伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2018/11/30

2018-11-30 07:55:17 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 21:1-4

イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

当時のエルサレムの宮の賽銭箱はラッパのような形をしていて、献金を入れるとチャリンチャリンと大きな音が鳴り響くようになっていたと言われます。そのため見栄っ張りの大金持ちたちは、自分が多額の献金を捧げたことが周囲の人によくわかるように、あえて小銭に両替してジャラジャラと音が立つようにしていたそうです。そこに貧しいやもめがやって来て、当時最も単位の低い通貨だったレプタ銅貨を2つ献金する姿をイエス様は見ておられ、彼女は持っている生活費すべてを捧げたのだと言って誉めました。女性に雇用機会のなかった当時、夫や子どもに先立たれたやもめは、人々の憐れみを乞うて生きる他ありませんでした。彼女は自分の生活をすべて神様に委ねる信仰を、レプタ2枚の献金によって表したのです。神様は多額の献金よりも、彼女のように神様にすべてを委ねて生きる姿勢を何よりも喜ばれます。

http://bible.com/81/luk.21.1-4.ja1955

*****

ルカによる福音書 21:5-11

ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。 そこで彼らはたずねた、「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」。 イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。 戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」。 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。」

当時のエルサレムの神殿は、ヘロデ王がユダヤ人の歓心を買うために40年以上の歳月を掛けて建造した、実に豪華絢爛なものだったと言われます。ガリラヤの片田舎から出てきたイエス様の弟子たちが、その壮大な神殿に目を奪われても致し方ありません。しかし外の姿よりも内側を見られるイエス様は、この神殿がやがて跡形もなく崩される日の到来を予告されると、不安になった弟子たちはいつそのような時が来るのかと尋ねました。イエス様は、偽キリストの到来や戦争、大地震や疫病、飢饉、天変地異などが起こるが、それらは終末ではなくあくまでも前兆であって、惑わされないように注意しなさいと戒められました。多くの人々はこの世の終わりが来ることに不安を感じますが、神を信じる私たちには、単なる通過点に過ぎません。神の御言葉に立脚した世の終わりに対する正しい知識と対処法を身に付け、キリストの再臨に備える私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.21.5-11.ja1955

*****

ルカによる福音書 21:12-19

「しかし、これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。 それは、あなたがたがあかしをする機会となるであろう。 だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。 あなたの反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしが授けるから。 しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。 また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。 しかし、あなたがたの髪の毛一すじでも失われることはない。 あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」

続けてイエス様は、世の終わりには多くのユダヤ人が迫害に遭うことを語られました。全世界でユダヤ人ほど、迫害の歴史を度々通過させられ、しかも未だに滅び果てることなく生き残っている民族はありません。かのホロコーストでも、多くのユダヤ人がナチスドイツの犠牲になりましたが、世の終わりにはそれよりもはるかに多くの人々が迫害に遭うことが予告されています。イエス様は、キリストの御名の故に迫害されても、最後まで耐え忍ぶ者は救われると仰いました。このイエス様の約束の御言葉を堅く抱き、キリストの故に受ける迫害を耐えせしめる信仰を授けていただく私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.21.12-19.ja1955

*****

ルカによる福音書 21:20-28

「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。 それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ。 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難があり、この民にはみ怒りが臨み、 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。 また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。

エルサレムについては様々な教えや都市伝説などが語られていますが、一番確かなものは、永遠にエルサレムにその御名を置くと言われた神様の一人子イエスの御言葉です。エルサレムは軍隊に包囲され、世の終わりの時が来るまで異邦人に蹂躙されるとありますが、今まさにその御言葉の通りになりつつあります。これらの前兆が起こり始めたらあなた方の救いが近付いていると言われた主イエスの御言葉に信頼し、神の国の来るのを早めるために福音の業に励む私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.21.20-28.ja1955

*****

ルカによる福音書 21:29-36

それから一つの譬を話された、「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。 はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。 このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

世の終わりの前兆が起こっても、それはあくまでも前触れであって、世の終わりそのものではありません。そして最も大切なことは、たとい天地が滅びても、イエス様の御言葉は決して滅びることはないという事実です。多くの人々がこの世の終末に対して恐れを抱きますが、神の御言葉を信じる者にとっては、まことの救いが成就する喜びの訪れです。キリストの御言葉に聞き従う者は必ず守られますから、様々な艱難に対して心配することなく、絶えず目を覚まして祈り続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.21.29-36.ja1955

*****

ルカによる福音書 21:37-38

イエスは昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜をすごしておられた。 民衆はみな、み教を聞こうとして、いつも朝早く宮に行き、イエスのもとに集まった。

