伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2019/04/30

2019-04-30 07:35:26 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 13:1-6

兄弟愛を続けなさい。 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。 すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。

私たちの人に対する愛は「自分を愛するように隣人を愛せよ」「神を愛すると言いながら目に見える兄弟を愛することのできない者は偽り者である」との御言葉に集約されます。苦難や試練の中にある人々のことを思い、愛の業をもって助け励ますことは、神の御心です。私たちは常に世界の人々のことを思う愛を備えさせていただきたいと願います。また不品行は心を腐らせる重罪であることを肝に銘じ、結婚を重んじ姦淫の罪を犯すことのないよう自らをきよく保つ必要があります。貪欲を避け、神様が自分に与えてくださったもので満ち足りる心を持つことは、経済的な自立のみならず精神的な自立にもつながり、貪欲という大罪から解放されます。私たちと共におられる方が、折に応じて必要な助けを与え、義の道に導いてくださると確信して日々歩む者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.13.1-6.ja1955

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ヘブル人への手紙 13:7-13

神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。 なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。

私たちに福音を伝えてくれた信仰の諸先輩たちを見習うことは、私たちが霊的に成長するための良いお手本となります。直接会ったことのない、古の先人たちの信仰に基づく言動を学ぶこともまた、私たちが神に喜ばれる信仰生活を送るにはどのようにすればよいか、具体的な行動規範を示してくれます。あの人の信仰に見習いたい、あの偉大な指導者のように信仰生活を送りたい、という目標を持つことによって、私たちは徐々に古い自分から変えられ、昨日も今日もいつまでも変わることのないキリストの徳の高さに近付くことができるようになります。

https://www.bible.com/bible/81/heb.13.7-13.ja1955

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ヘブル人への手紙 13:14-17

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。 そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。

イエスの御名をほめたたえること、善を行うこと、愛の施しに励むことは、神に最も喜ばれる、私たちの捧げるべき生け贄です。愛のない捧げもの、儀礼的な礼拝、形式的な信仰は、神に決して喜ばれることはありません。そのような人々の日々の言動を見れば明らかなように、単なる自己満足のために時間を浪費するだけで、どこにも神の愛に基づいた行動につながりません。この世にではなく永遠の天に国籍を持つ霊的指導書たちの言葉に聞き従い、神に喜ばれる生きた供え物としてこの身を捧げる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.13.14-17.ja1955

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ヘブル人への手紙 13:18-25

わたしたちのために、祈ってほしい。わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており、何事についても、正しく行動しようと願っている。 わたしがあなたがたの所に早く帰れるため、祈ってくれるように、特にお願いする。 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、 イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。 兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。 わたしたちの兄弟テモテがゆるされたことを、お知らせする。もし彼が早く来れば、彼と一緒にわたしはあなたがたに会えるだろう。 あなたがたの指導者一同と聖徒たち一同に、よろしく伝えてほしい。イタリヤからきた人々から、あなたがたによろしく。 恵みが、あなたがた一同にあるように。

ヘブル人への手紙の後書きとして、自分たちのために祈ってほしいと依頼すると共に、主にある兄弟姉妹として、これらの勧めの言葉を受け入れてくれることを切に願っています。異邦人伝道に使命を受け、数々の迫害と試練に遭いながら、自分を迫害している同胞の救いのためにも篤い心をもってこの書簡を記した著者(おそらくパウロであろうと思われる)の熱意を感じ取り、私たちもまた同族である日本人の救いのために、心を奮い立たせて、福音宣教に励む者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.13.18-25.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/30

2019-04-30 06:10:19 | 今日の聖句
マタイによる福音書 6:14 新共同訳‬‬

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

私たちはつい自分のことは棚に上げて、人の過ちに目くじらを立てて怒ることが多々ありますが、もし自分の過ちを指摘されたならば専ら恥入ることばかりです。天の父なる神が私たちの罪を赦してくださったように、人の過ちを赦すことのできる寛容な心を授けていただく者とならせていただきたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1819/mat.6.14.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/29

