として、後にパウロと伝道旅行に出掛けることとなるバルナバが資産を捧げた事例が紹介されています。私たちもまた教会のために、神の家族のために、自分の持てる最良のものを、自ら進んで、惜しみなく、喜んで捧げる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/act.4.32-37.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/28

2018-12-28 06:45:02 | 今日の聖句
ヨハネの手紙一 2:6 新共同訳

神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

神の民とされた者は、栄光の神の御名に相応しく日々歩むべきです。主イエスが常に神の御心を求めて地上の生涯を送られたように、日々御言葉に聞き従い、主の教えを堅く守って、神に喜ばれる信仰生活を送る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1jn.2.6.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/27

2018-12-27 07:45:14 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 3:1-2

さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、 生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。

午後の祈りを捧げるためにペテロとヨハネがエルサレムの神殿に入ろうとしたとき、生まれつき足の動かない男が人々に抱えられてきました。彼は毎日、人々から施しを乞うために美しの門に「置かれていた」と記されているように、一人の人間としてではなくモノ扱いされていたことがわかります。そして彼の背後には、彼を物乞いとして見せ物にしていた人々がいたであろうこともわかります。おそらく彼は、この足さえ動けばこんな屈辱を味わうことはなかったのにと、どれほど悔しい思いをしていたことでしょうか。そんな彼に対して、神の憐れみが臨みます。

http://bible.com/81/act.3.1-2.ja1955

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使徒行伝 3:3-8

彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。 ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、 ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。 こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。

宮に入ろうとしたペテロとヨハネに施しを乞うた物乞いの男は、私たちを見なさいと言われて、何かもらえると期待してじっと見つめていると、ペテロは、金銀は私たちにはない、と言いました。物乞いの男は、金をもらえるのではないと知って落胆したかもしれません。続けて、私たちにあるものをあげよう、と言われて、何がもらえるのか、と思ったことでしょう。しかしここからが重要です。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい、と言って手を取って起こされると、彼の足とくるぶしがたちまちのうちに強められて、踊り上がって立ち、歩き出したのです。普通、足を怪我して数ヶ月寝たきりになっただけでも、筋肉が弱ってしまい、リハビリをしなければ自由に歩けるようになりません。しかし、生まれてから一度も立ち上がったことも歩いたこともない人が、瞬時に踊り回れようになるとは、通常ではあり得ません。彼は、金銀をもらうことはできませんでしたが、どれほど金を積まれても得ることのできなかった自由を、ついに得ることができたのです。ペテロとヨハネにあるものとは、イエス・キリストの御名によって彼を歩けるように癒した信仰の力です。

http://bible.com/81/act.3.3-8.ja1955

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使徒行伝 3:9-11





http://bible.com/81/act.3.9-11.ja1955

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使徒行伝 3:9-16

民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、 これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。 彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて、「ソロモンの廊」と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。 ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。 あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、 いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。 そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである。」

このとき宮にいた人々とは、午後3時の祈りを捧げるために集まってきた信心深い人々でしたから、おそらく毎日、美しの門を通って宮参りしていたことでしょう。ですから、ペテロとヨハネにつきまとって神を賛美しながら踊り回っているこの人が、美しの門に座っていた物乞いであったことは、誰もがわかることでした。先ほどまで歩けなかったこの男が、踊りながら歩き回っている姿を見て、何が起こったのかと驚嘆して、ペテロとヨハネの周りに集まってきました。そんな彼らに対してペテロは、驚くことはないと答えました。そして自分たちの力でこの物乞いの男を癒したのではなく、エルサレムの人々が十字架につけたイエス・キリストを信じる信仰によって、大いなる癒しの御業が現されたのだと説きました。かつて弟子たちが、道端に座っていた生まれながらの盲人についてイエスに尋ねたときのように、生まれながら足の動かない人が歩けるようになったことを通して、神の栄光が現される結果となりました。

http://bible.com/81/act.3.9-16.ja1955

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使徒行伝 3:17-20

「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。 神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。 それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。」

ペテロは更に続けて、エルサレムの人々がイエスを十字架につけて殺したのは、本心からではなく、無知の故であったと説き、それは預言者たちを通して語られた御言葉が成就するためであったと、イエスを十字架につけた責任を問うのではなく、本心に立ち返るようにと悔い改めを促すメッセージを語りました。福音とはいつまでも過去の過ちを責めるために語られるものではなく、真理を悟らせた上で本心に立ち返って心からの悔い改めを勧める、慰めのメッセージであるべきです。

http://bible.com/81/act.3.17-20.ja1955

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使徒行伝 3:21-26

「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで、天にとどめておかれねばならなかった。 モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。 サムエルをはじめ、その後つづいて語ったほどの預言者はみな、この時のことを予告した。 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。