イエス様は昼は宮で教え、夜はオリブ山に退いて祈ることを常としていました。神様のための働きには、祈りは必要不可欠なものです。主イエスに倣い、昼は働き、夜は祈る、信仰生活の正しいリズムを刻む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.21.37-38.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/30

2018-11-30 06:45:19 | 今日の聖句
ルカによる福音書 6:37 新共同訳

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

人の欠点をあげつらって裁くのは、己の醜い姿が見えていない証拠です。自分のことを棚に上げて人を裁く評論家気取りをいち早く卒業し、むしろ人を許し弱さを受け入れ、共に救いに与ることのできるように祈る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/luk.6.37.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/29

2018-11-29 07:45:08 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 20:1-8

ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、 イエスに言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。そうする権威をあなたに与えたのはだれですか、わたしたちに言ってください」。 そこで、イエスは答えて言われた、「わたしも、ひと言たずねよう。それに答えてほしい。 ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」。 彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 しかし、もし人からだと言えば、民衆はみな、ヨハネを預言者だと信じているから、わたしたちを石で打つだろう」。 それで彼らは「どこからか、知りません」と答えた。 イエスはこれに対して言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。

権威を振りかざす人ほど権威に弱く、また与えられた権威なしには何一つできない、自分に自信のない人です。祭司長や律法学者たちは、イスラエルの長老たちを引き連れて、権威を笠に着てイエスを威圧しにきましたが、主イエスの堂々とした切り返しの質問に対して返答に詰まり、かえって恥をかく結果となってしまいり ました。主イエスが堂々としておられたのは、まことの権威を持つお方だからです。権威は上から与えられるものですから、被造物に過ぎない人の与えた権威は、天地万物を造られた神から与えられた権威に勝るものではありません。

http://bible.com/81/luk.20.1-8.ja1955

*****

ルカによる福音書 20:9-19

そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。

イエス様がこれまで祭司長や律法学者たちが行ってきた悪行三昧を暗に指摘する譬を話されたところ、彼らは自分たちのことを指した譬だと悟り、イエスを亡き者にしようと思いましたが、群衆を恐れて手も足も出すことすらできませんでした。罪を指摘されたことに気付いても、自分たちのことだと悟っても、悔い改めない者は、救いの手の施しようがありません。罪に気付いたならば、彼らのように心を頑なにせず、直ちに悔い改めて赦しを乞う私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.20.9-19.ja1955

*****

ルカによる福音書 20:20-26

そこで、彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕えさせようとした。 彼らは尋ねて言った、「先生、わたしたちは、あなたの語り教えられることが正しく、また、あなたは分け隔てをなさらず、真理に基いて神の道を教えておられることを、承知しています。 ところで、カイザルに貢を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。 イエスは彼らの悪巧みを見破って言われた、 「デナリを見せなさい。それにあるのは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と、彼らが答えた。 するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。 そこで彼らは、民衆の前でイエスの言葉じりを捕えることができず、その答に驚嘆して、黙ってしまった。

公衆の面前で赤っ恥をかいた律法学者と祭司長たちは、起死回生を図るために機をうかがい、群衆の関心事であるローマへの納税を題材として、イエスを窮地に陥れようとしました。しかし彼らの悪意を見抜いたイエスの「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」との見事な答えの前に、言葉尻をとらえてイエスを訴える口実を得るどころか、恥の上塗りをする結果となってしまいました。これは日常生活に用いられるローマの通貨と、神殿に捧げるために用いられるユダヤの通貨を併用していた当時の通貨制度を利用した、誰にでもよくわかる明快な解答でした。どれほど美辞麗句を並べ立てて誉め殺ししようとも、神の知恵の前には悪しき策略など無力です。

http://bible.com/81/luk.20.20-26.ja1955

*****

ルカによる福音書 20:27-40

復活ということはないと言い張っていたサドカイ人のある者たちが、イエスに近寄ってきて質問した、 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もしある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。 ところで、ここに七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、 そして次男、三男と、次々に、その女をめとり、 七人とも同様に、子をもうけずに死にました。 のちに、その女も死にました。 さて、復活の時には、この女は七人のうち、だれの妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。 イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、 かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。 彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。 律法学者のうちのある人々が答えて言った、「先生、仰せのとおりです」。 彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとしなかった。

現世を享楽的に生きる快楽主義を主張していたサドカイ人たちは、イエスの説いた死後の復活を否定するために、極端な例話を持ち出して、このやもめは復活の後に誰の妻となるのかと問いました。しかしこの例話には無理があり、そもそも子宝に恵まれずに夫と死別した妻を夫の兄弟が妻とする制度は、あくまでも家系を絶やさぬようにすることと、やもめの生活を保障する救済を目的とした、生きている者のための制度なのですから、死者に対して適用すること自体、あまりにも無謀な拡大解釈です。この質問からイエス様は更に、死後の復活と永遠のいのちについて正しい解釈を教えてくださいました。キリストの十字架を信じ、永遠のいのちをいただいた者は、天使に等しい者となり、神の子として受け入れていただけるとは、私たちにとっては実に明るい希望です。

http://bible.com/81/luk.20.27-40.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/29

2018-11-29 06:50:02 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 10:10 新共同訳

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

私たちが罪赦され義とされるのは、心の底からイエスを救い主と信じ、神と人との前に公にする契約に基づくものです。口先だけの信仰、密約の信仰告白にならぬよう、はばかることなく大胆に信仰を表明する私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.10.10.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/28

2018-11-28 07:55:06 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 19:1-10

さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

この箇所は有名な取税人ザアカイの改心の話ですが、この場面がエリコであったことに改めて気付きました。エリコはイスラエル人がカナンの地に入植した最初に取った死海の近くにある町で、世界中で最も低い位置にある都市です。旧約聖書から学んだように、土地の高度はその地の霊的な状態をも意味することが多くあります。エリコの町の海抜の低さに、ザアカイの背の低さを重ねて、人の心の罪深さを強調している設定だと受け止めることができます。これほどまで信仰的に底辺にいる者を訪れて、天の祝福の高みに引き上げてくださるイエス様の憐れみを心から感謝して受け止め、喜びに満たされ受けた恵みを幾倍にもお返しする者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/luk.19.1-10.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:11-19

人々がこれらの言葉を聞いているときに、イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである。 それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。 そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。 ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。 さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。 最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。 主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。 次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。 そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。」

イエス様がエルサレムに向かって進まれていることを、当時の人々は、都に上って政権を倒し、再びイスラエル王国の黄金時代が到来するものと期待していました。そんな人々の心を察して、イエス様はミナの譬を語られました。ミナは100ドラクマ銀貨=100デナリに相当する金額で、タラントの譬に出てくる1タラントは60ミナに相当します。ですから10人の僕たちはタラントの譬よりも少ない金額を任されたことになります。タラントの譬では人により5タラント、2タラント、1タラントが与えられましたが、その人その人に見合った能力や賜物を意味します。それに対しミナの譬では、一人一人同じ額を与えられました。これは誰もが平等に与えられる時間や機会を意味します。与えられたチャンスを確実にモノにする勤勉さが求められているのです。ですからよく働いた者に与えられたのは、ミナではなく、町でした。主の御言葉に忠実に、勤勉に働く者に、多くのものを管理させようとなさったのです。私たちも主から「よい僕よ、よくやった」とお声を掛けていただけるよう、主の御前に忠実に聞き従う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.19.11-19.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:20-27

「それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。 彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。 では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。 そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。 彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。 『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。 しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。

先の僕たちとは対照的に、与えられた機会を生かさず、主人が酷な人であるからと土の中に隠しておいた僕は、主人から、悪い僕よ、あなたの言った言葉であなたを取り扱おうと、持っているものを取り上げられ、厳しい裁きを告げられます。神様に対して悪いイメージを持ち、文句ばかり言って何も改善しようとしない怠惰な者は、神様の厳しい裁きを免れることはできません。

http://bible.com/81/luk.19.20-27.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:28-35

イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。 そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。 もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。 そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。 彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、 「主がお入り用なのです」と答えた。 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。

エルサレムに入場するにあたり、イエス様はロバの子を用いられました。当時は王の乗る動物は馬で、ロバは荷物を引くために使われる動物でした。しかも飼い慣らされていないロバは、実に強情で言うことを聞かないとも言われています。これは、イエス様が私たちを用いようとされていることにもつながる真理です。イエス様を知る前の私たちは、実はよく知った後でもそうかも知れませんが、実に強情で、頑固で、足も遅く、背も低くて何の取り柄のないような者です。しかしイエス様は、そんな私たちをも福音の使者としてお用いになろうとされます。こんな罪深く頑なな私たちを用いようとされる主の手足となって、福音のために精一杯働かせていただく者となりますように。

http://bible.com/81/luk.19.28-35.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:36-40

そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

子ロバの背に乗ってエルサレムに入場されるイエス様を、人々は自分の上着を道に敷き、喜びの賛美をもって歓迎しました。その様子に嫉妬したパリサイ人たちは群衆を黙らせようとしましたが、石が叫ぶと言われて引き下がらざるを得ませんでした。人の目を恐れる者に、真理を押しとどめる力などありません 。

http://bible.com/81/luk.19.36-40.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:41-44

いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。 いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、 おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。

エルサレムの町が見えたとき、イエス様は涙を流されました。神が永遠にその御名を置くと言われたエルサレムは、今や預言者たちを拒み聖者たちを殺した町と成り下がっていました。頑なに主を拒み続けたエルサレムは、神の一人子なる主イエスをも十字架に付け、やがてローマ帝国に包囲されて陥落し、へろで王の建てた大神殿は跡形もなく崩され、今や嘆きの壁だけが残っている有様です。これらはすべて、神の愛の御手を拒み続けた罪のもたらした結末です。私たちもまた福音の御言葉に耳を傾けないならば、同じ運命を辿ることとなります。「きょう御声を聞いたならば、あなた方の心を頑なにしてはならない」との勧めに聞き従い、砕かれた心で福音を受け入れる私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.19.41-44.ja1955

*****

ルカによる福音書 19:45-48

それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、 彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」。 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、 民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。

イエス様がエルサレムの都に入ってまずなされたことは「宮きよめ」でした。これは「異邦人の庭」と呼ばれる巡礼者たちが神の御前に祈りを捧げる場を、当時の人々が市場として利用するために占拠していたのを、再びすべての民族に開放された祈りの場として取り戻すことでした。私たちも聖なる場所、信仰の場、教会内の交わりを自分の利益のために利用していないか、自らを吟味し、祈りと御言葉の場としてきよめて取り戻すべきことを常に心掛けなければなりません。

http://bible.com/81/luk.19.45-48.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/28

2018-11-28 06:35:03 | 今日の聖句
詩編 37:4 新共同訳

‭‭‬‬主に自らをゆだねよ
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

悪の蔓延るこの世にあって、正直者が馬鹿を見る理不尽さに心憂うものですが、すべてを見ておられる義なる主に思いを委ねて平安を得させていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.37.4.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/27

2018-11-27 07:55:08 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 18:1-8

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

何度追い返されても諦めずに訴え続ける者のために、神をも恐れず人を人とも思わない不義な裁判官であっても取り合ってくれるようになるならば、まして天の父なる神様は私たちの祈りを聞いてくださらないはずがありません。私たちはちょっと祈ってすぐに答えられないと祈りが聞かれないと言って諦めてしまいやすいものですが、すぐに諦めてしまうような祈りは私たちに本当に必要なものではありません。神様は私たちの本心を見ておられます。何年経とうが祈り続ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.18.1-8.ja1955

*****

ルカによる福音書 18:9-14

自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

人は自分こそ正しいと思って生きています。それが高じて、この譬に出てきたパリサイ人のように、自分の正義感、倫理観を人に押しつけ、自分の決めた定規から外れる者を見下すようになっては、単なる高慢以外の何物でもありません。しかしまことの義なるお方であられる神様の目から見たら、人間の正義観など五十歩百歩で、このパリサイ人の鼻持ちならない祈りなど、目くそ鼻くそを笑うようなものに過ぎません。むしろ自らの罪深さを認めて、神殿から遠く離れて神様の赦しを乞うた取税人の方が、神様の御心に適ったものです。私たちはパリサイ人のように自分こそ正しいと自己満足に陥ることなく、我こそは罪人のかしらであると自認してまことの救いを求める者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.18.9-14.ja1955

*****

ルカによる福音書 18:15-17

イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

聖書の中で人数を数えるとき、女性と子どもが人の数には入らなかったのは、当時の社会通念ではそれが当たり前だったからです。しかしイエス様は人の数にも入らなかった子どもや女性たちに対しても深い愛を注がれ、むしろ子どもたちのように邪念なくイエス様に近付く姿勢を喜ばれました。私たちもまた自分は大人だと自我を張ることなく、子どものようになって父なる神様に近付く者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.18.15-17.ja1955