2019-04-29 23:05:18 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 12:1-4

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

罪と戦うために血を流すほどの抵抗をしたことがない、との御言葉に、思わずハッとさせられます。初期のローマ時代に受けた迫害や、日本でも隠れキリシタンや戦時中のキリスト教弾圧など、今の私たちにこの福音が受け継がれるために、まさに命懸けで信仰を守り通した先達たちがいたからこそと考えると、些細なことで信仰を捨てそうになったり、人目をはばかって公に信仰告白できなかったりたりする自分たちの信仰の情けなさを思い知らされます。もし今、日本で再びキリスト教弾圧が起こったならば、自分は信仰を守り通すことができるだろうか、自問自答しつつ、いざそのようなときには御霊によって信仰を守る勇気が与えられることを願いつつ、キリストの苦難、信仰の諸先輩たちの試練に思いを馳せて、信仰というマラソンを最後まで走り通す私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.12.1-4.ja1955

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ヘブル人への手紙 12:5-11

また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

自分が親になってみてはじめて、親から受けた数々の薫陶のありがたさを身に沁みてわかるようになりました。若かりし当時は親に反発して言い逆らったり、無視したり、あるいはあえて親の言葉と真逆なことを行ったりしましたが、今になってみると実に世間知らずだった自分に気付き、そのとき親に叱られたり指導されたりしたことがなかったら、今の自分はどうなっていただろうかと思わされます。まして、霊の父である全知全能の神の言葉は、私たちの霊的成長、人格形成にどれほど重要な影響を与えるでしょうか。耳に痛い御言葉の真理が私たちの心を貫くとき、反発することなく素直に受け入れ、キリストの徳の高さを目指して成長させていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.12.5-11.ja1955

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ヘブル人への手紙 12:12-17

それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。

せっかく父イサクから長子の特権を受け継ぐ権利を持っていたにもかかわらず、空腹と食欲に負けて弟ヤコブに特権を譲り渡した兄エサウの姿は、目の前の利益に飛びつきやすく、肉の欲望に対して実に弱い私たちの似姿です。信仰の破綻を自ら来さないように、信仰の道を真っ直ぐに備えること、人々と和をもって接すること、きよくなるために努力を怠らないことを第一として心掛ける私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.12.12-17.ja1955

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ヘブル人への手紙 12:18-24

あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、 また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。 そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。 その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

神と顔と顔を合わせて直接語り、祝福の契約として十戒を授かったモーセでさえ、シナイ山に主が降ったとき、全地が震え動き、雷鳴り渡る光景に、恐ろしさの余り震えおののくほどでした。私たちは主なる神に対して、これほどの畏敬の念をもって接しているでしょうか。愛なる神、慰めに満ちた神の姿ばかりを求めて、気安く、なれなれしく接していないでしょうか。私たちの神に対する態度を今一度見つめ直し、畏れを抱きつつも、大胆に主の御前に進み出る者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.12.18-24.ja1955

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ヘブル人への手紙 12:25-29

あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

主の再臨の日には、未だかつてないほどの天変地異が起こり、今ある世界は完全に崩壊して、神の支配する全く新しい世界が完成すると聖書に記されています。そのとき私たちの信仰が篩に掛けられ、神の御国を受け継ぐ者と、永遠の滅びに定められる者とが分別されます。今の生活を続けていたら、そのとき私たちはどちらに分類されるでしょうか。神の御言葉に聞き従わなかった者、聞いても忠実に守り行わなかった者、神の喜ばれる業に真摯に取り組まなかった者は、永遠の滅びに落とされ、罪を焼き尽くす火なる神の怒りで永遠に焼かれます。神の言葉を知りながらそのような憂き目に遭うことのないよう、神の恵みに感謝しつつも畏れ敬い、神に喜ばれる者となるように忠実に仕える私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.12.25-29.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/29

2019-04-29 05:35:14 | 今日の聖句
ヨハネの黙示録 4:11 新共同訳

「主よ、わたしたちの神よ、
 あなたこそ、
 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
 あなたは万物を造られ、
 御心によって万物は存在し、
 また創造されたからです。」

私たちの信じる神様は、天地の造り主にして万物の創造者であられるお方です。そして私たちにいのちを与え、生きる目的と使命を与えられた主を、心からの賛美をもってほめたたえ、栄光と誉れと力を主に帰する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/rev.4.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/28

2019-04-28 23:50:31 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 11:1-3

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰の本質とは何かについて、過去の信仰の偉人たちを例に挙げて、詳しく説明しています。そして信仰とは、目に見える、手に取ることのできる現実に望みを置くのではなく、私たちの目には見えない、まだ形にもなっていない霊的な世界に目を向けることです。そして現実の世界は霊的な世界で成就したものを、映し鏡のように、神の御言葉によって現れ出て来た結果です。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.1-3.ja1955

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ヘブル人への手紙 11:4-7

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

ここからしばらく、偉大な信仰の先達たちの事例が挙げられています。最初の人アダムが出てこないのは、彼の不信仰の故に罪がすべての人類に入り込む結果となったからです。しかしアダムの息子アベルは、最初にこの地の産物の最も良きものをもって神に礼拝を捧げた人であり、エノクはこの世の生涯を通して神と共に歩んだ人であり、ノアはこの地に罪が満ちた時代にも信仰をもって神のご命令に愚直に聞き従った唯一の人です。罪の支配するこの世界において、神に覚えられる者とは信仰によって歩んだ人です。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.4-7.ja1955

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ヘブル人への手紙 11:8-16

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神の約束の御言葉を信じ、まだ目には見えない神の祝福に希望を置いて、行く当ても知らずして、何の保証もない約束の地への旅立ちを決断しました。罪の支配するこの世に生きる私たちは、あたかも寄留者のように、祝福を求めて旅する人のようです。そのような泡沫の人生の中で、神の祝福の地、永遠の安息が約束された天を目指して歩む私たちもまた、この世においては何の保証もありません。しかし神の約束の御言葉に寄り頼み、信仰によって一歩踏み出す者だけが、神の約束を自分のものとすることができますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.8-16.ja1955

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ヘブル人への手紙 11:17-22

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

アブラハムが約束の子イサクを神に命により捧げようとした行為は、表面的には子殺しの重罪ととらえられるかもしれません。しかし約束の子イサクを神に捧げようとするほどに徹底して神の御言葉に聞き従ったアブラハムの行動は、結果をすべて神の手に委ねる信仰によるものであり、たといイサクを失っても、必ず約束を守られる神は再び戻してくださるとの確信に基づくものです。その信仰は、神の一人子イエスの十字架における死とよみがえりの予表でもありました。その後にも神の不思議な選びの法則は子孫に受け継がれ、イサクから弟ヤコブが選ばれ、ヤコブからは11番目の子ヨセフがイスラエル民族を救うためにエジプトに下ることになりました。天地万物の造り主、全知全能の神にその名を覚えられる恵みを想い、その信仰の系譜に自分の名が記されていることに感謝する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.17-22.ja1955

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ヘブル人への手紙 11:23-31

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

神のご計画により一度は約束の地からエジプトに下り増え広がったイスラエル民族は、奴隷生活に苦しむ声に答えた神に対する信仰によってエジプトを出立し、モーセに導かれて再び約束の地に向けて旅立ちました。しかし神の約束を疑った不信仰な者、神に向かってつぶやいた者は、ことごとく荒野で死に絶えてしまいましたが、この使命はモーセからヨシュアに受け継がれ、荒野の旅路でその信仰を練りきよめられた信仰の人々は、約束の地に入ることができました。ここでエリコの町の住人だったラハブについて、信仰によって滅びを免れたことが記されていることは注目に値します。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.23-31.ja1955

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ヘブル人への手紙 11:32-40

このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

ここまで信仰によって生きた旧約時代の信仰の先達たちを例に挙げて説明してきましたが、多くの者はこの世においては約束された神の安息、まことの救いを受けることなく、むしろ信仰の故に受ける迫害に遭い、苦しめられてきました。彼らが心待ちにしてきたまことの救いは、キリストの十字架の購いの御業によってはじめて、私たち全人類にもたらされたものです。旧約時代の人々が手にすることのできなかったまことの福音を受けることのできるさいわいに感謝する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.11.32-40.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/28

2019-04-28 06:50:16 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 16:33 新共同訳

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

私たちがこの世に生きる限り悩み苦しみは絶えませんが、キリストにある平和を得ている私たちは、いかなる苦難も試練も乗り越える神の力に支えられていますから感謝いたします。この世に勝利されたキリストが共にいてくださる恵みを確信し、勇気を出して、人生の荒波を乗り越えて進む私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/jhn.16.33.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/27

2019-04-27 08:15:07 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 10:1-4

いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。

律法による罪の購いは、毎年毎年捧げられる必要がありました。なぜなら、たとい大祭司とはいえ人の手による購いの儀式では、罪を根源から絶ち切ることはできないからです。それはちょうど私たちが、一度悔い改めても再び同じような罪を犯してしまう弱さ、過去の罪の記憶を消し去ろうとしても事ある毎に思い起こしては罪悪感にさいなまれる良心の呵責にも表れています。もし私たちの行う罪の清算が完全なものであるならば、このような罪責感の繰り返しはないはずですが、現実はそんなに容易いものではありません。これが律法の限界だと認識することが重要です。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.1-4.ja1955

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ヘブル人への手紙 10:5-10

それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。

律法による罪の購いが不完全なものであると認めるとき、完全な罪の購いとは何かを知るようになります。それがキリストがこの世に来られた理由であり、語られたことです。神はもはや毎年捧げられる罪の購いの犠牲を好まれず、ただ一度だけ、完全な罪の購いを求められました。それが罪なき完全な神の子羊として捧げられたキリストの十字架の本質的な意義であり、それによって私たちの罪はもはや神の御前に覚えられず、完全にきよめられて、大胆に神の御前に進み出ることができるようになりました。神の御心を成し遂げるためにこの世に来られ、死に至るまで従順であられたキリストの苦難を覚えて感謝する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.5-10.ja1955

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ヘブル人への手紙 10:11-18

こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。

神が私たちのために立てられた新しい契約の証書は、年に一度、過越の祭の度に捧げられる購いの犠牲が捧げられる契約の箱に収められたモーセの律法が刻まれた石の板にではなく、きよい御霊を宿す神の宮、私たち自身の心の内にある祭壇に直接書き付けられました。ですから私たちはキリストの十字架の購いを心から信じ受け入れるだけで、もはや繰り返し購いの犠牲を捧げる必要はありません。神が私たちのために成し遂げてくださった十字架の御業に心から感謝して、キリストによる新しい契約を心に刻みつける私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.11-18.ja1955

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ヘブル人への手紙 10:19-25

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 愛と善行とを励むように互に努め、 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

このようにキリストが既に完全な購いの犠牲を捧げてくださった以上、私たちはキリストを通って神の御前に近付くことができるようになりました。これこそがイエスが「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と宣言された通りのことです。私たちは神の日の来たるまでこの契約にしっかりと保ち続け、神に喜ばれる善い業と愛の具現化に励み、同じ信仰を持つ神の家族とのキリストに在るきよい交わりを通して互いに励ましあう者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.19-25.ja1955

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ヘブル人への手紙 10:26-31

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

私たちはキリストがただ一度だけで成し遂げられた完全な罪の購いを受けた以上、これ以降の購いの機会はもはやありません。すなわち、キリストの十字架を信じてもなお、あえて罪を犯し続けるならば、後の罪は購われる術がなく、自ら神の裁きを受けなければなりません。もしそのようなことを平気で行っているとしたならば、神の裁きの真の恐ろしさを知らないからです。イエスもまた弟子たちに、人の命を奪うだけでしかできない者を恐れてはなりません、真に恐れるべきは肉体のみならず魂まで滅ぼし尽くすことのできるお方です、と戒められました。私たちはキリストの十字架を軽く受け止め、神の裁きを甘く見ては決してなりません。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.26-31.ja1955

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ヘブル人への手紙 10:32-39

あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。 そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。 さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

キリストの福音の故に受ける厳しい迫害の中で信仰を捨て去ろうとしていたヘブル人たちに、自分たちの持っている救いの確信を放棄してはなりませんと勧めています。神が私たちに約束された永遠のいのちを受けるために必要なものは、信仰の故に受ける試練をも耐え忍ぶ忍耐です。救われた喜びに生きる人は、たとい迫害を受けても喜んで耐え忍び、幾多の苦難にもめげることなく、確信を抱いて神の御旨に適う愛の業に励むことができる人ですから、私たちはそのような者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.10.32-39.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/27

2019-04-27 06:20:22 | 今日の聖句
マタイによる福音書 5:4 新共同訳

「悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。」

悲しむ人が幸いであるとは実に逆説的な言葉ですが、憐れみ深い神に慰められる人こそ真に幸いな人であるという真理が語られているのではないでしょうか。この世に生きる限り繰り返し訪れる悲しみの中にあっても、心の底から沸き起こる不思議な平安、一時的なものではない永遠の希望という真の慰めを受ける私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/mat.5.4.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/26

