伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2019/01/31

2019-01-31 07:50:05 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 10:1-4

兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

パウロは同族であるイスラエル人が真の救いに至ることを何よりも願い、福音宣教に命を掛けてきました。しかし彼らは神に対して熱心でありましたが、 それは律法の規定を守り行うことによって救いを得ようとする、表面的で自己満足的なものに過ぎませんでした。そこでイエスは律法の限界を打ち破るためにこの世に来られ、自ら十字架に掛かることにより律法の義を完成させ、律法によって義とされる時代から信仰によって義に生きる新しい時代を開いてくださいました。この福音の良き知らせを信じ受け入れ、イエスの授けられた新しい戒めのうちに生きる私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.10.1-4.ja1955

*****

ローマ人への手紙 10:5-10

モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

イエスの与えられた新しい戒めは、どこそこにあるものではなく、ただ私たちのただ中に、心に刻みつけられた生ける神の御言葉です。そして新しい戒めに生きるとは、私たちの罪を購うために十字架で死なれたイエスをわが主と告白し、イエスの語られた御言葉を信じて聞き従うことです。今や神の言葉は世界中の言語に翻訳され、誰にでも手にすることができるようになっています。聖書を買い求めなくても、インターネットで簡単に検索することもできます。福音を自分のものとするためのラスト1マイルは、私たち自身の信仰告白です。

https://www.bible.com/81/rom.10.5-10.ja1955

*****

ローマ人への手紙 10:11-15

聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

イエスの福音はユダヤ人だけでなく、世界中すべての人々に開放されました。もはやすべての人が神の子となり、救いに与ることができるのです。しかしこの福音を聞いたことのない人は、救いに与るチャンスがありません。そのような不公平をなくすために、私たちは福音の御言葉を広く伝え、神の国の来るのを早める使命が与えられています。まずは私たちの身の周りから、この救いの希望に生きる喜びを身をもって証しし、福音を伝える「良きおとずれを告げる者」とならせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.10.11-15.ja1955

*****

ローマ人への手紙 10:16-21

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。 イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。 そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。

旧約聖書の時代から、既に神の御言葉はすべての人々に開かれていました。しかし御言葉を聞かなければ、神の恵みを知ることはなく、聞いても信じなければ、神の恵みは決して自分のものにはなりません。信じることは聞くことから始まり、聞くことは生ける神の御言葉なるキリストを受け入れることから始まります。心を頑なにすることなく真理の御言葉に聞き、イエスを救い主と信じることのできるようにならせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.10.16-21.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/31

2019-01-31 06:35:10 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 15:4 新共同訳‬‬

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

イエスは「わたしにつながっていなさい」と命じられると同時に、「わたしもあなたがたとつながっていよう」と約束してくださいました。人生に思い悩み、自分の力ではイエス様につながる力も失せてしまいそうなときも、私たちの手をしっかりと握りしめてくださるイエスに信頼してつながり続け、愛と義と平安の実を結ばせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/jhn.15.4.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/30

2019-01-30 08:05:57 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 9:1-5

わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

同族のためにならばこの身が呪われても構わない、と綴ったパウロの言葉は真実です。なぜならパウロは生涯を通じて、何度迫害されても、死の淵をさまようほどの目に遭っても、訪れた町々でまず最初にユダヤ人たちを探して福音の言葉を語ったことは、使徒行伝に立証されています。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」私たちは、一度酷い目に遭わされた人々を前にして、ここまで歩み寄るどころか、怯えて近寄ることさえできないのが通常ですから、神の民イスラエルに対する福音伝道に賭けるパウロの熱い心は疑う余地もありません。このパウロの熱意に倣い、同胞の救いのために全精力を傾けさせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.9.1-5.ja1955

*****

ローマ人への手紙 9:6-13

しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。

真のイスラエル人とは、人種としてのイスラエル民族とは異なります。イエスがナタナエルと出会ったとき、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われたように、心から神を求め、真理に聞き従うことのできる人が真のイスラエル人なのです。それは私たちが自らの意志で神を求めようと思い始めたのではなく、まず神様の方から私たちを選んで、真摯に神を求める心を授けてくださったのです。これこそが肉によるアブラハムの子ではなく、神の一方的な選びによる約束の子、真のイスラエルの意味するところです。なぜならアブラハムの子孫にはイシマエル、エサウもいましたが、イサクの子ヤコブの子孫だけがイスラエル人とされたように、神様が選び、約束してくださった者だけが、真のイスラエルとなることができるのです。その選びの流れを、異邦人である私たちも受け継いでいることを心から感謝したいと思います。

https://www.bible.com/81/rom.9.6-13.ja1955

*****

ローマ人への手紙 9:14-18

では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

神の選びの話になると、神は不公平だ、神が愛ならば何故こんなえこひいきをするのか、と反論する人が必ずいます。しかし神の愛はすべての人に注がれていますが、受け取る側に受け入れ体制が整っていない人は、神様は選びたくとも選べないのです。それが、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思われる者を慈しみ、頑なにされようとする者を頑なにされる、神の選びの基準です。神に対して不平不満を並べ立てる前に、まず神の意志に聞き従う素直な心がありやなしやを自問する私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.9.14-18.ja1955

*****

ローマ人への手紙 9:19-24

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

神によって創造された人間が神に対して不服を申し立てるのは、陶器が陶器師に向かって、何故こんな器に作ったのかと文句を言うことと同じだというのです。陶器師が、今日は茶碗を作ろうと思って作ったところ、どうして花瓶にしてくれなかったのかと、器が文句を言う筋合いがあるでしょうか。神に対して不平不満をつぶやく者は、それと同じです。しかも神様は、陶器師が様々な器を、それぞれの用途に応じて最も適切に用いられるように形作るように、様々な人種の私たちも、それぞれに最も相応しいかたちで召し、異邦人も福音に与る恵みの道を開いてくださったことに感謝すべきです。私たちは神様のなさりたいように造られた、欠けだらけの器ながら、神の憐れみが豊かに注がれている恵みを覚え、神に対して決してつぶやいてはなりません。

https://www.bible.com/81/rom.9.19-24.ja1955

*****

ローマ人への手紙 9:30-33

では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

神の選びの民であったイスラエルが義に至ることができず、むしろ異邦人のクリスチャンが神の義に与ることができたのは、自分たちに与えられた律法に固執したイスラエルが信仰によらず行いによって義を得ようとしたからだとパウロは説きます。神の義の基準を人に教え諭す律法が躓きの石となり、人を義から遠ざける結果となったことは皮肉ではありますが、霊によらず肉により、信仰によらず行いにより義を獲得しようとする者は、神の選びの民イスラエルでさえ義に至ることができないとしたら、異邦人の私たちはなおさら神の義から遠く離れてしまいますから、注意せねばなりません。

https://www.bible.com/81/rom.9.30-33.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/30

2019-01-30 06:35:15 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙一 13:1 新共同訳

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとい神から授かった預言の言葉や、天使の言葉といわれる異言を語ることができたとしても、愛のない言葉ならば銅鑼やシンバルを耳元でかき鳴らすように喧しいだけに過ぎません。何を語るにせよ愛に基づいて語り、人々の心を高め、潤し、癒す言葉を口にできるよう唇をきよめていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/1co.13.1.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/29

2019-01-29 08:25:06 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 8:1-7

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

モーセによって与えられた律法は、人間には到底守ることのできない神の義の基準を示すものであり、それによって何が罪かを人に教えるものでしたが、結果的に人はその罪の故に死を免れないことを指し示すことになりました。そこで神様は罪なき御子イエスをこの世に送り、人となられた御子を罪に定めて私たちの身代わりに裁くことによって、人に救いの道を開く新しい戒めを与えてくださったのです。この新しい戒めを信じ受け入れた者は、御子によって新しい霊が授けられ、肉によって歩む古き人の生活から、霊によって歩む新しい人としての信仰生活を送ることができるようになります。

https://www.bible.com/81/rom.8.1-7.ja1955

*****

ローマ人への手紙 8:8-13

また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

神様はキリストを信じた者に内なる霊を授けてくださったのですから、もはや肉の思いに従って生きるのではなく、霊によって生きる、神に喜ばれる人生を送ることができるように備えられているのです。ですから私たちはもはや古い肉の生き方、世俗的なライフスタイルを捨て、新しい霊の生活、神の御言葉に聞き従い信仰の喜びに満ちたきよい生活を送るように改めるべきです。もし古い生活を捨てられないならば、私たちに与えられたきよい霊の働きを無にすることとなり、私たちは神の更に厳しい裁きを免れることはできないでしょう。霊によって古い肉の自分を葬り去り、新しい生き方、信仰によって歩むきよい生活を率先して守り行う私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.8.8-13.ja1955