ペテロが集まってきた人々に語ったメッセージは、旧約聖書の様々な預言書の御言葉を引用して、イエス・キリストの十字架は預言の成就であることを強調しました。そして最後は、イスラエルの族長アブラハムに神様が約束された祝福の契約を引用して、罪を悔い改めて神に立ち返り、祝福に与るようにと勧めました。一人の物乞いの癒しから始まり、宮にいた人々に悔い改めを促し、神の祝福に与らせる福音を語る機会となったのです。私たちもまた日々の出来事を通して、機会ある度に福音を語る者でありたいと願います。

http://bible.com/81/act.3.21-26.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/27

2018-12-27 06:40:29 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 1:16 新共同訳

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

この聖句は「御子」を「御言葉」と置き換えて、この世のすべては御言葉によって造られ、御言葉を証するために造られた、と読むと理解しやすいかもしれません。人となられた生ける神の御言葉なるイエス・キリストの大いなる御業をあがめる私たちでありますように。

http://bible.com/1819/col.1.16.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/26

2018-12-26 07:50:45 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 2:1-4

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

ユダヤの3大祭の一つ、五旬節の日に、イエスの弟子たちが皆、一同に会していたところ、激しい風のような音と、舌のような炎に似たものが現れて、一人一人の上に留まりました。すると弟子たちは聖霊に満たされて、様々な国々の言葉で神の栄光をほめたたえ始めました。これこそがイエスがかつて約束されていた、聖霊を受ける日の到来です。風や炎、舌は、聖霊なる神様のご性質をよく表したもので、どこからともなく自由に吹いてきて、見ることはできなくても感じることのできる存在であられます。

http://bible.com/81/act.2.1-4.ja1955

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使徒行伝 2:5-12

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。 みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。

エルサレムには様々な国々で生まれたイスラエル人が居留していました。彼らは無学なガリラヤ人に過ぎないイエスの弟子たちが、自分の生まれ故郷の言語で、偉大なる神の御業を宣べ伝えている様子を目の当たりにして、呆気にとられました。何ヶ国語も自由に操る言葉に長けた人でも、心の奥底に響く言葉を聞き取るには、母国語が最も魂に届くと言われます。ですからイエスの弟子たちが語った神の栄光を自国語で聞くことは、これらの信心深い人々の心が神に近付くためのよき備えとなったのです。

http://bible.com/81/act.2.5-12.ja1955

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使徒行伝 2:13-21

しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。 そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。 その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。 また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。 そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。」

無学なただ人に過ぎないイエスの弟子たちが何か国語もの言葉で神の栄光をほめたたえていた様子を、単に酒に酔っているのだと、批判的な見方をした人もいました。しかし酒に酔っただけで、学んだこともない言語で語ることはできるはずがありません。そこでペテロが12使徒たちと共に立ち上がり、この出来事はヨエル書に記された預言の成就であると、聖霊の語らせるままに語り出しました。聖霊に満たされると、聖書に記された御言葉の真理が開かれ、大胆に福音を解き明かす力さえ与えられます。

http://bible.com/81/act.2.13-21.ja1955

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使徒行伝 2:22-28

「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。 ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。 それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。 あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。」

ペテロは更に、預言の成就としてこの世にお生まれになった神の御子イエスの御業と、十字架に完成された神の救いのご計画について説き勧めました。エルサレムの人々が自らの手で十字架に掛けたイエスが、全イスラエルが待望していたメシヤであること、そのメシヤを主と呼んだダビデにまで言及して、イエスのよみがえりを大胆に証ししました。

http://bible.com/81/act.2.22-28.ja1955

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使徒行伝 2:29-36

「兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

更にペテロはダビデの預言から進んで、ダビデの子として生まれたイエスこそメシヤであること、エルサレムの人々が自らの手で十字架に掛けたイエスが来たるべきメシヤであり、神はイエスをよみがえらせることによって、永遠の救い主、キリストとして立てられたことを大胆に解き明かしました。聖霊に満たされるとき、すべての真理が明らかになり、聖霊の語らせるままに語るとき、御言葉の奥義が解き明かされます。