2019-04-26 07:50:36 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 9:1-8

さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。

ここに旧約時代の人々の捧げた礼拝の規定について、特に年に一度、過越の祭の日に大祭司が神殿の最も奥にある至聖所に入り、全イスラエルの罪を購うために子羊の犠牲を捧げる儀式について詳細に記されています。しかしこのことはイスラエル人にとっては先祖代々、幼い頃から語り聞かされていた、誰もが知っていることでしたから、改めて解説する必要はありません。著者はここで何に気付いて欲しかったのか、それは、旧約時代の礼拝ではまだ神と人との間に断絶があること、また罪の購いも毎年毎年繰り返されなければならなかった、モーセの律法による古い契約の不完全さです。私たちがどれほど頑張って律法を守り行ったとしても、神の国に近付く道は完全に開かれていないのです。これは人間の努力の限界を示しています。私たちは神の恵みなしに救いに至ることはできないことを明らかに示しています。

https://www.bible.com/bible/81/heb.9.1-8.ja1955

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ヘブル人への手紙 9:9-15

この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

神と人とに仕える大祭司であっても、生まれながらの罪を内包している人間の中から選ばれている以上、どれほど厳格に礼拝の儀式を守り行ったとしても、罪の購いを全うすることはできません。しかし天から降ってきた神の子羊なるキリストは、人の手によって造られた神殿ではなく、天の御国にある神の幕屋を通り、ただ一度だけ、罪なき完全な子羊としてご自身の血を神の御前に捧げられたことを通して、私たちすべての人の罪が赦され、永遠の購いを全うされました。これがモーセの律法を完全に上回る新しい契約、神と人との間に立てられた永遠の契約のしるしです。キリストは神と人との間に立つ新しい中保者となって、永遠の救いの確証を私たちに与えてくださいますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/81/heb.9.9-15.ja1955

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ヘブル人への手紙 9:16-23

いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。 すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、 そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。 彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。

旧約時代の礼拝ではどうして血を捧げる必要があるのか? それは血はいのちの源であり、いのちの象徴であり、いのちの代価であるからです。永遠のいのち、罪の赦しを得るために、いのちを懸けて契約を守ることの証です。そのために流される血は、完全なもの、きよいものでなければなりません。だからこそ律法には神の御前に捧げる購いの子羊に関する規定が細かく記されているのです。この律法の規定を完全に遵守するもの、いかなる動物の犠牲に優るものこそ、罪なき神の一人子、神の子羊なるイエスの御体です。イエスが過越の祭の日に十字架に掛けられ、その血を流され、いのちを捨てられたことの真の意義は、律法に優る完全な購いを成し遂げ、新しい契約を私たちに与えるためであったことが、ここからも明らかです。

https://www.bible.com/bible/81/heb.9.16-23.ja1955

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ヘブル人への手紙 9:24-28

ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

キリストは地上の幕屋、人の手による模型に過ぎない至聖所に入って購いの血を流されたのではなく、神の御前にあるまことの幕屋、永遠の天に入り、ただ一度だけ、完全な購いの血潮を流されることにより、すべての人の罪は取り除かれました。そして私たちの罪をすべて担って十字架にいのちを捧げられたイエスが再びこの地上に来られるとき、すなわち主の再臨の日に、完全な救いが成し遂げられます。私たちの希望はすべてキリストにありますから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/81/heb.9.24-28.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/26

2019-04-26 06:35:01 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 10:11 新共同訳

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

イエスはご自身を良い羊飼にたとえて、羊のような弱い私たちの魂を養い、人生を導いてくださるばかりか、十字架に掛かりいのちを捨てられることを予告されました。良い羊飼なる主イエスの御声に聞き従い、永遠の天の御国に至るまで、どこまでも主について行く私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/jhn.10.11.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/25

2019-04-25 07:30:33 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 8:1-5

以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、 人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。 おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。 そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。

キリストは神の大祭司として、天にある神の幕屋、まことの聖所にて、神と人とを取り持つ仲裁者として仕えていてくださっています。そして私たちの目に見える地上の幕屋、人の手によって造られたエルサレムの神殿は、天にある神の幕屋の模型に過ぎないということです。これは過剰な神殿信仰に傾かないための戒めでもあります。今なお多くいる巡礼者や祈りの時刻にエルサレムに向き直って礼拝する敬虔な信者の行動を否定することはいたしませんが、礼拝されるべきは、人が建てた神殿ではなく、人の中から選ばれた大祭司でもなく、天にいます神様と、神の右に座して天の幕屋で私たちの罪を執り成していてくださるキリストです。

https://www.bible.com/bible/81/heb.8.1-5.ja1955

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ヘブル人への手紙 8:6-9

ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。

私たちが手にする聖書は新約聖書、旧約聖書に分かれていますが、これは翻訳の「訳」の違いによるものではなく、契約の「約」の違いによるものです。旧約聖書はモーセの律法という神と人との契約に聞き従うか否かを人に突きつけるものですが、新約聖書はモーセの律法を完全に守ることのできない私たちのためにキリストが身代わりに罪を購ってくださった、十字架と復活という新しい契約に基づくものです。モーセの律法自体は決して間違いがあるわけではありませんが、その実効性において、人には律法を完全に守り行うことができないという欠点がありました。そこで神は御子イエスを罪の購いとしてこの世に送り、十字架で救いの御業を完成されました。この購いはただ一度ですべての人に及ぶ完璧な契約です。神が人の弱さを思いやって新しく立てられたこのキリストの契約を、心を頑なにすることなく、ただ感謝して受け取る私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.8.6-9.ja1955

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ヘブル人への手紙 8:10-13

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。 彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。

旧約時代の人々は、契約の箱の中にある石の板に刻みつけられたモーセの律法によって罪を購っていただきましたが、新約の時代に生きる私たちは、私たちの心の中に刻みつけられたキリストの十字架という証印によって罪を購っていただくことができるようになりました。もはや私たちは何度も購いの犠牲を捧げる必要はなく、ただ一度、イエスが十字架で捧げられたその御体と流された血潮によって永遠に罪赦され、神はその不義を憐れまれ、もはや罪を思い出すことはないと約束されていますから感謝いたします。ここまでして私たちを愛してくださっている神を知り、この福音をしっかりと心に抱き続けることが、私たちが神と交わした新しい契約を守ることです。

https://www.bible.com/bible/81/heb.8.10-13.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/25

2019-04-25 06:35:05 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 3:23-24 新共同訳

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

すべての人はその罪あるが故に神と共に永遠に生きる栄光に与ることはできませんが、主イエスが十字架で成し遂げられた購いの御業により罪赦され、代価なしに義とされる恵みに感謝いたします。己の罪と向き合い、心から悔い改めて立ち返り、永遠のいのちを受けるに相応しい者とされる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/rom.3.23-24.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/24

2019-04-24 07:50:14 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 6:1-8

そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。 神の許しを得て、そうすることにしよう。 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。

異邦人である私たちとは異なり、ヘブル人への手紙の対象であったイスラエル人にとって、神に関する教え、罪と裁きに関する教えなどは、幼い頃から繰り返し学んできた基本中の基本です。そのような初歩をいつまでも学ぶことはやめて、信仰の次のステップに進もうと提案しています。そして一旦キリストの福音を受け入れて救いに与った者が、信仰を捨て元の生活に戻るならば、罪の赦しを得させる購いの御業は再び臨むことはないと警告します。よく耕された土地にたとえられる私たちの心に生えたいばらやあざみとは罪の実、神の呪いの対象であり、罪を滅ぼす永遠の火で焼き尽くされ捨てられてしまう他ありません。私たちの心がそのような信仰の破綻、荒れ地となることのないよう、福音の恵みにしっかりと留まり続けさせていただきたいと願います。

https://www.bible.com/bible/81/heb.6.1-8.ja1955

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ヘブル人への手紙 6:9-12

しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。 わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。

ヘブル人への手紙は、数々の迫害や試練の故に信仰を捨てかかっている人々を励ますために記された書簡ですから、単なる裁きと滅びの予告で人を脅すものではなく、信仰を保ち続ける者に注がれる神の憐れみと祝福を伝えるものです。神は決して信仰に励んでいた頃の働きを忘れるようなお方ではなく、今は心が弱っていても、再び力を与えてその心を奮い立たせ、最後まで希望を捨てないようにと励ましを与えています。私たちの心が折れてしまいそうになるとき、神は鞭打って信仰を駆り立てるような情け容赦ないお方ではなく、あなたのことを覚えているよと、慰めと励ましと希望を与えてくださる憐れみ深いお方です。

https://www.bible.com/bible/81/heb.6.9-12.ja1955

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ヘブル人への手紙 6:13-17

さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。 このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。 いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。 そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。

保証とはその有効期間の間、変わることのない信頼の置けるものに立脚するものです。しかし神の約束の保証は、神よりも信頼の置ける、永遠不変のものがないために、ご自身を指して誓われたのだと解き明かしています。私たちの信仰の保証人は、天地万物を統べ治められる永遠の神ご自身です。ここでは信仰の父と呼ばれるアブラハムの例を引き合いに出して説明していますが、神ご自身を確かな保証と信じるか信じないかは、私たちの選択にかかっています。

https://www.bible.com/bible/81/heb.6.13-17.ja1955

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ヘブル人への手紙 6:18-20

それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。 この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。 その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。

神は偽ることのできない真実なお方であると知る私たちは、2つの不変の事柄、すなわち神ご自身を指して保証された誓いと約束を、まだ実現していない未来の祝福の確かな希望として信じることができます。この約束、神と人との間に立てられた永遠の契約を不動のものとするために、キリストは天の永遠の幕屋の内に入り、神によって立てられた祭司メルキセデクに等しい大祭司となられた、それが十字架の奥義です。神の知恵とご計画の奥深さは、知れば知るほど、学べば学ぶほど、素晴らしい恵みです。

https://www.bible.com/bible/81/heb.6.18-20.ja1955
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【今日の聖句】 2019/04/24

2019-04-24 06:35:08 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 3:17 新共同訳

そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

クリスチャンとはキリスト者、すなわちキリストに倣う者と言う意味です。どこを切っても同じ絵柄が出て来る金太郎飴のように、何をするにつけてもキリストの芳しい香りを放ち、主イエスの尊い御名の故に感謝に満たされ、父なる神の愛と義を身を以て証する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/col.3.17.新共同訳
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【COGHCC聖書通読】 2019/04/23

2019-04-23 07:35:02 | 一日一章・聖書通読日記
ヘブル人への手紙 5:1-5

大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、 その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。 かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。 同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。

大祭司の務めは、年に一回、過越の祭の日に神の幕屋の一番奥にある至聖所に入り、人々の罪を購う子羊の血を祭壇に捧げることを通して、神の民イスラエルの罪を赦していただく、神と人との仲裁者となることです。そして大祭司の任職の際には、神の御前に進み出る者に相応しくすべての罪からきよめられるために、まず自らのために犠牲を捧げなければなりませんでした。大祭司が人の中から選ばれその職に任ぜられるように、キリストもまた人の子として生まれ、神の命により召命を受けられました。いと高き神の御子イエスが私たちの罪を購うために卑しい人の姿となってこの世に生まれ、生涯を通じて罪なき全き子羊として過越の日に十字架に掛かり、尊い血潮を捧げることを通して、すべての人の罪が赦された恵みに心から感謝する私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.5.1-5.ja1955

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ヘブル人への手紙 5:6-10

また、ほかの箇所でこう言われている、「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」。 キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。

イエスが叫ばれた十字架上の七言とも呼ばれる言葉は、本来は私たちが叫ばなければならなかった断罪の苦しみを、自ら身代わりとなって神の御前に捧げられた執り成しの言葉でした。何一つ罪のない方が、罪深い私自身のために、十字架の苦しみの中で叫ばれた祈りが神に聞き届けられた故、私たちは罪赦され、神の御前に大胆に進み出る特権が与えられていることを心から感謝いたします。死に至るまで忠実であられたキリストの従順によって救われたこのいのちを、自らの願望のためにではなくキリストのために捧げて、神の僕として用いていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.5.6-10.ja1955

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ヘブル人への手紙 5:11-14

このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。

乳幼児は大人と同じ食物を摂ることはできません。はじめは母乳、次いで離乳食と、徐々に固い食物を食べることのできるように段階を追って体を慣らしてゆきます。しかしいつまでも離乳食のままでは、体は大きく成長できません。様々な栄養に富んだ食物を自力で摂取できるように、私たちは自分で自分を変えて行かなければなりません。信仰の成長もまた同様、いつまでも離乳食のような初歩に留まっていたら、味わい深い聖書の御言葉、深遠な神の永遠の真理に到達することはできません。神の民として成長し、神の国に入るに相応しい品格を自ら身に付けるために、貪欲に神の恵みを求め、キリストの徳の高さに至ることのできるよう信仰の自己研鑽に日々励む私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/heb.5.11-14.ja1955
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