*****

ローマ人への手紙 8:14-17

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

天地万物を統べ治める神の子とされたとは、まことの王族の一員となったことを意味します。私たちの内に与えられたきよい霊に聞き従って歩む者は、神の子、すなわち天の御国の相続人であり、永遠のいのちを得る資格を得ていることを、内なる御霊が自ら証人となってくださるとは、何たる恵みでしょうか。

https://www.bible.com/81/rom.8.14-17.ja1955

*****

ローマ人への手紙 8:24-27

わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

人は何か目標に向かって突き進むとき、希望に満ちた、真に生き生きとした生活を送ることができます。しかしいったん目標をすべてクリアしてしまうと、充足感よりも目指すもののない虚無感に襲われ、何のために生きているのかわからなくなってしまう、燃えつき症候群に陥ってしまいます。しかし神を信じる私たちには常に生きる目標があります。それは人の努力によっては決して到達することのできない、天の御国の希望です。そして自分には無理だ、到底できないと自己嫌悪に陥るようなとき、御霊自ら声にならないうめき声のような執り為しの祈りをもって私たちを支えてくださいますから、私たちはこの希望を決して手放してはなりません。

https://www.bible.com/81/rom.8.24-27.ja1955

*****

ローマ人への手紙 8:28-30

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

私たちが決して忘れてはならないことは、神様はよいお方であるということです。神様の願いは、神のかたちに造られた私たち人間が神に似る者となり、義とされ、永遠のいのちの栄光に与ることです。自分にとって良いことが起こるかどうかではなく、神の願っておられる人間本来の姿を取り戻すこと、これが神様のご計画であり、神の益の本質です。

https://www.bible.com/81/rom.8.28-30.ja1955

*****

ローマ人への手紙 8:35-39

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

もう一つ忘れてはならないことは、神様は私たち人間を決して見捨てることも見放すこともなさらないということです。私たちが罪に定められ滅ぼされるのは、神様が私たちを憎んで滅ぼそうとお考えになっているのではなく、私たちの方から神様に背を向け、罪の故に滅ぼさざるを得ない状況に自らを追い込んでいるのです。私たちは決して思い違いしてはなりません。だからこそ、この世のいかなる苦難も、脅迫も、訴えも、悪しき者の勢力も、私たちを神の愛から引き離すことはできないと断言できるのです。神の愛から引き離れさせるもの、それは私たち自身の中にある罪のみです。

https://www.bible.com/81/rom.8.35-39.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/29

2019-01-29 06:35:12 | 今日の聖句
マタイによる福音書 5:14-16 新共同訳‬‬

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

月が太陽の光を受けて輝くように、神を信じる者が輝く栄光に包まれた神様の光を受けて輝く世の光となることを、主は望んでおられます。神様の御心に適うよい行いを実践することを通して、罪に満ちたこの世に神の義と愛の光を照らす証人となる私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/mat.5.14-16.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/28

2019-01-28 08:00:01 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 7:1-6

それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

ローマ人への手紙はローマに住んでいるユダヤ人たち、すなわち天地万物を造られた神を信じ、義の基準であるモーセの律法を知る人々に向けて記された手紙です。そこでパウロは、律法に記されている姦淫の規定を例に挙げて、律法は私たちがこの世に生きている間だけ有効なものであると語りました。そして、モーセの律法による縛りの中に生きている者がキリスト・イエスの十字架と共に死に、イエスの説いた新しい戒めに聞き従って霊によって生きる者とされたのだと説明しました。もはや私たちを縛り付けるものはなく、自らの自由意志でキリストに聞き従う者とされていますから感謝いたします。