http://bible.com/81/act.2.29-36.ja1955

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使徒行伝 2:37-41

人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

ペテロの説教を聞いたエルサレムの人々は、真理に目が開かれ、待望していたメシヤを自らの手で十字架に掛けた呵責の念にとらわれ、強く心を刺されて、私たちはどうしたらよいかとペテロに問いました。するとペテロは、悔い改めて、罪の赦しを得るためにイエスの御名によってバプテスマを受けなさいと説き勧めました。更にペテロは多くの言葉によって証をなし、人々に救いを説きました。この日ペテロの勧めを受け入れてバプテスマを受け、イエスの弟子に仲間入りした者は3,000人にも及びました。一時に 3,000 人もの洗礼式とは、その光景を想像できるでしょうか。聖霊なる神様の働きは、実に想像を超えたものです。

http://bible.com/81/act.2.37-41.ja1955

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使徒行伝 2:42-47

そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。

キリストの十字架を信じ受け入れて救われた者は、その生き様も変えられます。彼らは使徒たちの教えを守り、信徒同士のきよい交わりをなし、毎日聖餐式を行い、ひたすら祈りを捧げるライフスタイルへと変貌したのです。そして財産を独り占めするのではなく共有し、心を一つにして神を礼拝し、喜びを分かち合い、家庭でも聖餐に与り、神を賛美する生活を通して、すべての人々に好意を持たれました。その喜びの信仰生活を通して、更に救いに与る人々が次々と与えられました。真の信仰生活とは、仙人のような隠遁生活でも、世捨て人のような暮らしでもありません。神を中心とする喜びの生活を送ることは、何よりも効果的な福音宣教の業です。

http://bible.com/81/act.2.42-47.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/26

2018-12-26 06:35:14 | 今日の聖句
マタイによる福音書 4:4 新共同訳

イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」

人は空腹を満たす食事さえあれば、幸福になるわけではありません。何のために生きているのかわからない、生ける屍のような人生を送るのではなく、神の栄光を現すために生きる、真に輝いた人生を送る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/mat.4.4.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/25

2018-12-25 07:55:11 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 1:1-5

テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

今日から使徒行伝の通読に入ります。書き出しにもあるように、使徒行伝はパウロの主治医であったルカが、テオピロという人物もしくは神を愛するすべての人に向けて、イエスと初代教会の言行録を集めた資料を基に編纂した書物で、ルカによる福音書の続編となります。イエスが十字架に掛かって死なれ、3日後によみがえられてから40日間、弟子たちの前にたびたび現れ、ついに天に昇られる場面、イエスの地上での最後の説教から使徒行伝は始まります。イエスが弟子たちに命じたことは、エルサレムから離れないで、聖霊のパプテスマを待ちなさいというご命令でした。このことから、ヨハネによる福音書の最後の記事の場面であったガリラヤから、パウロたちがエルサレムに戻ってきたことがわかります。イエスの時代から聖霊の時代に変わろうとするとき、その転機はエルサレムから始まりました。そして再びイエスが地上に来られる再臨の日も、エルサレムから始まります。エルサレムの動向に注意を払い、エルサレムのために祈る私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.1.1-5.ja1955

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使徒行伝 1:6-9

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

イエスの最後の説教を聞いて、弟子たちは、聖霊が降るときにイスラエルの復興が成就するのですかと問いました。イエスはその質問に対し、時と場合は天の父なる神が定められることで、弟子たちの知る限りではないと答えられました。私たちは何でも自分で理解しなければ、自分の願望通りでなければ、なかなか納得しない傾向があります。しかし歴史を司られるのはただお一人、天の父なる神だけで、御子イエスでさえも口を挟むことではない点に注目すべきだと思います。イエスの約束されたことは、聖霊が降ること、聖霊を受けたならば全世界にまでイエスの証人となることです。イエスが弟子たちに最後のご命令を出されると、彼らの見ている前で天に昇られ、栄光の雲に迎えられ、ついに姿が見えなくなりました。

http://bible.com/81/act.1.6-9.ja1955

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使徒行伝 1:10-14

イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。 それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。 彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