*****

ルカによる福音書 18:18-23

また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。

イエス様をよき師と呼んで教えを請うた大金持ちの役人は、律法の教えは子どもの頃からすべて忠実に守ってきたと主張しました。しかし彼は律法の根幹にある神と人とに対する愛を置き去りにして、字面だけを守ってきただけに過ぎませんでした。人の目に見える表面的な正しさだけを追い求めるならば、この世に宝を積むことはできても、天に宝を積むことはできません。神様は常に私たちの心の内、本質的な愛のあるやなしやを問われます。

http://bible.com/81/luk.18.18-23.ja1955

*****

ルカによる福音書 18:24-30

イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

悲しみながら立ち去った大金持ちの役人の背を見ながら、資産家が神の国に入ることは何と難しいだろうと嘆いたイエス様の言葉に、お調子者のペテロは、私たちはすべてを捨ててあなたに従いましたと、自信満々に答えました。イエス様はそんなペテロをも受け止めて、この世のものを惜しまずに神に従う者こそ神の国に入るに相応しい者であると教えられました。私たちの未熟な信仰であっても、純粋な信仰として受け止めてくださる主に感謝いたします。

http://bible.com/81/luk.18.24-30.ja1955

*****

ルカによる福音書 18:35-43

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。

イエス様が盲人を癒された奇跡は聖書の中に何度も出てきますが、このタイミングで盲人を癒されたのは、前の箇所にある、イエス様が十字架に付くべきことを弟子たちが悟ることができなかった記事と対比させているかのように思えます。この盲人は、最初は何事かわからずにいましたが、群衆の通り過ぎる雑踏の音を聞いてイエス様が来られたことを知り、ダビデの子よと信仰告白し、イエス様に何をしてもらいたいのかと問われると、直ちに見えるようになることですと答えました。見えなくてもイエス様が近くにおられることを悟った彼の信仰に倣い、五感を最大限に働かせて、神の細き御声をもキャッチし悟る、敏感な信仰を身に付ける私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.18.35-43.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/27

2018-11-27 06:40:36 | 今日の聖句
エレミヤ書 33:3 新共同訳

「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」

一寸先も見えない私たちは、目の前の現実に振り回されて右往左往するばかりですが、天地万物を統べ治められる主に信頼する者は、遠い将来までも告げ知らす確かな御言葉の約束に寄り頼んで平安の内を歩むことができますから感謝いたします。

http://bible.com/1819/jer.33.3.新共同訳
‭‭‬‬
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/26

2018-11-26 07:50:14 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 17:1-4

イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

罪の支配するこの世に生きる限り、罪の誘惑に逢うことは避けられませんが、自ら罪に身を任せたり、まして他の人を誘惑することなど言語道断です。むしろ罪を犯している人を愛をもっていさめ、悔い改めに導き、幾度でもゆるすことこそ私たちの使命です。

http://bible.com/81/luk.17.1-4.ja1955

*****

ルカによる福音書 17:5-10

使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。 そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

弟子たちがイエス様に信仰を増し加えてくださいと願い出ると、イエス様は、からし種一粒ほどの信仰あるならば山をも動かすことができると言われました。からし種とは、ケシの実よりも小さな、目に見えないような、世界中で最も小さい種のうちの一つです。そんな小さな種でも、その中には新しいいのちを宿しています。信仰はかたちではなく、生きて働くものです。

http://bible.com/81/luk.17.5-10.ja1955

*****

ルカによる福音書 17:11-19

イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。 そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

サマリヤとガリラヤの国境線沿いを歩まれていたイエス様は、10人の重い皮膚病にかかった人々と出会い、彼らの願望通り、癒しの奇跡を行われました。しかし癒されたことを感謝するためにイエス様の元に戻ってきたのはたった一人、しかも異邦人の中でもユダヤ人が忌み嫌っていたサマリヤ人だけでした。他の9人は癒しという表面的な問題解決だけを求めていましたが、救いという根本的な問題解決を得ることができたのは、このサマリヤ人の信仰の力でした。

http://bible.com/81/luk.17.11-19.ja1955

*****

ルカによる福音書 17:20-25

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 それから弟子たちに言われた、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう。 人々はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。 いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」

神の国の到来を宣べ伝えていたイエス様に対し、パリサイ人は、その神の国はいつ来るのかと問いました。彼らの問いに対しイエス様は、神の国は見えるかたちで来るのではなく、あなた方の心のただ中にあるのだと答えられました。むしろ神の国はここにある、と言って騙す人々に惑わされるなと弟子たちに警告されました。今なお様々な新興宗教がこの世の救済を説いていますが、真の救いはキリストの御言葉の中にあります。そしてイエス様は救いを完成されるために、自ら十字架にかかられ、人間の罪を根本的に解決してくださいました。

http://bible.com/81/luk.17.20-25.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/26

2018-11-26 06:40:20 | 今日の聖句
詩編 100:5 新共同訳

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。

私たちの神、主は、恵みと慈しみとに豊かなお方、永遠に変わることのない真実なお方です。この主に向かい、心からの感謝をもって賛美の歌声を上げ、その御名をほめ歌う私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.100.5.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/25

2018-11-25 23:59:06 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 16:1-8

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」

悪しき家令の譬はとても理解しにくい内容です。彼の不正は背信行為を重ねることにあたり、とても誉められたものではありませんが、この金持ちの主人は彼のやり方を誉めたとあります。ここでこの譬の真の主人公は家令ではなく金持ちの主人、すなわち天の神様の気前の良さ、寛大さをイエス様は語りたかったのだと捉えるならば、少し理解できるかも知れません。この悪しき家令は、主人が元々返してもらうつもりで貸し付けたのではないことを知っていた点で、大金持ちの主人にたとえられた神様の御心を理解していたとも言えます。それを先回りして行ったことは、神様の御心を行ったことにもつながるのではないかと思います。神様は罪という、人がどれほど頑張っても到底精算することのできない負債を免除して、永遠のいのちに至ることを望んでおられます。罪を帳消しにすることはできませんが、イエス様と共に担う負いやすいくびき、自らの十字架を担わせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/luk.16.1-8.ja1955

*****

ルカによる福音書 16:9-13

「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

不正の富を用いて救われるというのはあまりよいイメージはありませんが、イエス様が意図とされていたことは、不正をすることを推奨するものではなく、永遠の住まい、すなわち天の御国に入るために、自分にできることは何でも手を尽くすひたむきさを伝えたかったものです。だからこそ、小事に忠実な者は大事にも忠実であるとの教えや、神と富とに兼ね仕えることはできないとの教えにつながるものです。私たちは真理と真摯に向き合い、何事に対しても全力で取り組む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.16.9-13.ja1955

*****

ルカによる福音書 16:14-18

欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。」

パリサイ人たちは本質的な正しさを教えようとしたイエス様の教えをあざ笑いました。それは律法を字面でしか捉えない彼らの考え方を如実に示したものです。そんな彼らに対しイエス様は、人の目を喜ばせるような表面的な正しさを、人の心の内を見られる神様は忌み嫌われると厳しく語りました。たとえばパリサイ人たちは、離縁状を渡せば他の女性と結婚しても良いとして、律法の教えをゆがめて男性の側の勝手な事情で離縁することを正当化していました。そのような勝手な解釈を教える彼らに対し、生ける神の御言葉であられるイエス様がこの世に来られた今となっては、律法と預言書は過去のものであり、天の御国の福音を直接伝えるイエス様の教えこそが神様の御心に適うものであると教えられました。私たちも聖書の御言葉を自分の都合の良いように解釈するならば、パリサイ人たちと何ら変わりありません。

http://bible.com/81/luk.16.14-18.ja1955

*****

ルカによる福音書 16:19-31

「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

ここでイエス様は唐突にラザロという名前の人を譬の中に持ち出しました。彼は大金持ちの人(この人は名前すら紹介されていない)の家の玄関先に座っていた物乞いであったと紹介されるのみで、それ以上の情報はありません。しかしラザロという名前には「神は助け主」という意味があるそうで、それだけで彼は神様の救いを待ち望んでいた人であったことがわかります。そんな好対照のラザロと金持ちは同時に死んで黄泉に下りましたが、そこで立場が逆転します。ラザロはイスラエル民族の父祖アブラハムの懐に抱かれ、大金持ちは炎で焼かれて苦しんでいました。そしてまずは自分を苦しみから解放するためにラザロをよこしてくださいと頼み、それが叶わないならば兄弟たちに同じ苦しみに逢わせないようにラザロを遣わしてくださいと頼みます。しかしアブラハムは、律法と預言書があるのにそれを守り行わない者が、使者を遣わしても聞く耳を持たないだろうと答えます。これはすなわち、パリサイ人たちが律法と預言書を、本人たちは守っていたつもりでも、実際のところ本質からかけ離れていたことを指摘したものです。やがてイエス様は、本当にラザロという名の人を死者の中からよみがえらされました。そのことを予表しつつ、イエス様は律法と預言書を成し遂げるためにこの世に来られたのです。

http://bible.com/81/luk.16.19-31.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/25

2018-11-25 06:40:04 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙一 6:19-20 新共同訳‬‬

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

神を信じ、罪を悔い改めて義とされ、聖なる御霊を内に宿す者とされた私たちの身体は、もはや自分のものではなく、神のものとされているのです。聖霊を悲しませることのないよう、 己を律してきよい生活を送り、自らの身をもって神の栄光を現す私たちでありますように。

http://bible.com/1819/1co.6.19-20.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/24

2018-11-24 08:30:29 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 15:1-7

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」

失われた一匹の羊の譬は、「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったイエス様の御言葉と照らし合わせて読むとよいかも知れません。羊飼いは羊の管理をする責任を負っています。ですから100匹のうち1匹が失われてしまっても、自分の責任を果たしたことにはなりません。また羊を意味する "Sheep" という単語は、単数形も複数形も同じ集合名詞で、一つの群であることに意味があります。100分の1の羊ではなく、100匹全部揃ってはじめて意味があり、1匹くらいいいや、では済まされないのです。神様の一人の人に注がれる愛は、全員に対する愛のまなざしと全く同じです。

http://bible.com/81/luk.15.1-7.ja1955

*****

ルカによる福音書 15:8-10

また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

この譬に出てくる銀貨とはドラクマ銀貨と言うギリシャの貨幣で、ローマ貨幣では1デナリ、すなわち1日分の賃金に相当する価値のあるものでした。そして当時の女性は、ドラクマ銀貨10枚を綴り合わせた髪飾りを身に付ける習慣があったと言われます。ですからこの10枚の銀貨のうちの1枚も、先の1匹の失われた羊の譬と同様、10枚揃ってはじめて本来の価値を持つものを表しています。イエス様は私たち一人一人を、神様の愛から漏れてはならない大切な価値ある者としてみておられます。

http://bible.com/81/luk.15.8-10.ja1955

*****

ルカによる福音書 15:11-19

また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。」

この箇所は有名な放蕩息子の譬ですが、弟息子は、父親の管理下から離れたいばかりに、父親の存命中にもかかわらず、遺産相続をしてほしいと申し出ました。ある解釈では、これは父親に、あなたはもう用なしだ、早く死ねと言わんばかりの失礼極まりない態度だと言われます。しかし父親は黙って弟息子の言う通りにします。ほどなく家を出た弟息子は、この世の快楽に身を任せて遺産を使い果たした挙げ句、無一文になったときに飢饉が重なり、誰からも相手にされない、一人の人としても見なされない存在にまで身を持ち崩しました。そしてユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をするとは、異邦人の支配下に陥ったことを意味します。これはローマの支配下にあった当時のイスラエルを暗示したものとも言えます。そのとき弟息子ははじめて、親元にいたときには当たり前のことと思っていた恵みの絶大な価値に気付き、意を決して父の元に帰ろうと本心に立ち返りました。これは父なる神様が私たちにとってどれほど大きな存在であるかを意味しています。普段は気付かない父なる神様の大いなる愛と恵みに目が開かれ、本心に立ち返って父の元に向かう私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.15.11-19.ja1955

*****

ルカによる福音書 15:20-24

「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」

親元を離れた弟息子が帰ってくる日を、父は毎日のように待ちわびていました。そしてようやく戻ってきた弟息子を、自ら駆け寄って迎え、「息子と呼ばれる資格はありません」と反省の言葉を口にする彼が「雇人のひとり同様にしてください」と言う前に言葉を遮り、元通り息子として盛大に迎え入れました。父なる神様もまた、私たち一人一人が神様に背を向けていた罪を心から悔い改めて主の元に立ち返る日を今か今かと待ちわびておられ、戻ってきたときには心から迎え入れてくださるお方です。

http://bible.com/81/luk.15.20-24.ja1955

*****

ルカによる福音書 15:25-32

「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

二人の兄弟息子の譬は他にも、父親の言いつけに「はい」と答えて従わなかった兄と、「いいえ」と答えたものの後に父の言いつけを守った弟の譬があり、それと比較すると興味深いものです。そしてこの放蕩息子の譬は、イエス様が罪人たちを招いておられる姿を批判したパリサイ人や律法学者たちに向かって語られたことと合わせて考えると、実はこの譬の真の主人公は兄息子であることがわかります。ずっと父の元から離れずにいて、文句一つ言わず、忠実に働いてきた兄息子の態度は実に立派で、私たちはどちらかというと兄の言い分の方が正しいと考えます。それはそれで大切なことなのですが、これが人間の持つ正義感の限界、努力によって得ようとする愛の虚しさです。イエス様が教えようとされていたことは、身勝手なことばかりしてきた弟息子が悔い改めて戻ってきたことに対する神様の愛の深さ、大きさ、気前の良さなのです。そして、父の態度に怒って心を閉ざした兄に対しても、本当の愛とは何かを教え諭して怒りを解こうとする、これもまた兄息子をも愛する神様の愛の大きさ故の教えです。私たちは神様の愛を過小評価していないでしょうか。神の愛は、人の犯したすべての罪も過ちをも包み込む、実に奥深く、絶大なものなのです。

http://bible.com/81/luk.15.25-32.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2018/11/24

2018-11-24 06:50:26 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 8:12 新共同訳

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

「光あれ」と言われて天地万物を造られた神の一人子イエス様こそ、この世の光であられるお方です。主イエスの御言葉に聞き従い、罪の支配する暗闇のような世にあっても、永遠のいのちの光の中を歩ませていただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/jhn.8.12.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2018/11/23

2018-11-23 08:30:05 | 一日一章・聖書通読日記
ルカによる福音書 14:1-6

ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。 イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。 彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。 それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。 彼らはこれに対して返す言葉がなかった。

イエス様は何度も繰り返し、安息日に良いことをするのと、しないのと、どちらが正しいことか、とパリサイ人たちに問い掛けました。それはいかにパリサイ人たちが安息日の規程を数多く作っては、人々に守るように押しつけ、守らない、あるいは守れない人々を裁いていたかを表します。私たちクリスチャンも、聖日厳守を自ら課する分にはいいのですが、それにこだわるあまり、人々を裁くようにならないように注意しなければなりません。

http://bible.com/81/luk.14.1-6.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:7-11

客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。 「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。 むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

恥の文化を持つ純日本人的な考え方ではこの箇所は理解しにくいかもしれませんが、価値観の変化から最近では大言壮語しては自ら勝ち誇り、人の目ばかり気にして見栄を張る人々も多くなってきましたから、この箇所の意味するところを正しく受け止めなければなりません。クリスチャンはあくまでも謙虚に振る舞う美徳を身に付けることを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/luk.14.7-11.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:12-14

また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。 むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。

なぜパリサイ人たちはイエス様から度々過ちを厳しく非難されながら、イエス様を食事に招こうとしていたのか、不思議でなりませんでした。しかしこの箇所から、何かしらの下心をもってイエス様に近付こうとしていたことが伺い知れます。私たちの人間関係においても、自分の利益のために誰かと仲良くする振りをしていないでしょうか。そうではなく、見返りを求めずに人々に惜しみなく振る舞う者こそ、イエス様の望まれる麗しい愛の人間関係です。

http://bible.com/81/luk.14.12-14.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:15-24

列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

この譬は、天の御国に招かれていながら自分の都合を優先し、自分勝手な理由を付けて言い訳をし、結局のところ神様からの招きを断っている心の頑ななユダヤ人たちに対する厳しい指摘でした。神様はそのようなイスラエル人よりも、当時天の御国に招かれていないと思われていた人々、すなわち異邦人たちを先に救いに導いて、神の大いなる愛を現されました。神様の愛のおこぼれに与った者として、謙虚に喜ぶと共に、本来救いに与るべきイスラエルの救いのために祈る者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.14.15-24.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:25-27, 33

「大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」

数々の奇跡を行い、当時のイスラエルの支配者階層の人々と対決していたイエス様の元には自然と大勢の群衆が集まってきました。いわゆる「追っかけ」です。しかしイエス様はそのような群衆に対しても、自らを捨てて、自分の全財産や愛する家族よりもイエス様を最優先として従う意志のない者は、弟子となることはできないと戒められました。自分の十字架を負うとは、難行苦行を積む、自分の行いに頼ることでなく、何を最優先とするか、自分を捨てる覚悟のありやなしやを問うものです。

http://bible.com/81/luk.14.25-27,33.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:28-32

「あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。 もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。」

この譬の前後にイエス様が語られた、自分を捨てて神様に従うことと、この譬の意味するところとの関係がよくわかりませんでした。しかし、何の計画も目的もなく行き当たりばったりで行動を起こす人を戒めるこの譬は、神様に従うことにおいても通用する大切な戒めだと気付かされました。ある伝道者が、簡単に救われてはいけないと人々に厳しく語られたそうですが、私たちは自分の信仰においても、よくよく考えて決断しなければ長続きしなきことを戒められたのだと思います。同様に、無計画に、このときの気分次第で、神様を信じたり従わなかったりする行き当たりばったりの信仰ではなく、心の底から堅く決断する、揺るぎない信仰を保つ者でありたいと願います。

http://bible.com/81/luk.14.28-32.ja1955

*****

ルカによる福音書 14:34-35

「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。

イスラエル地方でいう塩とは岩塩を指します。当時は精製技術も発達していませんでしたから、自然のまま採掘された岩塩をそのまま粉にしたもので、含まれる不純物の影響で、湿気を吸うと潮解現象により溶けてしまい、塩として利用することができなくなってしまいました。私たちの信仰においても、不純物、すなわち罪やこの世の悪習慣から抜けきれずにいると、きよさを失って神の栄光を表すことができなくなってしまいます。純粋な信仰をもって自らをきよく保ち、地の塩、世の光としての真価を発揮する私たちでありますように。

http://bible.com/81/luk.14.34-35.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする