伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2016/06/30

2016-06-30 07:47:08 | 一日一章・聖書通読日記
民数記 4:1-3
『主はまたモーセとアロンに言われた、 「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、 三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。」』

神様はレビ人たちの為すべき務めを氏族ごとに定められました。レビ人の務めに就く者は、30歳以上50歳以下の者と定められ、その人数を数えられました。レビ人以外のイスラエル人が戦士として数えられたのが20歳以上でしたから、レビ人の務めにはより厳格な年齢制限を設けられたことになります。これはいわゆる最も脂の乗りきった壮年の年齢層にあたります。その理由は若年者故に過ちを犯すことのないよう、また年長者故に務めに支障を来すことのないよう、精神的・肉体的な成熟と衰えのバランスを取った神様の知恵です。

私たちの神様に対する奉仕の姿勢としても、この考え方は重要です。神様に仕える者は霊的に整えられ、精神的にも肉体的にも成熟し、かつ衰えないように細心の注意を払う必要があります。

http://bible.com/81/num.4.1-3.ja1955

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民数記 4:4-15
「コハテの子たちの、会見の幕屋の務は、いと聖なる物にかかわるものであって、次のとおりである。

宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。」

コハテの氏族は、幕屋の中で最も聖なる聖所と、神様を礼拝するために用いられる聖なる器の運搬を担当しました。ただし、これらを運搬できるように取り外したりまとめる作業は、祭司の務めとされました。これは祭司以外の者が聖所の中を見たり直接手を触れたりして、神様に撃たれることのないようにするための役割分担です。

私たちには一人一人それぞれに神様から託された使命あるいは役割があります。これは神様が定められることで、私たちの意志や願望に依るものではありませんが、自分の思い通りでなくても神様の御心に従うことこそ、自分のいのちを守ることになります。自ら思い上がって分不相応の働きに就くことを避け、神様から託された使命を忠実に果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.4.4-15.ja1955

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民数記 4:17-20
『主はまた、モーセとアロンに言われた、 「あなたがたはコハテびとの一族を、レビびとのうちから絶えさせてはならない。 彼らがいと聖なる物に近づく時、死なないで、命を保つために、このようにしなさい、すなわち、アロンとその子たちが、まず、はいり、彼らをおのおのその働きにつかせ、そのになうべきものを取らせなさい。 しかし、彼らは、はいって、ひと目でも聖なる物を見てはならない。見るならば死ぬであろう」。』

神様はコハテの氏族が神の幕屋の聖なるものに不用意に触れて神様に撃たれることのないように、祭司が守るべきことをモーセとアロンに告げました。これは神様の特別なご配慮です。聖なる奉仕に携わる者は、その働きの範囲を忠実に守るならば、神様が特別に守ってくださいます。この原則を忘れることなく、御言葉に忠実に従うことを通して神様の特別な守りの内に入り、自らのいのちを守る私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.4.17-20.ja1955

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民数記 4:24-26
「ゲルションびとの氏族の務として働くことと、運ぶ物とは次のとおりである。 すなわち、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、 また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、そのひも、ならびにそれに用いるすべての器を運ばなければならない。そして彼らはすべてこれらのものについての働きをしなければならない。」

ゲルションの氏族の任務は、幕屋を覆う幕ととばりと、それらを支えるひもや道具の運搬を担当しました。神様の働きにはそれぞれの役割があり、すべてが尊い奉仕です。私たちもまた自分に委ねられな使命を悟り、任された役割を忠実に担う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/num.4.24-26.ja1955

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民数記 4:31-33
「彼らが会見の幕屋でするすべての務にしたがって、その運ぶ責任のある物は次のとおりである。すなわち、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、 庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものである。あなたがたは彼らが運ぶ責任のある器を、その名によって割り当てなければならない。 これはすなわちメラリの子たちの氏族の働きであって、彼らは祭司アロンの子イタマルの指揮のもとに、会見の幕屋で、このすべての働きをしなければならない」。

メラリの氏族に任された働きは、幕屋を支える支柱と、そのために用いる様々な道具の運搬でした。いかに聖所が聖なるものとされていても、隔ての幕と支柱がなければ、神の幕屋は建て上げられません。

人はより重要な役割、責任の重い仕事を担いたいと望みたがるものですが、それらを支える周辺の仕事があってこそ成り立つものであることを決して忘れてはなりません。いかなる仕事も、神様の目に貴賤はありません。神様から人それぞれに委ねられた使命を悟り、自らの分を果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.4.31-33.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/30

2016-06-30 06:42:33 | 今日の聖句
箴言 20:22
『「わたしが悪に報いる」と言ってはならない、主を待ち望め、主はあなたを助けられる。』

罪の子として生まれた私たちに悪を裁くことのできる権威などありません。悪に対する報いは義かつ聖なる神様に委ね、悪をもって悪に報いることなく、むしろ善をもって悪に対抗し、主の救いを待ち望む私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.20.22.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/29

2016-06-29 07:47:04 | 一日一章・聖書通読日記
民数記 3:5-7
『主はまたモーセに言われた、 「レビの部族を召し寄せ、祭司アロンの前に立って仕えさせなさい。 彼らは会見の幕屋の前にあって、アロンと全会衆のために、その務をし、幕屋の働きをしなければならない。」』

神の幕屋での働きは、祭司だけですべてを行うことはできません。そこで神様は幕屋で仕える祭司の助け手としてレビ部族を召し寄せ、幕屋に関する働きを任されました。

私たちにとっても、教会の様々な働きは牧師だけですべてできるものではありません。幕屋の働きと同じように、牧師を補佐して教会の働きを助けることが信徒の役割です。神様に召し出され、教会のために仕える私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.3.5-7.ja1955

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民数記 3:9-10
「あなたはレビびとを、アロンとその子たちとに、与えなければならない。彼らはイスラエルの人々のうちから、全くアロンに与えられたものである。 あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう」。

レビ人たちは、全イスラエルの中から神様の所有とされ、神の幕屋で祭儀を執り行う祭司に与えられた者という意味合いも含まれていました。そして祭司の務めはアロンとその子孫だけに許された働きです。神の幕屋の奉仕を委ねられたレビ人でさえも、祭司の務めは許されていませんでした。

私たちは神様からの召し、神様の選びがなければ何事も許されていません。自らの分を越えて思い上がることなく、委ねられた使命を忠実に果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.3.9-10.ja1955

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民数記 3:11-13
『主はまたモーセに言われた、 「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。 ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。』

神様がレビ人を神様の所有とされたのは、かつてエジプトを脱出したときにすべての初子が死の使いに撃たれた中、イスラエルの初子は家畜に至るまでいのちを守られた史実に対し、全イスラエルの初子の替わりに購い代として、レビ人を聖別して主の所有とされた定めです。

私たちも本来は罪の奴隷から解放されたときに初子を神様に捧げなければならなかったところを、神様の初子であられるイエス様が身代わりとなって、私たちのいのちを購ってくださいました。このイエス様の購いの御業を深く感謝して受け止める私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.3.11-13.ja1955

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民数記 3:38
「また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。」

レビ人たちはその氏族に従い、幕屋のための奉仕の分担と、宿営する場所が定められていました。ゲルションの氏族は幕屋の西側に宿営して幕屋を覆う幕と梁を任され、コハテの氏族は幕屋の南側に宿営して契約の箱と聖所の中の調度品を任され、メラリの氏族は幕屋の北側に宿営して幕屋の庭と外側を覆う枠や幕などを任されました。そしてモーセとアロンとその子たちが幕屋の東側、すなわち幕屋の入口近くに宿営し、幕屋の中で祭司の務めの一切を執り行いました。

神様のための奉仕は、それぞれに委ねられた範囲を逸脱してはなりません。自らの分をわきまえ、自分の思いではなく御心に従い、置かれた立場で神様に仕える私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.3.38.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/29

2016-06-29 06:36:51 | 今日の聖句
詩篇 51:12
「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。」

罪を隠したままでは真の自由を得ることはできません。罪を包み隠さず素直に認めて心から悔い改め、主の御前に義とされて救いの喜びを回復し、罪悪感の束縛から解放されて身も心も魂も自由となる私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.51.12.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/28

2016-06-28 07:45:37 | 一日一章・聖書通読日記
民数記 2:1-2
『主はモーセとアロンに言われた、 「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。」』

イスラエルが荒野を旅する間、誰がどこにテントを張って宿営するかについて、神様が定められました。それは神の幕屋を中心として、その東西南北に、部族毎に分かれて整然と宿営しました。この中で最も大切なことは、神の幕屋が中心にあること、そして全イスラエルが神の幕屋に向かって各々の幕屋を張ったことです。

私たちの信仰生活も、神様を中心として整えられ、顔を神様に向けて生きることが基本中の基本です。もし神様に見向きもせずに生きるならば、私たちの人生は無秩序になり、放縦と混乱の生涯となってしまいます。いつも神様に目を向け、神様を中心とした美しい人生を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.2.1-2.ja1955

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民数記 2:3-9
「すなわち、日の出る方、東に宿営するものは、ユダの宿営の旗につく者であって、その部隊にしたがって宿営し、アミナダブの子ナションが、ユダの子たちのつかさとなるであろう。

ユダの宿営の、その部隊にしたがって数えられた者は、合わせて十八万六千四百人である。これらの者は、まっ先に進まなければならない。」

神の幕屋の東側、すなわち幕屋の入口側にはユダ部族を中心とする3部族が宿営し、イスラエルが荒野を旅する間、先頭に立って進みました。この人数も最も多く、約3分の1近くの戦士が所属しています。先頭に立つ者は敵と真っ先に戦う者、勇者の証です。

ここで注目すべき点は、先頭の部族がユダの部族ということです。かつてヤコブが世を去る前にイスラエル12部族を祝福した祈りにある、「ユダは獅子の子」「つえはユダを離れず」との言葉の通り、敵と戦う勇士、イスラエルを導く杖となったのです。

そしてこのユダの部族からダビデ王が生まれ、そしてイエス様が生まれ、幕屋の入口に立ち、私たちの人生を導く主となられたのです。この壮大な神様のご計画を、民数記の御言葉からも垣間見ることができるさいわいに感謝します。

http://bible.com/81/num.2.3-9.ja1955

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民数記 2:16-17
「ルベンの宿営の、その部隊にしたがって数えられた者は、合わせて十五万一千四百五十人である。これらの者は二番目に進まなければならない。 その次に会見の幕屋を、レビびとの宿営とともに、もろもろの宿営の中央にして進まなければならない。彼らは宿営するのと同じように、おのおのその位置で、その旗にしたがって進まなければならない。」

幕屋の南側にはヤコブの長子ルベン族を中心とした宿営があり、荒野を旅するときには2番目に進みました。その次に神の幕屋を携えたレビ人たちが進みます。宿営するときだけでなく、荒野を旅する最中も、イスラエルは神様を中心として進みました。私たちの人生も同じく、立ち止まって休むときも、前に向かって歩むときも、常に神様を中心とした人生を送る者でありますように。

http://bible.com/81/num.2.16-17.ja1955

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民数記 2:24, 31
「エフライムの宿営の、その部隊にしたがって数えられた者は、合わせて十万八千百人である。これらの者は三番目に進まなければならない。

ダンの宿営の、数えられた者は合わせて十五万七千六百人である。これらの者はその旗にしたがって、最後に進まなければならない」。

神の幕屋に続いてヨセフとベニヤミンの宿営が3番目に進みました。ヤコブが最も愛したラケルの子孫たちが神の幕屋のすぐ後に歩んだことも、何かを暗示しているように思います。

そしてしんがりはダンの宿営が務めました。ダンについてヤコブは「馬のかかとを噛んで乗る者を後ろに落とす」と祝福しました。まさにしんがりを守る者にふさわしい預言に思えます。

http://bible.com/81/num.2.24,31.ja1955

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民数記 2:32-34
「これがイスラエルの人々の、その父祖の家にしたがって数えられた人々である。もろもろの宿営の、その部隊にしたがって数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。 しかし、レビびとはイスラエルの人々のうちに数えられなかった。主がモーセに命じられたとおりである。 イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、その旗にしたがって宿営し、おのおのその氏族に従い、その父祖の家に従って進んだ。」

このようにして全イスラエルは神の幕屋を中心として、宿営するときも道に進むときも、整然と隊列を組んで荒野を歩みました。これがクリスチャンとして整えられた信仰生活の送り方です。

私たちの人生もまた荒野のようで、行く先で何が起こるか、いつ敵が襲ってくるかわかりません。だからこそ、歩むときも休むときも神様を中心として、いつ試練に見舞われても取り乱すことのない、神の平安で満たされた人生を歩む者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/num.2.32-34.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/28

2016-06-28 06:40:09 | 今日の聖句
ヨハネの第一の手紙 3:18
「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」

たとい幾千万の美辞麗句で飾りたてても、口先だけで実践を伴わない愛は偽りの愛です。主イエス様が十字架に自らを捧げてまことの愛を示されたように、いかなる犠牲をも厭わず、誠心誠意を尽くして互いに愛し合う私たちでありますように。

http://bible.com/81/1jn.3.18.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/27

2016-06-27 07:57:31 | 一日一章・聖書通読日記
民数記 1:1-3
『エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた、 「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。 イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。」』

今日から聖書通読は民数記に入ります。創世記のテーマは神の約束、出エジプト記は罪からの解放、レビ記は礼拝、そして民数記のテーマは神の民の歩みです。イスラエルの人々がモーセに導かれエジプトを脱出して一年後にシナイ山の麓に着き、そこで約一ヶ月、十戒と主の定めを教えられて備えをし、いよいよ約束の国を目指して歩み始めます。その最初に神様が命じられたことは、戦士の登録でした。

私たちの人生は毎日が戦いの連続です。神様に愛され選び出された主の民と言えど、何事もない平穏な日々のうちに自動的に祝福を得ることなど決してなく、むしろ信仰の戦いなくしてこの世の生涯を生き抜くことはできません。そのために必要なことが神の戦士としてこの世と戦う備えです。

戦うといっても、人を打ち負かすことが目的ではなく、自らをきよく保ち、罪の汚れから身を守り、神の国に入ることが究極の目的です。自らの手を煩わすことなく、何事も受け身で、ただ神様の祝福を待つだけの安穏とした信仰生活に終始することなく、信仰の戦いを立派に戦い抜いて、神様の約束された勝利の人生を勝ち取る私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.1.1-3.ja1955

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民数記 1:4-16
「また、すべての部族は、おのおの父祖の家の長たるものを、ひとりずつ出して、あなたがたと協力させなければならない。

これらは会衆のうちから選び出された人々で、その父祖の部族のつかさたち、またイスラエルの氏族のかしらたちである。」

神様と直接顔を会わせて語ることのできたモーセと言えど、たった一人ではイスラエルの民全員を統括することはできませんでした。そこで神様はモーセの助け手として、イスラエル12部族それぞれから長を召集し、モーセと共に人口調査と民を統括する手助けを任されました。

私たちも神様の業を行うときに、たった一人では何も成し遂げることはできず、必ず助け手が必要です。そして私たちは神様の命じられた目的を果たすために、一致協力して事を為すことが大切です。日々の信仰生活の中でも、人と協力し、自らの分を果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/num.1.4-16.ja1955

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民数記 1:44-46
「これらが数えられた人々であって、モーセとアロンとイスラエルのつかさたちとが数えた人々である。そのつかさたちは十二人であって、おのおのその父祖の家のために出たものである。 そしてイスラエルの人々のうち、その父祖の家にしたがって数えられた者は、すべてイスラエルのうち、戦争に出ることのできる二十歳以上の者であって、 その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。」

モーセと民の司たちが数え上げたイスラエルの戦士の数は、

ルベン部族  : 46,500人
シメオン部族 : 59,300人
ガド部族   : 45,650人
ユダ部族   : 74,600人
イッサカル部族: 54,400人
ゼブルン部族 : 57,400人
エフライム部族: 40,500人
マナセ部族  : 32,200人
ベニヤミン部族: 35,400人
ダン部族   : 62,700人
アセル部族  : 41,500人
ナフタリ部族 : 53,400人
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合計     :603,550人

ぱっと見て気付くことは、最も人数が多いのがダビデそしてイエス様が生まれた家系であるユダ部族の74,600人、その次がエジプトの宰相となったヨセフの子孫であるエフライム部族とマナセ部族の合計72,700人です。このような統計数字の中にも神様の祝福を見ることができるとは驚きです。

http://bible.com/81/num.1.44-46.ja1955

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民数記 1:47-50
『しかし、レビびとは、その父祖の部族にしたがって、そのうちに数えられなかった。 すなわち、主はモーセに言われた、 「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。またその総数をイスラエルの人々のうちに数えあげてはならない。 あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。」』

外敵に対する信仰の戦いに従事する戦士として数えられた部族の中に、レビ部族は入っていませんでした。それはレビ人たちは神様のための奉仕に従事する部族として特別に召されたからです。

私たちも、信仰の戦いと、神様に対する礼拝を区別することが必要です。日々の生活に流されることなく、礼拝は特別なものとして時間も労力も財力も惜しみなく捧げる者でありたいと願います。

http://bible.com/81/num.1.47-50.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/27

2016-06-27 06:40:42 | 今日の聖句
箴言 12:1
「戒めを愛する人は知識を愛する、懲らしめを憎む者は愚かである。」

戒めとは人が正しく生きるための神の知恵、懲らしめとは人の過ちを正すための神の愛です。主の戒めに従い、懲らしめから学び、神様に喜ばれる祝福の人生を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.12.1.ja1955
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HD-115の弦を変えてみたら…

2016-06-26 19:07:34 | ギター・音楽関係
Martin の HD-28VR を入手して以来、ずっとそちらを弾いてばかりいましたが、弦の交換時期になり、ギターショップお勧めの Martin ACOUSTIC SP フォスファー・ブロンズのライトゲージ(MSP4100)に張り替えました。

ところがどうも購入時に張ってあった弦よりも太いようで、チューニング時にナット付近でピキピキと嫌な音がするので、元の弦と同じ太さと思われるエクストラ・ライトゲージ(MSP4000)に張り替えなおしました。

で、新品同様の MSP4100 を、そのまま捨ててしまうのはもったいないので、試しに HD-115 に張ってみたところ、なんと驚きの結果が!!

「低音弦の音の深みが全然違う!」

HD-115 購入時から今までずっと Martin 弦ライトゲージの定番「M140」を使い続けてきて、HD-115 の音はこういう音、という固定概念のようなものがありましたが、弦一つでこんなにも音が違うとは!!

いや、雑誌やネット、口コミなどの情報で、弦によってギターの音は変わるとは聞いていましたが、こんなにも劇的に音が変わるとは、正直言って思いもよりませんでした。百聞は一見に如かず、ではないですが、いやぁ、本当に勉強になりました。

そして、改めて HD-115 の実力を見直しました。HEADWAY 恐るべし。Martin の HD-28VR とは異なる魅力を再発見し、大切に使い続けたいと決意を新たにしました(笑)。
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失敗から立ち直ることこそ神様の御心

2016-06-26 09:52:12 | クリスチャン
先週のミニ・コンサートで、思うように賛美できなかった失敗をしました。先週はそのことをずっと思い巡らしていましたが、今朝のTVライフラインを視聴して、この聖書の御言葉が私の心に響きました。

ルカによる福音書 22:32
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

http://bible.com/81/luk.22.32.ja1955

神様の御心は、失敗から立ち直ること、そしてその失敗をも神様は尊く用いてくださることを、関根先生のお話から学ばされました。

http://www.tv-lifeline.com/

私も、先週の賛美の失敗を通して、賛美に対する心構えや、自分の思い上がり、信仰の姿勢を、改めて見つめ直すことができました。主の御心は失敗したまま終わることではなく、失敗から立ち直ること、そして、この失敗を次に生かすことができるよう、また、もしかしたらこの先出会うかもしれない失敗のために悩んでいる人のために、尊く用いていただきたいと願います。
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/26

2016-06-26 08:10:28 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 27:1-4
『主はモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『人があなたの値積りに従って主に身をささげる誓願をする時は、 あなたの値積りは、二十歳から六十歳までの男には、その値積りを聖所のシケルに従って銀五十シケルとし、 女には、その値積りは三十シケルとしなければならない。』

レビ記の最後は、神様に対する捧げものについて記されています。前半は特別な誓願の捧げものに関する教えです。その最初が、自らを神様のものとして捧げる献身の誓願についてです。私たちは聖会などで主に心を動かされ、自らの一生を神様のために捧げたいと献身の思いを抱くことがあります。それはとても素晴らしい恵みですが、その思いが一時的な感情の高まりによるものか、あるいはその目的が本来の献身とはずれていないか、客観的に吟味する必要があります。そのため神様は、献身に対しては相応の捧げものを命じたのです。

この誓願の捧げものを記した箇所がサムエル記にあります。長い間子どもを授からなかったハンナが、主の前に心を注ぎ出して祈り、子を授けてくださるならば最初の子を神様のために捧げますと誓願を立てました。そして神様の憐れみによりサムエルを授かったハンナは、この誓願の通りに幼いサムエルを、誓願の捧げものと共に祭司エリの前に連れてきて、神様にわが子を捧げたのです。これが神様に対する誓願のあるべき姿です。

そのときの誓願の捧げものについては、その人の性別や年齢によって定められていました。成人男性の銀50シケルというのは、4年強の年間収入額に相当するものでした。ここで重要なことは、誓願の捧げものの額は、その人そのものの価値ではなく、労働力に換算した額であるということです。ですから男性より女性が、成人より子どもや老人が低いのは、あくまでも収入に応じた額であり、神様が人をそれぞれの状況に応じて正当に評価してくださることを表しています。

神様に対する誓願は軽々しく行ってはならないこと、しかしその誓願は最も神様の喜ばれる捧げものです。献身はその最たるものです。聖なる思いをもって神様の御前に自らを捧げ、誓願を果たす者に豊かな恵みをもって応えてくださる主の素晴らしい御業を見させていただく私たちでありように。

http://bible.com/81/lev.27.1-4.ja1955

*****

レビ記 27:8
「もしその人が貧しくて、あなたの値積りに応じることができないならば、祭司の前に立ち、祭司の値積りを受けなければならない。祭司はその誓願者の力に従って値積らなければならない。」

先にも説明しましたが、誓願の捧げものはその人その人の状況によって正当に見積もられました。成人男性で聖所のシケルで50シケルというのは、今の日本のサラリーマンの平均月収を40万円とすると2000万円にも相当する額です。これほどの高額な捧げものは、貧困家庭ではとてもできません。そこで神様は貧しい人のために値積もりを祭司に委ねたのです。

そして祭司はその人の能力を正しく評価しなければなりません。信仰による神の祭司とされた私たちもまた、人を正しく見る目が必要です。どこか色眼鏡を掛けて人を見ていないか、感情的に人を見ていないか、私たちは反省することしきりです。神様の愛によって人を正しく見る目を持たせていただきたいと心より願います。

http://bible.com/81/lev.27.8.ja1955

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レビ記 27:25
「すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。」

神様に捧げるものは、神様の判断基準に依ります。決して人の価値基準によるものではありません。ですから私たちは、自分に都合の良いように捧げものをしてはなりません。神様の価値基準に従い、常に神様が喜んで受け入れられるように捧げる私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.27.25.ja1955

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レビ記 27:30-31
「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。 もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。」

ここに什一献金(じゅういちけんきん)の教えが記されています。この地球も、この世界も、本来はすべて神様のものです。そして私たちがこの地で得る収入もまたすべて神様の恵みにより得たものですから、本来はすべて神様のものです。しかし神様はそのすべてを自分のものとされず、人がこの世で生きるための生活の糧として私たちに与えてくださっているのです。この恵みに感謝するのが献金であり、神様はその額として什一献金を定められたのです。

収入の十分の一というのは私たちにとって大きな金額でもあり、献金に手を付けたくなる誘惑に駆られます。しかし什一献金をおろそかにする者は、神様の恵みに感謝する心を忘れ、しかも神様の価値を値引きする罪にもつながることを、私たちは決して忘れてはなりません。什一献金は決して義務ではなく感謝の表れであることを常に認識し、献金において神様の御前に罪を犯すことのない私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.27.30-31.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/26

2016-06-26 07:00:23 | 今日の聖句
ヘブル人への手紙 10:23-25
「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」

キリストの十字架により私たちの罪を完全にきよめてくださった神様は、もはや信仰以外にいかなる犠牲も求められません。この永遠の約束に堅く立ち、イエスを主と告白し、同じ信仰の仲間たちと共に集い神様の御名をほめたたえ、御心に適う愛の奉仕に励む私たちでありますように。

http://bible.com/81/heb.10.23-25.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/25

2016-06-25 07:15:54 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 26:3-4
「もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。」

神様が十戒と様々な教えを守るようにと定められたのは、イスラエル人が住む地で豊かな祝福を受けるためでした。神の民とされた私たちもまた、神様を畏れ、御言葉を守り行う者となり、この世での祝福のみならず、やがて受け継ぐ天の御国に永遠に住まう特権を得させていただきたいと願います。

http://bible.com/81/lev.26.3-4.ja1955

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レビ記 26:14-16
「しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、 わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、 わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。」

神様の祝福の契約には、戒めを守り行うならば、という条件がありました。この契約を人間の側から破るならば、むしろ裁きとなって私たちに害が襲いかかると神様は警告されました。この警告は単なる脅しではなく、私たちに神様との契約を決して破らず、豊かな祝福を受け継ぐ者となってほしいという強い願いに他なりません。

神様に聞き従わず、戒めを守らず、定められた掟を忌み嫌う者に下る裁きは、本当に恐ろしいものです。しかし裁きを恐れて嫌々神様に従うのではなく、神様に喜ばれる、ご期待に添える者となる私たちでありたいと願います。

http://bible.com/81/lev.26.14-16.ja1955

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レビ記 26:18-20
「それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの誇とする力を砕き、あなたがたの天を鉄のようにし、あなたがたの地を青銅のようにするであろう。 あなたがたの力は、むだに費されるであろう。すなわち、地は産物をいださず、国のうちの木々は実を結ばないであろう。」

神様の裁きは段階的に及びます。これは裁くこと自体が目的なのではなく、人が神様に立ち返ることが目的だからです。もし神様の懲らしめを受けたとき、私たちの取るべき態度は、直ちに悔い改めて神様に従うことです。逆ギレして自分の主張を曲げない態度を取るならば、更なる重い裁きが待ち受けています。主の懲らしめを神様の元に立ち返る機会として真摯に受け止め、過ちを素直に認め、心から悔い改めて神様の祝福のうちに立ち返る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.26.18-20.ja1955

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レビ記 26:23-25
「もしあなたがたがこれらの懲らしめを受けてもなお改めず、わたしに逆らって歩むならば、 わたしもまたあなたがたに逆らって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。 わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう。あなたがたが町々に集まる時は、あなたがたのうちに疫病を送り、あなたがたは敵の手にわたされるであろう。」

神様の懲らしめは、何段階にもわたります。どれほど神様が私たちを愛し、早く立ち返ってほしいと願われているかがわかります。しかしそれでも悔い改めないならば、最後の裁きが待っています。主を畏れず神に敵対する者として、神様自ら私たちに敵対し、私たちを敵の手に渡されます。イスラエル人がせっかくエジプトの奴隷から解放されたのに、また罪の国バビロンの捕囚となることが予表されているかのようです。

イスラエルの歴史は神様と人間の関係、そしてその結末を如実に示しています。私たちは歴史から学ぶ必要があります。過去の人々と同じ過ちを繰り返すことのないよう、主の戒めと警告を真摯に受け止め、神様を畏れ敬い、御言葉を守り行い、主との関係を正しく保って、まことのさいわいを得る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.26.23-25.ja1955

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レビ記 26:33-34
「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、つるぎを抜いて、あなたがたの後を追うであろう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は荒れ地となるであろう。 こうしてその地が荒れ果てて、あなたがたは敵の国にある間、地は安息を楽しむであろう。すなわち、その時、地は休みを得て、安息を楽しむであろう。」

この箇所はまさにバビロン捕囚と、イスラエルの荒廃を預言しているかのように思えます。しかし神様が戒めに背く者を約束の地から追い払うことの真意は、この地に安息を賜ることにあります。約束の地は神様のものであり、神様の御心に適う地となるのです。私たちは一時的に約束の地で祝福のおこぼれに与っているに過ぎません。この世を自分のもの、自由に使い倒して良いものと勘違いすることなく、神様の御心に従って祝福のおこぼれに与らせていただく、さいわいな生涯を歩む私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.26.33-34.ja1955

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レビ記 26:40-42
「しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、 たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、 そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。」

神様は憐れみ深いお方ですから、裁きを受けた後にも、再び立ち返る機会を与えてくださいます。この世に生ける限り、私たちには主に立ち返るチャンスが何度も用意されていることはさいわいなことです。主の懲らしめを自らの犯した罪の故であると素直に認め、心から悔い改めて主の憐れみを乞い求め、祝福の契約を再び思い起こしていただける恵みに与る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.26.40-42.ja1955
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【今日の聖句】 2016/06/25

2016-06-25 06:20:54 | 今日の聖句
ヤコブの手紙 4:7
「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」

誘惑に打ち勝つには、義なる神様に従うと共に、サタンに立ち向かう決意が必要です。闇の支配に迎合することなく、むしろ罪を憎み悪と決別する固い意志を保ち、信仰ときよさをもってサタンとの戦いに勝利する私たちでありますように。

http://bible.com/81/jas.4.7.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/06/24

2016-06-24 08:05:29 | 一日一章・聖書通読日記
レビ記 25:1-4
主はシナイ山で、モーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地に、あなたがたがはいったときは、その地にも、主に向かって安息を守らせなければならない。 六年の間あなたは畑に種をまき、また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、その実を集めることができる。 しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。』」

神様はシナイ山でモーセに、イスラエル人の生活についての教えを授けられました。その第一の教えが安息の年についてです。7日目に安息日があるように、7年目を安息の年として、その土地に休みを与えるために、いっさいの農耕を禁じられました。神様の憐れみは、人だけでなく、この地に対しても向けられているのです。

農業を営む人は、作物を作り続けると土地が痩せてしまい、いつか必ず実を結ばなくなることを知っています。ですから神様は土地に休みを与え、いつまでも豊かな実りを得ることができるように定められたのです。

働き続けること、土地を耕し続けることは、もっと豊かになりたいと思う人間の欲望がそうさせるのです。しかし人は神様に養われている存在であると認めるならば、安息日と安息年の教えを素直に受け入れることができます。自分の力でより良く生きようとするエゴを捨て、すべての必要を満たしてくださる神様に養われるさいわいを味わう私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.25.1-4.ja1955

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レビ記 25:6-7
「安息の年の地の産物は、あなたがたの食物となるであろう。すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、 あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう。」

安息年の産物は、人が刈り取って自分の所有としてはならず、すべての人と動物たちの共有の食物となりました。神様が必要な糧を与え養ってくださるとの信仰の表れです。地の産物は神様が私たちに賜る恵みです。どれほど人間が働いても、もし神様が太陽を昇らせず、また雨を降らせないならば、何の収穫も得ることができません。神様は私たちの必要を覚えて恵みを賜る憐れみ深いお方です。

http://bible.com/81/lev.25.6-7.ja1955

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レビ記 25:8-10
「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。 七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。 その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。」

安息年を7回経た翌年の50年目は「ヨベルの年」と呼ばれ、すべての束縛から解放され、自由となる年と定められました。ヨベルの年には、どんな負債のある人も免除され、イスラエル人の奴隷も解放され、すべての土地を元の所有者の返還しなければなりませんでした。これは神様がイスラエル人をエジプトの奴隷から解放されたこと、またイエス様が十字架により私たちを罪の奴隷から解放されたことにもつながる、神様独特の自由の考え方です。神様が憐れみ深く寛大であられるように、私たちもまた惜しむことなく寛大でありたいものです。

http://bible.com/81/lev.25.8-10.ja1955

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レビ記 25:13-16
「このヨベルの年には、おのおのその所有の地に帰らなければならない。 あなたの隣人に物を売り、また隣人から物を買うときは、互に欺いてはならない。 ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。 年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。」

ヨベルの年は、イスラエルの人々が生まれ故郷、先祖代々の地に戻る年でした。たとい土地を売るときも、ヨベルの年には元の所有者に戻すことを前提に値決めをしなければなりませんでした。あくまでもヨベルの年まで一時的にその地を自由に使う権利を得るという考え方です。

人は何でも自分の所有としたがる傾向がありますが、それは一度手にしたものを手放そうとしない欲の表れです。しかし神様は私たちの地上の生涯を永遠のものとは考えておられません。一時的なものに固執することなく、無欲にこの世の生涯を送る私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.25.13-16.ja1955

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レビ記 25:17-19
「あなたがたは互に欺いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 あなたがたはわたしの定めを行い、またわたしのおきてを守って、これを行わなければならない。そうすれば、あなたがたは安らかにその地に住むことができるであろう。 地はその実を結び、あなたがたは飽きるまでそれを食べ、安らかにそこに住むことができるであろう。」

安息の年を守ること、ヨベルの年の解放を果たすことは、私たちがこの世で平安な生涯を送るための神様の知恵です。わずかなものも取りこぼしのないように収穫をかき集め、何でも永遠に自分のものとしようとする物欲、支配欲は、私たちの人生を不幸せなものとします。まことの平安は、日々の暮らしは神様が保証してくださると完全に委ねることのできる安心感から生まれます。

http://bible.com/81/lev.25.17-19.ja1955

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レビ記 25:20-22
『「七年目に種をまくことができず、また産物を集めることができないならば、わたしたちは何を食べようか」とあなたがたは言うのか。 わたしは命じて六年目に、あなたがたに祝福をくだし、三か年分の産物を実らせるであろう。 あなたがたは八年目に種をまく時には、なお古い産物を食べているであろう。九年目にその産物のできるまで、あなたがたは古いものを食べることができるであろう。』

荒野を旅するイスラエル人に日々の糧としてマナを降らせた神様は、安息日の前日には2日分のマナを降らせました。それと同じく、安息年にも神様は3倍の収穫を得させると約束され、イスラエルの将来に対する不安を払拭されました。

人が必要以上に所有したがり、休むことなく働き続けさせる原因は、将来に対する漠然とした不安に起因します。しかし神様は私たちの必要を満たしてくださるとの約束を信じて委ねることができるならば、神様はその約束を果たしてくださり、余るほど充分に満たしてくださるお方です。自分で何とかしようとあくせくすることなく、完全に神様を信頼して委ねる生涯を送る私たちでありますようよ。

http://bible.com/81/lev.25.20-22.ja1955

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レビ記 25:23-24
「地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。 あなたがたの所有としたどのような土地でも、その土地の買いもどしに応じなければならない。」

神様がイスラエル人に土地を永遠に売ってはならないと言われたのは、そもそもこの地はすべて神様のものであり、人はそれを期限付きで使用させてもらっているだけだ、という神様の基本理念に基づくものです。ですから神様のものを自分のものとして売ってはならず、ヨベルの年には元の所有者に戻すのです。

私たちはこの世界を人間のものと勘違いしてはいないでしょうか? それこそ人間の傲慢であり、神様の権威に楯突く不従順の罪です。この世のいのちは一時的なものであり、今を生かされているのだという基本に立ち返って、神様の御言葉に従い、神様から託されたこの世での使命を忠実に果たす私たちでありますように。

http://bible.com/81/lev.25.23-24.ja1955
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