イエスが天に昇られる様を見つめていた弟子たちの前に、二人の天からの御使が現れて彼らの側に立ち、いつまで天を見上げているのかと、声を掛けました。私たちはいつまでも過去を引きずるのではなく、未来の希望を確信して、一歩ずつでも前進することが必要です。そしてイエスが天に昇られたのは、エルサレムでいつもイエスが祈られていたオリブ山であったことがわかります。これは預言者エゼキエルに示された幻と同じです。そして御使がイエスの再臨について語られたことは、預言者ゼカリヤに示された幻と同じです。イエスは最後まで旧約聖書に記された預言を全うするために来られたお方であることがわかります。そして弟子たちはイエスの教えを守り、エルサレムに留まって、聖霊が降るまで一同に会して祈り、待ち望みました。その中にはイエスの母マリヤ、イエスの兄弟たちも加わっていました。イエスの公生涯ではイエスが気が狂ったと思って連れ帰ろうとした兄弟たちも、イエスの十字架と復活を経て兄としてではなく、神の子、救い主として信じるようになり、教会の中心人物の中に加わりました。十字架の御業はすべての人を救いに導く力です。

http://bible.com/81/act.1.10-14.ja1955

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使徒行伝 1:15-20

そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。 彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。( 彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。 そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。) 詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである。」

エルサレムに留まって聖霊が降るのを待ち望み、祈り続けていた弟子たちは、約120人ほどの群でした。その中でペテロが立ち上がり、イエスを裏切ったユダに代わる12使徒の一人を選出することを提案しました。もはやペテロはイエスを3度も知らないといったペテロではなく、弟子たちを束ねるリーダーに相応しい人物と変えられました。その背後には、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と祈られたイエスの執り成しの祈りがあったことは言うまでもありません。

http://bible.com/81/act.1.15-20.ja1955

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使徒行伝 1:21-26

「そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、 すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。 そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、 祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、 ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。 それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。

ペテロが提案した12使徒の補欠選出の手順は、まず使徒に相応しい人物の基準を定め、皆で候補者を推薦し、その中から祈りを以てくじ引きで決めるというものでした。これは今でも、教会役員や執事、重要な委員を決める手順の原型となっています。その基準に照らしてマッテヤが新たな使徒として加わりました。神の民は自らを聖書の基準に照らして、祈りによって神の導きを求め、信仰によって御心に聞き従い、教会の秩序を正しく保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.1.21-26.ja1955
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【今日の聖句】 2018/12/25

2018-12-25 06:35:11 | 今日の聖句
イザヤ書 9:5 新共同訳

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。

イエス・キリストが私たちのためにこの世にお生まれになったことは、約700年前から預言され、約2,000年経った今なお世界中で祝われているとは、なんと驚くべき真実でしょうか。壮大な神様の救いのご計画を成就するためにこの世に来られた主イエスの御降誕を、心から喜び祝う私たちでありますように。

http://bible.com/1819/isa.9.5.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2018/12/24

2018-12-24 14:40:16 | 一日一章・聖書通読日記
ヨハネによる福音書 21:1-3

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

ヨハネの福音書21章は、いったん20章で福音書の結びとした後に記された、いわば「あとがき」のような箇所です。4福音書の中でヨハネだけしか記すことのできなかった、イエスと親しい弟子たちとのエピソードが著されて記されています。よみがえられたイエスが弟子たちの集まっているところに現れたとき、他の福音書では、かねてから語られていたようにガリラヤで再びイエスと出会うであろうと記されていますから、彼らはエルサレムからガリラヤに戻ったのだと思います。しかしイエスがなかなか現れなかったのでしょうか、彼らは待ちくたびれたのか、何もせずにじっと待っていられなかったのか、元漁師であったペテロは漁に出ると言い出したので、一緒にいた弟子たちも彼と行動を共にします。彼らはガリラヤ出身の人々でしたから、生まれ故郷に帰ったことになります。しかしその帰郷は大成功して故郷に錦を飾るどころか、師と仰ぎすべてを捨てて従ったイエスが十字架に掛かられた今となっては、周囲の人々から後ろ指を指されるような、屈辱的なものだったのではないかと推測できます。そんな彼らはイエス亡き後、もしかしたらイエスの弟子から元の漁師に戻ろうとしていたのかもしれません。いずれにせよ彼らは、夜通し漁をしたのに一匹の魚も獲ることができませんでした。私たちがどれほど努力しても何の収穫もない、徒労に終わるようなことがしばしばあります。それがイエスから離れた人間の弱さ、ありのままの姿かと思います。しかしイエスは、そんな失意のどん底からも、素晴らしい経験をさせようとなさいます。