https://www.bible.com/81/rom.7.1-6.ja1955

*****

ローマ人への手紙 7:7-12

それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

新約聖書を読んでいると、律法はあたかも人を罪に縛り付けるものだと錯覚してしまいがちですが、決してそうではありません。律法はあくまでも神の義の基準を指し示すもので、もし律法がなかったら、私たち人間は何が正しくて何が罪なのかを知ることもできないのです。それは神を知らずに生きてきた人々、あるいは神を知りながら神に聞き従わなかった人々が、この世でどのようなことを行ってきたかを見ればわかります。人は自分の欲望の達成のためには、どんな罪でも犯します。生存本能、利益追求の欲望、名誉欲などを満足させるためには平気で人を蹴散らし、踏みつけ、略奪し、挙げ句の果てには殺しさえします。それが律法を知らない人間の、まるで野生の動物と変わらない、否、それ以上に非道な鬼畜と化した成れの果てです。ですから私たちに律法が与えられているのは、人が罪を罪として認識するために必要なものなのです。ただ、その律法の用い方を間違って、人を縛り付け、死に至らしめる道具にしてしまったのがユダヤ人の過ちだったのです。

https://www.bible.com/81/rom.7.7-12.ja1955

*****

ローマ人への手紙 7:13-18

では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

律法によって神の義と罪、善悪の基準を知ることができたとき、私たちの中で分裂が起こります。それは自分の意志では善を行いたいと願いつつも、意に反して悪を行ってしまうことを欲する、肉体的な弱さを持つ人間の本質的な問題です。頭ではわかっていても、体がついて行かないのです。これは適切なたとえではないかもしれませんが、最近、認知度が広まってきた性同一性障害にも似た、本人にとっては生きて行くのが嫌になるほどの、極めて苦しいものではないかと思います。(これは心と体が分裂した状態の苦しさを表現しようとしたもので、性同一性障害の善し悪しを決めつけるものでは決してありません。)パウロもまたその苦しさを自ら体験しながら、人に善悪の基準と真理を教え諭す律法が、かえって人を苦しめることになっている矛盾と戦っていたのではないでしょうか。

https://www.bible.com/81/rom.7.13-18.ja1955

*****

ローマ人への手紙 7:19-25

すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

頭では悪と思って理解していることを、したくないと願いながらもしてしまう霊と肉体との分裂状態、それが罪に支配された人間の弱さであり、人を死に至らしめる根本原因です。その真理を人に説きながらも、自分もまた同じ弱さに縛られていると自認していたパウロは、自分はなんと惨めな人間なのだろうと、その心情を正直に吐露します。しかしイエス・キリストの十字架による罪からの解放の恵みを知ったパウロは、神に感謝すべきかなと、声高らかに宣言しています。律法では救いようのなかった霊肉分裂状態の自分を、救ってくださるイエスの新しい戒めにただただ感謝するばかりです。

https://www.bible.com/81/rom.7.19-25.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/28

2019-01-28 06:35:08 | 今日の聖句
フィリピの信徒への手紙 2:12 新共同訳

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

従順はキリストに倣う者の取るべき最も基本的な信仰の姿勢です。たといご自身の意志とは異なっても自らのいのちをも惜しまず、十字架の死に至るまで神の御心に従い通したイエスに倣い、生ける神の御言葉に徹底的な従順を貫き、救いの成就に励む私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/php.2.12.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/27

2019-01-27 19:35:11 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 6:1-5

では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

イエスをわが救い主と信じバプテスマを受けるということは、キリストの十字架と共に罪の中に生きてきた古い自分に死に、キリストの復活と共に罪から解放された新しいいのちに生きることを志願することに他なりません。ですからイエスの御名によるバプテスマを受けた者が自ら望んで罪の生活を続けるならば、それは神の恵みを無にすることに他ならず、断じてしてはなりません。

https://www.bible.com/81/rom.6.1-5.ja1955

*****

ローマ人への手紙 6:6-10

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

人が肉体的に生まれることも、死ぬことも、一生に一度きりの出来事であるように、キリストの十字架と共に古い自分に死ぬことも、キリストの復活と共に新しい自分に生まれることも、一度限りのものです。ならばどうしてキリストを信じバプテスマを受けた者が、再び罪の自分に戻って生きることがあってよいものでしょうか。もはや新しい人生をスタートした者に相応しく、罪に支配されることなく、神と共に生きる私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.6.6-10.ja1955

*****

ローマ人への手紙 6:11-14

このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

キリスト・イエスの福音の恵みは精神的世界の中に留まるものではなく、肉体も含めた全人格的に及ぶものです。もはや私たちの体を情欲に身を任せるような、キリストの十字架を無にする行為に及んでは決してなりません。むしろ己の体をきよい器として用いられるよう神の御前に捧げることこそ、罪に支配されることのない神の恵みの内に生きることです。私たちは既に罪に死に、神の義に生きる者とされていることを、改めて深く認識しなければなりません。

https://www.bible.com/81/rom.6.11-14.ja1955

*****

ローマ人への手紙 6:15-19

それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となった。 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

人の罪を赦し、神の御前な義とするキリストの十字架の恵みを、私たちは決して軽んじてはなりません。イエスを信じた者はすべての罪が赦されると知って、多少の罪を犯してもきっと赦してもらえるなどという甘えた考えは、微塵も抱いてはなりません。神の義の基準を知り、神の義に生きる僕となることを自ら選択した者が、罪とは袂を分かち、神の御心に服従してきよく生きるべきことは当然のことです。自らの身体を罪に捧げることをやめ、神に捧げられた聖なる者としてきよさを保つ私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.6.15-19.ja1955

*****

ローマ人への手紙 6:20-23

あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

神を信じる前の過去の生活を振り返るとき、それらは顔を覆うような恥ずかしいものであったことを、私たちは誰しも知っているでしょう。神を知らずにそのような生活を続けていたとしたら、罪の結末として迎えるものは永遠の死です。しかし私たちは感謝すべきことに、神を知り、人の罪を赦すキリストの十字架の恵みを伝えられ、罪に死んで神と共に永遠に生きる恵みに与ったのですから、もはや私たちの結ぶ実は死ではなく、永遠のいのちという絶大なる神の賜物です。この恵みを決して手放すことのないように、信仰により罪から解放された状態を保ち、喜んで神に仕え、永遠のいのちに至るきよい義の実を結ばせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.6.20-23.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/27

2019-01-27 07:00:20 | 今日の聖句
コロサイの信徒への手紙 3:16 新共同訳

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

キリストの尊いいのちによって罪の中より購い出された私たちは、神に愛されたきよい者として生きることが肝要です。キリストの御言葉を豊かに宿らせ、信仰の仲間たちと共に教え合い諭し合って互いに自己研鑽に励み、詩と讃美と霊の歌をもって主の御名をほめたたえる日々を送る者でありたいと願います。

https://www.bible.com/1819/col.3.16.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/26

2019-01-26 13:00:49 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 5:1-5

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

信仰が私たちに与える希望は、いかなる苦難や試練をも乗り越える忍耐が結ばせてる豊かな実りです。これは人の努力や頑張りでできるものではなく、私たちの心の内に住んでくださるきよい御霊が、神の変わらない愛が注がれていることを思い起こさせてくださるからこそ、耐え忍ぶことができるのです。私たちの人生に襲い来る試練を通して、信仰によって練りきよめられた品性を備えさせていただき、光り輝く神の栄光に与る私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.5.1-5.ja1955

*****

ローマ人への手紙 5:6-11

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

キリストはご自身に聞き従う者だけのために十字架に掛かられたのではなく、まだキリストを知らぬ人々、更にはキリストに敵対し自身を十字架に掛けた人々のためにさえ、尊いいのちを賭して罪を購い、神との和解の生け贄となってくださることによって、永遠のいのちの豊かな恵みに導き入れてくださいました。それゆえ私たちは十字架を福音のシンボルとして見上げ、このお方以外に救いはないとの堅い信仰に至ることができたことを心より喜び感謝いたします。

https://www.bible.com/81/rom.5.6-11.ja1955

*****

ローマ人への手紙 5:12-16

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。

なぜ主イエスのたった一度の十字架が、すべての人を救いに至らしめることができるのか不思議に思うかも知れません。しかし私たち全人類に罪が入ったのは、最初の人アダムたった一人の神に対する不信仰から始まったことを考えれば、さほど不思議なことではありません。神はアダムによって人を造られましたが、御子イエスを完全な人としてこの世に送ることでアダムの過ちを塗り替え、イエスの御名による信仰によって罪から完全に解放する道を開いてくださったのです。アダムから後、モーセによって律法が与えられるまでの間も罪の性質は代々受け継がれ、結果として人は死を免れることはできませんでしたが、イエスの到来と十字架によって罪の連鎖を完全に断ち切ることができるようになり、神と共に永遠に生きる希望が与えられたのです。

https://www.bible.com/81/rom.5.12-16.ja1955

*****

ローマ人への手紙 5:17-21

もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

イエスは罪をパン種にたとえました。それはほんの少しのパン種がパン生地全体を大きく膨らませるように、私たちの心の奥底に潜むほんのわずかな罪の根が私たち全体に広がって、罪を幾重にも重ねるようになるのと似ています。しかし神様の恵みは罪の支配をはるかに越えて増殖し、神の義が私たちを支配することができるように罪を完全に覆い尽くしてくださいますから感謝いたします。聖歌に「罪汚れはいや増すとも、主の恵みもまたいや増なり」とあるように、私たちの罪を完全に押さえ込んでくださる神様の愛と恵みに心から感謝いたします。

https://www.bible.com/81/rom.5.17-21.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/26

2019-01-26 08:05:10 | 今日の聖句
マタイによる福音書 18:20 新共同訳‬‬

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

私たちが数名イエスの御名の下に集まるならば、そこに主は共にいてくださると約束してくださいました。独りよがりの信仰に陥らないように、信仰の仲間たちと共に集い、主イエスと共に歩み続ける私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/mat.18.20.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/25

2019-01-25 07:50:00 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 4:1-8

それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。 罪を主に認められない人は、さいわいである」。

もし義と認められる基準がよい行いをしたかどうかで決まるとしたら、生まれつき体の不自由な人は一生義と認められることはできません。しかし神様はそんな不公平なお方ではありません。パウロはユダヤ人たちの父祖アブラハム、そしてイスラエルの王の模範であるダビデを例に挙げて信仰による義認を説きました。アブラハムもダビデもよい行いをしたから義と認められたのではなく、神を信じたから義と認められたのです。人の外見ではなく心の内を見られる神様は、私たちの信仰をも見極めることのできるお方ですから、行いはなくとも信仰によって人を義と認めることができるのです。

https://www.bible.com/81/rom.4.1-8.ja1955

*****

ローマ人への手紙 4:9-15

さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。 それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。 そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、 かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。 なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。 もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。 いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

ここでパウロはユダヤ人たちに根強く残る割礼論争にピリオドを打つために、アブラハムが義と認められたのは割礼を受ける前であったことを論説しました。だからこそ割礼を受けていない私たち異邦人も、アブラハムと同じまことの神を信じる信仰によって義と認められるのです。割礼も律法も神を信じた証として、また神を信じる者の行動規範として、信仰によって義と認められた後に与えられたしるしです。神がアブラハムに「あなたを祝福の基とする、あたなとその子孫によって世界は祝福される」と言われたのは、アブラハムと同じ信仰に立つ者が神の祝福を受けることができるという契約の証です。

https://www.bible.com/81/rom.4.9-15.ja1955

*****

ローマ人への手紙 4:16-22

このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 だから、彼は義と認められたのである。

信仰とは、既に見えるもの、得たものを認めることではなく、まだ得ていないもの、見ていないものを、既に得たりと信じることです。アブラハムが神を信じたのはまだ信仰の子イサクが与えられる前に、かつ既に老齢となり子を産む肉体的能力を完全に失った後に、あなたの子孫はこの夜空の星のように、また海の砂のように多くなると約束された神の御言葉を信じたことにより、義と認められました。人にはできないが神には何でもできると確信できることが、信仰の力です。この信仰を受け継ぐ者には、人種を問わず、国籍に依らず、権勢にも能力にも依らず、信仰によって義と認められ、神の約束の成就を身に受けることができますから感謝いたします。

https://www.bible.com/81/rom.4.16-22.ja1955

*****

ローマ人への手紙 4:23-25

しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

神かアブラハムに与えられた約束は、アブラハムだけのものではなく、アブラハムの子孫、ダビデの末裔としてこの世にお生まれになり、私たちの罪をすべて肩に担って十字架で滅ぼし、かつ死の中からよみがえって永遠の義のいのちに生きることを立証されたイエスを、わが主、わが救い主と信じる信仰によって、義と認められるのです。神とアブラハムとの個人的契約にとどめることなく、全人類の救いの契約と為してくださった神様の恵みを心より感謝して、イエスを信じる信仰によって義と認められ、永遠の神の祝福を自分のものとする私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.4.23-25.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/25

2019-01-25 06:35:05 | 今日の聖句
ガラテヤの信徒への手紙 6:2 新共同訳

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

キリストが私たちに与えられた新しい戒め、すなわち、互いに愛し合いなさいと言われた御言葉を守り行うことが、キリストの律法を全うすることとなります。私たちの罪を赦すために十字架の重荷を担ってくださったイエスに倣い、互いの重荷を担い合うことにより愛を実践する私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/gal.6.2.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【COGHCC聖書通読】 2019/01/24

2019-01-24 08:10:22 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 3:1-8

では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。 すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。

パウロはまず神の義を知るユダヤ人には霊的に優れた点があると認めつつも、神の義を知りながら義の基準である律法を全うすることのできなかった人々によって、神の義が無になってしまうことはないと力説しています。これは何を意味しているのかと言うと、神様が本当ないるならばどうして戦争や災害が起こるのかと、この世の悪を神様の責任にして、神様は正しくないと判断する人々がいますが、それは誤りだとパウロは反論しているのです。あるいは、自分が罪を犯すことによって神が正しいとされるならば、大いに罪を犯しても構わないではないかと開き直る人々に対しても、パウロは彼らの過ちを指摘しています。ちなみに「」で括られた箇所はパウロの伝える福音に反対する人々の言い分であり、()内の箇所はそれに対するパウロの見解です。神の義を知りながら悪を行ってしまうのは、また神を認めずに悪事を重ねることも、すべて人の心の奥底深くに根を下ろした罪の故です。

https://www.bible.com/81/rom.3.1-8.ja1955

*****

ローマ人への手紙 3:9-18

すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

神の義の基準である律法をいただきながらも罪を犯してしまっているうユダヤ人が、他の民族と何の違いがあるのか?という疑問に対して、パウロは詩篇14篇を引用して、神の義の基準に照らして罪なしと認められる人は誰一人としていないと答えています。これは、民族によって義なる人と罪人とが決まるのではないこと、神様には人種による偏見はないことを意味しています。私たちは時折、国や民族、文化や考え方の違いによって人々にレッテルを貼って、意味なき差別をしたがります。しかし神様は決してそのような目で私たちを見ておられるのではなく、絶対的な基準に従って、人を偏り見られないお方です。

https://www.bible.com/81/rom.3.9-18.ja1955

*****

ローマ人への手紙 3:19-26

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

義の基準である律法を知っているからというだけで、人は義とされることはありません。律法を完全に守り通すことができるならば義と認められましょうが、そんなことは不完全な人間には到底できないことですから、律法によって義とされる者は誰一人としていません。そこで神様は御子イエスを人間としてこの世に送り、罪なき完全な人として生涯を送らせ、しかもイエスを十字架につけて私たちの罪の身代わりに裁かれたことを信じる信仰によって、私たちは罪なき者とされる道を開いてくださいました。神様は人には到底できないことを命じられたのではなく、人にできない部分は御子イエスに負わせ、人にできること、すなわち罪を認めて御子イエスを信じることだけを、私たちに命じられたのです。何という至れり尽くせりの恵みでしょうか。私たちがキリストの十字架を信じないで良い訳がありません。

https://www.bible.com/81/rom.3.19-26.ja1955

*****

ローマ人への手紙 3:27-31

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

ここでパウロは律法と信仰の関係について言及します。信仰によって義とされるならば律法なと不要ではないかという人がいますが、それは誤りです。なぜなら信仰は自らを罪ある人間と認めることから始まるのですが、自分が罪あるかどうかを客観的に判断する基準が律法なのですから、律法なしに信仰は始まらないのです。確かに律法は私たちの知られたくない罪を暴くものですから心地よいものではありませんが、罪の呵責と自認なしに信仰が芽生える土壌はなく、律法が信仰を生み出すきっかけになるのです。イエスも、わたしは律法を廃するために来たのではなく成就するために来たのだと断言されています。聖書全巻を学ぶことの重要性を身をもって感じることができるならば、私たちの信仰はなお一層豊かなものとなり、神様の恵みの絶大さを幾倍にも受けることができるようになりますから感謝です。

https://www.bible.com/81/rom.3.27-31.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする