ローマ人への手紙 10:1-4
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
パウロは同族であるイスラエル人が真の救いに至ることを何よりも願い、福音宣教に命を掛けてきました。しかし彼らは神に対して熱心でありましたが、 それは律法の規定を守り行うことによって救いを得ようとする、表面的で自己満足的なものに過ぎませんでした。そこでイエスは律法の限界を打ち破るためにこの世に来られ、自ら十字架に掛かることにより律法の義を完成させ、律法によって義とされる時代から信仰によって義に生きる新しい時代を開いてくださいました。この福音の良き知らせを信じ受け入れ、イエスの授けられた新しい戒めのうちに生きる私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.1-4.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:5-10
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
イエスの与えられた新しい戒めは、どこそこにあるものではなく、ただ私たちのただ中に、心に刻みつけられた生ける神の御言葉です。そして新しい戒めに生きるとは、私たちの罪を購うために十字架で死なれたイエスをわが主と告白し、イエスの語られた御言葉を信じて聞き従うことです。今や神の言葉は世界中の言語に翻訳され、誰にでも手にすることができるようになっています。聖書を買い求めなくても、インターネットで簡単に検索することもできます。福音を自分のものとするためのラスト1マイルは、私たち自身の信仰告白です。
https://www.bible.com/81/rom.10.5-10.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:11-15
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
イエスの福音はユダヤ人だけでなく、世界中すべての人々に開放されました。もはやすべての人が神の子となり、救いに与ることができるのです。しかしこの福音を聞いたことのない人は、救いに与るチャンスがありません。そのような不公平をなくすために、私たちは福音の御言葉を広く伝え、神の国の来るのを早める使命が与えられています。まずは私たちの身の周りから、この救いの希望に生きる喜びを身をもって証しし、福音を伝える「良きおとずれを告げる者」とならせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.11-15.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:16-21
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。 イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。 そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。
旧約聖書の時代から、既に神の御言葉はすべての人々に開かれていました。しかし御言葉を聞かなければ、神の恵みを知ることはなく、聞いても信じなければ、神の恵みは決して自分のものにはなりません。信じることは聞くことから始まり、聞くことは生ける神の御言葉なるキリストを受け入れることから始まります。心を頑なにすることなく真理の御言葉に聞き、イエスを救い主と信じることのできるようにならせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.16-21.ja1955
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
パウロは同族であるイスラエル人が真の救いに至ることを何よりも願い、福音宣教に命を掛けてきました。しかし彼らは神に対して熱心でありましたが、 それは律法の規定を守り行うことによって救いを得ようとする、表面的で自己満足的なものに過ぎませんでした。そこでイエスは律法の限界を打ち破るためにこの世に来られ、自ら十字架に掛かることにより律法の義を完成させ、律法によって義とされる時代から信仰によって義に生きる新しい時代を開いてくださいました。この福音の良き知らせを信じ受け入れ、イエスの授けられた新しい戒めのうちに生きる私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.1-4.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:5-10
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
イエスの与えられた新しい戒めは、どこそこにあるものではなく、ただ私たちのただ中に、心に刻みつけられた生ける神の御言葉です。そして新しい戒めに生きるとは、私たちの罪を購うために十字架で死なれたイエスをわが主と告白し、イエスの語られた御言葉を信じて聞き従うことです。今や神の言葉は世界中の言語に翻訳され、誰にでも手にすることができるようになっています。聖書を買い求めなくても、インターネットで簡単に検索することもできます。福音を自分のものとするためのラスト1マイルは、私たち自身の信仰告白です。
https://www.bible.com/81/rom.10.5-10.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:11-15
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
イエスの福音はユダヤ人だけでなく、世界中すべての人々に開放されました。もはやすべての人が神の子となり、救いに与ることができるのです。しかしこの福音を聞いたことのない人は、救いに与るチャンスがありません。そのような不公平をなくすために、私たちは福音の御言葉を広く伝え、神の国の来るのを早める使命が与えられています。まずは私たちの身の周りから、この救いの希望に生きる喜びを身をもって証しし、福音を伝える「良きおとずれを告げる者」とならせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.11-15.ja1955
*****
ローマ人への手紙 10:16-21
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。 イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。 そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。
旧約聖書の時代から、既に神の御言葉はすべての人々に開かれていました。しかし御言葉を聞かなければ、神の恵みを知ることはなく、聞いても信じなければ、神の恵みは決して自分のものにはなりません。信じることは聞くことから始まり、聞くことは生ける神の御言葉なるキリストを受け入れることから始まります。心を頑なにすることなく真理の御言葉に聞き、イエスを救い主と信じることのできるようにならせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.10.16-21.ja1955