http://bible.com/81/jhn.21.1-3.ja1955

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ヨハネによる福音書 21:4-8

夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。

弟子たちが沖に出て漁をしても何の獲物もなかった夜明け頃に、岸辺に立っていた人から何か穫れたかと声が掛かりました。彼らが何もないと答えると、舟の右に網をおろせば何か穫れるであろうと言われ、その通りにすると網を引き上げることのできないほど多くの魚が穫れました。ここでヨハネが過去に起きた大漁の奇跡を思い出し、岸辺に立っているのがイエスであることに気付きました。それを聞いたペテロは、主が岸辺におられると聞いて、裸の体、生まれながらの自分の身を隠すように上着を着て、湖に飛び込み、一目散にイエスの元に泳いでいったのでしょうか、他の弟子たちは大漁の網を引きながら舟で岸辺に戻りました。私たちがいくら努力しても何の成果もなく徒労に終わりそうなとき、生きる目的も見失ったようなとき、イエスは私たちの過去の記憶を呼び覚まさせてさえも、私たちに近付いて声を掛けてくださり、再び生き甲斐を思い起こさせてくださいます。もし主の御声に気付いたならば、ペテロのように、ヨハネのように、他の弟子たちのように、一目散に主の御許に近付く私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.21.4-8.ja1955

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ヨハネによる福音書 21:9-14

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

弟子たちが陸に上がってみると、そこには既に火が起こしてあり、魚とパンが供えられていました。イエスが弟子たちに声を掛けられたとき、何か食べ物があるかと尋ねましたが、食べ物は既に用意されており、さあ食べなさいと、弟子たちの徹夜の漁を労ったのです。また魚とパンを割いて渡された場面からは、五千人の給食の記事も思い起こさせます。そして彼らが穫った魚を数えると153匹も穫れました。この153という数字は、数学的に特定の法則の数式で表すことのできる数字である三角数、六角数、ハーシャッド数、ナルシスト数、フリードマン数といった要素を兼ね備えた、極めて珍しい数字だそうです。そして数字に表される言葉の意味を調べるゲマトリアという分野では、「神の子たち」というヘブル語をアルファベットの番号にして足し合わせた総和が153だそうです。いずれにせよイエスは、この大漁の奇跡を通して、弟子たちにイエスと共に過ごした日々のことを思い起こさせたのです。

http://bible.com/81/jhn.21.9-14.ja1955

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ヨハネによる福音書 21:15-19

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

食事の後、イエスはペテロに「わたしを愛するか」と3度問いかけられました。ペテロから見たら、かつてイエスが捕らえられ徹夜の裁判を受けたとき、自分がイエスを知らないと3度言ったことを、すぐに思い起こしたことでしょう。そこでペテロは胸を痛めて、以前のようにあなたを愛しますなどと大それたことを胸を張って言えない自分に言い聞かせるように、主よ、あなたがご存じですと答える他ありませんでした。しかしイエスは、ペテロが堂々とあなたを愛しますと答えられなくても、わたしの羊を養いなさいと、福音宣教の大いなる働きをペテロを筆頭とする弟子たちの手に委ねられました。福音の業に携わる者に必要なことは、己の頑張りの限界を知り、誰にも勝って主イエスを愛することができるように、神様の助けを求めることではないでしょうか。

http://bible.com/81/jhn.21.15-19.ja1955

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ヨハネによる福音書 21:20-25

ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。

わたしを愛するか、また、わたしの羊を養いなさいと主からお言葉を賜ったペテロは、ふと振り向くと、そこにはイエスが最も愛しておられた弟子であるヨハネがついてくるのを見ました。そこでペテロは何を不安に思ったのでしょうか、イエスに、この人はどうなのですか?と尋ねました。彼はイエスのペテロに対する愛と、ヨハネに対する愛とを天秤に掛けようとしたのです。しかしイエスはペテロに、彼が主の再臨まで生き長らえるように望んだとしてもそれがあなたと何の関係があるかと戒められると共に、あなたはわたしに従ってきなさいと命じられました。イエスの愛は他者と比較されるようなちっぽけな愛ではなく、私たち自身とイエスとの一対一の関係の中で築かれる極めて個人的な愛、一人一人に対して必要十分なかたちで与えられる完全な愛です。この後の彼らの働きは使徒行伝や各書簡、黙示録などの新約聖書からもわかりますが、この世のいのち尽きるまで、イエスに従い通す生涯を全うしました。私たち一人一人に注がれるイエスの愛に応え、自らの人生を掛けて最後まで尽き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.21.20-25.ja1955
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